『 中山道を歩く -  美濃路 (6)御嵩宿(続き)  』




御 嵩(みたけ) 宿

広見線の電車 平成十五年(2003)十二月二十四日、今日は、御嵩宿を見学して、伏見宿に行き、その後、可兒駅まで歩く予定である。 
名鉄名古屋駅から犬山線で可児駅、そこで広見線に乗り替えて御嵩駅に来た。 
可児までは名鉄自慢の特急電車だったが、乗り換えた広見線は四駅しかない短い路線で、旧型の電車が二両しか連結されていないものだった (右写真) 
到着した御嵩駅 (右下写真)は今や廃線になっても不思議でないと思わせる、ローカル線の終着駅を感じさせる風情があった。 
(注)御嵩は江戸時代、御嶽という文字を使用していたが、明治に現在の文字に変えられ
御嵩駅 た。 本来なら、御嶽宿とすべきかもしれないが、上記表示でお願いしたい。
御嵩は中世以降宿場町と門前町として活況を呈していたが、江戸開府と同時に設けられた宿駅制度で、慶長七年(1602)、幕府から中山道の第1号として、宿場の鑑札である「伝馬掟朱印状」を受け、明治まで続いた。 ここから大井宿までは八里ほどの山道が続くので、それに備えた旅人の宿泊地として重要だったからである。 また、可兒川と木曽川の合流点で、中世から願興寺の門前町として栄えたところでもあった。 
天保十四年に編纂された中山道宿村大概帳によると、家数は六十六軒、本陣は一、脇本陣も一、旅籠は二十八、問屋場、高札場などからなっていた。 
木曽街道御嵩宿 浮世絵木曽海道六十九次御嶽宿の絵は木賃宿の夕餉の準備風景である (右写真)
駅からすぐのところに蟹薬師ともいわれた願興寺はあった。
天台宗の開祖、伝教大師(最澄)が布教のため布施屋(宿泊所)を作り、薬師如来像を自ら刻み、安置したのが始めといわれる。 行智尼がその跡に庵を建てて、伝教大師の刻んだ薬師如来を礼拝していたところ、金色に輝く薬師如来像が数千、数万匹の蟹に乗って現れた。 それを伝え聞いた朝廷の勅命により、七堂伽藍が建立され、大寺山願興寺として、美濃国各地より信仰されるようになった、という寺で、寺の誕生からユニークである。  
(注)本尊体内に、「蟹の背に乗って現れた薬師如来像が納められている」ことから蟹薬師、
あるいは、「可兒の地にある寺」ということから可兒大寺と呼ばれる。
願興寺本堂 応仁の乱(1108)や元亀三年(1572)の武田信玄の手勢によるの兵火で、諸堂は炎上したが、本尊はその都度他に移され、焼失の難を免れてきた。 天正九年(1581)、地元民の勧進により、本堂(間口十四間、奥行十間)を始め、諸堂が再建されて、今日に至っているとあり、その後も多くの苦難を乗り越えた寺院である。
山門をくぐって中に入ると、大変広々とした境内である。 正面にはどんと構えた本堂があった。 年末のせいか、参詣者もなく、しーんと静まりかえっていた(右写真)
(注)最近の調査では、 掘りだされた古瓦からして、寺の創建は更に百年古い ともいわれる。
本堂より鐘楼を見る 階段を上がり、回廊からお参りしたが、内部は暗くなんにも見えなかった。 ご本尊の薬師如来座像は、子年の四月一日にのみ開帳されるという秘仏である。 その他にも、多くの仏像が残ると聞くが、国宝級の仏像は、昭和三十年に建築された霊宝堂に全部収納されている。そうなると、本堂にはなにが祀られているのだろうか? それで御利益があるものだろうか?など、罰当りなことを考えてしまった。 重要文化財に指定されている仏像は、現在は、団体客(事前予約が必要)しか、拝めないのは残念である。  本堂の右手奥の鐘楼なども趣があり、広い境内ではゆったりした時の流れを感じることができた(右写真)
平安期開創の古刹で、何回かの火災を経験したが、由緒のある佛さんだったので、みんな
の手で守られてきたのは素晴らしいこと。  くれぐれも火災を出さないよう祈って、寺を後に
した。 なお、境内に建つ「蟹薬師大寺山願興寺略縁起」碑文は巻末参照。
商家竹屋 御嵩宿は細久手宿から山中の道を経て、人里を歩くなだらかな道に移っていく平地にあり、国道(旧中山道)と合流する江戸方の上町から京方の願興寺までの四町五十六間(約540m)である。 御嵩富士(小さな山)の南側に東西に細長く伸びた家並みで、可児川が南側に流れている。 先程おまいりした願興寺は宿場の西端にあたり、宿場特有の鈎の手になっていたようだが、鈎の手は残っていなかった。 その先の左側に、「中山道御嶽宿商家竹屋」と表示された見学できる建物があった (右写真)
江戸時代の豪商の家で、主屋は明治十年(1877)頃の建築と推定されるもの。 
商家にふさわしい質素で風格のある造りで、江戸時代の建築様式を色濃く残す建物とし
て、平成九年に御嵩町指定有形文化財に指定された。 
中山道みたけ館 御嵩宿には本陣、脇本陣や旅籠は一つも残っていなかった。 明治の濃尾地震で東濃地方は大きな被害を受けたというからそれで無くなったのかも知れない。 中山道みたけ館駐車場とその裏にある野呂家の屋敷一帯が本陣だったところである。 野呂家の門構えは古く、囲む塀が堂々としていた。 古文書も残っているという。  中山道みたけ館(右写真)は地区の公民館であるが、2Fは、ジオラマになっていて、中山道御嵩宿の紹介もしている。  中山道に関する知識や豊富な資料を見ることができた (しかも、無料で)
例えば、御嵩宿宿並絵図。  絵図によると、宿面の出入口には、宿場内が見通せないように カギの手(枡型)が設けられていたことがわかる。 
古い構えの家 宿内には七十二軒の家があり、本陣・脇本陣各一、旅籠屋二十四、旅籠屋兼茶屋五、木賃宿三のほか、茶屋二、床屋一、豆腐屋二、質屋一、その他商家三、残りの二十九軒は百姓屋であった。  宿場の人口は600人を超えたようであるが、これから木曽路に向う旅人や蟹薬師にお詣りする人達が泊まっていたのだろう。  少しの間、江戸時代を想像していた。 
その先(東側)にも、古い構えの家が数軒残っていた。 いずれも間口が六間以上もある大きな建物で、塗込壁造りの家もあった。  二階は袖壁がついた造りになっていた (右写真)
宿場の雰囲気が残っていたのは、このあたりだけで、あとは新しい町並みに変わってしまっていた。  
上町 郵便局も普通のビルで、そこだけが少し人と車で込んでいたが、この通りを見渡しても、印刷屋やクリーニングぐらいで、商店や食堂は見付からなかった。    国道は町外を通過していくので、車の通りは激しくなかったが、道巾が狭く駐車するスペースがなかった。
これではお客を呼び込めない。  国道に合流する御嵩宿江戸側入口まで歩いた後、引き返した (右写真)
中山道みたけ館の奥に進み、国道に出たところにケーキと喫茶の店があったので、
ケーキと暖かいコーヒーを飲み、一服してから、この宿をでることにした。
外は木枯らしが吹いていた。

(ご 参 考) 蟹薬師大寺山願興寺略縁起
『 弘仁六年(815)、天台宗の開祖、伝教大師(最澄) がこの地で布教の折り、布教のための布施屋(宿泊所)を作り、そこに薬師如来像を自ら刻み、安置したのがこの寺の始め。  その後、正暦四年(993)、一条天皇の皇女で得度名 行智尼 が正室庵を建てて住まい、朝夕 伝教大師の刻んだ 薬師如来 を礼拝していたところ、長徳弐年(996)寺の南西1kmほど離れた尼ヶ池より、不思議なことに金色に輝く薬師如来像が数千、数万匹の蟹に乗って現れた。  行智尼はこの薬師如来像を丁重に迎え、大師の刻んだ薬師如来像の腹中に納め、大切に信仰していた。  その出来事が朝廷に達し、大変有り難い出来事であるとして、勅命により七堂伽藍が建立されることになり、 大寺山願興寺 として、美濃国各地より信仰されるようになった。  本尊の体内に、 蟹の背に乗って現れた薬師如来像が納められている ことから、 蟹薬師 、あるいは、 可兒の地にある寺 ということから 可兒大寺 と呼ばれるようになった。 
薬師如来 その後、応仁の乱(1108)の兵火により諸堂炎上したが、本尊は他に移され焼失の難を免れた。
正治元年(1198)、時の地頭 纐纈源吾盛康 の尽力により復興し、旧観に復すことになった。  その後、願興寺は荒廃したが、盛康の子、康能が復興し、嘉禎三年(1237)、大般若経600卷の修復も行われた。  しかし、元亀三年(1572)武田信玄の手勢により、火が放たれ、諸堂は炎上、多数の寺宝が焼失する悲劇に晒されたが、幸いにも寺の北方にある臨済宗の名刹・愚渓寺の僧侶等の手により、本尊の薬師如来を始めとする諸仏像は運び出され焼失を免れた。  天正九年(1581)地元民の勧進により、本堂(間口十四間、奥行十間)を始め、諸堂が再建されて、今日に至っている。  寛永弐年(1625)には徳川幕府から寺の領地として100石が与えられ、益々発展した。 』

願興寺の本尊、薬師如来を始め、24体の仏像は、大正三年、国宝に指定されると共に、奈良美術院により仏像の修復が行われた。 文化財保護法の制定に伴い、国の重要文化財にも指定されている。
屋根を修復した”本堂”も昭和六十一年に重要文化財の指定を受けている。

なお、今回の稿は細久手宿〜御嵩宿の歩きで二回、伏見宿〜御嵩宿の歩きで一回、都合三回で完結した。 一回で済ますには細久手で泊まって歩くのがよい。

(御嵩宿 平成15年12月)
 (細久手〜御嵩の一部 平成16年1月)
 (細久手〜御嵩の残り 平成16年3月)


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かうんたぁ。