坂を下りきったところに駐車場があった。 ここは、大久後の集落であるが、民家は数軒し
かないようである。 江戸時代に立場茶屋があったところである。 ここで大井宿まで行く
という若い人に出会った。 名古屋から来て、大湫から来たが、道に迷ったので、遅くなったという。 まだ先が長いよ!頑張って!と、エールを送り、別れた。
そこから十分くらいで権現山への登山口にでる。 権現坂は短いがきつい。 権現山の山頂には岩倉の刈安神社がある。
中山道は登りきったあたりに江戸時代には炭焼立場茶屋があったところだが、数軒の民家が建っていた。 しばらくは山の裾を歩き、かしの木坂の石畳を通り、急坂を登ると権現山の一里塚が見えた (右写真)
慶長八年〜九年、十三峠が開削されたと同時に築かれたもので、江戸からジャスト九十里
の一里塚である。 南北両方ともきちんと残っていたが、台風の影響か否かわからないが、塚にあった木はほとんど切られた後だった。
坂を上ると巡礼水の表示がある。
江戸時代の大田南畝が、壬戌紀行に、 「 坂を下りゆくに左の方の石より水流れるを巡礼水という。 常々はさのみ出ねれど八月一日は必ず出するという。 むかし巡礼の者比の日比の所にてなやみ伏しけるがこの水を飲みて命助かりしより今もかかることありといえり。 」 と、書いているところである (右写真)
道の左側には,高いネットが張られていて、人声がする。
こんな山中にゴルフ場があるのである。 まさに、ゴルフ場の中を中山道が通っている感じで、両脇からコースが見える。
木立の間から覗くと、グリーン脇から打った球が転がりそのままピンに入り、 「バーディ!!」 と、はしゃぐ声が聞かれた。
ゴルフ場の中を街道が通っているのは珍しいのではないか?!
名前も中仙道カントリークラブという (右写真)
ゴルフ場沿いの坂道は びあいと坂 というが、名の由来は茶屋で売っていた「枇杷湯糖」
からであることを後日知った。 その先の祠の中には三十三観音の石仏があった。
中山道曽根松坂石碑には、「 少し下りてまた芝生の松原を登りゆくこと四五町あやしき石所々にそば立ちて赤土多し。 曽根松坂という 」 と、刻まれているが、これも壬戌紀行による
。
続いて、阿波屋の茶屋跡があった。
道の右側に水が流れているところがあり、 尻冷やしの地蔵尊 という妙な名前の石仏があった (右写真)
壬戌紀行に、「 地蔵坂という坂を上れば右に大きな杉の木ありて地蔵菩薩たたせ給う 」 とあるが、地蔵尊の背後から水が湧くことから、名付けられたという。
林の中の道を歩き続けると、車道にでた。
車道を横切り、上っていくと、左手に茶畑が広がっている。 暗がりにじめじめしたところに
立つ石碑の案内には、八丁坂の観音碑とあった (右写真)
大田南畝の壬戌紀行によると、 「曲がりまかりて登り下り、なお、三、四町も下る。
坂の名を問えば、しゃれこ坂という。 右の方は南無観世音菩薩という石が建つ。
向うに見える山はこの横長岳(恵那山のこと)なり。」
とあり、小さな文字
も見えなくなった石碑が百年以上経った石とは驚いた!!
しゃれこ坂とは八丁坂のことである。 なお、大田南畝は京方から江戸に向っているので、私とは正反対である。
坂道は結構急である。 坂の名を山神坂という。 このあたりを童子ヶ根というようである。 上りきった坂の上に石仏群があったが、寺坂の石仏群だろう (右写真)
少し奥の草むらには金比羅常夜燈があった。
寺坂を下ると、宗昌寺の屋根の向こうに大湫宿が見えた。 これでアップダウンが続いた十三峠の山旅は終わった。
大井宿から十三峠と総称される多くの峠を越えて、やっとの思いで大湫宿に入った。
入口には、金城山宗昌禅寺という寺があった (右写真)
この寺から、寺坂 という名が付けられたのだろう。 周りが樹木に囲まれての尾根道を歩いてきた旅人にとって、忽然と現れた家並みにはほっと安心するものがあったのではないだろうか?!
大湫宿は、今や時代から取り残された、辺鄙なところになっているが、江戸時代には、大変繁盛していたようで、十辺舎一九は木曽街道膝栗毛でその模様を書いている。
大井宿と御嵩宿の間が三十キロと長かったので、大多数の旅人がこの宿場を利用したからである。
なお、隣の細久手宿は中山道開設当時には誕生していない。
下りたところは、桝形になっている。 その先の民家の一角の「木曾五木を取り締まっていた」という説明板があるところは白木会所跡である (右写真)
大湫宿は、長さは三町十四間(約350m)という狭い町に、本陣一、脇本陣一の他に,旅籠が四十五軒も営業していた。
文久元年(1861)の宿の全戸数が八十六戸だから、その割合の高さと数の多さがわかるであろう。
その先に小高くなったところにある小学校の校庭が本陣跡である (右写真)
本陣は、間口二十二間(約40m)奥行十五間(約27m)で、部屋数は二十三、畳数は二百十二畳、別棟添屋六という広大な建物だった。
大井宿と御嵩宿間の距離があったので、大名や公郷、高級武士たちの多くが、ここで泊まったので、このような大きなものが必要だったのだろう。
十四代将軍家茂に降嫁した皇女和宮は、文久元年(1861)十月二十八日、一夜をここですごしている。
そのとき詠んだ和ノ宮御歌は
『 遠ざかる 都と知れば 旅衣 一夜の宿を 立ちうかりけり 』
『 思いきや 雲井の袂(たもと) ぬぎかえて うき旅衣 袖しぼるとは 』
というものだが、
皇女和宮の他、比宮(亨保十六年、1731)真宮(寛保元年、1741)五十宮、登美宮、有姫、鋭姫などの多くの姫君がここに泊まって江戸にお嫁入りしたのである。
大湫宿の当時の人口は四百人弱。 寛政年間に編纂された 「 濃川徇行記 」によると、
「 この村は左右茅屋にて町中も狭し。農業と旅籠又は往還人足かせぎを以って渡世とする。 」 とあり、小さな宿が多くあったようで、この山間の宿場は 街道稼業 で食べていたようすが分かる (右写真ー現在の大湫の家並み)
奥に白山神社の社屋が見える空き地が問屋場のあったところである。
その隣にある保々家は、脇本陣を勤めた家で庄屋と問屋も兼ねていた。
建物の規模は当時の半分になったというが、それでもかなりのものである (右写真)
文化元年(1804)の絵図面によると、「 敷地は約五百二十坪、母屋の建坪は約九十八坪で、座敷の数十九、百五十三畳に、別棟六、門構え、玄関(式台つき)だった。 」 という。
現在は、御殿と呼ばれた上段、下段の間や玄関式台などの左半分や別棟は無くなってしまった というが、それでも大きい。 個人宅で今も住んでいらしゃる。
内部が拝見できなかったのは残念だった。
神明神社の大杉は、樹齢千二百年といわれ、宿場時代から 「 神明神社の御神木」 として、
大切にされてきた。 蜀山人(大田南畝)の旅日記・壬戌紀行によると、「 駅の中なる
左の
かたに大きな杉の木あり、木のもとに神明の宮たつ 」 と、ある。
見上げると、杉の大きさが実感できた (右写真)
この付近には、古い家が建ち並んでいた。 宿場が誕生する慶長九年以前には住民はいな
かったようなので、どこから人を連れてきたのだろうか? 旧道にされてしまった宿場から
移住させたのか? など、たわいもないことを考えながら歩いた。
しかし、宿場町はその少し先で、終わってしまうくらい短かった。
宿場はずれの手前の小高いところに、観音堂がある(詳細は巻末参照)
本尊は伝教大師の作と伝えられ、足腰難病の霊佛として宿内や近隣の人々そして旅人からの崇敬を集めてきた。 中山道道中の諸大名も堂下を通過する際には合掌していったといわれる。
天床には三尾暁峰の筆による六十枚の花鳥草木の絵が描かれているが、戸が閉まっているので見ることはできなかった (右写真)
境内には、寛政七年(1795)、芭蕉の百年忌に大湫宿の俳句グループが供養塔として建てたという句碑があった。
『 花ざかり 山は 日ごろの あさぼらけ 』
この句は当地の作ではなく、奈良県の吉野で詠まれたものである。
観音堂の前にあるシダレザクラは樹齢三百年、樹高十五メートルとある。
百五十年前の火災と伊勢湾台風により、二度にわたり樹幹が倒れたが、根が残って新たな芽がでたもので、三代目になる、 というものである。 どのような花が咲くか、来春には再度来ようかと思った。
宿場の最後(京方面からは入口)には、 高札場 があった(右写真)
今は復元したものが置かれていた。
これで大湫宿は終わりである。
(ご 参 考) 観音堂
正式には、円通閣妙智庵大湫観音堂 という。 慶長年間以来、神明神社の境内でまつられていたが、享保六年(1721)に観音堂を建立して移した。 本尊は伝教大師の作と伝えられる観音像だが、文政七年(1804)の宿場の大火により、観音堂は被災したが、本尊などの諸仏は宿人に担ぎ出されて罹災をまねがれることができた。 弘化四年(1847)に、観音堂が再建され、そこに納められた。
◎ 大 湫 宿 あれこれ
(1)地名について
大湫(おおくて)という字そのものが、読むことがむずかしい字である。
大湫は大久手とも書かれたようで、これなら分かりやすい。 隣の宿・細久手と同じよみ方である。
湫(久手)を、調べてみると、湿地という意味である。 愛知県には 愛知地球博 が開催された長久手町町があるが、秀吉と家康が戦った小牧長久手の戦いの場所・長久手は周りが多くの湿地帯で、田畑がほとんどなかったところで、秀吉配下の池田氏の軍勢が窪みに嵌って、多くのものが打たれ、敗退したことで、有名である(現在は丘陵地になっているが)
大湫も、山に囲まれた狭間に湿地が広がる土地だったので、その名が付いたのだろう。
(2)ロケーション
大井宿と御嵩宿の距離が八里(30数km)あった上、この区間は峠が多く、歩くのに難渋するところだった。
江戸幕府は中山道を開設にあたり、大井宿から3里半(14km)、御嵩宿からは4里半(18km)と、ほぼ中間にあたるこの地に宿場を新設したのである。
江戸時代には、男子は1日30〜40km、女子でも20〜30kmを歩いたというが、この区間は坂が多いので、江戸時代の男子でもかなりハードなところだったに違いない。 現代人である我々が旧中山道の大井宿〜御嵩宿間の30数kmを1日で歩き通すとなるとかなり厳しい。
平成の今日では、細久手に旅館が1軒あるだけという状態であるが、大井宿〜御嵩宿まで連続で歩く場合は、どうしても旅館の御世話にならざるを得ないだろう。
名古屋に住む私の場合、近すぎて、宿泊するにはいささか抵抗があった。
恵那駅からのバスは日に1〜2便あるのだが、早朝と夜だけで通学(勤)用のみ。
大湫から恵那に向かう地元民のためなので、逆方向の利用を考えたダイヤには
なっていないので、午前中に最寄り鉄道駅から来る公共手段がないのである。
歩く場合、1番近いのはJR中央本線の釜戸(かまと)駅で、4kmの距離だが、
高低差300mをえんえんと登って行くことになり、1時間はかかる。
自家用車タクシーで大湫まで行くのが料金のことを考えなければ一番よいだろう。
(3)こんな辺鄙なところに、何故、中山道を通したか?
この下に流れる土岐川沿いに通せばよいのではなかったか!! 、と思っていたが、私の疑問に答える資料を見付けた。
中山道を歩く (山と渓谷社) の中で、 「峠と中山道」 という標題で高城修三氏が書かれたものである。
一部私見も加えたが、紹介したい。
『 江戸時代に開設された中山道のベースになったのは、東山道である。 東山道は、奈良時代に神坂峠越えの伊奈路から鳥居峠越えの木曽路に変えられたが、江戸時代になるまではそのまま踏襲された。 』 とあり、 『 御嵩宿〜大井宿間は、慶長9年までは、土岐川沿いの釜戸経由だった。 』 というのだ。
つまり、私が考えていた通りの道(江戸時代の下街道)を歩くのが江戸時代までのルートだったのである。
往来の容易な川沿いの道を廃して、歩くのに難儀する山間の日吉高原経由の新道をなぜ開設したのだろうか?
高城氏は、新道に変えたのは江戸幕府の大名の反乱を防ぐ手段の一環だった。 と、説明する。
『 参勤交代の制、そして、「藩主の奥方を江戸に人質として住まわせる」という施策や東海道の箱根、新居、中山道の碓氷、木曽福島の4大関所の設置などは江戸防衛の重要な手段だった。 また、東海道には大河川が多くあったが、橋を架けさせなかった。 中山道の場合、大きな川がないので、峠を軍事的防衛ラインとした。 上野と信濃の国境になる 碓氷峠 や、信濃川と木曽川の分水嶺である 鳥居峠 は軍事的拠点として古来合戦の舞台になったところである。 北に鳥居峠、南に馬籠峠があり、東西を3000mクラスの山脈にさえぎられた 木曽谷 は、東海道の 箱根 と並ぶ要害の地であったので、家康はここを直轄地にして、福島に関所を設け、西の備えにしたのである。 しかし、これでは中津川までは西から一気に攻め込んでくることができる。 それを防ぐために、西から攻めてきた軍勢が木曽谷に至る前に、もう1つ、峠を使った巧妙な防衛ラインが敷かれた。 』
高橋氏は「それが、家康の側近で美濃奉行であった大久保長安が慶長九年(1604)に創った、日吉高原経由の新道だ 」と、いうのである。
『 大井(恵那)〜御嵩間の最短ルートを採用したためと説明されているが、僅かな距離の短縮のために平坦な道を捨てて、上り下りがえんえんとつづく山間の道を採用したとは思えない。 また、開通した道も近くに平坦な場所があるのに、故意に峠越えを選んでいるように思われる場所が少なくないからである。』 と、具体的な事例を挙げてその説を展開されている。
確かに、大井宿〜大湫宿の間には「十三峠にまけ七つ」とうたわれるほど、峠が多い。
高橋氏の説がが正しければ、江戸時代の旅人の難儀は大久保長安による人工的なものだったといえよう。
明治に入り国道や鉄道が開通すると、交通に不便なこの道は廃止され、釜戸経由の道に戻ってしまったのは当然のことである。
その結果、今日の大湫集落は近代化から取り残された静かな山村になってしまったのである
(ご参考) 大湫宿は文政七年(1804)の大火で宿場のほとんど焼けてしまったが、現在も古そうな建物が残っている(どの時期のものか分からないが) 写真を撮る魅力があった。
平成15年12月
平成16年10月(写真追加)
平成17年6月(写真追加、文一部追補)