細久手宿は中山道が開道した当時はなかった。 慶長十五年(1610)に設けられた新たな宿場で、海抜420mの尾根の上にあり、細久手(ほそくて)という名の通りの細長い宿場だったのである。
当時の姿を残すのが尾張家定本陣を務めた大黒屋で、今でも旅館を営んでいた。
平成十六年(2004)三月二十九日、雪のため、訪れるのが遅れ遅れになっていた大湫宿から細久手宿間であるが、三月の最終週に入ったので、もう大丈夫だろうとやってきた。
地元のひとの話では、 「 今年は雪が少なかった!!」 というから、もう少し早くてもよかったのかも知れない。 ここを歩く難点は公共交通手段がないことである。 駅から大湫宿まで、バス会社が路線を撤収してしまい、地元自治体のバスが日に数本あるだけなので、最寄りの駅から歩くか、タクシーしかない。 また、細久手からの帰りも同様である
しかたがなく、自宅から車でやってきた。
前回終わった大湫宿の京側の入口の高札場から細久手宿に向って出発。
すぐの三叉路で、右の道を行くと、紅葉洞の石橋跡がある。 石橋は谷川の水が集まった
ところにかけたのだろうが、両脇の石が残っているだけで、橋の部分は残っていなかった。
道を広げた際に橋はなくなったのだが、橋の石だけを記念に残したもののだろう (右写真)
少し歩くと小公園といったものがあり、休憩ができるようになっていた。
このあたりをは小坂というようで、案内板に安藤広重の描いた大湫宿の絵(右上)があり、
このあたりから大湫宿の方角を描いたといわれる、 とあった。
小公園に到着する手前に、小坂の観音様という表示があり、道の左側の石の上に、「馬頭
観世音」 と 「観世音」 と刻まれた石碑があったが、これもまた、中山道の道端に祀られて
いたものなのだろう。
このあたりは岩山になっている。
小公園の先の右奥の山肌に下りると大洞の馬頭観音と呼ばれる石仏が祀られていた。
「文政八酉八月」 と刻まれているので、今から二百年ほど前に建てられたものである。
大井宿から御嵩宿の間に馬頭観音が多いのは、美濃路で一番厳しいところにあったので、
倒れた
馬やひとが多かったからであろう (右写真)
左右の山には大きな岩が散見されるが、その中でも道の右側にある岩が二つ岩として有名
である。 大田南畝の壬戌紀行には、
「 道の左に立てる大きなる石二つあり。 一つは烏帽子岩という高さ三丈ばかり巾は三丈に余れる。 また、母衣岩という高さはひとしけれども巾は是に倍せり。いずれもその岩の形は似て石のひまひま松その外の草木は生いける。 まことの目に驚かす見ものなり。 」 とあり、現代の我々はさほど驚く景色ではないが、外に出歩くことがなかった江戸時代の人々にとっては驚くべき巨石だったのだろう (右写真)
2つ岩を過ぎると、病院が現れた。 大湫病院である。
ここまで1km強の距離。 それにしても、こんな辺鄙なところに患者がくるのかと思えるところに立地している病院である。
右手に琵琶峠へ登る山道の入口があり、東海自然歩道の道標には琵琶峠まで約五百メートル
とあり、これが旧中山道である。 入るとすぐ、道標を兼ねた二つの馬頭観音碑があった。
峠を越える道は石畳で、峠に向かってぐんぐん伸びていた (右写真)
枯葉が堆積しているので、滑らないように気をつけながら上る。
琵琶峠は標高540m、中山道の美濃路では一番高いところに位置している。
木曽名所図会には、「 御嶽山、白山、伊吹山などの山々が展望できる 」 と、あったが、
そのような見晴らしはない。
江戸時代の中山道では、周りの木を切り、見晴らしがよいようにしていたのだろうか?
峠には、皇女和宮歌碑があり、
『 住み馴れし 都路出でて けふいくひ いそぐもつらさ 東路のたび 』
と、和宮の不安の心境を詠った歌が刻まれていた。
馬頭観音石仏が祀られていて、宝暦十三年の銘があった (右写真)
峠で休憩している4人に会ったが、驚くことに全て欧米人だった。 彼等の話から推察する
と日本について研究しているようで、そのことから中山道を歩いてみるということになった
ようである。 日本人ですら歴史上の興味からここにくるのは少ないのに、外国人に逢える
とは思えなかった。 彼等の別れて峠を下る。
下りも石畳が続く。
『 明治以降、この道は使われなくなり、石は埋もれていたが、昭和四十五年の発掘調査
により、掘り出されたものである。 調査の結果、600m以上の石畳があったことや峠を
開削した時のノミ跡を持つ岩や土留め、側溝なども残されていることも分かった。
その後、平成九年から十二年にかけて復元工事が行われて、今日の姿になった。
中山道の他の石畳と違って、一つ一つの石が大きいのが特徴である。 』
と、いう説明があった (右写真)
馬籠で歩いた石畳とは違い、この坂は大きな石が並べられていた。
坂を降りていくと、二つのぽっくりとした丸い小山が見えた。
左側の小高いところに登り、見下ろす。 これらの2つの小山は、琵琶峠にあったので、
琵琶峠の一里塚 ともいわれた 八瀬沢の一里塚 である。
一つだけでも残っているのは珍しいのに二つあるのはすごい (右写真)
木曽路では残されていない一里塚が美濃路に入ると見られるようになった。
瑞浪市には四つの一里塚が残っている、という。 これだけ多くの一里塚が残ったのは、明治以降、街道が急速にさびれ、時代に取り残された結果だから、地元民にとっては必ずしも喜ばしい結果であったとはいえないだろうなあ ・・・・ と思った。
先程別れた車道は琵琶峠をまわってここまで来ていた。
それを横切り、下に降りていく。 石畳は少し下がったところで終わっていた。
このあたりは 八瀬沢 というが、湿潤な土地で滑りやすかったので石畳にされたようである。
旧中山道は草道になり、砂利道に変わると、琵琶峠西登り口の道標(右写真)があるところで、車道に合流してしまった。
江戸時代には立場茶屋があったところだが、古い家は一軒もなかった。
ここから車道を通って車を取りに戻り、車をここまで持ってきて駐車し、また、歩き始めた。
車持参のたびはこれがあるので、困る。
この先で、道を間違えた。
田圃に囲まれた道を歩き、三叉路に「東海自然歩道」の標識があったので、案内に従って
歩いていったが、後になってそれが間違いだったことが分かる。
東海自然歩道は北野神社へ行くが、中山道は北野神社を経由しないで、車道を進むので
ある。 ここには東海自然歩道のみ案内があり、中山道の案内はないので、小生のように
間違える人もいるのではないだろうか!?
少し遠回りをしたことになるが、その分自然を満喫することができた。
北野集落に入る。 何軒かの家がかたまって建っていたが、このあたりでは大きい集落の部類である。 民家裏の小高いところに小さなお堂と石仏群が見えたので、上っていった。
お堂の横には、石仏と石碑が合わせて十体程祀られていた (右写真)
お堂の中には、正面に青銅の仏像、その左に、丸くぽちゃとした石仏が祀られていた。
お供え物や花が飾られ、座布団も用意されており、地元の人々により守られてきたことが強く感じられた。
集落が途切れると、右手の林の中に目指す北野神社があった (右写真)
菅原道真を祭った神社であるが、神社入口にある由来書には、
『 創立の年月は不詳なれども慶長十九年の棟札あり。 僻地にあったにかかわらず、遠く常陸国などの遠国からも御参りがあった。 天神社といっていたが、明治に入って北野神社に改称した。』 とあった。
梅の花が咲いていたので、偶然にしては出来すぎと思いながら、うっそうとした檜林の参道を上ると、道端に 山神 と刻まれた石碑があった。
少し上ると、林からぽっかと開いているという感じの空間を持った境内に出た。
この一角だけが明るいのである。
社殿の前には定番の牛の銅像が置かれていた。
享保十年と記された常夜燈が社殿の前にあり、歴史のあることが確認できた (右写真)
社務所は閉まり、絵馬やおみくじは売られて(?)いないが、他の神社から入手した絵馬が沢山架けられていた。
季節柄、近隣の受験生が合格祈願でここまで足を運んでいるのだろう。
下に降り、道を進むと、また、東海自然歩道の道標が現れた。 東海自然歩道は多くの案内板があるのには驚ろく。 左から車道が合流してきたが、これが旧中山道だった。
小生はここで、車道を歩いて、車を取りに戻ったが、その時になって初めて、車道が旧中山道であったことを気づいたのである。
途中、「1つ屋茶屋」あったことを示す標示前を通り、「天神辻」などの地名のところを通った。
天神辻に地蔵様があったが、天神辻は天神さま(北野神社)に行く辻ということからの地名
だろう。 車を持参したため、この後もこのような運搬作業を繰り返した。 何度も繰り返すとタクシーを使ったほうがよかったと後悔したが、携帯電話も届かない区間なので困った。
旧中山道と東海自然歩道が合流したところが天神坂で、そこから少し行くと、弁財天の池。 静かなたたづまいを残す池で、蜀山人の旅日記に、「左の方に小さな池があり、カキツバタ生い茂り、池の中に弁才天の宮あり」と書かれている。 季節がくればカキツバタや睡蓮の花が咲くのだろうが、今は静かな水面のみであった (右写真)
めだかが泳いていたが、赤かったのでこのような辺鄙な地にも外来種が入ってきているの
だと、自然の破壊が進むことに一抹の不安を感じた。
池の中央の出島には弁財天の小さな石祠があった(右写真)
石仏の弁財天は元文五年(1740)の作のようだが、石祠は天保七年(1836)に再建されたものである。
少し休憩してから、出発した。 この先、少しの間、上り坂になっていた。
上り終えると、遠くから自動車のエンジン音が重なって聞こえてきた。
雑木林が連なる尾根の上をしばらくの間、歩いた。
途中には、南垣外のハナノキ自生地 や 女男松の跡 という石碑などがあったが、枯れた跡
だったりして特筆すべきものはない。 それよりもそれらの遺跡を調べ、案内柱を立てた
人の努力に敬意を表したい。
やがて、さっきのエンジン音の正体が分かった。 モーターランドという看板がでていたから
である。 そういえば、しゃこたんの車に若者が乗ってこの道を走っていたので、場違いを
感じたのだが、そこに出入りする車だったのである。
ほどなく、奥之田一里塚 に到着 (右写真)
「 奥之田一里塚は二つあり、北側が10mの径で高さは3.5m、南側は、10mの径で、
高さは4mである。 2つの間隔は10mある。 」 と、説明板にあった。
塚の奥には木が聳えていたが、塚には木がないのは塚を一部修復したのだろうか?
ここまで来ると、細久手宿は近い。
細久手宿は江戸から四十八番目の宿場で、大湫宿から一里半、御嵩宿までは三里の距離である。
宿場に入る手前に 峠の茶屋 があったので、茶屋ヶ根という地名が残る。
茶屋があったのは、現在の多治見工業という会社の一角らしい。
このあたりが 東町 で、ここから宿場が始まる (右写真)
細久手宿は海抜420mの尾根の上にあり、山が迫り、街道の両側に家が並んだ細長い集落で、細久手という名はぴったりである。 中山道開道と同時ではなく、慶長十五年(1610)になって追加された新宿である。 尾張藩に属していて、山村氏の知行地であったが、
宿高は無高という貧しい宿場だった。 宿場の長さは三町四十五間(約408m)、両側が
狭まった土地に、本陣が一、脇本陣が一、問屋が二、旅籠が二十四軒、総戸数六十五軒の家がひし
めいていた。 寛政年間に編纂された 「濃川徇行記」 によると、 「細久手は(宿高)無高
なれば第一往来の助力を以って渡世とす 」 と記されていて、宿場の総戸数65軒に対する
旅籠24軒という割合から見ても、宿場に対する期待は多かったといえよう。
人口が二百五十六人の宿場は、田畑もない土地だったため、宿場で生業をたてていたわけだが、
その旅籠も小規模だったので、飯盛り女で客足を止めさせたことは容易に想像できる。
坂を下る途中に、廃校になった 日吉第2小学校 の記念碑がある (右上写真)
なだらかな坂は右にカーブしているがそこを過ぎると、南西に向かって家屋は直線に並んでいる。 道の右側に高札場跡の木柱があり、奥の一段高いところに、庚申堂が見えた。
のぼりが翻る庚申堂(こうしんどう)へ上っていくと、正面に石仏群があり、左にお堂があった。 庚申堂からは、宿場が一望でき、江戸時代には客ひきの声や馬のいななきなど活況を呈していた宿場の雰囲気が感じとれた (右写真)
石仏群はなかなかおもしろかった。 石仏群を丹念に見てまわったが、古いものでは300
年前のものもあったし、石室に入っているのもあった。
涅槃姿の石仏には 「享保五年道行十五名」 とあり、文政以降は庶民が講をつくって旅に出たことに比例し、馬頭観音も増えたことがここに祀られている石仏からも窺うことができた (右写真)
歩いていて気がついたが、4軒に1軒は更地になっている。 地元に産業がないため、若い人が都会へ出て行って戻らないため、親が亡くなると空き地になる状況になっているのではと、思った。 そういえば、古い家はほとんど残っていないのも、古くなっても修理されずに壊されてしまったのだろう。
その中で健在なのが、現在も旅館を営む大黒屋である。 ここは旅籠でありながら、
「 尾張家定本陣 」 を務めた家である。 卯達(うだつ)を挙げた建物から上段の間が残る客間まで、当時の雰囲気を色濃く残している (右写真)
安政の大火後に建てられたとあるので、約140年という古さである。
大黒屋の前には、公民館があり、公衆トイレや駐車場があった。 車で来られたらここに駐車
して歩かれるのがよいだろう。 石に刻まれたレリーフは子供の絵だろうと思うが、
愛宕神社のお祭りが描かれてあった。
その先には、本陣や脇本陣が建っていたのだが、本陣跡には民家が建ち、脇本陣は空き地になっていた。
きょろきょろしながら歩くと、道の奥に土蔵があった(右写真)
漆喰や黒く塗られた倉は多く見かけるが、藁と赤土で塗りこんだままの倉は最近は見かけなくなったが、ここには残っていた。
宿場のはずれは南町となっていて、その先で、右左にカーブし、日吉愛宕神社前が宿場の出口のようである。 あったという間に宿場の見学は終わった。
平成16年3月