太田宿と鵜沼宿の間には、中山道最後の難所ともいわれた「うとう峠」があった。
また、岩屋観音といわれる崖の上にある観音様は江戸時代多くの参拝者を集めた。
鵜沼宿は宿駅制度ができた後に認められた新宿であるが、もともと川湊で栄えたところである。
中山道は、太田宿のはずれにある 深田神社 を出ると、国道21号にでる。
旧中山道は、ここから うとう坂 までは一部を除き、国道21号に吸収され、残っていない。
うとう坂も、厳密に言えば、最近復元されたものである。 従って、中山道を歩くとなれば、
国道を歩くことになるが、大型トラックがぶんぶん飛ばす車道脇の狭い歩道部分をとぼとぼ
歩くのは味気がない。 幸い、国道に平行して、木曽川の堤防上に遊歩道が設置されて
いる (右写真)
日本ラインロマンティック街道 という名が付いた道は歩行者、自転車専用道として整備
されている。 ここからは日本ラインといわれる木曽川の景観や国道周辺が見下ろせ、
大変都合がよい。
この道を歩くことにした。
しばらく歩くと、前方右奥にパジョロ製造(株)の工場が見え、坂祝(さかほぎ)町に入った。 国道に下りて歩く。 パジョロ製造(株)本社工場の近くに、 取組一里塚 があったのだが、今は木杭のみである。 少し歩くと右手に学校が見えてきた。 このあたりが町の中心だろう。 行幸公園 の看板があり、ベンチや案内板とトイレがあった。 堤防道に戻る。 遊歩道の一角に 行幸巌 (みゆきいわ)があった (右写真)
これには、昭和天皇などの皇族や外国から来賓がここで 日本ラインの景勝を愛でたと刻まれていた。
ここが日本ラインで一番見晴らしのよいところのようである。
散歩をしている人達とすれ違うことが多くなった。
犬を連れたり、乳母車を押しての若いカップルもいる。 折角なので、写真を撮ろう!!と河原に下りてみた。 川岸に林立している岩があり、よじ登っていく。
下から見えなかった川が上流から下流まで見渡せた。
水面を見ると、緑の水に光りが反射してきれいだった (右写真)
以前、ライン下りの舟に乗った時、対岸の岩の上から手を振られたが、この場所だったと思った。 遊歩道に戻り、鵜沼に向かって歩く。
しばらく歩くと、道路右側の左斜面に墓地があり、お寺が奥にあるようだが、見えない。
国道に下り、向こう側に渡り国道を歩き近づくと道路の脇に、小さな社(やしろ)があり、
二体の石仏が安置されていた (右写真)
元禄元年の観音菩薩と文化十四年の地蔵菩薩である。 それにしてもなぜ、二体の石仏が街道の脇にあるのだろうか? 奥にある寺とは関係あるのだろうか?
その詮索はともかく、菩薩は街道を旅する多くのひとを見守り続けたのだろう。
小生も交通安全を祈願し、旅を続ける。
勝山交差点には、道標が残っており、 右江戸善光寺/左せきかじ とある (右写真)
関の孫六などの刃物で有名な関ヘの追分だが、その先に、立派な道ができ、今はメインルートではない。 また、遊歩道に戻り歩く。
川の辺に、 勝山湊の跡 があった。
関などの近隣の村から集められた年貢米や人の輸送に使われた湊だが、川の流れが変わってしまい、今は陸地になっていた。
遊歩道の脇には、太田宿でも見た 水神石碑 や小さな社もあり、水害から守ろうとする気持が残されていた。
太田から歩いてきた日本ラインロマンティック街道は少し先で途切れ、終わりになっていたので、階段を降り、国道の向こうに出る。
道の脇に、 勝山神明神社御跡地 と刻まれた石碑があった。 約二百メートルほど歩くと、
閉鎖されたボーリング場前の三叉路にでた。 右折すると,関に行く新道である。 小高い山
には、 猿啄城祉 があるが、城といっても砦のようなものだったのだろう。
川は少し遠ざかっているが、道は曲線を描いて進んでいく。
少し行くと、高山線のトンネルの上に 岩屋観音 がある。 以前ここを歩いた人達が、
「 落石の危険のため立ち入り禁止!! 」 と、書いていた場所である。
お参りできないと思いこんでいたが、幟が立ち並んでいる (右写真)
登り道があったので、登っていくことにした。
落石に注意!! とあるが、特に問題はないようである。
金網越しに国道と木曽川が見える (右写真)
大きな石碑には 岩窟観世 と刻み込まれていた。 木曾路名所図会に、「 勝山窟観音、
木曾川の西傍にあり、 大巌の中に石像の観世音を安置し、 傍より清泉流れ出づる。
このあたりの風色いちじるしくして岩石崔嵬たり。 他境にすぐれて奇絶の所なり。 」
と、あるもので、この坂を巌屋坂と言っていたようである。 登るほどに見晴らしは
良くなり、木曽川の景観がパロラマで見えた。 水の色は冬の色のため、やや黒い紺色
をし冷たさを演出しているが、浅瀬にいくとスカイブルーに変わり、飛沫の白がアクセント
を付けていた。
上から見下ろすように撮ったが、写せる場所がなく、アングルにかぎりがあり、苦労した。
坂を下りまた登ると、お堂の前に出た (右写真)
社(やしろ)は新しいもので、地元の努力で整備されて、お詣りが可能になったようだ。
階段の脇や崖の下に、奉納した金品を記した、江戸時代の石柱が並んでいた。
奉納した金品の中に、京の飛脚問屋数軒連名で奉納一両というのがあった。
職人の手間賃が何文という時代に、一両(現在の価額で、六十万円)というのは、破格
である。 太田宿は地元だから当然として、名古屋や京阪方面からが多いのは以外だった。
崖下の洞窟の中に観世音が祀られていた。 小さな石仏だった (右写真)
賽銭をあげお詣りをすました。 階段を降り、国道21号線に平行している道にでる。
これが、旧中山道の難所の一つ、観音坂 である。 今は一部しか残っていない。
このあたりが、各務原市と坂祝町の境界のようである。 少し歩くと、飲食店が並ぶ
ところにでた。 現在は、国道が木曽川の縁を平気で走り去って行くが、江戸時代には
この先は絶壁だった。 また、山を越えた方が距離が短いので、中山道はここから山越えしていた。
明治二十二年に、木曽川べりを通る現在の国道21号が鵜沼便道として開通すると、人やものの流れが変わり、いつの間にか、旧中山道はほんの一部を残し、消滅してしまったのである。
各務原側からの道は、比較的残っていたようだが、坂祝側の道はほとんどなくなっていた。 特に、高山本線のトンネル付近では、鉄道と国道によって寸断されていて通れる状況ではなかった (右写真)
今から十年程前、この森が、生活環境保全林 日本ラインうぬまの森 として整備されるこ
とになったとき、旧中山道を復元させようという動きにより復活されたので、うとふ峠を越えることができたのである。
国道を直進すると、貞照寺前の交差点で、左折すると、貞照寺がある。 貞照寺は、木曽路の三留野宿で紹介した女優貞奴が、昭和8年に開山したお寺である。
旧中山道に入るには川側に並ぶ飲食店の最後にあるカフェテラスゆらぎというお店が目印である (右写真)
店の駐車場横の階段を小さな川へ降りていくと、谷川が流れていて上に国道が走る。
谷川に沿って小道があるので、国道の下をくぐりて反対側に出る。
竹林になっているが、そこからが山道になっている。
これが中山道最後の難所ともいわれた うとう峠 通じる道である。
国道と平行する高山本線が小さなトンネルを抜けた下辺りである。
森の中を歩くこと約1km。 日陰には雪が残っており、凍っているところもあるので、転ばぬ
よう注意して歩いた (右写真)
季節が良ければ、深い緑や小鳥の声に囲まれた心地よい道だろうが、1月ではそれは
期待できない。 整備されている道なのでどんどん歩く。 散策路になっているので、
枝分かれした道があるが、迷うことはない。 休憩所をすぎると、 うとふ峠 である。
その先は短いが、石畳の道になった (右写真)
うとう峠と鵜沼宿との間は十六町(約1.8km)の山坂で、長坂、天王坂、塞の神坂
などの険しい坂が続き、その総称として、うとう坂と呼ばれていたようである。
うとうとは、疎(うとい、うとう、など)で、「不気味が悪い」「不案内」などの意味が考え
られる、 と説明板にはあった。
すぐ先の右側にはうとう峠一里塚 (右写真)
石組みした台の上に木柱が立っていた。 傍らの説明によると、
『 一里塚は左右2つあり、直径9m、松の木が植えられていたが、片側だけが残り、
残り巾10m、高さ2.1mになってしまった。 』 とあり、後のこんもりした盛土
が一里塚なのだろう。
復元された中山道はこの先のうとう峠と書かれた標示のところで終わり、車道と合流した。
公園の施設があるが、寄らないでそのまま車道にでて、坂を下った。
鵜沼は各務原市の一部になっているが、高度成長時代に名古屋や岐阜のベットタウン
になった。 山の高台であるこのあたりも緑苑台として、多くの住宅が建っている。
合戸池には鴨がいて、自転車でエサをやりにきていた人に出会う。 池の端で二股になって
いるので、右の道を行く。
このあたりは鵜沼台で、右側は崖になっていて、下には多くの住宅が建っていた (右写真)
ここからは各務原市内が一望できた。
やがて、正面に犬山城も見えてきた。 急坂である。
下っていくと、右手の小さな林の中に大きな 馬頭観音碑 と 馬頭観音像 などが並んでいた。
東見附の石仏群 といわれるものである(右写真)
住宅地のなかで、そこだけは、タイムスリップしたかのようだ!!
近くで道路工事していた人は私の写真を撮る姿を好奇の目で見ていた。
この先の赤坂神社まで行けば、鵜沼宿へ到着である。
(ご 参 考) 中山道の変更
うとう峠に中山道について興味のある説明板があった。
「 開道当初の中山道は 各務原 から木曽川を渡って、犬山の 善師野 (いるか池附近)を通って、 可児(土田宿) に抜ける道筋であった。 慶安四年(1651)、鵜沼の山沿いを通り、 うとう峠 を越えて 太田に至る道に付け替えられた。 」 というのである。
犬山経由のルートの方が平坦で歩きやすかったはずなので、幕府の「江戸に容易に近寄らせない」という意図が感じられる。 或いは、「徳川尾張藩の中をできるだけ通さないようにする」という幕府の配慮(陰謀?)があったのかも知れない。
この道の変更で太田宿の土田宿が廃宿になったことは先に述べた通りである。 どちらにしても道を変えられた旅人には迷惑な話だっただろう。