『 中山道を歩く- 美濃路 (4)大湫宿  』


大井宿と大湫宿の間は十三峠と言われた数多くの峠がある、中山道の難路の一つである。  
大湫宿は尾張藩に属し、大久手とも書かれ、慶長九年(1604)の中山道新設と同時に海抜510mに設けられた新宿である。  明治の宿駅制度の廃止後、国道や鉄道が麓にできたため、中山道の宿場は捨て去られ、今は寂しい小さな集落になってしまったがそのお陰で古い家が残こっていた。 





大井宿から大湫宿へ(その1)

銀座 平成十五年(2003)十二月七日、恵那駅前の駐車場に車を止めて歩くことにした。 大井宿は 阿木川の大井橋を渡ると終わるが、今日はここからである。 少し歩くと、大通りにでた。  右に行くと、恵那駅。 左には最近出来た浮世絵美術館がある四辻である。 その先には、 スパーマーケットがあり、多くのひとが開店と同時に訪れていた。  旧中山道はこの大通りをよこぎり、真っ直ぐ進む道で狭い (右写真)
通りに付いている名前は銀座であり、昭和三十年代以前に誕生した全国各地の商店街と同じ名 で、懐かしい感じがした。  しかし、 歳末商戦の時期だ というのに買いに訪れる
人の姿をほとんど見ない。 道が狭く、駐車もできないので、スパーに客を取られてしまっ
たようだ。 町角にある和菓子屋「菊水堂」では、地元の名物栗きんとんなどの栗菓子を
旧中野村庄屋の家 売っていた。  その先にも商店が続いている。 恵那峡温泉で、地元のひとから聞いたこと
によると、 「商店では食べていけないので、ご主人は勤めにでて、商店は奥さんとパート社員でやっている店が多い。」 と、いうことだった。  恵那駅から西は江戸時代の旧中野村で、当時は大井橋から家が途絶えていたというが、今は連続しており、別の集落という感じはしない。  立派な古い家があったので、立ち止まったら、中野村の庄屋だった家である (右写真) 
黒く塗られた漆喰の立派な屋敷で、屋敷の右隣に洪水を防ぐための石柱が保存されていた。  江戸時代には、近くの永田川が氾濫したが、水がでるとこの石柱に板をはめて浸水
中野観音堂 を防いだというものだが、 高さがそれほどなかったので、どれだけの効果があったのだろうか?と、疑問に思えた。  氾濫したという永田川はその先にあり、そこにかかる橋が長島橋である。 最初は洗橋、 後に中野橋となり、現在の名は長島橋である。 橋を渡り左の道を行く。  旧中野村のはずれには、中野観音堂が残っている(右写真) 
観音堂は、何時作られたかの記録はないが、江戸時代であることには間違いないようだ。 二間半X二間の入母屋造りで、本尊は阿弥陀如来立像。 弘法大師像、三十三観音も祀ら
れている。 お堂の前の秋葉灯籠は寛政八年(1796)に建立されたもの。 このあたりに 中
野村高札場 が建っていた、 とあった。  広い道に出た。 「 旧国道19号で、名古屋まで
通じている。 」 と、道を聞いたおばちゃんが教えてくれた。  しばらく歩くと交差点に出た。  
西行硯水の案内板に沿って進み、上町観音堂の石碑を左折すると、小さいが手入れが整
硯水公園 ったお堂があった。 これが上町観音堂である。 
もとの道に戻り、少し行くと、左側に硯水公園があった。 西行法師が「 奥州平泉の帰途、木曽路を歩き、当地に立ち寄った。 」 という伝えに基づき、「 法師が硯の水に使った  」 という、 いいつたえが残る場所である。 硯水とあるので、どのような水か?と、興味があったが、小さな池はあるが水が湧いている様子はなかった (右写真)
(注) 西行は法名、円位、俗名、佐藤良治という北面の武士だったが、出家して 諸国を旅
  して、多くの和歌を残した人物である。 
傍らには、句碑や石佛があった。
『 道の辺に 清水ながるる  柳かげ しばしとてこそ  立ちどまりづれ 』 (西 行)
『 陽炎(かげろう)や ここにも ふじ見の つえの跡(あと) 』   渓花坊(けいかぼう)
西行坂 渓花坊は岐阜県本巣郡の人で、天保十四年に馬籠新茶屋の芭蕉句碑建立するための
句会に出席するために来訪したときにこの句をよみ、地元の弟子に与えたものという。
(注) 渓花坊の けいという漢字は、渓からさんずいを外した字であるが、HTML文字では
  外字で使えない。
少し行くと、西行公園と名付けられた地元の人達で創られた手作りの小さな公園があった。 
二百メートル歩くと中山道の標識が立っていて、 そこからは田舎道を歩いた。 
山道に差し掛かった坂を西行坂というらしいが、以前に歩かれた方の話によると、もっと急
な坂だったというので、道路工事で変えられたのかも知れない (右写真) 
現在は、石畳になって歩きやすくなっていた。
馬頭観音 これから先、大湫宿までは、難関で有名な、十三峠があるのだから、この坂は序の口である。 
ここまで、大井宿から、約2kmの距離である。 右側から犬の吠え声がするので、見ると
奥まったところに民家があった。  その一角に、馬頭観音があった。 一体は馬頭観音と
すぐ分かるものだが、もう一体は馬頭観音なのか、削れてしまっているので、分からない。 
よく気を付けないと、見落とすようなところにあった (右写真)
西行塚は、「西行法師が葬られた」という言い伝えがある塚である。 坂から右に少し登った
ところにあるが、階段の左右にある石碑は江戸時代に建てられたものである。 
西行の死については、「 河内国弘川寺でなくなった 」 というのが定説であるが、この地方
では 「 西行はこの地で死んだ 」 と言い伝えられてきた。
西行塚 「 西行法師は諸国に旅して、この地に寄り、竹林庵を結び、三年過ごした。 旅立つ際、自分が死んだらこの中野坂に埋葬するように村人に頼んだ。 建久九年(1198)二月に亡くなると、村人達は遺言通りに西行をこの坂に埋葬し、五輪塔を建てた。 」  と、いわれるものである。 階段を登って、上に行くと、西行の墓と伝えられる五輪塔があった (右写真)
その右には展望台があり、そこから、恵那市の市街や高速道路や国道などが恵那山をバックにして、一望できた。 境内には、いくつかの歌碑が建っていた。
芭蕉碑には、『   西行の  わらじもかかれ  松の露   』  という句が刻まれていた。
槙ヶ根一里塚 中山道は更に上って行く。 このあたり、木が切り払われて眺望がすこぶるよい。 
坂を登った先に公園があるが、その一角に まきがね一里塚 があった。 
北の塚は高さ3.5b、巾は9.9b、 南の塚は高さは3.9b、巾は10.1b あり、少し大きい (右写真) 
中山道の一里塚は壊されて現存するのは少ないが、恵那〜瑞浪にかけては比較的残っているので、この後もいくつか遭遇した。 
道を進むと七本松坂になり、登りきると車道にでた。 

大井宿から大湫宿へ(その2)

槙ヶ根立場跡 左折して車道に入り、約五百メートル歩くと、右に入る小さな道があった。 
 途中の左側の林の中に茶屋水戸屋跡の木杭を二ヶ所で見付けた。 右に入るところにも茶屋東国屋跡の木杭があった。 林の中を少し歩くと、左側に空き地があり、槙ヶ根立場跡の案内板が見えた (右写真)
享保弐年(1802)、ここを旅した太田南畝は、「 木曽の麻衣 」で、 「 一里塚をへて人家あり。巻かね村という。 追分立場というは木曽といせ路の追分 なるべし。 ここにもお六櫛を
ひきてひさぐ。 なおも山路をゆきゆきて又一里塚あり。 はじめの道にくらぶればいと近し。 
松の間をゆきて六七町も下る坂を西行坂という。 左の山の上に桜の木ありて、西行の塚
ありという。 円依上人は讃岐の善通寺に終わりをとりぬときくに、ここにしも塚あることいか
がならん。 折りから谷のうぐいすの声をきくもめずらしく、頃は弥生の末なるに遺覧在野
という事も引いでつべし。 砂まじりに流れる水にかけし板橋を渡りて中野村あり。 」 
槙ヶ根立場絵 と、書いている。 太田南畝とは後の蜀山人だが、彼は江戸に向かっているので小生とは逆方向だが、その時の様子が絵にかいたように分かった。  案内板の少し先の左側奥に、伊勢神宮へおまいりできない人のために設けられた伊勢神宮遥拝所跡があった。 右絵の中央にあるのがそれのようだが、注連縄を張った小さな社だったそうで、当時の礎石と思われるものが残るだけである。  江戸時代にはこのあたり一帯で数軒の茶屋が営業しており、巻ヶ根茶屋とか槙ヶ根立場と呼ばれた。 江戸末期には槙本屋、水戸屋、東国屋など9軒があったとされる。 江戸の絵図面を見ると、空き地になっているこの場所には中野
屋と伊勢屋があったようで、発掘調査が行われた際、井戸跡や竈跡などの痕跡が確認され
道標 たとあり、現状保存がされていた。 茶屋は中山道の旅人に加え、木曽や尾張の商人、
そして、善光寺や伊勢神宮参拝客が行き来したので、大変繁盛した、 とある。  
その先には、明治八年に建てられた 「 左、伊勢名古屋道、右、西京大阪道 」 と刻ま
れた大きな道標が建っていた (右写真)  
伊勢名古屋道とあるのが、太田南畝の書物にもある「 下街道 」と呼ばれる街道である。 
下街道は竹折、釜戸、高山(現在土岐市)、池田(現多治見市)を経て、内津峠を越せば
名古屋や伊勢方面に行くことが出来る街道で、犬山経由の道は尾張徳川家が参勤交代の
際使われたので、上街道と呼ぶに対して付けられたものである。 石標の先に一部残る
石垣は下街道に下りていくもので、当時の様子が分かる貴重なものである。 
(注)後日、下街道を 歩いたので、ご覧下さい。 
馬頭観音 中山道開設当時は下街道の道を下り、竹折や釜戸を経て御嵩宿へ出たのであるが、
その後、ここから西に真っ直ぐ行く道が改修され、慶長九年(1604)に十三峠を通る
道が完成し、新たな中山道になったのである。 これから先はいよいよ林間の尾根を歩く
コースで、アップダウンの坂道が数多く続く。 十三峠とあるが、それは総称で、数えた
ところではそれ以上の坂があった。 歩いて行くと右側に馬頭観音があった (右写真) 
中山道に馬頭観音が多いのは峠で行き倒れになった馬や旅人が多く、その供養と旅の安全を
祈願したものだろう。 
首なし地蔵 左側に首なし地蔵の石碑があり、屋根付きの祠には地蔵像が祀られていた (右写真)
首なし地蔵にはつぎのような話が残されていた。 
『 昔、二人の中間がここに通りかかったが、夏で暑かったので小休止をとり、寝てしまった。 一人が目を覚ますともう一人の首が切られ死んでいた。 びっくりして見渡したが、犯人らしいものは見当たらなかった。 中間は「黙って見ているとはなにごとだ!!」と怒り、地蔵の首を腰の刀で切り落としてしまった。 それ以来、何人かの人が首をつけようとしたがどうしてもつかなかったという。』
首なし地蔵は武並町美濃に建立されたものだが、その後現在地に移されたとあった 。 
姫御殿跡 頂上には姫御殿跡の木杭があったので、上っていった (右写真)
「 ここを祝峠といい、周囲の展望がよいので、中山道を歩く旅人にとってかっこうの休憩地
だった。 この近くに松かさを多くつけた子持松があり、松の枝越しに馬籠(孫目)が見ら
れたことから縁起のよい場所とされた。 十二代将軍家慶に嫁いだ楽宮(さざのみや)や
十四代家茂のもとに下向した和宮(かずのみや)のため、仮御殿が建てられ、御休みにな
られた。 」 と、書かれた案内板があったが、周りには木が茂っていて、馬籠はもちろん
何も見えなかった。 
乱橋 いよいよ、乱れ坂は急な下りになる。 乱れ坂は大変急で、大名行列が乱れ、旅人の息が乱れ、女人の裾が乱れることから、乱れ坂と呼ばれるようになったといわれる。 
みたらし坂とか祝い坂という名もあったようである。  足元に気を付けて降りていくと、石畳になったが、石畳は短く、あっという間に出たのが乱れ橋である (右写真)
乱れ川は7m強の川であるが、江戸時代には暴れ川だったらしい。 宝暦年間、飛脚たちが金を出し合って乱れ川に橋を架けたが、荷物を積んだ馬1頭に2文づつを徴収した時期もあったとある。 
太田南畝は、「 木曽の麻衣 」 で、当時の様子を、「 石ばしる音すさまじきなだれにあり、
わたせる橋をみだれ橋という。 みだれ坂というを上る事五六町にして山のいただきより
見られた左右の山ひきく見ゆ。 ややくだりきて、右の方に石の灯籠ふたつたてり。 
いせ道と石にゑれり。 ここに仮屋して伊勢大神宮に棒納の札をたつ。  道の端に一重桜
さかりなるは遅桜なるべし。 」 と、書いている。 
小生は下りだったので息が乱れることはなかった。 
なお、平成十七年六月、再び訪問し、今度は太田南畝同様、乱橋から大井宿方面に歩いてみた。 
乱れ坂はほんの数百mの距離しかなかったが、きつい坂なのには驚いた。 
まさに乱れ坂だった。

大井宿から大湫宿へ(その3)

縫原坂 乱橋を渡ると、棚田が見え、集落が現れた。 大きな家で新築の家もあるので、孫を含めた3世代の家があるようである。 ここに通じる車道は国道の脇の狭い入口しかないが、恵那市内まで数十分で行けるので、過疎化が進まないのだろう。 
ゆったりした気分で歩くと、 石州さま と書いた木杭があるが、見渡してもなにもない。 
恵那市は中山道の史跡にかってあったものをきちんと表示しているのである。 
坂になり登っていくと、左側に 縫原坂 と表示された木杭があった (右写真) 
左にある田の端に竹折村高札場跡を示す木杭があった。
大名街道の追分 その先にある集落の家の前に、 「 岩村からの大名街道 」 とあった (右写真)
説明によると、「 岩村藩の殿様はここまできて中山道に合流していた。 」 とあり、そのことから大名街道と呼ばれたようである。 岩村藩は2万石で、藩主は松平(大給家)、丹羽家、松平(石川、大給家)と替わったが、現在の中津川市と恵那市が所領であった。 
時代は移りかわり、現在では道は途中で途絶えているようである。
また、坂になるが、それには かくれ神坂 と表示があった。 林に入ると、右側に 妻の神 という表示があり、少し上に小さな社があった。 これがかくれ神なのか?? 
さらに坂を上る。 傍らに 平六坂 という表示を見付けた。 
紅坂一里塚 ほどなく、開けた田畑があるところにでた。 再び、林に入る。 夫婦岩 と案内があるが、岩のようなものはない。 どうしたのだろうか?? 
少し歩くと、 紅坂(べにざか)の一里塚 が見えてきた。 案内板には 「 一里塚は、江戸から89番目のもので、北塚(右側)は高さ2.2m 、幅が0.7m、南塚(左側)は高さが3.2m、幅が11.3mある 」 と、あるが、それだけの高さはないように思えた (右写真)
樹木が茂っているが、周りの環境の変化で、一部変わっているのかも知れない。
石が無数むき出しになっているところにぼたん岩の表示があった。 
このあたりは石畳になっていた。 でこぼこした石畳をバイクの青年が来たが、ショックで
マフラーが石に当って音をたてた。 
三社常夜燈 石畳の道が途絶えてところに、木杭があり、 うばが茶屋跡 と書かれていた。 馬茶屋 が
あったと記録にあるので、それを指すのかも知れない。 右側に民家があり、それを過ぎる
と、右側にこんもりした小山があったが、そこには くろすくも坂 と書かれていた。
左側にぼたん岩があるとあるが、どれなのか分からなかった。 また、 念仏坂 もある
はずだが、これも分からない。 畑が開墾されているので、当時とはかなり地形が変わって
いるのではないか?と思う。 当時は小山や坂がいくつかあったのかも知れない。 
さらに下ると、右側に大きな石灯籠があり、三社と刻まれている常夜燈である (右写真)  
夜道に現れた常夜燈の光には旅人はほっとしたことだろう。
佐倉宗五郎大明神石碑 道から少し入った神明神社には芭蕉の句碑があった。 
 『   山路来て   なにやらゆかし    すみれ草   』 
中山道を直進すると、左側に小さな社があり、廿二夜碑と佐倉宗五郎大明神と刻まれた石碑があった (右写真) 
江戸時代、三千件を数える江戸期農民騒動のなかで、下総の佐倉宗五郎が特に有名であるが、ここでは義民佐倉宗五郎が大明神として祀られていた。  佐倉宗五郎を祀るということから推察すると、このあたりはかなり貧しかったのではないか?と思った。
藤村高札場 橋を渡ると、広い道にでた。 江戸時代はこのあたりは藤村で、その入口にあたるここに高札場があったが、復元したものが置かれていた (右写真) 
その脇には庚申碑群があった。 民家の前に案内板があり、ここには深萱(ふかがや)茶屋本陣(加納家)があったようであるが、現存していなかった。
この一帯は少し開けていて、車道に沿って小川が流れており、田畑が展開していた。 恵那市役所武並事務所が目印になるとあったが、その建物は小さなものだった。 
この辺の中心地らしく、バス停があるが、今や一日数本しかないので、ここにくるには
深萱立場茶屋跡 歩くしか方法はないだろう。 近くの武並駅からは3km弱の距離だが、上りなので50分程度かかるようすである。  民家の間の道を歩くと、すぐに田畑が広がったところに出た。  田園の真ん中に、深萱立場茶屋跡と書かれた大きな看板がある (右写真)
「 深萱立場には茶屋や大名などが利用した立場本陣、馬茶屋など、10余軒の民家があり、 旅人にはお茶を出したり、もちや栗おこわといった名物を食べさせた 」 と、ある。
馬茶屋とは、馬を休ませる茶屋で、軒を深くして、雨や日光が馬にあたらないよう工夫されて いたとあった。
西坂 これから先は、再び森の中の山道となった。 二キロほどの区間に道が別れているところが
数ヶ所ある。 東海自然歩道とは合流したり別れたりして進むので、ここは中山道石柱(道標)
に従って歩こう。 西坂 は木が茂った道を登っていく。 比較的、急な道であった。 
落葉の季節ではないのに、道に落葉が落ちていた (右写真)
変則七差路に出たら左の石畳の道を上る。 すぐに土道に変るが長い坂である。  (みつじ坂」の木杭が現れると三城峠に到着。 右側に「三城峠」の木杭があり、左側に 左側に「ばばが茶屋跡」の石碑があり、そこには 「 ばばさんが茶屋を開いていた 」と説明があった。 
新道坂 峠から下りを茶屋坂 といったようである。 車道に出た地点が東海自然歩道との分岐で、 中山道は少しだけ左を歩き、右折してまた山道を上る。  それを登りきると、やがて比較的平坦な道に変った。 
少し歩くと、 「 大久後の向茶屋 」 の木杭が見えた。 
アップダウンが続くところなので、一服するにはよいところだっただろう。
舗装道路の坂には 新道坂 と表示されていた (右写真)
途中に左に入る道があり、そこに入ると、登り坂である。 
観音坂の観音 上っていくと、右側に石仏があり、観音坂の観音様と記されていた。 
小さな穏やかな石仏だった (右写真)
この坂は観音坂というのだろう。
更に行くと、灰くべもちの出茶屋跡とある。 坂が多いので、一息入れる旅人を目当てに
した茶屋が多かったのか? 
それにしても、いたるところに木杭があり、一つ一つ説明があるのには感心した。 
段々になった田 表示がなければ、単なる林道である。
その先には、西国と秩父の霊場をした巡拝石碑が建てられていた。 反対側には休憩所が
あり、東海自然歩道を歩くハイカーがおしゃべりをしていたが、先を急ぐので、寄らずに
通過した。  下り坂になり、段々になった田が見え、視界がひらけてきた (右写真)
この先、十三峠はまだまだ続く。 

                                                       後半に続く