御嵩宿は、徳川家康から中山道で最初の宿場と認める 朱印状 が与えられた宿場である。
江戸時代は宿場町と蟹薬師の門前町として賑わっていたが、明治に入り、中央本線が土岐川沿いに建設されたことや川運がなくなったことから人の移動がなくなり、御嵩宿としての機能はなくなっていった。
秘仏・蟹薬師を祀る願興寺や「臥竜」と名付けた石庭のある愚渓寺は一見に値する。
細久手宿を出て少し行くと、右手に道標がある。 これは東海自然歩道の道標なのだが、
「 右は本道、直進は平岩への近道 」 と書いてあるだけなので、東海自然歩道の道案内
とは気がつかない書き方である。 旧中山道は直進すればよいのだが、知らないと右折
してしまうところだった。 東海自然歩道と中山道は同じコースのところもあるが、このよう
に違うところもあるので、注意が必要である。 旧中山道は車が優に一台通れるのだが、
左右に林が迫っていて、少し圧迫感を感じる道である。 歩いていると、くじ場跡という
石碑があった。
道が下って行くあたりに、江戸時代には出茶屋があったようである。
坂を下ると、左側からきた車道と合流し、少し先で四左路になった。 平岩という集落で、
ここは平岩辻である。
交差点には、 「 南 まつのこ、 おに岩道、西 つはし、 みたけ道」
と書かれた道標と開元院の石標があった(右写真)
東海自然歩道の標識もあり、そこにも開元院とあったので、どのような寺か?、寄り道する
ことにした。
地名の由来になった平岩は、百メートルほど行った左側の八幡神社の崖面にあった。
平岩は横にすだれ上になった大岩だか、その生い立ちは分からなかった。
開元院までの道のりは約八百メートル。
前述の東海自然歩道を歩いてくると、開元院の前に出てくるはずである。
この寺は鷹巣山開元院といい、永享十一年(1439)、土岐頼元が建立した曹洞衆の寺で、敷地も広く建物も大きかった (右写真)
紅梅が満開の時期だったので、建物に映え、けっこう美しかった。
写真を撮りのんびりし、先程の四辻まで引き返したが、一時間くらい時間をかけてしまった。
平岩辻を直進し、坂を上る。 振り返ると、平岩集落が一望できた。
途中から、左に入る細い道があり、角に 秋葉坂の道標 があった。
坂は秋葉坂と呼ばれていたようで、少し登ると、秋葉三尊と呼ばれる石仏群があった。
二百年余り前に建てられた穴仏三尊で、三つに分けられた石室の中に、一体づつ安置されている(右写真)
坂道が多いこの街道を歩く旅人は旅の安全をここで祈願したことだろう!!
上りきったところに家があり、そこの犬にはかなり吠えられた。
ゆるやかにアップダウンの続く道に変わり、林の中を歩いていく。
道祖神と刻まれた石碑を過ぎ、切られ洞の石碑を越えると、鴨之巣(こうのす)一里塚である。
石標には、江戸から九十三里、之より京へ四十一里とあった。
左右の塚は地形の関係から同じ位置に置くことができず、北側の塚が東側に十六メートルずらされている。 二つの塚とも残っていた (右写真)
ここから下り坂になった。 かなり険しい坂で、「 ふじあげ坂 」 という名。 このあたりが御嵩町と瑞浪市の境か?
下りたところが、津橋(つばし)集落で、家数は多い。 盆地になっていて、これまで
歩いてきたところと違い、開けた土地である。 真っ直ぐ歩き、右側の熊野神社を横目
で見ながら、車道を横切ると、中山道/御殿場の標識に出逢う (右写真)
これに従い、細い坂道・諸の木坂(もちのきさか)を上る。 坂の脇には数軒の家が
あり、坂の下にある田畑にでて農作業をしていたが、春に備えての準備なのだろう。
軒下で竹を割っていた人がいたので、何をするのかと思い、尋ねると、「 竹炭を作るのだ 」
という。 竹細工かなあ??と思っていたが、以外だった。 そういえば、竹炭や竹を焼い
た時でる木酢液が人気という時代である。 「 このあたりは竹藪が多いですね! 」 と質問
したところ、 「 竹が利用されなくなったので、竹が増えて困っている。 」
と、話してくれた。
確かに竹林が多いところである。
竹林の中に観音堂があるらしいのだが、気が付かず通り過ぎてしまった。 最初の家の手前に、阿弥陀佛などの文字が刻まれた石碑があり、上に登っていく道があったので、その奥にあったのかも知れない。 ここから1kmほどの登りがきつかった。 登りきった峠を物見峠というが、右側の高台に休憩できる場所があった (右写真)
昔、皇女和宮や大名もここで休憩したという場所で、 御殿場 といわれる。 街道が賑わったころはまわりを刈り込んで整備され、今より見晴らしが良かったのかも知れないが、東の方に多少開け、山並みがちらっと見えるだけだった。
峠を過ぎると急な下りになる。 このあたりは、旧謡坂村で、尾張藩・千村氏の知行地であったところである。 しばらくすると、自動車道路と合流し、レストランや牧場があるところにでた。 更に歩くと、 唄清水 があった。 清水の傍に句碑が立っていた (右写真)
千村平右衛門が、 「 馬子唄の 響きに波たつ 清水かな 」 と、唄ったことから、 唄清水 と名付けられた。 旅人はここでのどを潤して精気を取り戻したのであろう。 今は汚れてしまって、飲むことができないのは残念である。
その先には、 一呑(ひとのみ) の清水 というのがあった。 皇女和宮も賞味され
大変喜ばれた 、といわれるもので、岐阜県の名水百選にも選ばれている。
旅人にとって、このように数ヶ所あった街道脇の清水は貴重だったことだろう。 そういえば、ペットボトルで簡単に水が飲めるようになってそれほど時間は経ってない。 我々も数十年前の旅では江戸時代に近い体験をしたものである。
やがて車道は右にそれて行くが、旧中山道は真っ直ぐ行く。 右側に 十本木一里塚 が現れた (右写真)
説明によると、「一里塚には一里毎に榎(えのき)が、十里毎には松を植えられていた。」という。 松や榎が植えられていたことは知っていたが、木の種類で里程が違うことは知らなかった。 一里塚は旅人にとって歩いた距離を測るコンパスのような役割を果たす大切なものだったわけである。 明治維新で中山道の宿駅制が廃止された結果、この一里塚は明治
四十一年、明治政府により一円五十銭で払い下げられてしまった。 現在のは、昭和四十
八年、地元の有志により、元の場所近くに復元されたものである。 このあたりは、 立場茶
屋が
あった場所であるが、あった場所は分からなかった。 古い農家の廃屋があったが、
それが茶屋となんらかの関わりがあったのかは不明である。
やがて、謡坂の石畳の道に出た。 坂は急で、予想した以上に長い道だった (右写真)
旅の人々がこの坂を登るのがきついので、 「唄を歌って疲れを忘れ、自分を鼓舞した」
ことから、「 うたいさか 」 という名になったといわれている。 「 谷合の狭い坂道 」 を うとう
というので、「 うとうさか 」 が 謡坂 になった という説もあるようである。 どちらの説にせよ、
大変な坂であることには違いがない。 敷石の間に枯葉が入り、層をなしているので、滑り
そうで怖い。 下りるのにかなり神経を使った。 それでも江戸からは下りなのでまだ良い。
京側からだと登るのが大変な坂で、元氣づけるために歌を唄ったということが実感できた。
中山道は坂を下り、宮石集落に入るのであるが、坂の途中にマリア像の案内がでていた。 マリア観音などの隠れキリシタンの遺跡を想像し、寄ることにした。 右の道に入る。
道はぐるっと回り、右側の方へ二百メートルほど歩いた坂道に白いマリア像があった。
古いものを想像していたのだが、最近建てられたものらしい (右写真)
その奥に、墓のようなものがあるのを見付けた。 かたわらの説明文によると、
「 尾張藩主・徳川君山が宝暦六年(1756)に編纂した濃賜志略に、「七御前址は謡村にある。 古き五輪塔、あるいは古樹あり。 しかれども、その由来分からず。」という記述があり、ここには、書の通り、古い樹が生え、五輪塔が多数あったが、その由来は分からないままだった。 昭和五十六年(1981)、道路工事による五輪塔移転が行われた際、地下から数点の十字架を彫った自然石が発見され、仏教墓地を利用したキリシタン遺跡であったことが分かった。 」 と、ある (右写真)
私が目にしているものは五輪塔でまさしく墓地である。 このあたりには隠れキリシタンが多
くいて、幕府からの処罰を怖れ、密かに信仰を続けていたらしい。
御目当てのキリシタン
遺跡である十字架を彫った自然石はここにはなかった。 白いマリア像は地元の有志が
七御前遺跡発見を記念し、遺跡址に建てたものということで、木曽路にあった マリア観音
のようなものではなかった。
その近くに、正岡子規の句碑が建っていた (右写真)
これは、子規が松山に帰郷の旅で記した「かけはしの記」によるもので、それには
『 つぐの日天気は晴れたり。 暫くは小山に沿って歩めば山つつじ小松のもとに咲きまじりて
細き谷川の水さらさらと心よく流る。 そぞろにうかれ出たる鶉足音を聞きつけて葎(むぐら)より
葎へ逃げ迷うさまも興あり。
当地上郷村にて、
「 撫子(なでしこ)や 人には見えぬ 笠のうら 」
の一句を残して、伏見宿へ向かう。 』 と書かれている。
気候も良く、浮かれて出てきた鶉(うづら)が人の足音を聞いて、逃げまどう様が目に見える
ような句である。
葎(むぐら)は雑草のことで、この場合はナデシコのことだろう。
元の道には戻らず、車道を下る。 宮石集落を過ぎた、右側の崖の中腹に耳神社があった。
けわしい階段を登っていく。 下の石の鳥居は大きかったが、上にある社殿は予想に反して、
小さく質素なものだった (右写真)
耳神社 というネーミングがユニークなので興味を感じた。
社殿の前には、変なものがいくつかぶら下がっている。 なにかと思ってよく見ると、
何本もの錐(きり)を紐(ひも)で結び、すだれのようにしたものだった (右写真)
下に降りて、あらためて神社の説明板を読む。
「 この神社は全国的に珍しい耳の病気にご利益があるといわれる神社である。 耳の
悪い人は平癒の願をかけ、お供えしてある錐(きり)を1本借りて耳にあてる。 病気が
全快したら、その人の年の数だけの錐をお供えする。 奉納される錐は本物でも竹などで
真似てつくったものでもよい。 紐で編んですだれのようにして奉納する。
戦前には、名古屋からもお詣りがあった。 」 と、あった。
元治元年(1864)、武田耕雲斎が尊皇攘夷を掲げ率いた水戸天狗党がここを通った際、
神社の幟(のぼり)を敵の布陣と錯覚し、刀を抜いて通った、という話も伝えられている。
神社の下の道脇に観音像が1体あったが、馬頭観音だろうか? (右写真)
これには、嘉永年間 の銘が刻まれていた。
坂を下った所が西洞(さいとう)の集落。 そこで、車道から別れ、右側の細道を登って行く。
途中に、寒念仏供養塔 が右側の石室の中にあった。 江戸時代、旅する人は小石を
拾い、
明和弐年に建立された仏像に供え、旅の無事を祈ったという (右写真)
すぐに下り坂になるが、この坂はさいと坂、別名 牛の鼻かけ坂 という坂である。
「 牛がここを通るときに自分の鼻を地面にこすって、鼻が傷つき欠けてしまうほど急な
坂道である。」 ということからその名がついたというものだが、距離は短く、あっと
いう間に下り降りて
しまった。 短い区間だが、たしかに急坂だった!!
下りた一帯は、一面、田圃で穏やかな田園風景に変わった。 田圃の脇に、道標がある。
道もなだらかになるので、くねくねした山裾の道を行く。 およそ十五分歩き、国道21号に
向かって歩く。
このあたりを井尻といい、国道にでる手前には、和泉式部廟があった (右写真)
「 和泉式部は、平安時代を代表する三大女流歌人で、又、恋の多い女性としても有名
である。 波乱に満ちた人生を歩んだ彼女が東山道を旅し、御嵩で病にかかり、鬼岩温泉
で湯治をしたが、寛仁三年(1019)、この地で没した。 」 と、伝えられる。
石碑は古く、かなり大きいもので、まわりを柱で囲い屋根で覆っており、石碑の右肩には
「 寛仁三乙未天 」 とあり、左に、彼女の歌が刻まれていた。
「 ひとりさへ 渡れば沈む うき橋に あとなる人は しばしとどまる 」
中山道は、国道に吸収されなくなっているので、国道をしばらく歩くと、左側に入る道がある。
旧中山道で、御嵩宿の江戸方の入口上町に到着する。
(注)
私はこの区間(細久手宿から御嵩宿)は二回に分けて歩いた。
細久手までの交通の便が悪いことと積雪期のため、一回で歩くにはやや不安があったからである。
一回目は平成十六年一月十二日で御嵩宿から逆に津橋まで歩いて引き返した(往復したことになる)
二回目は雪も解けた同年三月二十一日に大湫宿から細久手宿を経由して津橋まで歩いた。
細久手宿の大黒屋に泊まれば一回ですむので、その方が良いだろう。