中津川宿から大井宿までは二里二十四町(約10km)あったので、茄子川に茶屋本陣が設けられた。
小高い丘をいくつか上り下りする道であるが、起伏はそれほどではなく、田畑の多い田舎道をのんびり歩くことができる。
大井宿は中山道と尾張名古屋や伊勢に向かう下街道との追分なので、旅をする人だけでなく尾張商人や尾張に向かう木曽の荷などで、美濃宿一番の繁栄を誇っていた。
暮も押し迫った十二月二十一日、中津川に再度訪れた (右写真ーJR中津川駅 )
この日は 冬が来た と実感できる日だった。 これまでに、雪が数回降ったので、遠くに
見える御嶽山はすっかり白く、冬山になった姿を見せていた。 しかし、近くに見える
恵那山には雪はわずかに残る程度だった。 午前八時半、吐く息が白いが、中津川橋から、
出発する。 中津川宿の隣は、江戸時代には駒場村だったが、今は中津川市になっており、
事実、町並はすっかり繋がっていた。
中津川宿から大井宿間は、約三里(10km強)の距離で、「いくつかの丘を登り降りする道
であるが、見晴らしも良いので、気持ちよく歩くことができるコース」 と案内書にあった。
商店街の企画で設置されたのか、駒場は宿場町ではなかったのに、道の両側にはお揃い
の宿場行燈(あんどん)の形をしたものが並べられていた (右写真)
商店が並ぶ町並みを抜けて、新道との交差点をこえると中津川市街地は終わる。
前川にかかる上宿橋を渡って、道なりに歩く。
道は狭いが、車は適当に通る道である。田舎道だが、それほど田舎と感じさせない。
坂が見えてきた。 これから先は坂を上り下りを繰り返しながら、行く道である。
坂の麓に名号碑があった(右写真)
大小四つの石碑があったが、その内、三つに馬頭観音と彫られていた。
坂道を上って行く。
坂上には民家が続いているが、このあたりが旧駒場村のはずれのようである。
そこには駒場村高札場跡の木柱と高札のミニモデルがあった (右写真)
少し先には、「 右大井宿、左中津川宿 」 と刻まれていた駒場村石碑があった。
小手ノ木坂にさしかかる。 登り口にはいつのものか分からぬが、小手ノ木坂の石碑が
あった。 このあたりは木曽路が開設される以前、東山道の宿駅
「 坂本駅 」
があったとされるところである。 「 坂本駅と次の宿駅、阿智駅(信濃国)との間が長い
上に、標高1595mの 神坂(みさか)峠 を越えるので、大変だった。 そのため、両駅
には通常の宿駅の2〜3倍に相当する30匹の駅馬が用意され輸送にあたり、駅子には
その過激さゆえ、免税の恩典が与えられた。 』 と、ある。
しかし、宿駅のあったされる場所は他にもあり、その位置はさだかではないようである。
道の脇に石段があったので登ったがすぐ終わってしまい、元の道に合流してしまった。
坂の途中に、苗木道の追分を示す道標があった。 苗木道とは木曽川対岸にある苗木
城下を通り、飛騨高山へ通じる脇街道のこと。 (右写真)
また、奉納津島神社の常夜燈があったが、津島神社とは最近始まった「おいでん祭」の
神社である。 坂の頂上に着く。 道から一段と高くなったところに、石塔群があった。
地蔵菩薩が二つ、馬頭観音が二つ、六字名号塔が二基(一基は文政八年のもの)、如意
輪観音(念仏供養塔)、西国三十三ヶ所巡拝供養塔(元禄八年)、大乗妙典供養塔(宝永
六年)などである。 また、文化十三年(1816)の銘がある道祖神があった (右写真)
像の左上に 「 是より苗木道 」と彫られているので、道しるべの役割も果たしていた
ようである。 双頭一身の道祖神で、男女の二人の頭と顔、そして体は抱き合って一つに
なっていた。 道祖神としては極めて珍しい形のものである。
このあたりは、上宿道下 とか上宿道上 とか表示されているところである。
道の右側にある小さな塚が上宿(かみじゅく)一里塚跡である(右写真)
「 恵那市内には一里塚が四つあったようだが、上宿一里塚は江戸から数えて八十五番目の一里塚である。 両側の塚には榎の木が植えられていたが、いつの間にか、塚は消滅してしまった。 昭和九年(1934)に、北側だけを復元したのが現在のもので、元の1/3の大きさ。 」 と、案内板にあった。
傍らに 「 明治天皇御鳳輦前驅奉仕蹟 」 と書いた石碑があった。 石碑に刻まれた文字で、明治天皇が来られたとき、地元の人達が奉仕したことは分かったが、御鳳輦(ほうれん)
前驅とはなにを意味するのだろうか? 道はなだらかに上っていく。
五百m程歩くと、左側の小高い丘の上に会所沢の石仏群があった。 道を整備する際地面
を削ったため、目立たなくなってしまった。 四百mほど歩くと会所沢交差点にでた。
国道沿いに飲食店などが数軒あり、コンビニの前が小石塚立場茶屋跡である (右写真)
中津川からも恵那からも一番高い位置にあったので、旅人はここで一服したことだろう。
私も近くの食堂に入り、休憩を摂った。
このあたりの道は少しややこしい。 国道19号、そして、中央高速道路建設のため、旧中山道は壊されてしまっている。 もう一度、さっきの丁字路に戻り、右折し、 国道19号を陸橋で越え、反対側にでて、中津川インター口方面に向かう。 国道脇の道を歩き、地下道をくぐり、インターのジャンクションの下を通ったりして、国道の反対側にでた(右写真)
そして、国道の下側の坂道を下っていく。
この道は旧国道19号。 バイパスができたので、用事のない車は入らないが、それでも車の往来はかなりある。
「 千旦林は千駄林ともいい、東山道の坂本駅があり、人足や馬が多く用意され、古代から賑わったところである。 江戸時代までは千旦林村だったが、明治時代に隣の茄子川村と
合併し、坂本村になった (現在は中津川市 ) 」 と案内板にあり、前述の駒場集落でも
東山道坂本駅が出てきたが、どこにあったか定かでないので、ここの説明も正しいのだろう。
茄子川村との合併の際には、二つの村の融合には気を使ったらしく、 「 二つの小学校では
生徒を半数づつ通わせた。 」 と、坂本文化財保存協会の木札には書かれていた。
インターから四百mで地蔵橋を渡ると、右側に六地蔵石幢があった (右写真)
六地蔵信仰は平安時代末期に始まったといわれ、 「 地蔵菩薩は六道を巡って衆生を救い、
極楽に行けるよう力を貸してくれる 」 という信仰である。 石幢は柔らかな膚合いの
した身の丈の高さもある大きなものだった。 当時、頻繁に見舞われた水害を佛にすがって
避けたいという願いと極楽往生を願って、明暦三年(1657)に建てられたもの。
石幢は六地蔵の信仰と結びつき、龕部(がんぶ)に六地蔵を彫るものが多く、寺院や農村
の入口に置かれるのが普通で、ここでも、大林寺の参道入口にあたるところにあった。
前を通る旅人も道中の安全をこの地蔵に願ったことだろう。
大林寺は、寛永十年
(1633)に創立された寺だが、現在は中洗井に移転して、ここにはなかった。
(注)石幢は、室町末期から普及したが、この地方には少ないようである。
五百mほど歩くと、右側に、常夜燈が並んだ、坂本神社への参道があった (右写真)
神社に立寄ることにした。 鳥居の脇に市の大木に指定された木があり、その先には、中央線が通っているので、踏み切りを渡って行かなければならない。
坂本神社は、式内坂本神社八幡宮 といい、延喜式(927)にも、美濃国恵那郡三社の筆頭に、選ばれた式内社で、古い歴史の神社である。
木曽路が開道される前に使用された東山道は中津川から伊奈に抜けるルートだったが、神坂(みさか)峠を越えるのに大変難儀
し、多くの行き倒れを出したので、 旅人は坂本駅の出発に際し恵那神坂の山霊を遙拝
し、祭祀を行い、道中の安全を祈願したのであるが、神社の坂本の名号はこれに由来する。
天正弐年(1574)の武田勝頼の東濃進攻により社殿などが焼失し荒廃したが、領主山村氏により村内社として復活した(詳細は巻末参照)
参拝を終えて立ち去ろうとしていたら、庭掃除をしていた人に呼び止められた (右写真)
この神社の宮司と名乗り、彼から「神社の由来」を教えていただいた。 東儀さんのモダンな曲が社務所のスピーカーから流されていたので、聞いたら 「 神社に気楽にお参りしてもらうために、流してる。 」とのこと。 以前はクラシックをながしていたということで、新し
いセンスを感じた。
「彼が修行していた神奈川の神社ではジャズを演奏していたよ」
と、いわれた。
神社が大衆にとけ込もうとする姿は大変良いと思う
。 若い宮司に
「大変良かった」 と御礼の言葉を述べ辞去した。 元の道に戻り、百メートル歩いた右側の
畠の中に、千旦林の高札場跡石碑があった (右写真)
少し先の東巣橋のたもとに馬頭観音があるが、わかりずらい場所である。
更に、二百メートル行くと、大きな道にぶつかる。
小さな道を行くのが中山道で、なかなか歩きやすい道だった。 田畑に囲まれた道を
のんびり歩くと、左側にいつ頃建てたものか分からないが、古くて立派な家があった。
私の脇をすり抜けていった猫がその家の前で立ち止まった (右写真)
どうやら、その家の飼猫らしい。 私の顔をちらと見てその家の中に消えていった。
田圃の中を数百メートル歩くと道から十メートル位入った畦のところに中平の常夜燈があった。
かなり大きな立派な常夜燈が田圃の中にぽつりと建っていた。
常夜燈には弘文三丙午(ひのえうま)年(1846) と刻まれていた (右写真)
その先に、石仏群があったが、最近集められたような気もするので、道路工事などで
運ばれてきたのかもしれない。 常夜燈から三百メートル歩くと、左側に鬱蒼とした森がある。
神明神社と神明の森で、「 神社には、津島神社と妙見社をお祀りしている。
明治の神仏分離により、神明沢にある坂本八幡宮別当寺大智山願成寺塔頭(脇寺)から、
深夜にこっそりこの場所に移された。」 と、記されていた。
見通しの良いところにでて、百メートルほど歩いた、左側の少し高い石垣の上に、二体の
壊れかけた石仏があった。 三津屋の石仏である。
このあたりはアップダウンが続く道だった。 アップダウンといってもそれほど急ではない
が、左の民家の一角に、将監塚があった。 その先、家が途絶えて少し寂しい場所を通る。
雑草の中に埋もれた、三ツ家一里塚跡の石碑を見付けた。 近くには地下道の工事や道路
工
事を中断した感じになっていた。 すぐに人里に出てしまったが、大きな民家の一角で、
馬頭観音を見付けた。 三頭の観音像で、なかなかよいものである (右写真)
そこから数百m歩くと、原野のようなところにでた。 右手の雑木林のあたりが、かっての
坂本立会茶屋があったところ。 茶屋を営んだ繁沢家の屋敷はすでになく、原野化していた。
百メートルほど進んで、ガードレールをくぐると、坂の途中に馬頭観音などの石碑群がある。
小道を進み、坂本川に架かる橋を渡ると、旧茄子川村に入る。
(ご 参 考) 『 坂本神社 』
坂本神社は式内坂本神社八幡宮 といい、延喜式(927)にも美濃国恵那郡三社の筆頭に選ばれた式内社で、大変歴史のある神社である(大宝弐年(702)ごろの創建か?)
(注)式内社は、延喜式で選ばれた神社のみが表示できる社称である。
八幡宮は九州・宇佐八幡宮から勧請奉祀したもので、祭神は誉田別命(ほんだわけのみことー応神天皇) と大山祗神(おおやまつみのかみー正鹿山津見神) である。
東山道の神坂(みさか)峠を越えるには大変難儀し、多くの行き倒れを出したので、 旅人は坂本駅の出発にあたり恵那神坂の山霊を遙拝し、祭祀を行い道中の安全を祈願したのである。 神社の坂本の名号はこれに由来する。
なお、恵那山の名前は、天照大神の胞衣を恵那山に納めたことに由来するといわれる。
天正弐年(1574)四月、武田勝頼の東濃進攻により社殿などが焼失し、荒廃したが、江戸時代に入り、領主の山村氏の援助により村内社として復活した。
平安時代以降、神仏混淆が盛んになり、寺社が社僧を送り込んで支配している神社が増えたが、この神社も例外ではなく、「明治元年の神仏分離令によって、寺は廃寺となり、仏像などは他の寺に移された」とある。
以上のような歴史のある神社だが、地元民以外はあまり知られていない。
江戸時代初期の旧茄子川村(現・中津川市坂本地区茄子川)は、尾張徳川家の給人・山村家(木曽方)、千村家(久々利方)と旗本8名の入相支配地であった。
村高は三百六十八石ほどだったが、付近では大きな村だったという。 中山道はこの村の中央部を東から西に縦貫していた。
木曽路の村々と違い、平坦地であり、田圃も多く、豊かに感じられた。
それでも、農業だけでは食べられないので、ほとんどが兼業農家ということだった。
街道左側の少し小高いところに茄子川村高札場跡の石碑があった (右写真)
拡がる田圃と青く冴えた空をバックにした恵那山は冬日に冴え、強い印象を与えた。
少し歩くと、観音堂があった (右写真)
「 中山道の坂本坂の麓に馬頭観音が祀られていることは、文化三年の中山道分間延絵図に描かれている。
観音の建立は、礎石の刻銘から延享弐年(1745)と考えられる。 」と説明があった。
更に、
「 観音はいつの間にか川端に移されたが、大水で川底に沈んだ。 そのため、祟りがあったので元の場所の近くに祀ったら、霊験あらたかであった。 」 と、あった。 明治二十九年(1796)に元の位置に再建されたが、県道の建設に伴い、現在地に移転された。 それにしても、観音様はあっちこっちに移されて大変でしたね!!
堂内には、江戸時代、この地で布教活動を行った徳本上人の 「 南無阿弥陀仏 」 碑や
「 弘法大師尊像 」 も祀られている。
集落には、古い家がけっこう残っており、また、数は少ないが、商店もあった。
道の脇の畑の中に尾州白木改番所跡の標柱と説明板があった (右写真)
尾州白木改番所は尾張藩が木曽五木の搬出を監視するために設けた役所で明治四年の
廃藩置県により廃止された (詳細は巻末参照)
中町のはずれに黒壁を巡らした家があるが、茶屋本陣だったという家である。
家の前には、「明治天皇茄子川御小休所・御膳水」 と刻まれた石碑が建っていた。
中津川宿まで一里二十三町十一間(約6.4km)、大井宿までは一里(約4km)あったので、大名
や姫君道中などの休憩所として設けられた茶屋本陣で、篠原家が御用を勤めた。 明治天皇の他、皇女和宮が降嫁された際もここで休憩をとられた (右写真)
現在も生活に使われており、内部は窺いしれぬが、外部の黒塗りのシックな建物から当時の面影を感じることができた(巻末に追加記述あり)
ここは 中山道 と 秋葉山道 とが交差しているので、国道19号の抜け道としてかなりの車
が流れ込んでくる という様子だった。
交差点の片隅には、2つの大きな石燈籠があり、正面は「秋葉大権現」、脇に「是よりあきは
みち」と刻まれていた。 遠州・秋葉神社への追分(分岐点)にあたるので、安永五年(1778)
に建てられたものである (右写真)
この集落には大型の立派な建物がけっこう多かった(右下写真)
やがて、家が途絶えがちになり、家の裏には田畑が続く姿が見えるところにでた。
日の当たっているところはそうではないが、田圃が冬の寒さの中で、凍りついている場所もある。 遠くの連なる山には雪が積もって綺麗だ!!
吐く息が白く、道端には雪が少し残って凍りついていた。 それほど急ではないが、坂道を上ったり、下ったりした。 広久手集落に出た。 茄子川広久手となっているが、先程の茄子川と少し離れているので、江戸時代には別の村だったのではないだろうか?
ここにも、比較的古そうな家が数軒あったが、本当に古いのか、最近建てたものなのか分
からない。
東濃地区は濃尾地震で壊滅的な打撃を受けたと聞いているので、江戸時代の
ものを期待するのは無理だろうか?
民家の庭の道路に面した場所に、石像が二体あった。 一体は顔形が崩れてしまって
どういうものか分からなかったが、もう一体ははっきりした顔立ちの地蔵さんのようだ。
個人の持ち物なのか、地元のものなのか分からぬが、場所は個人の庭である (右写真)
1軒の家の前に案内板があり、茄子川焼の歴史が説明されていた (巻末参照)
普通の民家の前で、今や、 焼き物を焼いた跡地 という気配は感じられなかった。
その少し先の右手の道脇には、馬頭観音があった。 胴体が一つに、頭が三つあるもので、
馬頭観音にはこれまで多く出逢ったが、このタイプは少ない (右写真)
広久手坂と書いた石碑がある坂を登り、そして下っていく。
二つの橋を渡ったら、恵那市と中津川市の境界にでた。
(ご 参 考) 『 尾州白木改番所 』
尾州白木改番所は尾張藩の管理山から切り出した木曽五木の木材の搬出を監視する役所で、「享保十六年(1731)に茄子川下新井に川並番所を設置した」という記録があるので、この番所も同時期に出来たと推定される。
尾張藩は木曽山から伐採した材木を、丸太は木曽川を利用して、流し送り。 白木(小さく加工した板類)は馬や牛による駄送の方法をとった。 これらの荷を監視し、抜け荷の監視と量目の点検などのために木曽川筋に設けたのが、丸太の管理をする川並番所である。 一方、白木(小さく加工した板類のこと)を管理するため、中山道に置かれたのが白木改番所である。
これらの役所は、明治四年廃藩置県により廃止されるまで、続いた。 』
( 上記は説明板に書かれていたもの)
(ご 参 考) 『 茄子川茶屋本陣 』
茶屋本陣は宿場と宿場が長い場合に設けられた大名や公家のための施設で、本陣や脇本陣と同様な役割を担った。 この茶屋本陣の御用を勤めた篠原氏は前田家の重臣・篠原一孝の子、弥右衛門が17世紀初めに当地に移り住んだのが始まりで、代々、長八郎と名乗り、茄子川村の村方役人、尾張藩の庄屋、戸長などを勤めてきた家柄である。
皇女和宮や明治天皇が休憩した建物が現存しているようだが、子孫の方々が生活されているので、内部は窺えない。
(ご 参 考) 『 茄子川焼 』
茄子川焼は、天正六年(1578)に瀬戸から陶工が来て開いた窯で、江戸時代、相馬焼の技術も取り入れ発展し、また、御嶽参りの帰りに土産として買い求められた。
しかし、明治の濃尾地震でほとんどの窯が崩壊、大正十二年(1923)に閉窯した。
(説明板より)