伏見宿から河渡宿の途中にある鏡島は、江戸時代には岐阜ちりめんの産地で京都に出荷されていたという。
鏡島弘法として有名な乙津寺があるところでもある。
伏見宿から一里と近いのにかかわらず、河渡に宿場が設けられたのは長良川の増水による川止めに備えたものである。
平成十六年二月二十三日、朝八時に岐阜駅を出発する。 今日の予定は、加納宿の加納本町
から河渡宿、美江寺宿へ行き、時間が許せば大垣市の赤坂宿までいくというものである。
加納宿のはずれである西番所から西に向い、本町通りを歩いていく。
県道岐阜羽島線を越え進んでいくと、東海道本線の高架が見えてきた。 ガードをくぐり、左斜め前方の道を通り、すぐ六差路を直進する。
このあたりは本荘町。 岐阜市は戦時中の空襲により焼け野原になったが、このあたりは焼けなかったというが時代の変遷で急速に変わりゆくような気がした。
大きな道を二つ横断して進むと、 鏡島(かがしま) である。
道はそのまま進むと、天神宮を経て、 河渡橋 にでる (右写真)
江戸時代には橋はなく、舟渡しの方法がとられ、河渡の渡し として、旅人を運んでいた。
しかし、明治十四年(1881)、河渡橋(ごうどはし)が架設され、それにより渡しは終了した。
当時の橋は長さ二百三十三メートル、幅は三.三メートルの木造で、有料橋だった、とある。
(ご参考)江戸幕府の政策で大河川には橋は架けず、人足渡しか舟渡しにより川を渡らせたが、中山道の場合は舟渡しで、人足渡しはなかったようである。
鏡島は、岐阜ちりめんの生産地で、江戸時代には京都へ盛んに出荷していたというから、繊維地帯であった岐阜を象徴する生産地だったのだろう。
中山道から右に少し入ったところにあるのが、 乙津寺 で、大きな看板があった (右写真)
瑞甲山乙津寺 といい、 鏡島の弘法さん として有名な寺である。
本尊の十一面千手観音像は九世紀のものとされ、松の一木造で像の高さは一メートル九センチのもので、頭上に十一の変化面をいただき、四十二の手を持つ。
合掌手を除く、四十手それぞれが二十五界を
救うとして、「 千手観音 」といわれるのである。 (鏡島と乙津寺の由来は巻末参照)
重要文化財の毘沙門天像毘沙門天像は鎌倉時代初期の作で、像高百六十一センチの寄木造、
彫眼である。 韋駄天立像も鎌倉末期の作で重要文化財の指定を受けるが、像高七十九センチの
寄木造、彫眼で、頭上の兜は取外し可である。 韋駄天は走力にすぐれ、速やかに出現して
救済の手を差し伸べたという信仰がある。
(注)毘沙門天は四天王のうちの多聞天のこと。
昭和20年の空襲で、本堂、大師堂、鐘楼等は全焼したが、仏像類は住職が持ち出し、長良川に避難して難を免れた。 これらの仏像は右側にある宝物館に保管されていた。
私はかねがね不思議に思うのだが、ご本尊が国宝や重文の指定を受けると宝物館に保管されるケースが多い。 本尊がない本堂(右写真)でお参りをしてご利益があるのだろうか?と思ってしまうのである。 外国の寺院では絵画や彫刻をそのまま見せてくれるのだが、宗教感に違いがあるのだろうか?
文化財保護という国の指導によるのなら筋近いではないだろうか?? つまらない建物に金を使うなら、こうした寺の防犯施設や防火施設に
金を使って、寺院のある本来の姿で見せるべきと思うのだが ・・・・・・・・・
裏に回ると、 一条兼良の妻・東御方の墓 があった (右写真)
一条兼良<>small>(いちじょうかねみ)は応仁の乱による京都を避け、この地に身を寄せたが、
妻の東御方は、兼良より早い同年正月にすでにこの地に移り、鏡島の乙津寺に寓居
していた。 兼良はその後奈良に移ったが、妻は同行せずここにとどまり、同年冬、
病で亡くなったの
である (巻末参照)
東御方の墓として伝えられる墓は貴人の墓の形式である宝きょう印塔だった。
縁日である毎月二一日は参詣者で賑わうようだが、当日は三人ほどしか参拝者はいなく、
広い境内は
寂寞としていて、社務所の人は手持ちぶさたであった。
寺の裏を出ると、長良川の堤防で、階段に小紅の渡しと書かれている (右写真)
長良川の堤防を登ると、車道になっていて、車が頻繁に行き来している。 葦の茂みから飛び立ったひばりがピーチクピーチクと空で騒がしく啼いていた。 幼少のころの故郷を思い出す一時だった。 葦の茂みの間を抜けて行くと、川べりにでた。
その先に、 小紅(こべに)の渡し があった。 岐阜市でただひとつ残る現役の渡しで、対岸の一日市場に、無料の渡し船が運行され、今でも、縁日には利用者が多いようである。
渡しの名の由来については、お紅という女性の船頭がいた、川を渡る花嫁が水面に顔をうつして紅を直した、紅を採る草が生えていた、等、様々な説がある。
川下の 河渡の渡し が中山道の表街道に対して、 小紅の渡しは 梅寺瀬踏開運地蔵 を
参詣するため立ち寄る旅人も多く、裏街道となっていたのである。
実はこの渡しは県道で、文殊茶屋新田線の一部になっているのである。
向こう側に二隻の舟があるが、船頭はいない。
川の上には小屋が見えるが、係員がいるのかいないのかも分からない。 手を振り、声をあげれば迎えにきてくれると聞いていたが、15分くらい声を張り上げたが、舟がくるそぶりがないので、諦めた。
私の脇にRV車が駐車して釣りをしていたので、仲間に間違えられたのか、平日の十時過ぎだったので、誰も来ぬとさぼっていたのか分からないが、利用できなかったのは残念である (右写真)
月曜は休みであるが、他の日でも小生のように利用できなかった人がいるのだろうか?
しかたがないので、川べりの道を歩いて、河渡橋にいった (右写真)
大正時代まであったかは分らないが、長良川には川湊(かわみなと)があったのである。 鏡島湊は、河渡宿の対岸に面し、下流から遡上する舟により運ばれた荷物をここで陸揚し、加納宿(加納町)や岐阜町や上流地域に馬や牛、人力で運ばれた、という。
そのせいか、このあたりには一日市場、古市場、東市場、中市場など市場のついた地名が多かったようである。
(ご参考) 鏡島と瑞甲山乙津寺
寺伝によると、
『 開山は奈良時代の天平十年(738)、行基が当時孤島だった乙津島に着船し、草庵を結び、自作の十一面千手観音像(国重要文化財)を安置したのが始まり。
その後、弘仁四年(813)に、弘法大師が嵯峨天皇の勅命により来山し、秘法を尽くし天に誓い地に伏し祈祷すること三十七日間、宝鏡を龍神に向けると忽ち滄海変じて桑田となり、孤島であったこの地を陸続きにしたと、伝えられる。
翌年、乙津寺を造営し、この地を鏡島と命名した。
弘法大師は散杖(さんじょう)の梅を、 「 この地に仏法が栄えればこの杖に枝葉も栄える 」 と告げられると、散杖の梅から枝葉が出たことから、「梅寺」とも呼ばれる。 織田信長、豊臣秀吉そして徳川将軍家の信仰厚く寺領五十五石を拝領している。 』
(ご参考) 一条兼良と正室・東御方
一条兼良(いちじょうかねみ)は室町時代の公家で、関白太政大臣に任じられた人物で文化人としても有名である。
兼良は応仁の乱により、文明五年(1473)五月、京を離れ、美濃国守護代・斉藤妙椿の招待で、革手(現・岐阜市川手)を訪れ、長良川で鵜飼をみて、鮎を賞味したり、
正法寺でご馳走を振まわれた。 兼良の正室・東御方は、兼良より早い同年正月にすでにこの地に移り、鏡島の乙津寺に寓居していた。
乙津寺は、当時真言宗で、京都の御室御所(仁和寺)が住職を兼務し、老後は乙津寺の住職を専任していた。 兼良は幼年時代の友であった住職を頼って身を寄せ、東御方を預けたようである。
兼良はその後奈良へ移ったが、東御方は奈良には同行せず、鏡島にとどまったが、同年冬病で亡くなった。
河渡橋は思ったよりも長かった。 橋の右側(北方)に小さく見える三角錘のような小山は金華山で、その頂には岐阜城が霞んで見えた (右写真)
江戸時代には鏡島と河渡宿の間を舟で渡ったわけであるが、当時の川幅は九十bで、増水時は二百七十b以上になったというが、歩いてみてなるほどと納得できた。
渡し場は河渡宿からやや上流にあったが、河川改修により、川の流れも変わり、どの場所にあったか?特定できていないようである。
橋を渡り終え、道路の下をくぐり反対側にでて、川沿いの道を歩く。 眼下の畑の中には、ブルドーザーで田起こししているひとがいて、農業地帯なのだろうと思ったが、その先には住宅も立ち並んでいるので、岐阜市のベット
タウンになっているのだろう。 右下に小さなお堂が見えてきたので、川沿いの道を離れ、
下に降りていった。 馬頭観世音菩薩という大きな石柱が目に入った。
河渡の馬頭観音堂 と呼ばれるお堂である (右写真)
「 天保十三年(1842)、河渡宿の荷駄役の人達が中山道を通る旅人や牛馬の安全を祈願して、銭百文ずつ寄進して愛染明王を奉祀した。 地元では、”馬頭観音”と仰ぎ、渡し場の脇に六間四面の堂宇を建立し、舟を待つ旅人の休憩所としても利用していた。 これまでに、濃尾地震による崩壊や洪水による流失、昭和の空襲などで都合4回移転した。 現在の建物は昭和五十六年に地元の篤志家により建築されたものである。 」
と傍らの碑文にあるので、本来なら、 愛染堂 というべきだが、地元では 馬頭観音堂
とよばれているのである。 お堂のなかには、美濃十六宿中最大の高さである一.七メートルの
馬頭観世音といわれる石仏がまつられていた。 顔面が三つ、手は六つの像で、なかなか
おだやかな顔をしていた (右写真)
境内の左奥には、小さな社があり、覗くと小さな石仏が鎮座していた。
傍らにある石碑から、「 南無地蔵菩薩 」であることが分かった。
地元に守られ今日まで残っている仏像に御参りを済ませる。 土手下の道に戻り、
軽く坂を上ったところ(二つ目の辻)を右折すると河渡宿に入った。
河渡宿は、長良川右岸堤下から東町、中町、西町の三町で構成されるが、全長は三町
なので、330mという短さである。
河渡宿は正徳から天保にかけて作られた 中山道宿大概帳 によると、
「 本陣一、脇本陣なし、問屋は二、旅籠は大四軒、中九軒、小十一軒、計二十四軒。戸数は六十四軒、人口は二百七十二人 」 とあり、
美濃十六宿のなかでは規模の小さい宿場だった。 東の加納宿まで一里半、西の美江寺宿まで一里七丁と短く、特にこれというものがなかったので、城下町の 加納宿 か斉藤道三や信長で人気のあった 岐阜町 にとられてしまい、ここに泊まる旅人は少なかったのである (右写真は現在の姿)
長良川の氾濫時は混んだというので、川止めに備えた宿場だったといえよう。
保永堂版 木曾街道六十九次・河渡宿は、浮世絵師・渓斎栄泉の手によるが、宿場の情景を描かず、「岐阻路ノ駅 河渡 長柄川鵜飼船 」という題名で、長良川で古来より行
なわれてきた鵜飼を描いているのもこのあたりに原因があるのだろうか?
(注)鵜飼は今日ではここでは行われず、上流の長良橋付近で行われている。
宿場に入ったすぐの右側に「中山道河渡宿(一里塚跡)」の石碑があり、奥に松下神社
の小さな二つの祠がある。
「 本陣は水谷治兵衛、問屋は久衛門、庄屋は水谷徳兵衛が務めていた 」 と記録に
あるが、その場所がどこなのか、いっさい分からなかった。
河渡地区も岐阜の空襲時に焼失したといわれるが、古い家が一部残っていた (右写真)
河渡宿は低地地帯の上につくられた上に、すぐ上流で長良川と伊自良川が合流していた
ため、少しの雨でも増水し、水浸しになった。 美濃代官だった松下内匠は宿場全体に
盛り土にする
計画を立て、文化弐年(1814)、幕府と掛け合い、弐千両を支出させて、四年の歳月をえて、工事は
完成し、その後は水害の心配はなくなった、という。
最近の家でも、一段と高く玉石を積んだ家が
あるのは洪水で被害を受けた先人の知恵
によるものだろう。
数百mほど歩いた右側に空き地があって、 「中山道河渡宿」と書かれた木杭があった
(右写真)
このあたりが河渡宿の西の境のようである。
平成16年2月