『 中山道を歩く ー  美濃路 (13) 赤坂宿  』


美江寺宿から赤坂宿の途中にある呂久集落には、皇女和宮が一抹の不安を抱きながら、川を渡ったところである。
和宮記念公園・小簾紅園は静かな佇まいをかもし出していた。
赤坂港は江戸時代から明治にかけて河川交通の要衛として賑わったところである。
赤坂宿は本陣や問屋場などの建物は残っていないが、古き良き時代が感じられる町並みだった。





 美江寺宿から東赤坂へ

広重・木曽路版画 平成十六年二月二十三日、今日の予定は、加納宿の加納本町から河渡宿、美江寺宿 へ行き、時間が許せば大垣市の赤坂宿までいくというものである。  朝八時に岐阜駅を出発したが、途中河渡宿で渡船を見たりし、又、美江寺観音堂で 話を伺っていたりしたので、十四時を過ぎてしまった。 
安藤広重が描いた 木曽路六十九次・みえじ宿 の絵には、実のたわわになっている 柿の木と竹林、そして水辺の風景が描かれている (右写真)
道標の建っている三叉路を右折し、少し行くと右手奥に美江寺宿をぐるっと 取り囲んでいる堤防が見えた。 
観世音堂 美江寺は低地なので犀川に面して堤防が高く築いて洪水に備えたとあり、浮世絵 のように
水面を見るということはなかったが、周りに柿畑があり、今でもこのあたりは 富有柿の産地
なのだと思った。 赤坂に向かって歩く途中、同様な柿畑を多く見かけた。 
道の右側に千手観世音堂があり、道の高さに合わせ、 石垣で組まれた土台の上 に建てら
れていた (右写真)
堂内を覗きこむと、白い石像の観音様が祀られていたので、旅の安全を祈願して お祈り
千手観音像 をした。 千手観世音とあったが、頭上の飾りからみて、馬頭観音ではないだろうか?!
なかなか立派なものであった (右写真)
橋を渡った先の千体寺は、寺なのか民家なのか分からない造りだった。  傍らに、お地蔵
さんが鎮座していた。 川の堤防が左側にぐるっと囲んだ形に造られているが、 それを
見ながら歩いていく。  
柿畑がなおも続いており、旧中山道はやや南西に向かって歩いていく感じである。 
やがて、右側に農協の建物、左側に川があり、対岸に巣南中学校が見えたが、川を渡った
ところで旧中山道は終わってしまった。 中学脇を通っていた道は屋内運動場をつくるとき
旧巣南町役場 建設用地になってしまったからである。  このあたりは江戸時代には十七条村だったが、今も字(あざ) では十七条である。  土岐氏配下の稲葉氏が十七条城を築いたところで、春日局の夫・稲葉正成の孫 の代まで続いたが、孫に嗣子がなく廃城となった (巻末参照)
交差点の向こうにグランドが見え、その右手に立派な建物がある。  先日まで巣南町役場だったのだが、平成の市町村合併により瑞穂市支所になって しまったのである。  建てられたのは最近と思われ、もったいない気がした (右写真)
道の脇の農協に入り、職員に中山道を伺ったところ、「前の大きな車道を行けば よい」と、
富有柿の看板 教わり、歩道がないので車道の脇を車に注意しながら歩いた。 
このあたりは濃尾平野の中心なので、見渡すかぎり田圃が続いている。  やがて、四差路。 
左折すると、樽見鉄道の十九条駅である。 右折し、遠くに見えている橋に 向かって更に
歩いた。  左側に馬鹿でかい富有柿の宣伝看板があり、柿の宣伝をしていた (右写真)
正面には揖斐川の堤防が見える。  川の方が高いようで分厚い堤防で洪水を 防いでいる
感じで、橋を渡るには坂を登っていかなければならない。 
伊吹山 鷺田橋まで上ると、正面に雪を被った伊吹山が見えた (右写真)
旧役場からここまで20分くらいかかっただろうか? 
後日、資料を整理していて、道の間違いに気づいた。 
旧中山道は中学前あたりから斜めにある畑沿いの細い道で、農道になっている 道を鷺田橋にむかって歩くのが正しいのである。  昔は松並木の続くみちだったが、戦時中に松は斬られてしまい残っていない。  鷺田橋にはそのまま入れないので、道を少し戻って鷺田橋の手前の交差点に 迂回して入っていくようである。 
揖斐川 私もグランドのあたりから入る道があるのでは思ったが、職員の話もあり、 また、それらしい道も見つからなかったので、道路工事で消滅したのだろうと 思っていたのだった。 地元でも昔のことは伝えられなくなりつつある。 揖斐川に架かる鷺田橋はかなり長い。 橋から見た水はどんより黒ずんでいて、 川原の草は枯れ茶に変色し、冬の風情を感じさせた (右写真) 
橋を渡りきると、左手に川沿いの堤防道路を歩く。 すぐ右に寺が見えるので、 川沿いの道から右斜めに降りて行く。 良縁寺の前の三叉路で右の道を進むと 右手に白鳥神社がある。  この辺りは神戸(ごうど)町呂久で、集落には古い町並みが 一部残っている。 
蓮生寺 左側に浄土宗浄住山即心院があり、 右側に浄土真宗大谷派鷺休山蓮生寺(れんしょうじ)がある。  本尊は阿弥陀如来で、境内に「秩父宮妃殿下御休憩所跡」の石碑が立っている (右写真)
天正八年(1580)、織田信長の子信忠によって設けられた呂久(ろく)
渡しがあったところで、慶長年間(1610年頃)には、船頭屋敷が十三軒を数えた、 という。 
中でも、船年寄の馬淵家は船頭八人、助手七人がおかれた。 堂々たる門構え の旧家 で、
門脇には 「 明治天皇御小休所跡 」 の碑が建っている。 
長屋門前に「←中山道」の道標がある。 この先は呂久の枡形で、 長屋門前を左折し、 突当りを右折する。 たばこ店がある突当りを右折すると左側に観音堂と地蔵堂が あり、呂久の
  小簾紅園 渡しの安全を長らく見守ってきた。  右に折れると、大正十四年に呂久の渡し場が廃止された跡に造られた和宮記念公園 ・小簾紅園(おずこうえん)がある。  和宮一行は文久元年(1861)十月二十日に京都をでて、六日後の十月二十六日に 赤坂宿を出て加納宿に泊まった。 公園の中央の歌碑には
  『 落ちてゆく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそ すれ  』  
という皇女和宮が詠んだ歌が刻まれていた (右写真)
呂久川を渡る際、この地の紅葉の美しさを詠んだものであるが、京から江戸に行く東下り
挺身救国碑 の心境がよく表れている句である。 公武合体の政略結婚で、将軍家茂の許に嫁ぐため、
悲壮の決意で旅したが、幕府はそれから6年後には倒れてしまった。 正に歴史の
いたずらとしかいいようがない。 小簾紅園の正門に出ると小さな川が呂久の渡し跡で、
呂久渡船場跡の説明板と「揖斐川呂久渡船場跡」の石碑が立っている。 揖斐川に
比べるとほんの小さな小川だが、大垣市と神戸町の境界になっている。 
皇女和宮が渡った当時の川巾は平時で九十メートル、中水で百二十メートル、 大水では百八十メートルに達した、 と記録に残り、川の名も呂久川と呼ばれていたのである。 
川は現在より西側を流れていたようで、呂久集落は揖斐川の西側にあるが、和宮が
道標 渡った時代には東側にあったのである。 従って、公園のある所は和宮が舟を 降りたところということになる。 これから舟に乗ろうとしていたと思っていた ので、少しびっくりした。 木曽三川の暴れぶりをかいま見た気がした。  そのまま歩いて行くと、正面が平野井川の堤防である。 少し登ると堤防の上に 出た。 このあたりは三津屋地区で、しばらくは揖斐川の支流である平野井川に 沿って歩く。 
道が左手から来た堤防の道と合わさる三叉路の傾斜に追分道標が あった (右写真)
「右 すのまた 、 左 きそじ 」と刻まれた石柱である。 右に行くと大垣を経て 墨俣に出
三回り半道標 る美濃街道である。 美濃街道はその先、、東海道熱田宿で東海道と合流するので、
大名の参勤交代でもよく使われた、 という。 旧中山道は川に沿って直進する。 
しばらく川を見ながらの道が続く。 更に、道は蛇行しながら北西に進む。 
やがて車道に合流し、車道の側道を川と平行して進む。 県道の下をトンネルで 抜けて
川の反対に出て、200mほど進むと、左側に下に降りて行くところがあり、 道の下方に
中山道三回り半の道標がある (右写真) 
目印は下方に見える中川グランドで、道標はそれより手前である。 
田圃の中の旧中山道 ここで川沿いの道と分かれて下に降る。 三回り半の道標の先で左の狭い道に入る。 
このあたりは赤花町。 三回り半を過ぎると素盛鳴社という小さな神社の前を通る。 
三津屋町3交差点に出るとその先は民家もない田圃道を西日に向かって歩く (右写真)
右に平行して大きな道(県道230号)があり、車がひっきりなしに通るが、田圃の中 を歩く旧中山道には散歩をする人しかいない。  太陽の角度が低くなってきたので、 赤坂宿に行くことができても見学する時間はなさようである。  頭の中で、東赤坂止まりしようか?と、思いながら歩いた。 
聖観音の石柱と祠 この区間は短いと思っていたが意外に時間がかかる。 
くたびれてきているのか、ピッチが思うようにあがらない。 
しばらく歩くと、交差点の手前の右側の少し奥まったところに 聖観音 を祀った小さな祠が
あった (右写真)  
この観音像は道標の役割を果たしていて、 右 ぜんこうじ道 、左 谷汲山、ごうど、いび道
と彫られている。 谷汲山は西国三十三ヶ所の満願成就の寺で、札止めの観音霊場である。 
聖観音 中山道を歩く旅人はここで立ち止まり、旅の無事を観音様に祈願したことだろう (右写真)
この交差点(四左路)から車の行き来が激しくなった。 旧中山道は直進、次のやや広い
道で右折し、すぐの十字路で左折、そのすぐ先を道なりに右、左と目まぐるしく変わってい
く。 七回半といわれるところである。 家屋敷をぐるっと回って、線路を越えると、管野神社
前に出た。 この神社は奈良の興福寺とゆかりがあるようで、古に新羅から渡ってきた帰化人
と関係があるようなことが書いてあった。 境内で一服することにし、手や顔を洗い、残って
いたお茶を飲み、荷物の整理をした。 時計を見ると、十六時近い。 神社の北側に東赤坂駅が
あるので、本日はここで終了することにした。  今日は岐阜市の伏見宿から大垣市の東赤坂
まで歩いたので、二十三キロくらいの歩きだった。 二月にしては暖かな一日だったので助かった。 
東赤坂駅 東赤坂駅は近鉄養老線(揖斐線)である (右写真) 
来たのは二両編成のワンマンカーで、三駅ほど走ると、終点の大垣駅に着いてしまった(料金は220円)   来るのを待っていた時間に比べて、あっ!という間だった。
今回は、少し早めに切り上げたので、大垣城に行って見る気になった。 大垣でぶらぶらしてから、名古屋に帰った。
 (注) なお、「大垣城へ歩く」は、本章の最後に掲載したので、ご覧ください。

(ご参考) 稲葉正成と春日局(かすがのつぼね)
稲葉氏は西美濃三豪族のひとりとして並び称され、吉川英治の太閤記に、秀吉が信長の命を受け、稲葉氏を調略することが書かれている。 稲葉正成は徳川家康に仕え、二万石を所領し、江戸城大奥の実力者であった 春日局 を娶った。 春日局は三代将軍家光の乳母で、将軍にするよう家康に迫ったことは有名である。
春日局の出生地は川の対岸にある神戸(ごうど)町の西隣りにある曽根城(大垣市曽根町)
曽根城は西美濃三人衆の一人である稲葉一鉄が、織田信長から五万石を与えられ、居を構えていた城である。 築城は信長に仕えた永禄七年(1564)以降で、平地に石垣を築いた城としては最も早いとされる。 徳川家光の乳母であり大奥統括者として名高い春日局はここで育った。  
現在は曽根城公園となり、近くある華渓寺 とともに花しょうぶ の名所(6月上旬〜下旬)である。
華渓寺は、稲葉一鉄が母の菩提を弔うため創建された寺で、大垣市の輪中堤にあったのを江戸中期に廃城になっていた 曽根城本丸跡 へ移転したものである。 
(観光協会資料より抜粋)

                                                       後半に続く







かうんたぁ。