中津川宿は、寛政年間には家数百七十五軒、人口千二百三十人となり、中山道の中では大きな宿場町だった。
中山道の他、飛弾方面への往来や伊奈街道への入口にあたり、旅人宿だけではなく、商売の町としても賑わいを見せていた。
平成十五年(2003)十二月十四日、落合宿の京方への出口にある道標で道を確認して、旧中山道をスタートした。
中津川までは四キロの距離なので、見学しながらゆっくり歩いても二時間である。
このあたりは宿場の入口にあたるので、枡形の跡が残っていた (右写真)
少し歩くと、急な登り坂になった。
上り詰めると、国道19号が眼下にあり、高架橋で国道を越えた。
越えた先の少し小高くなっているところは、落合五郎の館があった跡とされるところで、
おがらん四社があった。
落合五郎は、木曾義仲を木曽に匿って養育した中原兼遠 の三男で、木曾義仲に仕えた人物である。 江戸時代の 「木曽名所図会」 に落合五郎霊社という記述があり、 新撰美濃誌 には 「 落合氏宗氏跡は駅の西の路傍にあり、老杉三、四株生え茂りうらに愛宕神社あり 」 と書かれている。
おがらん四社とは愛宕神社、山神神社、天神社と落合五郎兼行神社のことであるが、
境内には愛宕神社の社(やしろ)があり、寛延年間に建立された石灯籠と兼行顕彰碑が建っていたし、その他の社(やしろ)もあった (右写真)
傍らの説明文には、 「 おがらん(オガラン)はがらん(伽藍)という語からきたと推定
される。 」 とあるので、落合五郎館と結びつくが、中津川市の資料によると、
「彼の姓は地名なのか、或いは彼の姓を地名にしたのか分からないし、実際に館に居住していたというのも疑問点が多い」とあり、心細い推測である。
近くには、館と関係すると思われる「小姓洞」という地名が残っている。 ここから少しわかりずらい道になる。 国道沿いに降りていき、道を右に入って、横手橋を渡り、
坂道を登ると与坂バス停のある国道にでる。 坂を下り、三叉路で左折し、トンネルをくぐって国道の反対側にでて、与坂バス停で右側の坂をのぼるのが旧中山道である (右写真)
このあたりは、現在の国道バイパスにより道は分断されてしまっているので、分かりづらい。
道は登り坂で高低差は五十mもないのかもしれないが、傾斜がきついので身体に堪える。
途中に、新築中の家があったが、大工などの車が停めるところに困るという塩梅だ。
登るにつれて左側に落合の家並みがよく見えた。 梅雨に入る時期なので、曇り空で恵那山は見えないが、天気が良ければ見ることができただろう。 息を切らせながら峠に到着。 峠からは、見晴らしもよく、木曽川と架かる橋、そして落合川駅方面が眼下に入るので、一服するにはかっこうの場所である。 少し下ると右側に2軒の家があり、先の家の前に、与板立場茶屋跡の案内があった (右写真)
立場茶屋とは江戸時代、街道沿いに置かれた休息所のことで、アップダウンのある道を
歩く人にはありがたい施設だった。 茶屋は、越前屋が営んでいたが、三文餅が客の人気
を集めたため、与坂の三文餅として落合名物の一つとなり、 越前屋の裏の井戸から黄金
が湧き出る、
と言われ程、繁盛したとある。 三文餅は、米の粉でできた餅に黒砂糖を煮詰めたものを塗ったものであるが、砂糖など庶民に縁遠いこの時代では旅の思い出に残るものであったには違いない。
林間の急な坂を下る。 開けたところには民家がある。
交差点におばあさん達がいたので、子野(この)の石仏群を聞いたが、はっきりしない。 中山道は老婆達にとっても遠い過去の存在なのである。 ここからまた登りになった。
左側の小高いところに、子野の一里塚跡の石柱があった (右写真)
民家の間に石仏と南無観世音の石碑群があった。
見下ろすと、畑と民家が点在していた。
再度、登りになる。 坂の頂上の左側には、「振袖を両手で重し、初詣で」と刻まれた句碑があった。 坂の下のうっそうと茂ったところに、覚明神社があり、入って行くと石碑が数多く建っていた。
覚明行者は、御嶽信仰を広めた人で、鳥居峠に覚明の碑がたっているが、こんなに多くはなかった (右写真)
坂を更に下る。 途中に神明神社があり、第六十二回神宮式年遷宮祝御神木と書いたのぼりが立っていた。
神宮式年遷宮とは伊勢神宮が二十年ごとに建替えられることを指し、神宮の要になる御神木は七年前に木曽の上松と岐阜県の二ヶ所で切られ、数日かけて岐阜県と愛知県の神社を回り、神宮まで送り届けられる。 一昨日この付近を通過した。 現在はトラックで運ばれるのであっという間であるが、昔は皆の手で引っ張られ運ばれたのだから、それに参加する人の気持はすごかっただろうと思った。 子野(この)川にかかる子野橋を渡り、更に進むと、葉を茂らした枝垂れ桜が左に見えてきた (右写真)
市教育委員会の資料によると、「 子野地蔵堂跡といわれるところで、集落名の子野は
地蔵堂があったことから名が付いた」とあるが、どのあたりにあったかははっきりしない。
案内板には、『 中山道を通る旅人の心を和ませたといわれるしだれ桜の名木が境内にあり、街道まで枝を延びて趣がある。 無縁の石仏を集めたところと伝えられ、元禄七年(1699)の庚申碑や地蔵、観音像等が数多く祀られている。 文政五年(1822)の「南無阿弥陀仏」と独特な文字で書かれた高さ約2mの 徳本行者の名号石があり、生き仏といわれた彼が文政年間この地に滞在して「称名念仏」を布教した。 』 、とあった (右写真)
木曽路の上松や木曾福島のように国道工事や鉄道敷設の際に取り除かれた石仏や石碑が集めたものかもしれない。
眼下は国道脇にパチンコ屋や蕎麦屋などがあり賑わっているが、一歩入ったこのあたりは閑静そのものである。
余談になるが、下にあるくるまやというお店のそばは本格的でここにくると寄ることにしている (右写真)
地蔵堂川を越え、登りきると国道19号に出た。 地下道をくぐり、反対側にでる。
ここには地下道の銘板や道に中山道 の表示があるので、迷わないですむ。
「中山道上金かいわい」 と書いた市教育委員会の看板によると、このあたりは
『 江戸時代には上金村といい、「濃州順徇行記」の寛政七年(1795)に家数十八戸、人口
八十五人の小さな集落であった。 』 と、ある集落だが、中津川の中心部とつながっているせいか、寒村という感じはなく、ベットタウンという印象を受けた。 この道、中山道には舗装になにか混ぜてある感じがするもので、それを辿っていくと迷わないですむ。 しばらくの間、平坦な道をのんびり歩く。 左側の道端に秋葉大権現の常夜燈と廿三夜塔があった。 右側の民家の隣に、尾州白木改番所跡と刻まれた石柱が建っていた (右写真)
白木改番所とは、この地を治めた尾張藩が木曽五木の取り締まりのために置いた役所
で、白木とは桧などの皮をけづった木地のままの材木のことで、屋根板や天井板、桶板
にするため、長さを一メートル半位に割ったものである。 村人達は、木曽五木の植林〜伐採の仕事や桧細工で生活していたわけであるが、小さな木切でも横流しされないように監視されていたのである。
中津川高校の横を過ぎると、左側にトイレの看板があったので、なにげなく入った。 そこには「旭ヶ岡稲荷大明神」の幟の立った鳥居があり、脇には、いろいろな形をした石碑があった。
旭ケ丘公園に入ると、石仏群があった (右写真)
斜面になっているので、注意して歩く。
『 三井寺の門 敲はや けふの月 』 という、芭蕉の句碑があった。
月塚と呼ばれるもので、この句は、元禄四年(1691)八月十五日、近江の義仲寺無明庵
にて詠まれたもので、碑の裏面左側に、指月亭糸甘(しかん)拝 と、あった。
碑を建てた指月亭糸甘は上金台にあった茶屋指月にかかわる女性らしい。
中山道沿いにあったものを明治十五年に移設したようである (右写真)
また、 『 菊折(おっ)て すててまた折る 山路かな 』 (馬 風)
と、
いう句碑もある。 馬風は、旅籠田丸屋の主人で、美濃以哉派中津川の四世宗匠で、
中津川
宿最後の庄屋を勤めた。 藤村の小説 「 夜明け前 」 に 「 中津川にこの人ありと
知られた小野三郎兵衛 」 の名で登場する人物である。 句碑は 「 その子馬良と弟子達
が建立したもの 」 とあった。
その他にもいろいろな歌碑や経王書写塔、三井寺観音を
模写した石仏、宝暦の御神灯などが建っていた。 また、中津川市街が一望できた。
下に降りていくと小さな社(やしろ)があり、「 はだか武兵 」 と書かれたのぼりがたっていた。
「 はだか武兵は武兵衛とも呼ばれ、中仙道中津川宿の駕籠かきであったが、天保年間に木曽御嶽山で悪病退散の秘法を授かり、道中の大名家姫君の病を治したことが評判になり、近郷の人々の悪病を追い払った。 死後、社が建てられ、のち、現在地に移されたが、今でもおまいりするひとがたえない。 』 と、あった (右写真)
公園に面する国道257号線を歩道橋で越え、更に石段を降りると、中津川宿の入口にでた。
階段を下りると、小さなお堂の成田不動尊があり、更に下りると、右側に高札場があった。
これは復元されたもので、長さ二間一尺(約4m)巾一間(約2m)に八枚の高札が掲げられている。
当時はこれより四十m程登った道路の反対側に街道に面して建っていたようである (右写真)
このあたりを茶屋坂というが、当時はこのあたりから茶屋があったのだろう。
階段の左には庚申塔や二十三夜塔、秋葉神社の常夜燈があった。
中津川宿は、寛政年間には家数百七十五軒、人口千二百三十人となり、中山道でも大きな宿場町
に発展した町で、江戸から数えて四十五番目の宿場にあたり、東(江戸方)にある高札場から
西(京方)の中津川橋までの十丁七間(約1km)の距離だった。 山深い木曽路から美濃
路
に入ると、最初に見えてくるのが広々としたこの盆地で、旅人にとってこの風景は、谷間
の中を
こせこせと歩いていたことから開放された と、感じるものがあったことだろう。
中津川は、木曽川と市内を流れる中津川、四ツ目川などの多くの河川が運び込んだ肥沃な土地で創り出した扇状地でその上に町ができた。
今も、東濃地方では多治見に次ぐ都市で、今回の町村合併により、馬籠宿の山口村を含め、近隣の町村を吸収合併し更に大きくなろうとしている。 このあたりの町名は淀川町。 300m歩くと、車が頻繁に行きかう大通りにでた。 右に少し行くと、中津川駅 (右写真)
中山道は真っ直ぐ行く。 大通りを渡ると新町で、欅並木の新町けやきモールというショッピング街を形成していた。 江戸時代には、淀川と新町は商家を主とした町並みだったと
いうが、現在も商店が多くあり、特に新町はその観が強い。
駅に近いので、以前は大いに賑わっていたようだが、旧街道に面した商店街には駐車場がないため、客集めに苦戦しているようすだった。 駐車場のある、アピタ中津川店などのスパーに客を奪われてしまった、ともきいた。 駐車場問題は全国共通の商店街のテーマであろう。
新町に入ったところに、栗きんとん本家のすやがあった (右写真)
ここの栗きんとんは値段は高いがうまい!と定評がある。 中津川といえば、栗きんとんと
いう名を世間に広めた店でもある。 道の反対に、日本画の巨匠前田青邨生誕の地という
碑があるようだが、気が付かず通り過ぎてしまった。 両脇にはパチンコ屋も含めて、商店が
建ち並び、ネオンが光り、音楽がかかっているので、宿場があったところという雰囲気は
感じられない。 むしろ駅前の商店街というだけの雰囲気だった。
街道から少し入ったところに、桂小五郎隠れ家跡がある。 料亭「やけ山」である。
長州藩士・桂小五郎は、
文久弐年(1862)六月、江戸から京に向かていた藩主毛利敬親に、
公武合体ではなく、尊皇攘夷を唱えるべき と説くために、ここで待ち受けていた。
この話し合いの後、長州藩は朝廷方につくことになり、やがて討幕運動の中心勢力になって
いく。 中津川会議 と呼ばれる歴史的に残る出来事であるが、桂は、地元の市岡と間氏の厚意により、料亭「やけ山」に隠れて到着を待っていたようである。 そういう意味で、中津川は日本の維新前夜を演出した影の主役であった、 といえよう。
桂小五郎と中津川宿に結びつきがあることに驚いた。 街道に戻る。
その先に、間家大正の蔵があった (右写真)
『 東濃随一といわれた豪商間家の敷地内にあった倉庫の一つで、大正六年(1917)に建てられたもの。 従来の土蔵造りに明治以降の近代的工法が取り入れられたもので、建築
学的に進歩の過程を示す貴重な遺産。 』 と、説明文にあった。 間家から市に寄贈されたもので、中津川商人や宿の資料が展示され、無料で公開されていたが、先程の桂小五郎にでてくる間氏と関係があるのだろうか?
前庭には、大きな織部燈籠と間家の名入りの古い瓦が置かれていた。
大正の蔵の斜め前には、昔の宿場町の一部を再現した中津川宿往来庭が造られている (右写真)
新町はここで終わり、四ツ目橋を渡る。 歩道部分にはカラータイルが貼られ、宿場の行燈状のものがある。
橋下を流れる四ツ目川は、あばれ川で度々流れを変えたという川。
説明によると、『 江戸時代は、川の水面近くに板の橋がかかっているだけで、東からきた
旅人はこの橋を渡って、本町まで急な坂道をのぼった。 登り詰めると、街道の真ん中に
用水が流れていた。 用水は、野中の黒沢川から取水されたもので、火災に備えたもの
なので、ものを流すことも洗うことも禁じられた。』 とあるので、現在とは全然違う姿だった。
橋を渡ると、本町で、この宿の中心に入る。 ここから西(京方)に向かって、旅籠、馬宿、
茶屋、物を売る店の店が並んでいた。 本陣、脇本陣(共に問屋を兼務)もここにあり、相向きあって建っていたようである。 しかし、そういった面影は全然残っていない。
本陣は、寛永十二年の参勤交代の制により設けられたものだが、宿場のなかで比較的高い場所に建てられた。 幕末には、平田門下の市田長右エ門が主人であった(夜明け前では、淺田景蔵という名ででてくる)
本陣の建物は、すでになく、駐車場になっていた (右写真)
その前にある説明札には、「 本陣の入口には、右に二軒、左に三軒の長屋が連なっていた。 中央部分に、一軒分の門があり、門の右隣の1軒が問屋場だった。 門をくぐった先に
表庭があり、その奥に、283坪の本陣の建物があった。 」 とあるので、かなり大規模で
ある。
なお、本陣の間取りは、右の写真をクリックすると拡大するので、ご覧ください。
脇本陣は森孫右エ門が勤め、明治天皇の行在所として使われたが、NTT中津川営業所の
ビルが建ち、当時を伝えるのは「明治天皇が休まれた石碑」が残っているだけである。
江戸時代からの建物の少ない中津川宿で貴重な一つが、元中津川村庄屋・旧肥田家である。
肥田家は、享保三年(1718)から明治五年(1873)まで中津川村の庄屋を勤めた。
夜明け前では、小野三郎兵衛の名で登場する平田門人で、岩倉具視とも交流があった。
日本近代登山の父といわれる ウォルター・ウェストン が宿泊してここから恵那山登山に
出発したという逸話もある。
中津川村の庄屋だった、肥田九郎兵衛が住んでいた屋敷は、火事の類焼を防ぐための防火壁、隣家との境に高い壁を設け、その上端に小屋根を置いた卯建(うだつ)をあげた風格のある建物で、裏には、風雅な庭園が残されている (右写真)
現在は、別の人が住んでおられるようだった。
中津川宿には、旅籠が本町を中心に二十九軒あったとされ、旅籠は全て宿役人が営んでいたというが、今は一軒も残っていない。
江戸時代の宿場町には警備上などの目的で、街の中心部をまっすぐ見通せないように作った 枡形が置かれたが、中津川宿でも、この先に
あった。 道が直角に左にそして右にと続いて折れ曲がっているが、最初に曲がったあた
りが横町という、なるほど!!と納得させる名前である。
和菓子の老舗 川上屋 の店先に「右、木曽路/左、名古屋」とある石の道標が立っていた。 十八屋(間家)は、中津川の豪商であった間杢右衛門家の一族、宿役人で、旅籠を営んでいた。 「 元治元年(1864)十一月、水戸天狗党が中津川を通過の際、平田学門人だったこの家の当主・間武右衛門が和田峠の戦いで負傷した若侍を隠し部屋でかくまった。 」 という逸話が残る。 この建物は、江戸中期に建てられた と伝えられるもので、上がり框や天井の梁などは当時のままという (右写真)
今でも住んで居られるので、外からそーっと家内を覗いたが暗くてよく見えなかった。
隣の、白木屋(横井家)は、天保十三年(1842)に遠山家が建てた家屋である。 明治末期に遠山氏はここを離れ、その後、大正時代に白木屋がここで足袋の製造をはじめた。 150年以上経過している建物で、四畳ほどの中二階が今も残されていて、中二階には梯子をかけ、登ると収納できる仕組みになっているらしい。
俗にいう、 隠し部屋 の構造である (右写真)
道の反対側にある、天満屋(古井家)は、格子や軒先の低さなど、昔の家並みを思い起こさせるつくりで、築後百五十年以上は経っていて、二階部分がないので、どの部屋にも明かり取りの天窓がついている。
旧中川家(杉本屋)は中津川村や子野村の庄屋だった中川萬兵衛の屋敷の一部である。
中川家の屋敷はここより南東側一帯にあり、広壮な屋敷だったようだが、道路などにとられて、
一部になってしまったという。 建物は映画「青い山脈」のロケが行われた場所でもある。
二軒続きの長屋になっており、明治期には原家が呉服屋を営み、大正時代には薪炭・荒物商
をおこない、現在は、左半分が太田薬局、右半分が吉本屋の店舗になっている。
これらの
建物は全て、出世の象徴である 卯建(うだつ) のあがった家だった。 横町は以上の
短い町並みだったが、街道情緒を色濃く残している場所だった。 つきあたって右に曲がると、
下町になる。 角には、慶應元年(1865)に建てられた 式内恵那山上道碑 があった。
上道とは、恵那神社に向かう道を 川上道(かおれ道) といったことから。
恵那山 という銘柄の酒を造る蔵元があった。 間酒造という造り酒屋だが、堂々とした格子造りの建物には卯建が四つも上がっていた。
また、軒下には、酒屋の印である杉玉を吊るしていて、店舗の右端には土蔵もあった (右写真)
この先も下町が続くが、蔵元のような古い建物も卯建が上がる家もなかったので、一層印象に残ったのであろう。 卯建は、富裕者のシンボルだから当然だろうが、これをみただけで、
貧富の差、さらには 身分の差 を区別するだけの威力を秘めているなあ!!と思ったのである。
そういう意味で、中津川は商人が力をもって君臨していた町だったのかもしれない。
中津川橋まで来ると、中津川宿は終わりになる。
平成15年12月訪問(編集)
平成17年6月再訪問(写真追加と加筆)