平成十六年(2004)三月十日、今日は赤坂宿を訪問後、垂井宿にいく予定である。
八時十分、名古屋発特別快速で大垣に向かう。 豊橋から乗ったという関ヶ原の史跡
を巡る団体客で車内は一杯であった。 別の車両に移ったが通勤客で座れなかった。
それでも、岐阜を過ぎると、がらがらになった。 近鉄揖斐線は一時間に一〜二本しかない
ので、大垣駅では三十分近い待ったが、九時二十分には、前回終了した東赤坂駅に着くことができた。
「 切符は無人駅なので出口のポストに入れてください!!」 と、いう車内放送があったのでポストを探して入れ外にでた。
前回来たのは二月中旬だったので、三週間ぶりということになるが、今日の天候は四月上旬の気候と予想され、大変暖かい。
荷物を担ぎ歩きだした。 最初の三叉路で左の道を行く。 これが旧中山道である。
左に白山神社があり、神社の由来で、かなり昔からあることは分かったが、建物は新しい。
左側の民家前に赤坂一里塚跡の石碑を見つけた(右写真)
駅からここまで古い建物は一つもなかった。
このあたりから赤坂港(あかさかみなと)までには大理石を加工している会社が多い。
以前は柱状で加工したのかもしれないが、
薄い板状にしてコンクリートの上に貼って全体を大理石と見せかける(?)ためのプレートを生産していた。
杭瀬川(くいぜがわ)が流れる赤坂大橋を渡り、交差点を横切ると赤坂宿に入ると、突然左に高い楼櫓のようなものがみえてきた。
赤坂港(あかさかみなと)のあったところである。 今は小さな流れになったが、当時の杭瀬川は水量も多く川幅が広く、水運に盛んに利用されていた。
明治・大正期には、石灰産業の発展にともなって、赤坂港には百隻を超える船が往来していた。
やがて鉄道輸送やトラック輸送に置き換わり使命を終えた。
その跡地が赤坂港跡公園として整備され、川灯台や明治の洋風建築の記念館が残されていた (右写真)
江戸後期に発行された中山道宿村大概帳によると、
「 赤坂宿の長さは七町十八間(約730m)、宿内人口は千百二十九人、家数は二百九十二軒 」
とあり、比較的大きな宿場であったことがわかる。
街道の右側には昔懐かしいたばこの看板と建物。 左には袖壁の付いた古い建物が並んでいる。
自転車に乗って通りすぎる人や歩行者がレトロな町並みになぜか似合う (右写真)
鉄道線路があり、脇に、赤坂本町駅跡の石碑が立つ。
線路は西濃鉄道のもので、石灰
を運ぶための貨物列車が一日三回通るという程度である。
最盛期には多くの輸送量を誇ったようだが、トラック輸送の時代になり、今では上記の本数に減ってしまった。
以前は乗
客も運んでいたのかも知れない。 石碑は当時の駅を示すものか?と思った。
西濃鉄道は古い車両が多いのとスイッチバックが行われるので、鉄道マニアの間では有名のようである。
赤坂宿は美江寺宿から二里八丁(約9q)で、宿場の長さは七町十八間(約800m)。
中山道に沿って本陣が一、脇本陣一、問屋が三あり、旅籠が十七軒と商家が軒を並べていた。
宿内人口は千百二十九人、家の数は二百九十二軒という規模で中山道では大きな方だった。
左側のガソリンスタンドの隣が本陣跡で、和宮をしのぶ顕彰碑があった (右写真)
「 本陣の敷地は二反六畝二十六歩>、建物は間口二十四間、二百三十九坪と、かなり
大きなもの。 本陣役は、当初は馬渕太郎左ヱ門、次いで、平田又左ヱ門が代々本陣役
を継ぎ、天明・寛政のころに、しばらく、谷小兵衛に変わったが、以後、矢橋広助が二代
に及んだところで、
明治維新になり、本陣は廃止された。 文久元年十月二十五日、皇女
和宮は赤坂本陣に宿泊している。 」 、と案内板にはあった。
街道開道四百年を記念して、本陣跡を赤坂本陣公園として整備したものと思えた。
この先、右にカーブし、十字路になっている。 赤坂宿の中心だったところである。
地形から推察すると、宿場時代には鉤型になっていたのではないだろうか?
四辻には谷汲山観音夜灯という道標を兼ねた常夜灯が残っていた (右写真)
右折(北)すれば、西国三十三ヶ所満願寺の華厳寺へ続く谷汲(たにぐみ)巡礼街道で、
左折(南)すると、お伊勢さんに通じる養老街道があり、東西の中山道と交わる交通の
要所だったのである。
江戸時代後期には空前の巡礼ブームが起き、谷汲街道には大変多くの人が押し寄せたとある。 四辻を左折し、赤坂駅に行ってみた。
駅に通じる道は狭いが左右に古い家が残っていた。 特に右側の家は立派である。
この家が最後の本陣を務め矢橋家で、東西南北百メートルの敷地である (写真の右側の家)
矢橋グル―プ本社の隣は脇本陣だった飯沼家が営む旅館跡である。
「 脇本陣の飯沼家は問屋と年寄役を兼ね、建坪百二十坪以上の建物であった。
明治維新後一部が解体されて旧赤坂町役場となったが、母屋は榎屋旅館として、
最近まで営業していた。 」
赤坂駅はJR美濃赤坂線の終着駅である。 といっても、赤坂線は大垣から赤坂まで
の5kmを結ぶだけの大変短い路線で、
時間によっては3時間に1本もないというダイヤ編成である。 また、西濃鉄道の
始発駅でもあり、石灰輸送のための貨物輸送と、朝夕の通学・通勤のための鉄道と
いっていいすぎでないだろう。
赤坂駅は駅にしては質素な建物であり、駅内には鉄道工事関係者数名と列車を待つ
若い娘が1人いるだけ。 娘は列車を待っていたのか、誰かと待ち合わせをしている
のか分からないくらい、ゆったりした態度をしていた。 そこだけ異空間が感じられ
る風情があった (右写真)
私も駅前に建つ 赤坂ハイキング案内板 をながめながら、自動販売機で買ったコー
ヒーを飲んで、
しばしの時を過ごした。
駅南西の高さ五十メートルあまりの小高い丘には、関ヶ原合戦の前夜、
家康が陣を構えた勝山・家康本陣跡がある。 家康が陣を構えたときは岡山という
名前だったが、合戦に大勝を納めたことから勝山に変えられたといういわれ
がある。 徳川家康の物見台からは赤坂宿を一望することができる。
近くの安楽寺は聖徳太子が創建した と伝えられる寺で、大垣藩家老で忠臣蔵に
出てくる赤穂城受取人の戸田権左衝門の墓がある。
四辻に戻る途中、少し入ったところに、将軍専用の休泊所であるお茶屋屋敷跡が
あった (右写真)
『 お茶屋屋敷は、道中四里ごとに設けられたが、遺構が残るのはここだけである。
茶屋屋敷は岐阜城から移築した御殿のほか、六十一棟もある大規模だったが、燃えてなくなった。
明治維新後、土地は民間に払い下げられたが、寛政年間から本陣を務めた矢橋家が
この遺跡を守り、ボタン園として一般に公開している。 』 と、説明にあった。
門をくぐると竹林があり、 正面の小高いところには日本家屋があり、興味を引いたが、
個人住宅で入ることも覗くことも出来ない。
庭にはボタンの木が多く植えられていて、ボタン園として有料公開しているようだが、
これといって見るべきものはなかった。
史跡という意味では歴史的な価値があるのだろうが、わざわざ行くところではなさそうだ。
四辻まで戻り、西に向かう。
右側の建物は街道側から見ると二階建てだが、裏側からは一階である (右写真)
皇女和宮一行が通るということで、見栄えをよくするため、改造された姫普請と
いわれるものである。
家の向こうに、子安神社やこくぞうさんの案内があったので、路地を入った。
子安神社は、坂ののぼりかけにあった (右写真)
神社の由来によると、『 神功皇后、応神天皇の二柱を奉祀し、千八百年の昔から
安産の神として遠近よりの崇敬があつい。
大垣藩戸田家の帰依が深く、社殿は同家の寄進による。
三代将軍家光は戸田家に命じ、代々ご産刀(神社の竹でつくったもの)を献じさせた。
皇室でも大正十四年以降、御慶事に関わり、美智子皇后が皇太子懐妊のとき、お守りと
ご産刀を、雅子妃殿下がご懐妊にはご産刀を奉納された。 』 と、皇室と深い関係が
あることが書かれていた。
境内には、「女性がこれにまたがると子が授かる」といい伝えられる神功皇后の鞍掛石があった。
坂を登ると、金生山神社(きんぶやまじんじゃ)があった。
金生山明星輪寺の鎮守として祀られている蔵王明神社で、鍛冶屋など鉄を司どる神様である。 別名、 石引神社といわれるのは、「寛永十年(1633)、大垣藩主・松平越中守が、大垣城の普請の際、石垣の石をここで採取して大垣まで運ばせた」 ことに由来する。 神社までは街道から1km弱だが、かなりの坂道だった。
さらに奥には、日本三大虚空蔵の一つといわれる金生山明星輪寺があるが、往復三キロ強では後の予定にさわるので、引き返すことにした。
眼下には赤坂や大垣方面の景色が見え、すこし霞んではいたが、充分満足できた。
戻る坂の途中には、八王子神社ほか、石山神社や秋葉神社など、多くの神社や寺があり、赤坂宿の往時の隆盛を感じた。
街道に戻り、西に向い、少し歩くと、 赤坂宿御使者場跡 の石碑があり、宿場のはずれである (右写真)
階段を登ったところに、「 関ヶ原の決戦の前日杭瀬川の戦にて戦死した東軍の中村隊の武将野一色頼母を葬り、鎧兜を埋めた 」 と伝えられる 兜塚 があった。
これで、赤坂宿は終わる。
(ご参考) 金生山明星輪寺
明星輪寺は持統天皇の命で創建されたと伝えられる千三百年余の由緒ある寺で、
開基は役の行者、小角が朱鳥元年( 686)三月、初願して着手、二年後の七月
に落成して、七堂伽藍を始め一山五坊を創立、自ら虚空蔵菩薩の尊像を石に
彫刻して祀ったというもの。 また、平安時代末期の”木造地蔵菩薩半跏像
(国宝)を所蔵している。 伊勢の朝虚空蔵、京都嵐山の昼虚空蔵と並んで
”宵虚空蔵”と呼ばれて、日本三大虚空蔵の一つである。
(ご参考) 金生山
金生山(きんしょうざん)は赤坂山ともいい、大理石を産する山である。
国会議事堂にも使用されたとある古い山であるが、海外からの輸入や資源の枯渇など以前ほどの活況は見られないようである。
それでも、今回の旅で、東赤坂から赤坂までの道筋にあったのは大理石の細工物作りの会社だった。
また、採った石灰岩から石灰を作る産業も盛んで、この先の 昼飲(ひるい) までの間に多くの加工会社をみた。
採掘を続けた結果、金生山の山容が変貌し、真ん中がぽこっと凹んだような形になってしまっている。
大垣には仕事で数回訪れたことがあったが、町を歩くことがなかったので、大垣城まで歩いてみることにした。
駅前商店街はかって各地にあった 銀座通り という風情で、この地では まだ健在!! という感じだった。
スパーの影響は受けているのだろうが、名古屋から少し離れていることや近在に大都市がないので、なんとかやっていけるのかと思った。
歩くこと15分で、 大垣城 に着いた。
大垣城は、牛屋川を天然の外濠に採り入れた要害堅固な平城で、美濃守護だった土岐氏一族の宮川吉左衛門尉安定により、天文四年(1535)に創建されたと伝えられている。
慶長五年(1600)の関ケ原合戦では、西軍・石田三成の本拠地となり、壮絶な攻防戦がくり広げられた。
もし、石田三成がこの城で篭城していたら、1日で戦は終わらなかったといわれている。
それくらい、堅固な城だったようである。
江戸に入り、石川氏3代、松平〜岡部〜松平氏と城主が目まぐるしく変わったが、寛永十二年、戸田氏が十万石の城主となって以来、十一代続き、明治維新を迎えた。
4層4階の天守閣が昭和十一年(1936)に国宝に指定されたが、昭和二十年(1945)七月の戦災で焼失してしまった。 現在のは、昭和三十四年(1959)四月、再建されたものである。
城から駅に戻る途中、水の湧いている場所を見つけた。
”名水いこ井の泉”というもので、最近掘られたものらしいが、自噴している弱アルカリ性の水である。
飲んでみたがなかなかうまかった。
大垣藩家老大高全右衛門の屋敷跡のようである。
大垣は水の都といわれるだけあって、今でも水のよいところが多いのだろう。
大垣は、 芭蕉 にゆかりの多い町でもある。
市内の至る所に芭蕉に関連する表示や句碑などがあり、観光スポットもある。
駅に戻る橋の上にも句碑があった。
『 涼しさを 我が宿にして ねまる也 』
この句は芭蕉が奥の細道で山形県尾花沢を訪れた際、詠まれたものである。
奥の細道は、東北と北陸5ヵ月間におよぶ大旅行で、元禄弐年(1689)の秋、大垣で終えた。
芭蕉は、結びの句として、「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」 と、詠んでいる。
芭蕉に興味のある方は 奥の細道結びの地記念館(大垣市馬場町) にいかれるとよい。
記念館では芭蕉と大垣市の深いかかわりを貴重な資料で紹介している。
また、結句になった蛤は大垣から舟で桑名に結ばれていたので、桑名の焼き蛤をかけているのだと
思うが、 船町港と住吉燈台(大垣市船町) では、河川交通の当時のよすがを偲ぶことができる。
(美江寺宿〜東赤坂) 平成16年2月
(東赤坂〜赤坂宿) 平成16年3月
(大垣そぞろ歩き) 平成16年2月