鵜沼宿から加納宿までは四里十町と長かったので、途中の新加納に立場茶屋がおかれた。
加納宿は四千人を越す人口をかかえた美濃十六宿最大の宿場で、徳川家康自ら指図したと
いわれる加納城の城下町であった。 また、隣の柳ヶ瀬には商業が盛んな岐阜町があった。
平成十六年(2004)一月二十一日、本日は名鉄新鵜沼駅から鵜沼宿に戻り、岐阜市の加納宿まで歩く予定である。 鵜沼宿から加納宿の間は、四里十町(約17km)あるが、旧中山道がかなりの区間で残っている。 前回訪れた鵜沼宿のはずれの 空安寺 から出発した。 このあたり
は、 羽場集落 で、古くから栄えた所らしく大小の古墳が散在するところである。 少し行くと、右手に 津島神社 があった (右写真)
このあたりから、急に車が多くなってきた。 消防署を過ぎると、左から国道21号が現れて三差路になり、合流してしまった。
次の十字路は、南に進めば百メートルで名鉄苧ケ
瀬駅である。 右折して、約五百メートルほどの距離にある岐阜県新八景第一位に選ばれた
苧ケ瀬(おがせ)池 に行ってみることにした (右写真)
「 桜が舞い、水蓮が池を敷きつめ、紅葉があたりを染め、雪と霧で水墨画の世界を
もかもしだす四季折々のおがせ池のたたずまいは、人の心をひきつける。 池は周囲約2キロ、池の中に浮かぶ社殿には、この池の守り神・八大龍王が祭ってあり、多くの人々の信仰を集めている。 」 と 、傍らの案内板にあったが、縁をコンクリートで固めた、農業用水に使われているため池のように思われた。
正直いって少しがっかりである。 池の周りを歩いて行くと、 八大竜王慈眼寺 があり、
さらに北に行くと、 八大白竜大神神社 があった (右写真)
その先には、薬王院 がある。 ここから3km離れた大安寺川上流にある大安寺の末寺である。 大安寺は美濃国守護・土岐頼益が開基し、墓所がある寺で、苧ケ瀬池にまつわる龍女伝説が伝わるとある寺である。 もとの道を戻り、国道を歩く。
ここから名鉄三柿野駅付近までは、旧中山道は国道に吸収されているので、国道を歩
かなければならない。 少し行ったところが山の前一里塚だが、エッソのスタンドあたり
であるが、今はなにも残っていない。 JRを越え名鉄越えたところが各務原。
各務台地は水利が乏しいため江戸時代は原野が広がる寂しいところだったといわれ
るので、旅人は荒涼とした荒野を歩いていったのであろう。
第二次世界大戦前、陸軍が各務原飛行場を開いたので、岐阜県や愛知県の学生が、戦時中、学徒動員で働かされたところである。
現在も航空機製造会社や航空自衛隊岐阜基地などがある。 ブルーエンジェルスの航空ショーが行われたところであるが、イラク派遣第一陣になったことで記憶に新しい。
空き地が多かったこの地域も今や工場やカーデーラーそして商店などが雑然と立ち並んでいた。 大型トラックが多く走る上、見るべきものもないので、国道をひたすら歩くだけだった。
(右側の街道絵図は後述する江戸時代の新加納付近のものである)
三柿野を過ぎると、六軒駅の手前で国道は左に曲がって行くが、旧中山道はまっすぐ進む。
分岐点から七十メートルほどのところに、 六軒一里塚 があるが、今は木柱がたっているだけ。
各務原市役所を過ぎ、JR那加駅、名鉄新那加駅がある駅前を通り、西野町交差点の先の5差路をななめ右方向に入っていくと、江戸時代の新加納村で、名鉄の新加納駅があった。 新加納村は旗本の坪井氏の領地だったが、 鵜沼宿から加納宿までは四里十丁(約13km)あったため、旅人が休息できる立場茶屋が設けられ、間の茶屋ともいわれた。
歩いて行くと右側に日吉神社があり、古い家も残っていた (右写真)
立場茶屋があったのは日吉幼稚園があるあたりのようである。
その先は三叉路になっていて、道標と新加納立場茶屋の案内板があった。
絵図で見ると、右上にある二軒の奥の方が日吉神社で、その先は枡形になっていて、当時は三叉路の右側の道はなく、左の道を直進すると、高札場があり、ここを右、左と直角に曲がっていく鉤型になっていた。
また、絵図からは新加納一里塚は案内板のあるこの場所の対面にあったと思えたが、右写真の空き地あたりのような気もした (右写真)
一里塚の跡にあるはずの木柱は見付けられなかった。
絵図では枡形の前後に小池屋、塚本屋など数軒の茶屋の名前が書かれている。
また、高札場の裏側(中山道から見ると奥)に少林禅寺や東光寺などの寺があり、旗本坪内氏の屋敷もあったように描かれている。
案内板の近くにあった道標には、「 右京道、左木曽路 」とあり、左側面には「 南かさ松 」と刻んであった。
絵図にあった少林禅寺(右写真)と善休寺に寄ったが、建物は当時のものではなかった。 新加納は短い区間だったがひっそりとした町並が残っていた。
ここから暫くは田舎の雰囲気を残したところを歩く。 以前歩いた人達は家並みが切れていたという表現だったが、今は道の両側に家が繋がり、集落を造っていて、新しい家が増えていることが分かった。
東海北陸自動車道の下をくぐり、車道にでた。
高田橋を渡った先で、手力雄神社の案内があったので、旧中山道は道なりに行けばよいのだが、寄り道をする。 江戸時代の木曾路名所図会には、 「比奈守神社・加納より高田・新加納の間、長柄村にあり。今手力雄社といふ。 延喜式内なり」と書かれている神社で、貞観二年(860)の創立と伝えられ、美濃国神名帳記載の「従五位下手力雄明神」に当てられた由緒ある神社である (右写真)
祭神の手力雄神は、天照大神が岩屋に隠れたのを怪力で大岩の戸をあけ、天照大神を
下界に連れ戻したと伝えられる神である。 毎年4月の第2土曜日に盛大な「手力の火祭り」が行われる。
氏子が担ぐ九つの御輿が境内に入ると、高さ二十メートルの御神灯に次々と点火され、爆竹が響き、滝花火が御輿を担ぐ裸男に降り注ぐという、迫力満点の祭である。 平成二十一年に御鎮座1150年の記念の歳になるらしい。 境内は広かった。
境内から西方に参道が続いており、歩いていくと中山道に合流した。
手力雄神社の鳥居の左側に、 手力雄神社石標 と傾いた 左木曽路と刻まれた道標 があった (右写真)
岐阜市内に入ったこともあり、車の通行は増えてきた。
江戸時代に切通陣屋があったところである。
切通 (きりとおし)とは、北方にある金華山麓の岩戸一帯の滞留する雨水を境川に落とすために行った工事から由来している。
その先には伊豆神社という小さな神社があった。 市街地にもかかわらず残っているのが、 細畑一里塚である (右写真)
細畑の一里塚は、鵜沼宿から三里十四町、加納宿からは三十町の地点にある。
五間(約9m)の土手を築き、榎(えのき)が植えられていた。
市街地で両側に残るのは奇跡に近いのでは、と思った。
隣の小高いところにあるのが、八幡神社である (右写真)
由緒を見ると、遠く平安時代に遡ぼり、各務一族が尊崇した社とあった。
その先には、二股に別れた場所があるが、ここが往還北追分である。
往還とは中山道などの五街道に繋がる脇街道のことで、ここでは幕府将軍献上の
「御鮨街道」とよばれた笠松街道を指す。
(注) 後日、岐阜より加納を経由し笠松にでる御鮨街道を
歩きました。
小さなお堂にはお地蔵様が祀られていて、お堂の脇に道標が建っている (右写真)
それには 「 左 伊勢、名古屋ちかみち 笠松へ一里 」、「 右 西京 加納へ八丁 」、
「 右 せき、上有知、郡上道 」、「 右きそ道、左なご屋道 」
と刻まれていて、
左に行くと、川手を経て笠松街道にでる近道である。
(注)上記道標に刻まれた文字にホームページで使用できない外字があった。 笠松と
加納の後の、へ、という文字が、元の字から上部の一を除いた漢字になっていた。
このあたりは領下集落で古い家が残っていた。
東海道線の陸橋の下をくぐると、加納宿の入口にあたり、高札場があった、 と伝えられる名鉄茶所(ちゃじょ)駅前に出た。
また、茶所駅の踏み切りを越えたところに、 右中山道/左岐阜道 の石碑があった。
少し先の丁字路の左側の建物の前に、道標と石碑があり、 ぶたれ坊と茶所 の説明板があった (右写真)
「 ぶたれ坊とは江戸時代の相撲力士鏡岩浜之介にちなんだもの。 2代目鏡岩は父の職業を継いで力士になったが、土俵外での行いが悪かったことを改心して、妙寿寺(現在は廃寺)を建て、ぶたれる為に等身大の自分の木像を置いて、罪ほろぼしをした。
また、茶屋を設けて、旅人に振る舞ったといわれる。 ぶたれ坊の像は加納伏見町の妙見寺に今もある。 」
鏡岩の顕彰碑には、花が手向けられていた。 隣に立つ 伊勢道道標 には、 江戸木曽路/東海道いせ路 と刻まれていた(右写真)
四差路角の団子屋を右折し、新荒田川に架かる加納大橋を渡る。 川の下流に加納城があり、川の水を引き入れていた。
川面には白鷺が2羽。 そして多くの鴨が泳いでいた。
見ていると、袋を持ったおばさんが現れて、パン屑をまきだした。 橋の上にはいつの間にか、鳩も集まり、すごい騒ぎである。
鴨が多いなあと思っていたが、この人だけではなく、多くのひとがエサやりにくるというから、鴨が多いのも頷けた。
橋には、街道風景が画かれていた (右写真)
(注)岐阜は織田信長が斉藤龍興を追放して、稲葉山城を岐阜に改称した町。
信長の孫、織田秀信が関ヶ原の合戦でやぶれたため、岐阜城は慶長六年(1601)に廃城になった。 江戸時代には、商人の町として繁盛した。
橋を渡ると、加納安良(あら)町。
二つ先の四差路角に、道標があった (右写真)
道標には、左西京 右岐阜谷汲 と刻まれているが、岐阜とあるのは 岐阜道 で、別名、
御鮨街道 と呼ばれた道である。 将軍家へ献上される献上鮎鮨は岐阜町の御鮨所
(おすしどころ)を出発し、この道を通り、笠松問屋まで届けられたので、その名が付いた。
(注) 宿場のあった加納は現在、岐阜市に属するが、江戸時代には岐阜とは別の町だっ
たのである。 加納は岐阜城に替わり新たに築城された加納城の城下町だった。
また、中山道が開道して三十年以上も経った、寛永十一年(1634)に宿場となった
新宿でもある。 宿場の長さは普通の宿の3倍の長さで、宿場の住民は三千人、家数は
八百軒と、美濃十六宿最大の宿場であった。 左折し、進むと秋葉神社が地区の守り神
として祀られていた。 木曽路には津島神社と諏訪神社が多かったが、美濃路では秋葉
神社が多いのはなぜだろうか? 広い道(岐阜東通り)を横断して直進すると、突き当た
りの道脇に東番所跡を見付けた (右写真)
この辺、現在加納柳町という。 今は表示があるだけで何も残っていないが、旅人が宿に
入るのを検問していた場所である。 なお、加納宿には、西と北にも番所があった。
ここで左折する。 突き当たりが、 善徳寺。 ここをまた、左折する。 それにしても、
じくざくに進む鈎型が多い町である。
この先にも鈎型が多い。
宿場に鈎型があるのは普通であるが、このように多いのは珍しい。
城下町ということが影響していたのだろうか?
大通りの手前に商家だったと思われる古く立派な家を見付けた(右写真)
大通りを渡ると、加納新町になる。 大會山専福寺には、織田信長朱印状、豊臣秀吉朱印状、池田輝政制札状などの古文書が残されている。
美濃にも石山本願寺に組みする寺が多く、この寺も例外ではない。
織田信長が、元亀三年(1572)の石山合戦に際し、石山本願寺に加担することを禁じる内容の手紙を送ったが、それが 織田信長朱印状である。
「 同年の合戦では、同寺の僧忍悟が戦死し、顕如より追悼の御書を給わった 」
と伝えられる。 本願寺と信長との駆け引きや攻防があったことが寺のエピソードから実感できた。
寺の本堂などの造りは彫刻も含め、しっかりしたものだが、明治に起きた濃尾地震以降の建立なのだろう (右写真)
この先の右あたりに、 岐阜問屋 があった と、持参のパンフレットに記されていた。
問屋を営んだ 熊田家 のことである。 「 熊田家は、土岐家、斉藤家の時代からこの
あたりの有力者で、信長が岐阜にいたころには加納の問屋役を務めた。 尾張藩から
も将軍家に献上する鮎鮨の継ぎ立てを命じられ、御用提灯が許された。 商人や農民
の荷物の運搬を引き受ける荷物問屋に力を注ぎ、岐阜問屋と呼ばれた。 」 とある、
当時大繁盛した岐阜問屋だが、その痕跡が残らないのは寂しい限りである。
四差路手前の薬屋の看板に 吉文字 とあったが、これは江戸時代の屋号だろう。
交差点は、狭い道なのに左右に行く車が多い。 角に道標があった。 左中山道/右ぎふ
道 と標示されているが、明治初年に 左西京道/右東京道 と道標余白に追加された
という珍しいものである (右写真)
写真に写っている部分は江戸時代中期(1750年頃)に彫られていた部分だが、脇の余白
部分に西京道と細い字で彫られている。 明治維新で都が変わったので、京を西京とした
のは時を感じさせておもしろい。 右に行くのが 岐阜道(ぎふみち)。 前述した通り、
江戸時代には商人の町として繁盛していた。 江戸時代に発行された旅の案内には、
岐阜の名所をかなり詳しく紹介されていたので、加納宿を訪れた旅人の多くが訪れた、
といわれる。 土岐源氏の発祥の地とか、油売りから城取りをした 斎藤道三の逸話とか、
織田信長が斉藤氏から城を奪って 岐阜 にした などいろいろな話が、旅人の興味を惹き
つけたことは、想像にかたくない。
また、長良川の河運が盛んで、取引量も多く、富める商人が輩出する、商いが賑わう町としても有名で、全国から多くの商人を集めた町でもあった。
交差点を左折すると、それほど大きくない川に出た。 清水川 という川で、大正時代までは ガマ と呼ばれる地下湧水が存在していた。 加納清水町 の名もこの川の清水からである。
広江橋が架かるが、橋の手前左奥に幟が立っていた。 入って行くと、お堂があり、一部民家風になったお寺があった。 江戸時代に建立された 水薬師寺 である(右写真)
「川で泳いでいた人が黄金の薬師像を拾ったのを、藩主夫人、 亀姫 (徳川家康の娘)が
聞いて、川中に 水上殿 建てた」のが 水薬師 である。
加納には、その他にも、亀姫縁(ゆかり)の場所として光国寺や盛徳寺がある (巻末参照)
橋を渡った左側、民家の前に、 高札場 跡の表示と「 加納宿では、加納城大手門前の清
水川沿いのこの場所に高札場が設けられ、宿御高札場と呼ばれた。 この高札場が加納
藩の中では一番大きく、石積みの上に、高さ3.5m、巾6.5m、横2.2mもあるもので、正徳元年(1711)から明治維新まで使用された。 」とある説明看板があった。
そういえば、茶所駅の手前にも、高札場があったようであるので、加納藩は、村毎に高札を掲げたのだろう。
道なりに進むと大通りに出た。 広小路である。 加納城の北側にあたり、大手門があったところである(右写真)
大通りを渡るための陸橋登り口に、加納城大手門跡と表示された大きな石碑が建っていた。
東西に広がる大通り一帯は江戸時代、士屋敷を形成していたとあり、明治維新後、加納役場があったらしい。
旧中山道は、大通りの一つ手前の狭い道を右折する
のだが、折角なので、加納城祉に向かうことにした。
城に行くには、交差点の陸橋を渡らないといけない。 陸橋の上から、左側に、鉄筋コンクリートの高い建物の岐阜大学付属小学校・中学校が見える。 前を通ると守衛が立ち、厳重な警戒である。 がらん人気のない校庭と広場が広がっていた。 ここは上級武士屋敷のあったといわれるところである。
少し先に公民館。 そして、 加納小学校 があった。
こちらは自然も多く、ゆったりした感じであった。 特に、煉瓦の校門がシックでよい。
校名看板に、「 岐阜市立 」 の文字の他に、「 岐阜大付属 」 という文字があった (右写真)
不思議に思って、公民館の職員に伺ったところ、 「 加納小学校は、江戸時代の藩校
である。 岐阜大の付属小学校だった時期はあったが、大学が、別に学校を作ってしまっ
た。 」 と、説明してくれた。 岐阜大は自由になる自分の学校を持ちたくて、地元との
係わりの強い学校と手を切ったということか!? 加納城は、徳川家康が関ヶ原合戦後、
大坂豊臣方への備えとして、本多忠勝に命じて、築城させた城である。 荒田川から引き入れた内堀と外堀で囲まれた 水城で、守りを固めた城だったが、名古屋城が出来たことで、城の重要性が低くなっていった (詳しくは巻末参照)
その一方で、加納宿が開設され、また、加納傘などの特産品が加わり、商人町的な要素の強い町に変貌していった。
明治維新後の加納宿について、「 加納城に出仕していた侍や出入りしていた商人は、廃城により、ここを去り、北の 旧岐阜町 (柳ガ瀬付近か)や東京などに移転してしまった。
」 と、教えてくださった。
加納城の本丸だったところは空き地になり、わずかに本丸の石垣を残すだけになっていた (右写真)
城下町へ姿を変えていった。
その後、中山道の宿場町として繁盛した加納宿だったが、
明治維新の廃藩置県で、明治4年、城が廃城になり、翌明治五年〜六年に城が取り壊され、
さらに、宿駅制度もなくなることで、北にある岐阜町に商人は移り、やがて、岐阜町に指導
権はとられてしまい、加納町は斜陽化して行ったのである。
大手門跡の旧中山道まで戻り、街道を歩く。 この先の町名は加納本町といい、加納宿の
中心だった。 街道の左側にある、二文字屋といううなぎ屋は、元和六年(約380年前)に
旅籠を開業した老舗だが、戦災にあったため、建物は残っていない (右写真)
左甚五郎が泊まって彫ったという 餅をつくウサギ の欄間は残っているという。
加納宿には、旅籠が三十五軒あったが、その一軒である。
また、本陣が一、脇本陣が一あったが、その先の民家の前の木柱に、当分本陣跡とあり、
左側に
明治天皇御小休所跡とあった。 当分本陣とは聞き慣れない言葉であるが、
『 幕末の文久三年(1863)、参勤交代の制が緩和され、大名の妻子の自由帰国を許可
された。 その結果、中山道の通行が増え、本陣と脇本陣だけではさばききれなくなった。
臨時に増やした本陣が当分本陣である。 加納宿では、宮田家と三宅家が務めた。 』
とあった。 幕府も臨時に本陣を増やしたという訳である。 大通り(桜通)を横断して、
旧中山道が続く。 右側のモダンな民家(青木氏)の入口に、皇女和宮の歌碑と本陣跡の木柱が建っていた。 皇女和宮は、文久元年(1861)十月二十日、京都を発ち、十月二十六日、加納本陣の松波籐右衛門宅に宿泊した。 その時の姫君の心細い心情を詠まれた歌が宮内庁書陸部所蔵の 「 静寛院御詠草 」 に収められているが、その句を 姫街道開通400年記念行事 として石碑にしたというのである (右写真)
『 遠ざかる 都としれば 旅衣 一夜の宿も 立(たと)うかりけり 』
少し行った右側の駐車場脇に木柱があり、 西問屋跡 とあった。
西問屋は、加納宿の問屋で、西は 河渡宿 から東は 鵜沼宿 までの人馬の継ぎ立てを職務とした。 万治元年(1656)に松波氏が任命を受け開業している。 駐車場奥には、 松波医院 と看板のある古い家があったので、末裔の方かも知れない。
脇本陣は、 加納天満宮参道 と交差する角にあったようであるが、石碑が建っているだけで、なにも残っていなかった。 その角を右折し、 加納天満宮 に向かう (右写真)
美濃国守護代斎藤利永が沓井城(後の加納城)を築いた時に天神を城の守護神として祀ったのが始まりと伝えられる神社。 徳川家康が加納城築城の際、城郭内になるので
現在の場所に移した。 社殿は戦災で消失し、戦後に再建されたものである。
加納藩の侍や宿場の庶民を始め、旅人にも尊敬を集めたことだろう。
天満宮の右側に
慶長年間の創建とある玉性院 があり、張り子の大きな赤鬼が立っていた。
大手門の大通りにも交通安全と書いた ばかでかい鬼 が立ち、 つりこみ祭 の宣伝をしていたので通りかかった人に聞くと、 『 厄男を赤鬼にして、御輿に乗せ、厄女をお福にしたて、御所車に乗せ、町内をねりあるき、厄払いをした後、本堂で厄払いをする。 』 と、いう祭で、戦後から始まったというから、50年くらいの歴史らしい (右写真)
岐阜駅の南口に至る広い道路(岐阜停車場・城南線ー栄町通り)を越え、五分程歩いたところに、秋葉神社があり、横に西番所跡の標識があった。 ここで、1.4km続いた加納宿は終わった。
加納宿には、江戸時代当時の建物は一つも残っていない上、街道らしい雰囲気も消えていた。
濃尾地震と岐阜の戦災ですっかり姿を変えてしまったからだろうが、少し寂しかったですね!!
夕闇が迫ってきたので、名鉄岐阜駅まで歩き、電車で
帰宅した。
本日は鵜沼から岐阜市加納までの十八キロを歩いた。
(ご 参 考) 岐阜問屋
熊田家は、土岐家、斉藤家の時代からこのあたりの有力者で、信長が岐阜にいたころには加納の問屋役を務めた。
尾張藩が将軍家に献上する鮎鮨の継ぎ立てを命じられ、御用提灯を許された。
将軍家へ献上される献上鮎鮨は岐阜町の御鮨所(おすしどころ)を出発し、岐阜問屋を経由し、当時、鮨街道と呼ばれた、現在の加納八幡町から名古屋に向かう道を通り、 笠松問屋 まで届けられた。
一方、この地方は江戸時代に入ると、「加納傘」をはじめ商工業が盛んになり、全国から岐阜に入る商人が増えた。 問屋は、商人や農民の荷物の運搬を引き受ける 荷物問屋 に力を注ぐようになり、 岐阜問屋 と呼ばれるようになった。
岐阜問屋には種々の特権が与えられたが、それは 献上鮎鮨 が手厚く保護されてきたことによるものであろう。
(ご 参 考) 加納城の歴史
加納城の歴史というか変遷について、調べたことを記す。
加納城は、文安弐年(1445)、美濃国守護代、斎藤利永が沓井城として築城した跡地に、徳川家康が関ヶ原合戦の後、大坂豊臣方への備えとして、本多忠勝に命じて築城させた城である。
城の図面を見ると、 現在の公民館や加納小学校のところには、三の丸。 その対面一帯は厩曲輪であった。
現在の岐阜地方気象台は、二の丸跡。 二の丸は岐阜城の天守閣だった「お三階の櫓」を移築したものと言われる。
この城は独特の構造をしていていて、本丸には、北側の大手門からそのまま入れず、二の丸を経由し、東側の張り出し部分に設けられた門から入るといういう構造をしていた。 また、荒田川から引き入れた内堀、外堀で囲まれた水城でもあった。 初代の城主は、家康の愛娘・亀姫の夫の奥平信昌。 加納奥平家の石高は 10万石だったが、三代目の忠隆が没すると後継者がなく、家名が断絶してしまった。
その後は次々に、大名が替わった。
大久保忠職が、小田原より入ったが、加納の石高は5万石と半分になり、更に、7年間後には、大久保忠職が播磨明石へ転じていった。
戸田光重は石高7万石で加納藩主になるが、その子、光永が相続の際、弟2人に1万石を譲ったので6万石に。
元禄九年(1696)には、城下の大火により、追手門、侍屋敷、町家などが焼ける。
戸田光Xの時、山城の淀へ移つされた。
次は、安藤氏。 これも3代45年間の治世である。
安藤信友は、備中松山より入り、享保七年(1722)老中になる。
享保十三年(1728)の大火により、城下の大半を消失した。 この時、二の丸、侍屋敷が炎上している。
信友が享保十七年(1732)に没すると、孫の信尹が継いたが、宝暦三年(1753)、お家騒動が起きたため、翌年、信尹は隠居を命じられた。 嫡子の信成が、相続したが、1万5千石を減じられ、5万石になり、翌年、磐城平藩に転封された。
その後任として、永井直陳が武蔵岩槻から転じてきたが、石高3.2万石。 ついに3万石になってしまった。
永井尚佐の統治下の寛政十年(1798)に大洪水により、加納城下が大被害に遭う出来事もあったが、6代(直陳、尚備、尚旧、尚佐、尚典、尚服)続き、明治の廃藩置県で廃城するまで、113年間を統治した。
その間、加納藩農民一揆発生や享和弐年(1802)の二の丸御殿新築、御城高塀普請もあったが、明治弐年(1869)、永井尚服が版籍を奉還。明治4年の廃藩置県により廃城となった。
加納城跡には戦時中、陸軍第1航空師団司令部が設けられ、戦後、自衛隊駐屯地になったが、その自衛隊も移転して、設備はすべて壊され、現在の姿になった。
(ご 参 考) 亀 姫
加納には亀姫にまつわる史跡がいくつかある。 時間がなかったので寄れなかったが、興味のある方は行かれるとよい。
1つは、清水川を挟んだ反対側にある 光国寺。 もう1つは、夫・信昌と亀姫の墓がある 盛徳寺 である。
亀姫は、家康と築山御前との間に生まれた娘で、17歳で、奥平信昌に嫁き、4男1女をもうけたが、生涯信昌に1人の側室も置かせなかったという女性である。 夫に側室を認めなかったことは、同時代では考えられないことである。
亀姫が42歳の時に、夫、信昌が加納城城主となったので、加納御前、加納の方と敬愛された。
亀姫とゆかりのある光国寺(加納西広江町)には、葵の御紋がふんだんにあり、亀姫像、着衣、膳、文など、亀姫ゆかりの品が保存されている。
亀姫と信昌の墓は、加納城西方の盛徳寺にある。
平成16年1月
平成16年2月(追加加筆)