集落の境に石標があり、「中山道」と刻んであった (右写真)
坂向という集落を超え、坂を下ったあたりが東岡瀬沢集落で、数軒かたまって建っていた。
やがて、あたり一面、田圃が広がり、見通しのよい広々としている場所にでた。
道幅の広い車道が交差する交差点に、 岡瀬澤と表示された大きな石碑があり、
「 岡瀬沢は、江戸時代の初期には、岡瀬沢新田とか大井村枝郷といっていた。 その
後、次第に中山道沿いに家が集まり、幕末から明治にかけては約三十軒に
なり、茶屋や
馬宿を営む家もあった。 鉄道が開通してからは養蚕や桑の木つくりで、美濃の模範
になった。 」 と、岡瀬沢の歴史が書かれていて、その隣には、大きな常夜塔が建って
いた (右写真)
比較的先進的な村だったようで、道を歩いていても、比較的ゆったりとした雰囲気のある
集落のように思えた。 集落のはずれに庚申塔があり、今も庚申講が行われていると紹介
されていたが、本当だろうか? ここから二百メートルぐらい歩くと坂になった。 江戸時代
には嫌がられた坂だという甚平坂で、距離は短いが急な坂道だったので、明治天皇の巡視
が行われた際、馬車を通すための改修が行われ、頂上を削ったことで楽になったとある。
それでもけっこう急だった (詳細は巻末参照)
坂の途中に、馬塚と犬塚というこんもりとしたところがあり、 根津甚平にまつわる逸話が残されていた。 (右写真)
『 信濃の国、桔梗ヶ原には重羽ねというきじの化け鳥がいて、里人や旅人の命を奪った。 鎌倉幕府は根津甚平に退治を命じた。 甚平は、馬にのり、犬と鷹を連れ、多くの家来とともに追った。 きじは西の空に逃げ去ったが、追いかけて、数日の後に、この地に追い込
んだ。 しかし、馬はここで倒れ、犬と鷹は追い続けたが、犬は日吉(今の瑞浪市)で
力尽きてしまった。 里人はこの坂に馬と犬の亡骸を葬った。 』
と、いう話である。
急な坂だったので、江戸時代には、頂上付近と麓そして広久手に茶屋が置かれたとある。 頂上付近の茶屋を甚平茶屋といったが、今はなく、その跡には公園ができ、トイレと展望台が用意されていた。
肌寒い日だったので、よいところにトイレがあり助かった。 早速、用を済ませ、展望台に行く。 展望台からは決して見晴らしが良いとは言えないが、遠くにいくつかの山が見えた。 御嶽山と思うが、白く雪を被ってきれいだった(右写真)
展望台の傍らには、江戸時代に広重が画いた木曽海道六十九次宿「 大 井 」のレリーフがあったが、公園などこれらの施設は最近できたものだろう。
広重の絵は、ここ甚平坂を登ってきた旅人を描いたものだが、背景の山は御嶽山だろうか?
広重が見た風景は、私が展望台から見たのと同じだっただろうか?などを思いながら、
身体が
冷え始めた私はここを後にした (右写真)
少し登るともう峠だった。 少し下った左側の小高い丘の上に根津神社があった。
急な階段を登ると、2つの大きな石製の常夜橙があり、その奥に質素な社がある。
「 昔、行基が創建したという長谷教寺という寺に、妊(はらみ)観音と呼ばれる
観音像が祀られていた。 信州根津の城主・根津甚平は40才になっても子供がいなかっ
たので、「子宝が授かる」と評判の妊(はらみ)観音に祈願したところ、長子、小太郎が
得られた。 その御礼に寺を再興し、稲荷山長国寺とした。 甚平の亡骸は寺の裏の山
に葬られた。 」 と、いう長国寺縁起が残る (詳細は巻末参照)
が、甚平の亡骸が葬られのがこの場所であろう社の裏にまわると、不思議な形をした
法篋(きょう)印塔があった。 花崗岩に彫られた約1.8mの高大きなもので、長子の
小次郎が塔を建てて父の供養をした、と伝えられるものである (右写真)
(注) 篋は函とか籠という意味である。
(ご 参 考) 『 甚平坂 』
『 甚平坂は根津甚平是行からその名が付いた。
明治十三年六月、明治天皇が中山道を経由して、伊勢方面に御巡幸されることになった。 地元民が総出で坂の頂上を2m程掘り下げた結果、坂の傾斜が少しなだらかになり天皇の乗ったアラビア馬2頭だての馬車も無事坂を越すことができた。 この工事の御陰で長年の間通る人を悩ませ続けた坂がかなり楽になった。 』 と、説明文には書かれていた。
今と違い、明治天皇は雲の上の存在であり、また、維新からそれほど経っていない時期なので、地元民はどんな気持で天皇を迎えたのであろうか?
(ご 参 考) 『 長国寺縁起 』
聖徳太子が百済の高木に観音像を彫って、夢殿に安置して祀っていたが、ある日突然、その観音は空に舞い上がり、東方に飛び、大井の里に来た。 里人はそれを行基が創建したという長谷教寺という寺に移したが、「全ての願いに御利益があるが、特に子供に恵われない人が祈るとすぐ子宝が授かる」と評判になり、妊(はらみ)観音と呼ばれた。
信州根津の城主・根津甚平は源頼朝の家臣であったが、40才になっても子供がいなかった。 夫婦で長国寺にでかけ、妊観音に祈願したところ、長子・小太郎が得られた。
甚平は、子宝を授かった御礼に寺を再興し、稲荷山長国寺とし、本尊の運慶作の地蔵菩薩、夫人は安阿弥の作の聖観音をお寺に納めた。 その後しばらく経ち、甚平がこの寺に訪れた晩、寺で極楽往生を遂げたので、亡骸は寺の裏の山に葬られた。
長子、小次郎は、法篋印塔を建てて、父の供養をした。 後に、地元の人達により神社が建てられ、故人の遺徳を偲んだ。
関戸の一里塚は江戸から八十七里目のもので、松と榎が植えられていたが、
大正期にとりはずされて、塚は消滅したという。
前には、鰻やがあり、その店の駐車場になっていて、駐車場の奥に碑があるだけだった (右写真)
少し下ってくると、広い車道とぶつかる。 バス停には正善寺前という表示があり、そこから見上げると雑草が茂った庭の間から「明治天皇行在所」、「大井鬼子母草神」という石碑が見えた。
小高いところにある壊れかけた正善寺の建物の前まで入っていった。
明治天皇も甚平坂のがたがた道を馬車に揺られてここまで来て、ここから見える恵那の風景を見下ろし、一服されたのだろう。
今は誰もいなくうち捨てたままになっているが、大きな石仏が2体こちらを見ていたのには何故か心が打たれた。
寺はいつからこのように荒れてしまったのか? 何故廃寺になったのか?は、分からなかった (右写真)
中山道はここで車道と合流している。 右折すると、恵那峡へ行く道である。
恵那峡は木曾川のせき止め湖で恵那峡下りの遊覧船が出ている観光地だが、各地に多
様な
遊具施設が登場したことで以前のような観光客は来ないようである。
(注)天然温泉を開湯したので、日帰り温泉が楽しめる。 小生も大井宿の訪問後、旅の
疲れをとるためにお湯につかったが、快適であった。
それはともかく、広い道には車が多いが、ここからは恵那市内が見下ろせる見晴らしの
よいところである。 車道を左折し、すぐの左側の少し高いところに背の高い石碑群が
あった。 長国寺四世丹山和尚が延宝八年(1650)に建立したもので、馬頭観世音、題目
塔などで、蓮華寺名号というものである。
右に菅原神社が見えてきたら、車道と別れて、真っ直ぐの道をとり、階段下へ降りていく。 この道が旧中山道である。 階段の下は下り坂になっていて、寺坂という。 大井宿の入口にあたり、多くの石仏や石碑が並んで立っているところで、これらを上宿石仏群という。
昔の人は村境に地蔵や塞神を立てて神仏に病気が治ることを祈ったり、病気が村に入りこまないように願うことが多かった、というが、大井宿ではこの場所に沢山の石仏を立てて、病気の平癒と悪病や悪人の侵入を防ぐこと”宿内の無事息災を祈ったのである(右写真)
その中でも、痰切り地蔵は近在からの多くの参拝者を集めた。
一番左の徳本碑は文化文政時代の僧・徳本上人の碑である。 彼はこの地に宗教を拡げ
るため念仏教化を行い、多くの信者を得た高僧で、これから先の美濃路では彼の名がよく
でてきた。 明智鉄道のガードの下をくぐると、左に 阿弥陀佛 と彫った大きな石碑が立っていた。 旅人いろの供養塔 といい、 伊勢参拝の帰路に大井宿で亡くなった母のため、息子が建てた供養塔 であるが、極めて大きなものだった。
石碑の道を歩いて行くと、長国寺の前にでた。 長国寺は、長国寺縁起で紹介した根津甚平が中興の祖といわれ、また、西行を葬送したとも伝えられる古い寺である (右写真)
なお、美濃国大井駅長国寺蔵根津是行鐙が市の文化財に指定されている。
寺の前の車道を下っていくと市内にでるが、来た道を引き返し、元の道に戻った。
道を下っていくと、大井宿に到着である。
大井宿は江戸時代は大井村であったが、現在は、恵那市に属する。 江戸から八十七里(344km)、京からは四十七里(88km)に位置した宿場町で、
名古屋・伊勢に通じる下街道の分岐点・槙ヶ根の追分にも近く、中山道の旅人だけではなく、伊勢参りや善光寺参りの参拝客や商売に訪れる尾張商人や尾張に向かう木曽荷などで、美濃16宿中随一の繁栄を誇っていた。
坂を下りて行くと、高札場跡に出た。
高札場は大井宿の入口に置かれたが、復元されたものが建っていた (右写真)
宿内には宿場の防衛上設けられた枡形が六つもあった。 町内毎に枡形で区切られているため、左右に曲がりながら歩くことが強いられる設計になっていた。
道を進むと、突き当たりに延寿院薬師がある。 ここが最初の枡形である (右写真)
右折すると、左側に立派な塀と門がある本陣だった屋敷の脇にでた。
大井宿は東の高札場から西の大井橋までの六町(710m)の長さで、江戸方から横町、本町、竪町、茶屋町、橋場の順に、五町で構成されていた。
天保十四年(1843)の記録では、家の数が百十軒、住民四百六十六人で、本陣一、脇本陣一、問屋が五、旅籠が四十一軒とあり、
茶屋も八軒あった。
本陣は昭和二十二年の火災で母屋部分は消失してしまったが、幸いにも表門だけは焼き残った。 安土桃山様式を残すと伝えられる表門は瓦葺きで、破風板や小屋組の細工や彫刻も丁寧に仕上げられている。 門の傍らの松は300年を越すと思われる老木で、本陣に泊まった大名や姫君を見守ったことだろう。 現在子孫が住んでおられるので、内部を覗くことはできなかった (右写真)
本陣の角は、鈎の手に曲がる枡形で、右折すると宿場の中心に向かう道。 この通りには何軒かの古い建物やその跡が残っている。
◎ 大井村庄屋古山家。
『 古山家は屋号を菱屋といい、酒造と商店を営み、享保年間から幕末までの百五十年間、庄屋を勤めた家柄。 屋敷は間口十間半(約19m)奥行三十五間(約63m)の土地に、十四畳、十畳、八畳など、多くの部屋や土蔵などがあったが、現在の建物はその当時住んでいたものではない。 明治の始めに、上宿地区より移築されたもので、江戸時代の雰囲気を色濃く残す建物である。 』(有料にて公開中) (右写真)
◎ 宿役人・林家。
『 林家は宿役人を勤めた家である。 文化弐年に本陣家から分家し、明治まで約六十年、問屋の宿役人を勤めた。
この建物は大型旅籠で、間口七間、奥行二十五間。 部屋数が十四室。
東側の二室は土壁で境して、土間に続いて式台付きの八畳三室が特別客室になっている。 』 (右写真)
◎ 伊藤家。
明治天皇行在所という石碑がある家は伊藤家。 使用された部屋は今でも当時のままの姿で保存されているとあった。
◎ 下問屋跡
『 問屋は本町に上問屋とここの二ヶ所あった。 宿役人には、問屋、年寄、下役人、人足指、馬指、書役などがあったが、半月交代で交互に問屋に詰め、幕府の道中奉行の指図を受け、街道を往来する諸荷物の集積、中継の指示・手配を行っていた。 大井宿には、幕府より人足50名と馬50頭の確保が指示されていて、人馬を使って隣の宿まで公用の輸送にあたったのであるが、不足した場合には、付近の村(助郷村という)から人馬を集めなければならなかった。 』 (右写真は下問屋跡と古い家並みを写した)
少し歩くと右側に割烹旅館「いち川」がある。
昔は旅籠だったということだが、現在の建物には旅籠の面影は感じられなかった。
道は真っ直ぐ通じているが、旧中山道はこの角を右折する。 ここも枡形だったところなのだ。
◎ 元大井村庄屋・古屋家 (右写真)
『 古屋家は、江戸時代は商業を営み、天保元年から二十年間庄屋を勤めた。 屋敷は、間口十五間(約27m)、奥行三十一間半(約65m)の敷地。 道に面した側に表門があり、その奥に玄関、式台が付き、茶室や15畳2間続きの客間があり、その外には、広い庭が続く。 母屋や塀は、柱、梁、垂木にも土かべを塗り、北側屋根には卯建(うだつ)をつけ、その上、北側の土塀は厚さ30cmの火防壁として、全体で火災を防ぐ、という防災上進んだ建築物だった。 』
突き当たりを左折したところに市神神社がある。 境内はかなり広い (右写真)
市神神社をホームページで検索したら、滋賀県の八日市市など数ヶ所でてきたが、市神は「初市の神様」とあったが、この市神神社も例外ではないようだ。
『 市神神社には、伝統ある 七日市 がある。 当地で良質な煙草が産出したので、毎年、一月七日に市を開いたのが始まりといわれ、三百年余続いているらしい。 神社は上宿にあったが、その後、ここに移されたというもので、建物は新しかった。 』
また、突き当たりになる。
その鉤型を左折すると、さっき来た道の延長部分に出たので、右折。
道を進むと、大井橋。 大井橋は阿木川にかかる橋だが、現在の橋の欄干には広重の木曽海道六十九宿のレプリカが付けられていた (右写真)
江戸時代の橋は長さ二十三間(41m)、巾二間(3.6m)の欄干付きの木橋だった。 また、天保年間以前は、川の真ん中に石で小島を造り、両岸から橋を架けて渡っていた、 といい、中島橋ともいわれたようだ。 橋を渡ると、大井宿は終わりになる。
大井宿はけばけばしさもなく、古い建物がそのままの姿で残っていて、来て良かったと思った。
(ご 参 考) 『 武並神社 』
大井宿から少しはずれるが、1kmほど南の国道バイパス沿いに国重要文化財に指定される武並神社がある。
神社旧記によると、
『 創建は定かでないが、延喜式の古社であり、承久弐年(1220)守護新田四郎左衞門(近くの茄子川に拠城)が鎌倉から杉苗を持ち帰り、社の東西北に植えた(鎌倉杉という)。
その後、歳月が流れ、社殿が荒廃した。 永禄七年(1564)に現在の様式社殿が造営された。 寛永十二年(1672)庄屋井口伊兵衛の尽力により修復され現在に至っている。 』
とあり、本殿は桧皮葺、入母屋造で国重要文化財であるが、拝殿は伊勢神宮の二十年毎の社殿建替えの古材を使用して建てられたものである。
常夜燈には修復された寛永十二年の年号が刻まれたものもあり、鳥居には享保元年と刻まれていた。
国道の脇にありながら、静かな佇まいが残っていた。
時間があれば寄られるのもよいだろう。
最後に : 中津川〜恵那間や大井宿の説明板や施設に用意された看板は、詳しく書かれていて大変参考になり、このページの作成に利用させていただいたことを報告し、謝意を表したい。
平成15年12月
追記(武並神社) 平成17年10月