『 中山道を歩く -  美濃路 (8)太田宿  』


太田宿は、飛騨街道や郡上街道との追分として栄えてきた町である。 
尾張藩の代官所が置かれ、落合から鵜沼までの東美濃を支配していたが、明治の文豪坪内逍遥は
尾張藩の役人である父を持ち、太田代官所の一角で生まれたのである。
また、木曽川の流れを日本ラインと命名したのは志賀重昂である。




伏見宿から今渡へ

上恵土交叉点 平成二十三年五月二十五日、伏見宿から今渡の渡し場跡まで歩いた。  七年前、中山道を歩いた時、上恵土交叉点から今渡までは古いものや石碑などは何もないというので、上恵土交叉点から県道122号を歩き、名鉄新可児駅に出たので、 この区間は歩かなかった。 中山道を歩き終えてみると、未歩行区間があるのは気になって、歩くことにしたのである。  上恵土交叉点の左側にあるGSの角に、 「左多治見及犬山ニ至ル約四里」 「御大典記念」 「右太田渡ヲ経てテ岐阜市ニ至ル約九里」 という大正四年(1915)設置の 道標がある (右写真ー上恵土交叉点)
上恵土交叉点を出て三百五十メートル程歩くと、右側に 「新四国第八十六番札所」 の石柱
上恵土神社 があり、その奥にお堂が建っている。 ここは東濃に多い弘法堂の一つである。  そこから百メートル行くと右側に上恵土神社と書かれた標柱と常夜燈があるが、鳥居には 「 諏訪 神明 神社 」 と二つの神社名が標記されている (右写真)
また、少し入った参道の脇には神明神社の標柱が建っている。 上恵土の地名誕生は明治七年(1874)に天領だった新村、本郷村、上野村、前波村が合併して、上恵土村が誕生したことに始まる。  明治二十二年に尾張藩領だった比衣村と伏見村に上恵土村が合併し、伏見村(昭和二十四年に町になる)となった。  明治の終わりに神社統合令が出て、同一集落には神社が一つにするよう命令が出た訳であるが、その際、当地にあった神明社に他地区に
上恵土地蔵堂 あった大きな氏神の諏訪神社が合祀されたのだろう。  また、その他の神社は境内にある小さな祠に祀った。 それら全体を総称する神社名は地域名になった上恵土を採用したが、諏訪神社と神明神社の氏子はそれを良しとせず、それが鳥居にある文字になった理由ではないか?   神社を出て国道を歩くとすぐにスクエアエアアクアの前で、横断歩道を渡る。  国道の反対側にある三叉路に入り、工場の脇を通り、南に歩いて行くと、可児御嵩バイパスの手前に上恵土地蔵堂がある (右写真)
お堂の中にはお地蔵様伊賀にも沢山の石仏が祀られていた。  なお、手前の畑地あたりは兼山城主・森長可により攻め滅ぼされた、上恵土城址のようである(表示はなかったが・・・・)
一里塚跡兼道標 国道に戻って歩いて行くと、アサヒフォージの先で国道は左にカーブしていくが、中山道はそのまま直進して、坂を下っていく。  ここから可児市になる。 右側の岐阜トヨタ可児ボデーサービスセンターの前を通り、上って行くと再び国道に出た。  そこから約一キロ歩くと左側にヤマダデンキの建物が見えてくる。  右手のラッキープラザと国道の間に地下道の入口があるが、その角に一里塚跡兼道標が建っていた (右写真)
道標の三面に 「京・今渡の渡し・太田宿」 「中山道一里塚の跡 これより約30m東」 「江戸・伏見宿」 とあった。  なお、この道標は最近設置されたもので、七年前にはなかった筈である。   中恵土交差点の左右は県道64号で、左折すると可児市役所の脇を通り、多治
可茂中央市場 見に出る。 中山道は直進するが、右側を見るとm下には低地が続いているので、国道は丘陵地の上を通っていることが分かる。  江戸時代の中山道もこうした味気ない原野を歩いていったのだろう。   川合口交叉点からは下り坂になり、愛知用水を越えったところで、右手に可茂中央市場の建物が見えてきた (右写真)
可茂公設市場交叉点で、国道と分れて、右へ入っていき、 左に廻るように可茂中央市場の建物に向かって、道なりにすすむ。  市場の敷地は思ったより広く、市場の外柵を三百メートル位歩くと可茂中央市場パッキングセンターがあった。  道端には外来種の黄色い花が群がって咲いていた。 そこを過ぎるとJR大多線の中仙道踏切に出た。 
今渡神社の鳥居 踏切の手前の右側には辞世塚と書かれた石碑群があった。  踏切を渡ると今渡地区に入る。 左側に可児人形の看板を掲げ、光峰作とある建物があった。  右側の高いところに 「御料地松下 開墾記念碑」 と 「北辰開運大菩薩」 の碑があった。  七百五十メートル歩くと、住吉交差点に出たが、ここを右折して進むと、新太田橋がある。  七年前に太田宿を訪れた時利用した橋であるが、今は太田橋が利用できるようになっている。  五百メートル位歩くと右側に今渡神社の鳥居が建っていた (右写真)
今渡神社の由来は書かれていなかったので分らないが、社殿は道から二百五十メートル程奥にあった。  今渡は、江戸時代には野市場村と金屋村に分かれていたが、ここは金屋村
浅間神社 だったので、その氏神だったのだろう。  境内には金毘羅神社、御嶽神社、覚明霊神の石碑が祀られていた。  社殿の奥は道を挟んで木曽川が流れていた。  江戸時代、住吉交差点から太田橋あたりが今渡の立場で、太田の渡しを利用する旅人で 賑わったというところである。  今渡地区センター南交差点を左へ行くと、名鉄日本ライン今渡駅があるが、中山道は直進する。  少し歩くと右側に富士浅間宮の幣額のある赤い鳥居の浅間神社があった (右写真)
その先は直進する道と右にカーブする道に分かれる三叉路で、直進する道は東山道(古い中山道)である。  中山道が出来た当初は、土田の渡しから対岸の祐泉寺へ渡っていた。 
太田橋 時代と共に木曽川の流れが変わり、渡し場は今渡りに移っていき、最終的には現在の太田橋の西百メートルの所になった。  右にカーブする道を行くと太田橋に出る (右写真)
この下の「今渡から太田宿へ」の編には、太田橋は歩道がないので、新太田橋に廻ったと 書いている。  七年前に当地にきて、太田橋を渡ろうとしたが、道幅が狭すぎて危険なため、上流の新太田橋 に廻った。  今回訪れると、橋の右側に歩行者と自転車のための専用橋が新設され、太田橋も色を塗り 替えられ、きれいになっていた。 通りがかりの人の話では、 「 高校に通う生徒が近く なった上、自動車の心配をせずに安心して渡れると好評です。 」 ということだった。 
道の角には 「 西へ京 今渡の渡し場跡 東へ江戸 」 の新しい道標ができていた。 
今渡の渡し場跡碑 江戸初期までの渡し場とそれ以降の渡し場の変遷を  「 中山道の三大難所の一つにうたわれた太田の渡し 南側渡し場(今渡の渡し場)は川瀬の変化と共に上流に変更され、最終的には現太田橋下流付近となりました。  明治三十四年に鉄索(ワイヤー)を用いた岡田式渡船となり、昭和二年には太田橋の完成とともに役目を終えました。  (以下略) 」 を記した石碑があった。  又、「 木曽のかけはし 太田の渡し 碓井峠がなくばよい  とうたわれた 中山道の難所の一つ 」 と書かれ、 下に渡しの様子が描かれている 「 中山道太田の渡し 今渡の渡し場跡 」 の石碑があった (右写真)
太田の渡しは対岸太田側で、伏見側は今渡の渡しという。  「 太田橋のすぐ下流の今渡
今渡の渡し場跡 神明弘法堂の下には渡し場に通じた石畳が今も残されています。 」 と書かれていたので、 道を少し戻り、左に入る小路を木曽川に沿って下りると右下に弘法堂が見えてくる。  弘法堂の脇を下に降ると、今渡の渡し場跡の標柱と案内板が建っていた (右写真)
案内板には、木曽川が出水する度に船止めになったので、今渡地区の宿屋や茶屋などが繁昌したこと、 渡しの変遷について、鎌倉時代の東山道時代は土田地区からの渡しで大井戸の渡しと呼ばれたこと、 江戸中期までは土田の渡しだったが、江戸後期頃から中山道の渡しは今渡地区に移された。  その後も土田の渡しは続いたことが書かれていた。 また、明治十四年の渡し賃は人と車は一銭二厘、牛馬と荷物は車は二銭四厘だったことも知った。 
石畳は橋の手前までは残っていて、対岸には太田の渡し場も見えた。
(注)江戸時代、尾張藩の官道として、名古屋城と伏見宿を結ぶ上街道 があり、尾張徳川の殿様は上街道で土田宿そして今渡に出て、中山道で伏見へ出ていた。 
上街道の詳細は上街道をご覧ください。 

今渡から太田宿へ

日本ライン今渡駅 平成十六年一月二十八日、今日は名鉄広見線日本ライン今渡駅から太田宿を見て、鵜沼宿に行き、犬山駅まで歩くつもりである。 今渡駅はかってはライン下りの客で賑ったが、ブームがさり、その面影がなかった (右写真) 
駅前を北に向かい、陸橋を越えると今渡交差点である。 左折してすこし行くと、太田渡し跡 である。  江戸時代、太田渡しの船着き場があったところであるが、今はその旨の表示だけしかなかった。 
更に、数キロ行けば、江戸時代初期に宿場だった 土田(どだ) に行けるが、あきらめた。 
今渡神社 国道248号はトラックがびゅびゅう行き交う道になっていて、このあたりは、 静かなただずまい といいがたい場所に変身していた。  太田渡しの北側に架けられた 太田橋 は昭和になってできた橋である。   旧中山道を歩く人には人気のある橋だが、道幅が狭く、大型トラックがスピードをあげてすれ違う様子を見ると、歩くのは危険に思えた。  しばらく様子を見ていたが、歩く人は一人もなかったので、私は歩くのを諦め、上流の 新太田橋 に向った。  この道は旧中山道で、このまま北上すれば、前回歩いた伏見宿への道(国道)に合流する。 左側に、 今渡神社 があった (右写真)
美濃川合発電所 少し先の交差点が住吉。 交差点を左折し、新太田橋に向かう。 
新太田橋は道幅が広く、がっちりした橋で、車が多くても、安心して渡れた。 
心配した歩道も片側だけだが、しっかりしたものがあった。 
橋の上流はダムでせき止められ、2つの発電所(今渡発電所と美濃川合発電所)が対峙している。 (右写真は、ダムと美濃川合発電所)
橋の下流(左下写真)は、日本ラインと呼ばれる名勝地で、川幅は大変広く、雄大で、先程歩くのを諦めた太田橋も見えた。 
木曽川/日本ライン 江戸時代には、徳川尾張藩の領地を保護するため、美濃側の堤防を低くしたとあるが、今も変らないのだろうか?  橋を渡りきると、正面にスーパーマーケットが見える。 
交差点を右折し、川合方面に向かって歩く。 
美濃川合発電所上流には鉄橋があり、近くに、美濃川合駅(無人駅)があった。 
JR太多線だが、多治見駅と美濃太田駅を結んでいる単線で一時間に二本程度走っている。  江戸時代以前の渡しはこのあたりにあったというのだが、探してもどこにあったのかが分からなかった。 
石碑群 道を戻り、太田宿を目指す。  美濃川合発電所入口近くに、 石碑群 があった。 
巡礼碑や馬頭観音などだが、花が手向けられているのを見ると、墓地かなあとも思えた。  民家の一角にあったので、その家と関係があるのかも知れない (右写真)
御門町交差点を左折すると、正面に見えるのが先程の太田橋。 
沢山の車が橋に入り、また、出てくる。 狭い道なのにスピードを落とさない。 
橋の手前には、 ライン下り乗船センター がある。  経営が苦しい名鉄はライン下りと鵜飼いを辞めることにしたが、地元の犬山市と美濃加茂市が引き継ぐことになったと、 新聞にのっていたが、今日は休みのようだ。 
太田の渡し 右側の河原に下っていく。 途中、無造作に置かれてある小舟は、鵜飼いの舟のようである。 
化石林公園と表示がある。 私が持っている地図には、 木曽川緑地ライン公園 とあったが、名前がかわったのか?  河岸に近づくと、太田の渡しがあったことを表示する案内板があった。  江戸時代末期の慶應年間から昭和初期まであった太田の渡し跡である (右写真)
当時をしのばせる川石を敷き詰めた石畳の道である。  なお、慶應年間以前の江戸時代の渡し場はもっと下流にあった、 という。 当時の川巾は八十五間(約155m)。 水深が深く、流水が速く、出水が多かったので、渡し舟は時には下流に流された、と説明にあった。 
渡しの風景 『 木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい。 』 と、うたわれたように、旅人にとって、木曽川を越える 太田の渡し は、中山道3大難所の1つだったようだが、 今日の川の流れは緩やか。 悠然と流れているので、木曽川が急流だったことや、「渡船が流されて下流に着いた」という話は想像できなかった。  冬で水が少なかったこともあるが、ダムができたことの効果が大きいのだろう。  太田の渡しは、昭和弐年(1927)に太田橋が完成し、廃止された。  渡し場跡には廃止される前の渡し場の様子の写真がある碑があった (右写真)
化石林公園から木曽川沿いの堤防の上に遊歩道が続いている。  川沿いの整備された道は、厳密には旧中山道ではないと思うが、地元のパンフレットでは 旧中山道 と記載されていた。  十分ほど歩くと、右手に 文化会館 が見えてきた。 ここには、トイレがある。 
神明堂交差点 その奥には、 可茂総合庁舎 と 加茂警察署 があった。  中山道は文化会館で下りずにその先の丁字路で右折する。 近くには 神明水神 の碑がある。  川沿いにこのような水神を祀る碑が多くあるのは、洪水による被害や水難者が多かったことを意味する。 
突き当りの交差点が神明堂で、神明弘法堂からの地名である (右写真)
右折した左側には道標があり、 左飛弾高山右東京善光寺 とあるが、旧飛弾街道の追分である。  東京 の文字があることを見ると、明治時代以降に建てられた碑であろう。 
江戸時代は古井(こび)村だったが、今は美濃加茂市の一部になっている。 
天才画家・岡本太郎の父、 岡本一平 は、戦時中に白川町に疎開。 
その後、古井町に移住し、ここで急逝した。 

太田(おおた)宿

太田本町入口 神明堂交差点の信号に脇に 太田本町入口 と表示された道に入る (右写真) 
左側の米屋の店先には、水車が回っていた。 ようこそ、セピアの散歩道へと、 案内パンフレットには書いてあったが、古い家並みが残っていた。
民家の前に 太田町/古井町 の木札があり、 太田宿/御嵩伏見宿の石碑 が建っていた。  江戸時代、宿場の東側の入口は、 新町木戸 だったと資料にはあるが、新町木戸跡がどの あたりなのか表示がないので分からない。  標記の木札で江戸時代の太田村と古井村の境が分かったので、木戸もこのあたりに あったのだろうと推定した。
漆喰塗りの商店 太田宿は伏見宿から二里(約8km)、鵜沼宿まで二里ちょっと(約9km)で、江戸から 五十一番目の宿である。  天明弐年(1782)、尾張藩は、太田代官所を設け、恵那から鵜沼まで統括したが、太田宿は 東濃地方の行政・文化の中核として栄えた。
しかし、平成の今日、時代に取り残された商店街という雰囲気になっていた。 
老舗が多く、右写真のように漆喰壁に卯達をあげた立派な建物の呉服屋さんもあるのだが、 駅から遠く、駐車場もないという感じなので、客はなじみだけに限定されているような気が した。 
太田宿は、東西六町十四間(約680m)の長さに、五百五人の人が住み、百十八軒の家が 並び、
太田稲荷 上町、中町、下町に分れていた。 
江戸方から入ると、最初にあるのが、上町のはずれにある 太田稲荷 である (右写真)
社(やしろ)の境内には、 志賀重昂 と、 播隆上人 の墓碑があった。 
志賀重昂は三河国(現愛知県岡崎市)に生まれで、地理学者・思想家で足跡は世界に及び、「日本風景論」で知られる学者であるとともに、国粋主義者でもあった。 
木曽川の風景を日本ラインと命名したのも彼である。 播隆上人は日本アルプスの槍ヶ岳に
初登頂し開山したことで有名だが、槍ヶ岳に登頂後、脇本陣に泊まったが、病にかかり、
播隆上人墓碑 この地でなくなり、ここに埋葬されたことは知らなかった (右写真)
その他にも、石碑や馬頭観音など道中往来の安全を祈った石仏や庚申塚などが並んでいた。 
旧中山道はここで枡形になっていて、 秋葉神社 で直角に曲がり、更に直角に曲がっている。 
祐泉寺 は、龍興山祐泉寺といい、臨済宗妙心寺派の寺院で、新美濃西国第二十七番の札所 である。 
先程の太田稲荷もこの寺に所属し、地続きになっている。 
寺伝では、文明六年(1474)、湧泉庵が始まり、寛文年間に現在の名称になったとある
祐泉寺 五百年の歴史があるお寺で、本尊は 滝場観音 と呼ばれる聖観音である。 
(写真左側の建物が滝場観音堂で、右側が本堂)
本尊は7年毎の御開帳の時にしか、拝むことができない秘仏である。 また、この寺には、 帯解地蔵 もある。  本堂の前には、 北原白秋 の歌碑があった。 
昭和七年十一月三日に即吟したもので、
   『   細葉樫  秋雨ふれり  うち見やる  石燈籠の  青苔のいろ  』
北原白秋といえば、詩人という思いこみがあったので、短歌に出会い、正直驚いた。
その隣には、小説神髄を書いた坪内逍遥の歌碑があった。
大正十一年の冬に詠まれたもので、椿二首である。
芭蕉句碑    『   山椿  咲けるを見れば いにしへを 幼きときを 神の代をおもふ   』
   『 この木の実  ふりいし事し しのばれて  山椿ばな ないとなつかしも  』
ふるさとの椿の木を愛していたといわれるので、上記の歌にはその気持ちが詠われていた。
鐘楼の近くに、芭蕉が貞亨弐年(1685)、甲子吟行で詠んだ句碑が立っていた (右写真)
    『   春なれや  名もなき山の  朝がすみ  』
美濃路にも春が訪れ、木曽川の水が霞になって、近くの山をうっすらと隠してしまった。 
暖かくなった風景をさりげなく詠っている句である。
太田稲荷と祐泉寺では歴史の重みと作品をじっくり味わった一時であった。
このあたりが宿場の中心地区である。
旧旅籠小松屋 寺の隣には、 旧小松屋(吉田家) という小休憩所を兼ね、今でも住んでおられる家があった。  江戸時代に十八軒あったという旅籠の一つで伊勢参りの客で賑わったらしい (右写真)
大正から戦前までは煙草の元売りを営んでいたというが、ほとんど手を加えていない状態にあるという。  一階に、六畳間二部屋、八畳2部屋、二階にも数部屋あるが、奈良井宿の旅籠にと比べるとやや小ぶりか。
小松屋を出ると、右側に老舗の造り酒屋があった。  御代桜 という銘柄の酒を出している酒屋で、杉玉が吊されていた。 黒壁の古風な酒蔵が印象深かった。 
脇本陣/林家住宅 左手の 旧太田脇本陣林家住宅 は、国の重要文化財になっている。
「 林家は、太田村の庄屋と尾張藩勘定所御用達を務めた。 また、質屋や味噌、醤油の製造販売も営んだ。  主屋は明和6年(1769)に、表門は天保弐年(1831)に建てられた古いもので、修復しながら、代々林家の住宅として利用されてきた。 』   とあり、今回、隠居屋が国重要文化財に追加指定を受け、修復保存の工事が行われていた。  建物の西端には 妻卯建 が建ち、表門を含め、存在感のある景観であった (右写真)
槍ヶ岳開山を果たした播隆上人は帰途、この宿で病に倒れ、天保十一年に没した。 
林家では死を悼み、下町の弥勒寺に葬り、後年、弥勒寺廃寺の後、寺と墓を上町の
本陣表門 祐泉寺 に移した。 また、岐阜で襲われ暗殺された 板垣退助が前夜泊まった宿でもある。 予約制なので、内部は見られなかったが、一度見てみたいと、思った。
御代桜酒造の先に、 本陣跡 がある。  本陣(庄屋も兼務)は、福田家が代々勤めたが、明治時代に壊され、その跡に旧太田町役場が置かれた。  今は住宅に変わり、全容を見ることができない。 ただ一つ残るのが、表門である (右写真) 
文久元年(1861)十月、皇女・和宮 が下向したときに建てられたもので、元は西正門だったが、東門のあった現在の場所に移築されたもの。  一間の薬医門(本柱が門の中心線より前方に置かれている門)で、両袖に半間の塀が付く格式のあるつくりである。 
道標 北端には外堀があり、さらに北二十二間には垣をめぐらしていたというから、その壮大
さは想像できる。 左折して、川に向かって歩くと、 長屋門がある家(坐馬家) がある。 
その先に、江戸時代には木曽川の舟と材木の管理と監視を行う、川並番所があった。 
今は標識杭が立つだけである。 となりの下町には、高札場が置かれたが、今はその面影
はない。 少し行くと、辻があり、 道標がある (右写真)
この道標だが、少し変わっている。 片面に、 右 関上有知 、左 西京伊勢道 と
刻まれており、もう片面には、右側に、名古屋市、左側に伊勢道、と刻まれていた。 
明治になって造られたものと思うが、それとも、それ以前に創られたものに追加した
ものだろうか?
虚空蔵堂 ここにも 枡形 があり、辻を左折、次を右折する。 突き合ったあたりに廃寺になった
弥勒寺 があったという。 真っ直ぐ行くと、左側に質素な 虚空蔵堂 がある。 
太田宿の西(京方)の入口(木戸)があったところである。  承久の乱古戦場 で、別名、
大井戸の戦い があったところでもある (右写真)
明治の文豪 坪内逍遥 は、少年時代虚空蔵堂を遊び場に過ごした。  後年になって、昔を懐かしみ、夫婦で訪れた堂裏のムクの木は今も健在である。
街道の北(右手)にある 太田小学校 は、尾張藩の 代官所 の跡地である。  代官所の支配は鵜沼〜落合の各宿に及び、石高で五万六千石あったという。  その先の木曾に入ると、福島代官所の支配になるので、今の行政区画では 東濃 と呼ばれるところほぼ全部である。 
坪内逍遙顕彰碑 隣の加納藩とほぼ同じ石高だったので、代官所の力はすごかったわけである。  坪内逍遙 は、 代官所手代 の坪内平之進の子息として生まれ、 代官所のなかにあった屋敷で十一才まで過ごした。  江戸時代の 勧善懲悪 という小説手法を批判し、自然のままを描くことを説いた 小説神髄 を発表。  その実践編である、 当世書生気質 を著した、近代日本文化の先駆者である。  小学校の校舎に、逍遙の資料を集めた教室 「山椿の部屋」 がある。  また、学校の北側にある小公園には 坪内逍遙の顕彰碑 が建っている (右写真)
中山道は、校庭の南側の道を西に向かい、突き当たりで左折すると深田神社に出るが、
太田宿はここで終わりである。
 
(ご 参 考) 旧太田脇本陣林家住宅
林家は、太田村の庄屋と尾張藩勘定所御用達を務めるかたわら、質屋や味噌、醤油の製造販売を営んだ。
享保年間に大火あった後、主屋は明和六年(1769)に、表門は天保弐年(1831)に建てられたものである。 主屋は間口二十一間(38m)奥行二十二間(約40m)で、上段の間や書院が当時の面影を残す。 その後、いくたびかの洪水に荒らされ、修復を重ねながら、代々林家の住宅として利用されてきた。  これらの建物は「旧太田脇本陣林家住宅」として、国の重要文化財になっている。 今回、隠居屋が国重要文化財に追加指定された。
槍ヶ岳開山を果たした 播隆上人 は帰途、この宿で病に倒れ、天保十一年没した。
また、岐阜で襲われ暗殺された 板垣退助 が前夜泊まった宿でもある。
週2回位、時間を決めて公開しているが、予約が必要である。

(ご 参 考) 坪内逍遙
坪内逍遙は、代官所手代の坪内平之進の子息として生まれ、代官所のなかにあった屋敷で11才まで過ごした。 明治維新で、明治二年、父親が失業し、名古屋に一家で移ったが、商家出の母の影響を受けて、演劇などに興味を持って育つ。 東京大学卒業後、東京専門学校(現、早稲田大学)の講師になり教壇に立つ。
江戸時代の「勧善懲悪」という小説手法を批判し、自然のままを描くことを説いた 小説神髄 を発表。 その実践編である、 当世書生気質 を著し、 早稲田文学 を創刊した。 


( 伏見宿から今渡 平成23年5月)
( 今渡から太田宿 平成16年1月)



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かうんたぁ。