『 中山道を歩く -  美濃路 (12)美江寺宿  』


美江寺は江戸から56番目の宿場で、元正天皇が勅願寺に、「美しき長江のごとくにあれ」として美江寺と名付けられたことが地名の起りである。  河渡宿から美江寺宿に行く途中に、延命地蔵尊を祀っている本田地蔵堂があり、二百年を経過している地蔵尊が祀られていた。




 河渡宿から美江寺宿

生津交差点 平成十六年二月二十三日、今日は、岐阜駅から河渡宿、美江寺宿へ行き、時間が許せば大垣市の赤坂宿までいく予定である。 河渡宿はどこからどこまでなのか、分からないまま終わったが、そのまま歩を進めた。  慶応橋を渡って、大通りにでる。  県道と交差する交差点で、 生津(なまず) と標示されている。 
手前には、トヨタのデーラー、そして向かいにはコンビニがあるところである。  この先店がないような気がして、コンビニに入り、飲み物を買い、リックのポケットに 入れた (右写真)
三叉路を右にとり、道なりに歩く。  右手に大きなビルがあったので見ると、紡績会社の
三叉路にて 名前なので、少し驚いた。 
”紡績業は日本では成り立たない”という先入観があったからである。 
三興紡績とあったが、どのような分野で活躍しているのか、など仔細はわからない。 
三叉路に、もりあがっているところがあり、いくつかの看板が掲示されているのだが、看板が相談なくばらばらに設置されたようすで、統一性に欠けていた (右写真)
  「西へ美江寺宿2km、東へ2km河渡宿」という案内表示は役に立ったが ・・・・
日本歴史街道の木柱に瑞穂市というプレートが重ねて貼られていたが、穂積町が 2003年
石仏 5月、巣南町と合併し、瑞穂市になったため、標示が変わったためである。 
登ってみる。 笹の中に神仏敬信と刻まれた石柱があり、高屋を経て河渡宿に至ると あったが、明治以前のもののように思えた。 
小さな社(やしろ)の中を覗くと、中央の石仏(地蔵尊?)は着物を着せられていた (右写真)
左にある石仏らしきものは布で覆われ分からないが、頭部が無くなっているような気が した。 
この場所はかっては小山だったのが、道路工事で削られて現在の形になったのかも 知れない。
本田地蔵堂
本田郵便局を過ぎると、左側に、小さいが立派なお堂が見えてきた。 
本田地蔵堂(ほんでんじぞうどう)で、幟がひらめいていた (右写真)

祀られているのは、本田延命地蔵尊で、高さは九十センチもある大きな石仏坐像である。 
背面に名古屋の石工の名前、  台座に「文化六巳巳歳(1809)八月二日 建立」 など の文字が刻まれていた。 
延命地蔵尊 彫りが美しく、優雅な面相をした仏さんだった (右写真)
二百年を経過しているとは思えないもので、大事にしてほしいと拝みながら思った。
少し歩くと右側の家の前に、 本田代官所跡 の看板があった。  
「 代官所は寛文十年(1670)に陣屋が設けられ、野田三郎左衛門が初代代官に任じら
れた。 明和七年(1770)に、領地管理が大垣藩に預けられるまで続いた。 地名に 代官
屋敷や牢屋敷などある。 」 、と説明されていた。 
本田代官所跡この家と代官所は関係がないのだろうが、結構古い家である (右写真)
当時の街道(中山道)には立派な松並木があった。 美江寺の松並木である。 
旧巣南町教育委員会が作成した資料によると、
「 河渡宿から美江寺宿まで、立派な松並木があった。特に五六橋から宿までの 二百五十メートル
位は両側に松の大木が茂り合っていた。 昔の旅は駕籠か馬を利用するか、徒歩なので、
夏の炎天下を旅する人々には、松並木の日陰はこの上もない憩いの場所であっただろう。 
本田松原交差点 これらの松並木は戦時中(昭和十八年〜十九年)の飛行機用の松根油の採るとか、建築
材 にするなどの理由で、全て伐り倒られた。 」  とある。 
本田松原交差点 は横断して直進した。  道脇には幹周りが太い大木があった (右写真)
このあたりから、道の両脇の家がまだらになり、田畑が多くなった。 
五六川にかかる橋を渡ると美江寺五六町と云う名の交差点。 
美江寺宿が江戸日本橋から数えて、五十六番目の宿場にあたることから、 入口の川に五六川 と名付けたといわれる。 
樽見鉄道 江戸時代、立派な松並木が茂っていたとあったところだが、その片鱗もなかった。 
その先には、鉄道の踏み切りがあり、その先が美江寺宿である (右写真)
線路は第三セクターで経営されている 樽見鉄道樽見線で、大垣から根尾桜で有名な根尾
村樽見駅まで運行されているが、赤字路線なので将来が懸念される鉄道の1つである。 


美江寺(みえじ)宿

中山道分間延絵図 美江寺は、天正十七年(1589)、 豊臣秀吉の下知によって、問屋場が設けられたが、寛永十四年(1637)四月、公式に中山道の宿場になったが、歴史的に古い土地柄である。  大化の改新(645)の律令制、 条里制 (十四条〜十九条)により、十六条村となったが、その後、美江寺に改称された。 
元正天皇が興建した勅願寺の寺名に、 「 美しき長江のごとくにあれ 」 として、美江寺と名付けられたことが、地名の起源である。  江戸時代の 「 中山道分間延絵図 」 には、美江寺宿の周りに 十五条村、十七条村の名が見える (右の絵図)
江戸時代に発行された 木曽路名所図会 でも、
「 美江寺観音は養老年中伊賀国より当国本巣郡十六条村に移し勅願所を建立
美江寺集落 ある、これを美江寺という。 」 と、いう記述がある。 また、「 土岐持益この寺において薙髪す。 その時子院二十四ヶ所あり、永禄年間兵火に滅び、信長公 岐阜今泉村に再興し、本尊ここに安置す。 寺領十石。 この所廃寺となりただ地名のみ残れり。 」 とあり、一部の違いがあるがおおむね同じ内容である。   美江寺駅は踏み切りの先にあるが、無人駅。 道を直進すると、左右に入れる路地があった (右写真)
右に行くと瑞光寺があり、左に入ると、中小学校がある。 
中小学校は、室町後期から戦国時代にかけて、美濃国守護職・土岐氏の武将だった和
田氏の本拠だった美江寺城跡である。  瑞光寺は「中山道分間延絵図」にも掲示されて
美江神社 いるので、歴史の古い寺のようだ。 美濃派獅子門第九世道統・山本友左坊の菩提寺で、境内には、友左坊が近在の俳人二十三名の協力を得て、天保十四年(1843)に建立した 
「   旅人と 戒名呼ばれん 初時雨   」 という芭蕉句碑があった。 
このあたり(古大門)の道の両脇に 美江寺一里塚 があったのだが、大正三年、美江神社に払い下げられ、同年十三年には隣地の所有者に売却されて消滅している。
道がややカーブした右側に、美江神社の鳥居があった (右写真)
宿場のほぼ中央付近に位置しており、中山道はここで直角に曲がっている。
美江寺宿跡石碑 美江神社の境内に入っていくと、岐阜県知事が揮毫した美江寺宿の石碑と美江寺宿の 由来を記した教育委員会の看板があった  (右写真は石碑)
美江寺宿は、宿場の長さが五町十九間(530m)位の長さで、 本陣一、脇本陣はなく、
旅籠は十一軒、総軒数が百三十六軒で、宿内人口五百八十二人の宿場だった。 
美江寺の由来は巻末参照。 
入って左側の建物が美江神社であるが、とくに古いものではなさそうである。 祭神は熊野
三所大権現で、昔は権現様、権現様と呼ばれ親しまれたという。 
美濃国神名帳に、 「 正六位上美江明神 」 と記されているのが、この神社とされるから
神社の起源は古い。  明治十四年に美江神社と改称されるとともに町内にあった日吉神社、
神明宮、八幡神社、貴船神社を合祀した。 
美江寺観音堂 さらに奥に歩いていくと、美江寺観音堂が建っていた (右写真)
階段をのぼって、堂内を覗くと、小さな金色に輝いた仏像があった。
前述の木曽路名所図会に、「信長公岐阜今泉村に再興し、本尊ここに安置す。」とあり、 観音像は岐阜に移されここにないはずで、おかしい?と思ったが、ここで偶然出会ったのが
宇野氏である。 彼は一枚のコピーを寄越して説明してくれた。
「 現在の美江寺観音は、明治時代に和田泰吉氏へのお告げにより、蔵の中から発見された御前立本尊の観音菩薩坐像(室町時代)であり、明治三十五年に美江寺のあった境内に祀ったものだ。 」 という。 「 和田家は瑞光寺の住職を勤め、明治の初期まで
観音菩薩坐像 岐阜に移された十一面観音の厨子の鍵を保管し、開帳を仕切っていた家柄である。」 
といわれた。 美江寺が荒廃し、信長が観音像が岐阜に移された後も、美江寺の瑞光寺 が
関係を続けたとは驚くとともに、瑞光寺の威光は強かったと思った。 不思議な縁(えにし)
の観音像を拝み、宇野氏のお礼を述べて、神社をあとにした。 ここで、ミスを犯した。 
神社前の大きな道を直進すると、スーパーマケットのあるところに出た。  これはどうやら
県道のようである。 昼にはやや早かったが、近所の喫茶店に入り、地図で確認すると、
中山道とは違うようす。 ここで食べた みそかつランチ はうまかった。  旧中山道の両脇
に、コンビニや食堂があるのは皆無に等しい。  偶然道を間違えたお陰でうまい食事に
あり つけてよかった。 食後のコーヒーを飲んで出発する。 美江神社まで戻って、よく見る
と、 左に入る道があった。 これが旧中山道である。 南に向かっていく。 神社の前で道路
工事をしていたため、気が 付かず通りすぎてしまったというわけである。
酒屋 後日、教育委員会の資料をみると、「 大正末期に美江神社前を直線で抜ける道路ができ、犀川を抜けるという道ができた 」 とあり、その道を歩いてしまったという訳である。
先程の宇野さんにお聞きした話では、
「 道の左側にある酒屋が濃尾地震の際倒壊を免れた一つで、数年前に建替えられたが、元の姿を残している。  建替えのとき、古文書が大量に出てきたが、引き取り手がなく処分されたのは残念だった。 」  と、いっておられた (右写真)
旧中山道時代の建物がないのは、濃尾地震で崩壊したためであろうが、それでも両脇に立つ家並みはしっとりとした落ち着きがあった。
本陣跡 街道の左側にあった本陣は、 「 文久元年(1861)の和宮内親王の江戸下向の途次にはここで小休止した。 また、慶応四年の東征軍東山道鎮撫隊はこの宿を発進地とした。 明治二十四年の濃尾地震で倒れたため、再建され、門、玄関、部屋などに若干旧態を止めていたのが、平成三年に新しい建物に建替えられた。 」  と説明板にあった。 本陣跡の表示は、駐車場の一角なので、気が付かないと通り過ぎてしまうところである (右写真)
対面には問屋が二軒あったようだが、今はあとかたもない。
「 寛永十四年(1637)、伝馬役家と歩行役家各二十五軒を定めて問屋の支配下に置いた
のが始めで、中山道の宿場には人足五十人、伝馬五十疋を常備するのを定則としたが、
この宿の開設にあたっては、人足伝馬ともその半分で開始し、常備の人馬で宿の継立
道標 業務に応じられない場合は、助郷で対応した。 」  と、教育委員会資料にあった。 
助郷とは、不足分を近隣の村から強制的調達することである。
「 この宿では常時、馬が不足したため、近隣の十七の村から徴発してこれに充てたが、
農繁期とも重なることが多く、助郷の村との間で紛争がたえなかった。  」 とあり、
中津川宿でも、同じ話があったのを思いだした。 道の右脇には 開蒙学校跡 という石碑
があったが、なにを意味するのか分からなかった。 三叉路に出たが、その左角に自動車
にぶつけられたのか、一部欠けた道標があった。  それには、「 左大垣墨俣に至る 、
右大垣赤坂に至る 」 と刻まれていた (右写真)
ここで、美江寺宿は終わる。

(ご参考) 美江寺の由来
瑞穂市西部の宇野重光さんがまとめた資料によると、
『 元正天皇は、洪水に悩む当地を「美しき長江のごとくにあれ」と、伊那の国・座光寺から十一面観音(脱乾漆・天平作)を当地(美濃十六条)に勧請し、七堂伽藍、二十四堂塔を備えた寺を、第四十四代元正天皇の勅願寺として、興建され、美江寺と名付けられた。 西暦719年のことである。  その後、800年を経過し、応仁の乱(1467〜1477)とともに寺も大荒廃してしまう。  永正三年(1506)、城主和田佐渡守により、運上上人を迎え、堂塔を修復された。  戦国時代に入り、和田氏は土岐美濃守に付いたので、斉藤道三により、和田氏は滅亡し土岐美濃守は追放された(1542)
道三は美濃を手中に収め、、十一面観音は岐阜の観昌院へ、第十二塔は岐阜の正覚院に移され、廃寺になった。
織田信長は、永禄十年、岐阜の現在地に御堂を建てて祀りした。 』
とある。

(ご参考) 瑞 光 寺
旧巣南町教育委員会が作成した資料によると、
瑞光寺は浄土宗西山派の寺院で、美濃派獅子門第9世道統山本友左坊の菩提寺である。  山本友左坊は宝暦七年(1757)この宿の本陣兼問屋場を経営していた山本家に生まれた人で、美濃派の俳人として名を挙げた。
友左坊は、近在の俳人23名の協力を得て、天保十四年(1843)俳人松尾芭蕉の句碑を建立した。
         「   旅人と 戒名呼ばれん 初時雨   」  
3年後の弘化三年(1846)に享年90才で亡くなっている。 
昭和五十二年に、友左坊の句碑が添碑された。
          「   影も匂うかと おもはれつ 梅に月    」 

(ご 参 考)  美江寺城
応仁・文明の頃(1460年頃)和田八郎が居館を構えたのが美江寺城の創始である。
斉藤道三が稲葉山城に拠って、主家の土岐頼芸を追って美濃の実権を握った時、和田将監高行は土岐氏に従った。  このため、道三に攻められ、天文十一年(1542)九月三日の夜戦の放火により美江寺城は灰塵に帰し、和田氏は敗退した。
城跡には神明宮と八幡神社が祀られていたが、美江神社に合祀され、大正4年、小学校と幼稚園の敷地になった。

(ご 参 考)  美江寺本陣
本陣は寛文九年(1669)、加納藩主・戸田丹波守光永によって建設され、問屋金兵衛が管理したのが始めで、 爾後世襲で山本家が明治3年宿駅制度が廃止されるまで経営した。
建物は明治二十四年の濃尾地震で倒れたため、再建され、門、玄関、部屋のどに若干旧態を止めていたが、損傷が激しいので、平成三年に建替えられた。
文久元年(1861)の和宮内親王の江戸下向の途次にはここで小休止した。 
また、慶応四年の東征軍東山道鎮撫隊はこの宿を発進地とした。 

平成16年2月


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かうんたぁ。