『 中山道を歩く- 美濃路 (1)落合宿  』


歩いて風景をながめることのすばらしさを感じたことや木曽路十一宿を完歩できたのに自信ができ、京都・三條まで歩いてみよう!!という気になった。
調べると、岐阜県を横断する 美濃路十六宿 と滋賀県を縦断する 近江路十宿 を経て、京都へたどり着くことが分かった。
紅葉の季節も終わり、秋の写真撮影が終わった十一月末、美濃路十六宿の旅をはじめた。




落 合 宿

石畳 今回の美濃路のたびは、馬籠と落合宿間にある新茶屋から始めることにする。
新茶屋は、美濃国と木曽国の国境にある十曲峠の上に設けられた立場茶屋であった。 十曲峠は標高五百mの峠で、峠あたりは登り下りがないが、その手前の美濃側はかなりの急坂になっていたので、石畳の道を造ったという道である (右写真) 
復元された石畳を歩いて降りていくが、のぼりより下りの方が滑るので、気を使う。
鬱蒼とした木立が続く中を歩くと、昔日の面影を感じることができた。
石畳が終わり、集落にでた。
医王寺全景 左側に芭蕉の句碑のある医王寺があった。 
医王寺は、天台宗の寺だったが、争乱で焼失し、廃寺。 天文十三年(1544)に再興されて浄土宗に転じた寺である。 本尊の薬師如来は行基の作 と伝えられる (右写真) 
別名、山中薬師といい、江戸時代には キツネ膏薬で有名だった ところである。
今でも作っているようで、「虫封じに御利益がある」と寺の境内に書いてあった。 
江戸時代は、医術が発達していなかったので、効くか効かないか分からないようなものも薬として売られていたようであるが、医王寺の丸薬ははたして効いたのだろうか?
落合宿 小生Mr.Maxが歩く中山道は、江戸・日本橋から京都・三条大橋までの百三十五里二十四町八間(約532km)である。  この街道は、難所も多いが、河川による川留めが少なく、渡海による難もないため、姫宮の通行のほとんどが利用された。  御茶壺道中や日光へ訪れる例幣使が通った道でもあり、参勤交代で、尾張藩など三十数藩が利用する、東海道に次ぐメインルートだった。  馬籠宿から中津川宿までは約十キロの距離があったので、中間に落合宿が設けられたのである (右写真は落合宿)
急な坂道を下っていくと 落合大橋にでた。  橋の向こうには、石製の 道標 と 石仏群があった。 道標は飯田に通じる伊奈街道の追分であることを示すものである。 
高札場跡 伊奈街道は東山道時代の幹線道路だったが、急嶮な神坂峠(みさかとうげ)を越えるのが難儀なため、木曾路が開設されたという経緯がある。 石仏は馬頭観音(?)で、峠を越える際に倒れた人馬を供養するために祀られたものであろう。
落合宿はそこからは目と鼻の先なので、数分で到着した。 宿場の入口だった場所
には、現在、湯舟沢〜中津川の車道が横切っており、バス停には木曽路口とあった。 
江戸時代には、この場所に高札場があり、その旨の石碑が立っていた (右写真)
高札場は人の目につく場所に建てたのだろう。 
上町の常夜燈" 宿場には、東と西の入口に 枡形 が配置されることが多かったが、ここでもその跡が残って
いた。 枡形跡の一角には、上町秋葉様の常夜燈が建っていた (右写真)  
常夜灯は寛政四年に四つつくられたというが、道筋に残るのはこの一つだけである。
隣に、私が子供のころ、使った汲みあげ式のポンプがあったが、火の神様である秋葉様の常
夜燈とどのような関係があるのだろうか? 落合宿は江戸日本橋から四十四番目の宿場町
で、宿村大概帳によると町の長さは三町三十五間(約400m)しかなく、総戸数が
旧本陣井口家 七十五戸しかない小さな宿場だったらしい。 
木曽路を旅する人は恵那山を正面に見ながら、これからの厳しい旅路を覚悟する宿場だった。 道の中央に用水が引かれ、本陣と脇本陣が向かい合わせに置かれるレイアウトになっていた。  本陣・井口家は問屋も勤め、尾張徳川家給人の千村家(久々方)の庄屋を兼ねていた。  宿場中央の右側に建つ立派な門構えの家が旧本陣だった (右写真) 
中山道でも現存する数少ない本陣建物の一つで、上段の間、小姓部屋などには大名にふさわしい造作になっているようだ。
前田家から送られたと伝えられる門 家の前には明治天皇落合御小休所と彫られた石碑が建っていた。  表門は加賀前田家
から贈られた格式高い門であり、中津川市の重要文化財に指定されている (右写真) 
個人宅で、日々の生活が営まれているので、中を覗くことはできないのは残念である。
塚田家が脇本陣と問屋を勤め、山村氏(木曾方)の庄屋を兼ねていた。 脇本陣は、建て替
えられているので、昔の姿はないが、塚田という大きな門札には家の歴史が感じられた。 
家の一角に立っている、脇本陣碑が唯一の標(あかし)である。
地元発行の 「 美濃/木曽境 わらじ旅 」 というパンフレットを見ていたら、  「 本陣の隣
120年の家 にある、卯建(うだつ)と格子窓の民家は、夜明け前の主人公・青山半蔵の内弟子林勝重の生家で、地元では泉屋と呼ばれていたが、作品では稲葉屋として登場している。 小説に登場する林勝重は、落合村戸長を勤めた鈴木利左衛門弘道で、酒造業を営んでいた。 その祖父は、俳諧の美濃派宗匠・宗左坊で、この地方の俳諧に残した功績は大きい。 」   と、あるのだが、記載された場所には建物はなく、空き地になっていた。  
本陣の少し先に、古く立派な家があった (右写真)
石柱道標 隣人の話では百二十年は経っているというが、落合宿は、文化年間の二度にわたる大火によ
り、大打撃を受け、本陣以外には、当時の建物はほとんど残っていないという。 
中津川に向かって歩くと、正面に松、その先に車が走る広い道が見える。 曲がり角の民家
脇に石柱道標が建っていて、「 右至中仙道中津町一里 」と、刻まれていた  (右写真) 
ここを左折した細い道が旧中山道で、約四キロ歩くと中津川宿に到着できる。
前に見える道路に覆いかぶさっているのは、樹齢四百五十年と推定される義昌寺の門冠の松
である。  義昌寺は関市にあるお寺の末寺で曹洞宗の寺院だが、慶長五年(1600)の創建
義昌寺の門冠松 といわれる古い寺である。 松は寺の創建当時からあり、山門に植えられた松が山門を覆うようになったので、その名が付いた (右写真)
明治二十四年の道路改修工事で、寺は東側に移されたが、松はそのまま残されたので、その下を今は車が行き来しているのだという。  中山道は前述の石柱道標のところで鈎型に曲がっていたのだが、道路改修で道を直線に変えたので、車が下を通るようになってしまったという訳である。  四百五十年経ている割にはこぶりに思える松は、なにを考えて見下ろしているのだろうか?   落合宿はここで終わる。 


(文・写真)  平成15年11月
(写真追加)  平成17年6月


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かうんたぁ。