垂井(たるい)という地名は、玉泉寺境内に隣接した欅の大樹の根元から湧き出た垂井の泉に由来する。
垂井宿は南宮大社の門前町として賑わった宿場である。
赤坂宿から垂井宿間には、美濃国分寺跡や照手姫伝説などの逸話が残っていた。
平成十六年三月十日、今日は赤坂宿を訪問後、垂井宿にいく予定である。
赤坂宿をでると、 昼飯(ひるい) という名の集落にでた。
難波の海から拾い上げられた 善光寺如来 を信濃の善光寺へ運ぶ一行が、
ここで昼食をとったことが、地名の由来である。
最初は ひるめし といっていたが、周りから下品だと馬鹿にされたので、 ひるいい
に替えたが、いいずらいので、 ひるい になったという。
集落には善光寺の分身仏を本尊とする 如来寺 という寺院があった (右写真)
本尊は長野善光寺の三尊仏の尊影を模刻した仏像であることから 善光寺式阿弥陀三尊
仏 と呼ばれるもの。 善光寺の分身仏としては日本最初なので、特に 一体分身の如来
という。
鎌倉時代の作と伝えられるもので、中央の阿弥陀如来が49.5cm、脇侍の観音
菩薩、勢至菩薩が33.5cmである。
今年は七年に一度のご開帳の年にあたり、集落の至るところに赤い幟が立っていた。
集落を過ぎ、鉄道ガードをくぐると、 青墓(あおはか) の集落。
昼飯には古い建物は残っていなかったが、こちらには少しだが残っている。
手入れされていないことや住む人がいないなどから、早い時期に消えてしまうのでは!?と危惧されるが ・・・・
集落の真ん中に 円興寺・国宝観世音菩薩 という石碑があったので、その方向に向かう。
正面に 白髭神社 があった (右写真)
寺はその先どう行くのか分からないので諦めて、街道に戻る。 集落のはずれに、青墓宿石碑があり、その脇に石室と石仏があった(右写真)
『 ここは、中山道が開設される前の、東山道時代に、青墓宿駅として栄えた所で、「遊び女が大勢いた」といわれる。 また、平治の乱に敗れた源義朝はここで、次男朝長を失い、尾張国・(知多半島の)野間まで落ちのびたが、そこで殺された。 』 と、石碑には記されている。
ここは円願寺廃寺跡で、小篠竹(こざさだけ)の塚といわれるところである。
これについての逸話が残っていた。
『 義経が京都から奥州に落ちていく途中、この場所にあった円願寺(円興寺の末寺)で休み、
父 義朝と兄朝長の霊を供養し、あわせて、源氏の再興を祈った。 江州から杖にしてきた
葦(よし)を地面に挿し、
「 さしおくも 形見となれや 後の世に 源氏栄えば よし竹となれ 」
と詠み、出発した。
願い通り、葦(よし)からは竹の葉が茂り、ぐんぐん成長したが、幹や
根はよしのままだった。
めずらしいこの竹を よし竹 と呼び、この寺を よし竹庵 と呼ぶようになった。 』 というものである。
塚には 照手姫の墓 があると伝えられており、 天台座主・慈鎮(慈円)(愚管抄の作者) は次のような歌を詠んでいる。
『 一夜見し 人の情にたちかえる 心に残る 青墓の里 』
石碑群の裏側に五輪塔などの古い墓が数基残っていたが、彼女等のもあるのだろうか?(右写真)
地元に、次のような 照手姫伝説 が残っている。
『 昔、武蔵相模の郡代の娘で照手姫という絶世の美女がいた。 この娘と相思相愛の
小栗判官正清は郡代の家来に毒酒を飲まされ毒殺されてしまった。 照手姫は悲嘆の
すえに家をでて、放浪の旅の末、青墓の大炊長者のところまでに売られてきた。 長者
はその美貌で客をとらせようとしたが、照手姫はどうしても従わない。 怒った長者は
一度に百頭の馬に餌をやれとか、篭で水をくめ、など無理な仕事を言いつけた。 毒酒で倒れた判官だったが、霊泉につかり生き返り、照手姫を探し出して妻に迎えた。 』
というハッピィエンドの話である。
照手姫が青墓の長者の命令で水を汲んだ井戸があるというので、石標に従って行ってみた。 街道から南に少し行った国道に近いところにその井戸はあったが、その当時のものかは疑問である (右写真)
近くにコンビニがあったので、昼飯と飲み物を買うことができたのは収穫だった。
街道に戻る。 その先の川の脇に、青墓宿 と標示された木柱が立っていた (右写真)
江戸時代に発刊された 木曽路名所図絵 には、 「 青墓にむかし照手姫という遊女
あり。 この墓あるとぞ。 照手姫は東海道藤沢にも出せり。 その頃両人ありし候や。
詳(つまびらか)ならず。 」 、という記載があり、「 東海道藤沢宿にも照手姫がいた 」
と記されている。 照手姫伝説 は木曽路名所図絵に書かれている通り、神奈川県藤沢
市にも同内容のものが伝えられている。 そこでは「 小栗判官は藤沢の時宗総本山
遊行寺の上人の手で助けられた 」 とある。 また、 中山道柏原宿 の照手姫笠地蔵
にもほぼ同じ伝えが残っている他、県内には同じような話がほかにもある。
こうした話が各地に残るのは、鎌倉時代に入り京都と関東との交流が盛んになり、宿駅
が発展したこと。 また、貧富の差が拡大し、地方で売られた娘が人買いなどの手により、
東海道沿線に連れてこられた結果ではないだろうか? 哀れな境遇の女性に対し、
(同情の気持ちから)上記のような話が生まれたのだろう。
(注) 藤沢遊行寺に残る照手姫伝説は、巻末に記載のこと
青墓宿 と標柱に脇には、 円興寺の方向が示されていた。
円興寺は、平治の乱(1159)で東国に逃れる途中この地で自刃した< 源朝長 の墓があるところである。
川の上流にあるようだったが、時間の関係もあり、そのまま道を行く。
このあたりは 青野ヶ原 とも呼ばれたところだが、今は田園地帯になって広がり、その先には 伊吹山の雪を被った姿が見えた。 振り返ると歩いてきた赤坂の山が異様な姿を晒していた (右写真)
田圃の中の道を行く。
県道を斜めに渡り、そのまま行くと、 青野集落 である。
中山道は直進であるが、 美濃国分寺跡 に寄ることにした。 集落の中ほどに、
薬師如来御寶前/国分寺道 と刻まれた道標を兼ねた常夜燈が建っていた (右写真)
そこで右折し、北に向かい、 美濃国分寺跡 にいった。
「 天平十三年(741)聖武天皇は諸国に「金光明四天王護国之寺」と「法華滅罪之寺」の
造営の詔勅を下した。 詔勅では、国分僧寺、国分尼寺という言葉は使われていないが、
国ごとに設置されたので、国分寺と通称されたものである。 美濃国分寺もその一つで
あり、
昭和四十三年から継続的な発掘調査が行われ、全体像があきらかになった。
寺域は東西231m、南北203m強で、中心伽藍の配置は塔を回廊内に建てる古式の
様式を持ち、建物基壇も ぜん積み という特異な形である。
(ぜん積みのぜんの字は土偏に專といういう字を書くが、インターネットでは使用できない外字である)
仁和三年(887)の火災ですべて灰塵に帰した。 その後、再建され、何度かの修理が
行われた様子がある。 」
と、全体の説明あり、それぞれのところにも案内板があった (右写真)
掘られたところは埋め戻され、その上に復元した遺跡跡として 史跡公園 となって、一般に
公開されている。 広い敷地には基壇(きだん)や礎石(そせき)が点在し、建物の想像図
が掲示されていたが、一見の価値はあると思った。 ちょうど昼だったので、買ってきた弁当
を食べながら、しばし奈良時代に思いをめぐらした。 他にも5〜6組来合わせていたが、
思い思いに弁当を広げていた。 歴史民俗資料館では、出土した瓦や土器などのほか、
付近の古墳から出土した埋蔵物や民俗資料を展示していた。 山麓には、史跡から発掘
された 欅一本造りの薬師如来の座像 を本尊として再建された 美濃国分寺 がある。
旧中山道に戻り、歩いていく。 中山道はここでは南西に向かう方向である。
道の右側に 常夜燈 があり、その前に一里塚跡の石碑がたっていた (右写真)
青野ヶ原一里塚で日本橋から111番目の一里塚である。
常夜燈はどこの神社のものか確認しないままだった。
さらに行くと 平尾集落 に入った。
道の右側に、 平尾御坊道 と刻まれた大きな 道標 と小さな社(やしろ)の中には二体の
石仏が祀られていた (右写真)
道標を右折して進んだが、思ったよりも遠く感じ、途中で道を尋ねながら歩いた。
道の左側の少し奥まったところに、 江戸時代から 平尾御坊 といわれる願証寺 があった。
蓮如上人 ゆかりの寺で、大きな伽藍と広い庭がある寺だった (右写真)
「 願証寺は、本願寺八代法王である蓮如の六男・蓮淳が、永正年間(1504-1520)に伊勢国長島に創建、開基した寺である。
しかし、天正弐年(1574)、 信長との伊勢長島の合戦 で寺の全てが焼失してしまう。
蓮淳の孫・證栄はこの頃、平尾に移り、真徳寺を再興、開基した。
江戸時代になり、寛保三年(1743)、 真徳寺に 御坊の許可があり、安永弐年(1773)九世真高の時に、真徳寺を 願證寺 と改号した。 」 というのが、この寺の歴史である。 それ以来、 平尾御坊 として親しまれてきた。
本堂は宝暦十年(1760)六月、再建したもの。 山門は寛保三年(1743)、鐘楼は明暦元年(1655)に建立したものである。
どれも二百年以上経過している立派なものだった。
寺近くの民家の門前に、 美濃国国分尼寺跡 と刻まれた石碑があった。
脇にあった説明文によると、「 白鳳期(天平時代)の瓦が多く出土し、土塁や礎石の一部は現存するが、寺領の規模や様式はさだかではない。 」 と、あった (右写真)
街道に戻る。 駒引集落に入ると、民家が増え、そして自動車の数も増えてきた。 中世には、盗賊 熊坂長範なるものがいて、松の木に登り、獲物になるものを物色していたという
松がある、とあったが、その松には寄らずそのまま街道を歩いた。
中山道を歩くと、この種の話は多い。
豪族の中に反体制派がいて、その人物が力があり
権力者に従わないと、盗賊とか鬼にされ、権力者の手で退治した として流した話が今に
伝説となって残っているような気がした。
工場を左に見て、左になだらかに曲がるカーブを歩くと、三叉路に出た。
そこには、「 是より右東海道大垣みち、 左木曽街道たにぐみみち 」と刻まれた石製の
道標が建っていた。 ここは、美濃路(大垣みち)との追分である (右写真)
道標は、宝永六年(1709)、垂井宿問屋・奥山文左右衛門が建てたもので、中山道の道標の
中では七番目に古いものである。 大垣みちは竹鼻を経て、清洲、名古屋へ、あるいは大垣
で川船を利用して、熱田で東海道に合流することができた。
松尾芭蕉も、「奥の細道」で大垣みちを歩いて大垣まで行き、そこで、筆をおいている。
なお、この角には木製のここは追分、美濃路、中山道と書かれた道標もあった。
(注) 後日、東海道の宮宿から大垣を経由する美濃路を
ここまで歩きました。
その先には、相川の支流が流れる小さな川があり、それを渡ると、交差点の先にあるのが相川橋である (右写真)
江戸時代、宿場の北を流れる相川は、川幅六十間(108m)の暴れ川で、大洪水の度に流れが変わったので、橋はかけられなかった。
通常は、大井川のように、人足渡しだったが、姫宮の御通行や朝鮮通信使等、特別の場合には、木橋がかけられたようである。
川を渡れば、垂井宿に入る。
(ご参考) 昼飯善光寺分身略縁起
如来寺は正式には 花岡山阿弥陀院如来寺 といい、建久六年、僧の定専が善光寺如来が難波より信濃に向かう途中、昼飯の供養した関係から、村東の花岡山の上に三尊仏を安置し、名を如来寺としたことが起源である。
その後、織田信長の兵火にあい、当地に移った。
本尊は長野善光寺の三尊仏の尊影を模刻した仏像であることから 善光寺式阿弥陀三尊仏 と呼ばれるもの。
善光寺の分身仏としては日本最初なので、 特に 一体分身の如来 という。
鎌倉時代の作と伝えられるもので、中央の阿弥陀如来が49.5cm、脇侍の観音菩薩、勢至菩薩が33.5cmである。
三尊が一つの光背に納まっている 一光三尊仏 で、善光寺と同様、7年に1度御開帳される。
御開帳は今年(2004)の3月28日から4月3日まで。
(ご参考) 遊行寺での照手姫伝説
遊行寺は時宗の総本山で、 藤沢山無量光院清淨光寺 が正式名称。 この寺の境内に小栗判官と照手姫のそれぞれの塚がある。 伝わる話は以下の通り。
『 敵に欺かれて毒殺された小栗は閻魔大王のはからいで蘇生し、藤沢道場(遊行寺)の上人に預けられた。 変わり果てた姿になった小栗の胸に「熊野本宮のお湯に入れたら療る」という閻魔大王の書付があった。
遊行上人は小栗を荷車に乗せ、胸札に「このものをひと曳き曳いたは千僧供養、ふた曳き曳いたは万僧供養」と書き加えた。
ひと曳きすれば僧千人が供養した功徳が得られるというので、人々は代わる代わるに曳って荷車はやがて美濃の国の青墓に至った。
小栗の妻の照手姫は流浪の末、青墓の長者の許で働いていた。 荷車に乗っている異形の者が夫とも知らず、亡くなったと思える夫の供養と思い、熊野まで荷車を曳って行くことにした。
熊野まで連れていかれた小栗は湯を浴びたところお告げの通り元通りの姿になったので、仇を討って所領を取り戻し、照手姫と幸せに暮らした。 』
田辺聖子さんは「姥ざかり花の旅笠」で主人公の小田宅子(おだいえこ)が江戸から鎌倉に遊び、藤沢のこの寺に寄ったことを記し、照手姫伝説に触れている。 その中で、この説話が広く流布したのは時宗比丘尼や熊野比丘尼たち、女人の語り部が関与しているのだろう、と述べておられるのは興味深い。
(ご参考) 円興寺と源氏について
円興寺は、青墓集落から少し離れた小川の上流にある。
源朝長などの源氏との関連は以下の通りである。
『 平治の乱(1159)で一敗地にまみれた源氏の総大将義朝は、長男・悪源太義平、次男・朝長、三男・頼朝の主従八騎で東国に逃れる途中、青墓の大炊兼遠を訪ね、落ちのびてきた。
次男の朝長は都落ちの際に比叡山の衆徒に攻められ、大腿に傷を負い、どうにか青墓まで辿りついたが、ここでも暴徒に襲われ、自刃して果てた。
遺体は白髭神社の導きで建立された円興寺の住職の手で境内に葬られたという。
一方、父、義朝は鷲巣玄光に守られ柴舟(しばふね)にかくれ、赤坂の杭瀬川から桑名を経て、愛知県野間内海の長田忠致を頼ったが、忠致に謀られ非業の最期を遂げた。
寺には義朝と義平を弔う五輪塔が残っている。 』
(ご参考) 大 垣 道
垂井宿の入口にある大垣道は、美濃路(美濃街道)のことだが、大垣に通じるので、そういう名称でも呼ばれた。
竹鼻を経て、清洲、名古屋へ、あるいは大垣で川船を利用して、熱田で東海道に合流する道である。
街道は古く、鎌倉時代、京都から鎌倉に下る場合には近江国から中山道に入り、この道を経て、熱田から東海道を行くことが
多かったようで、更級日記や東関紀行の著者もこのルートを通っている。 松尾芭蕉も、奥の細道でこの街道を歩いて
大垣まで行き、そこで、筆をおいている。
なお、大垣道については
街道を行く 美濃路(美濃街道)をご覧下さい。
後半に続く