『 中山道を歩く ー  美濃路 (14)垂井宿(続き)  』




垂 井(たるい) 宿

相川人足渡し場跡 相川を人足渡しで渡ると垂井宿に入ると、東の見付があり、宿場役人がここで大名やお茶壺道中の一行を迎えたり、非常時には閉鎖したりしていた。 宿場の江戸方は東町。  この宿場も他の宿場と同じで町内の二ヶ所で折れて枡形をつくっていた。  最初の枡形は、現在は三叉路になっていて、左に行くと、垂水駅で、 右折すると、古い面影をかなり残している家並にでた。  垂 井 宿は中山道と東海道を結ぶ美濃路の追分になる交通の要所で、宿場の長さは相川橋南の東の見付から前川東の西の見付までの七町(約766m)である。  天保十四年(1843)に発行された宿村内大概帳によると、
枡形 垂井宿は男五百九十八人、女五百八十一人、合計千百七十九人、家数は三百十五軒、本陣一、脇本陣一、問屋場三、旅籠が二十七軒となっている。 
街道から左に少し中に入ったところが「美濃紙の発祥の地」といわれ、「 垂井の泉の清水を利用して紙を漉いた 」といわれる 紙屋塚 である。
街道はその先、左に湾曲していて、二つ目の枡形である (右写真)
右に少し入っていくと、 愛宕神社とやま倉があった。  宝暦五年(1755)の大火を始め、度々大火がおきたため、寛政年間(1789〜1800)ごろ、火防の神といわれた京都愛宕神社を懇請し、西・中・東町内に祀ったものである。 
やま倉には、八重垣神社の例大祭に使われる曳山が収納されていて、五月二日〜四日、曳山の
舞台ではこの上で子供歌舞伎が演じられる。
旅籠だった亀丸屋 (注)やまという漢字は、車偏に山と書くなのだが、外字でインターネットでは使えないため、便宜上、やまと書くことにする。
枡形から見えた建物は、江戸時代の旅籠で、現在も旅館を営業中の亀丸屋である。  間口五間、奥行き六間半の母屋と、離れに上段の間など八畳間が3室あり、安永六年(1777)に建てられたものである。 浪速講や文明講の指定を受けた旅籠は江戸時代大いに賑わった、と伝えられる。 二階の連子格子の出窓などに当時の面影を残していた(右写真) 
美濃路で営業中の旅籠は、細久手宿の大黒屋と2軒なので、貴重な存在である。 
旅籠の数は時期により変動するが、天和四年(1684)に16軒だったのが、寛政十二年(1800)
には45軒と、3倍に増加している。 垂井宿は宿場だけでなく商業も盛んであったようで、
当時の様子を 木曽路名所図会では、  「 駅中東西六七町ばかり相対して巷をなす。 其余
散在す。 此辺都会の地として商人多し。 宿中に南宮の大鳥居あり。 」 と、紹介している。
問屋場跡 この先の左側に問屋場(といやば)だった金岩家が残っていた (右写真)
問屋場(といやば)は、寛政年間、この宿に3軒あり、50人50疋の人足・馬の手配を行っていた。   金岩家は代々弥一右衛門を名乗り、問屋と庄屋を勤めた家柄で、間口は5.5m、奥行は7.5mの屋敷である。   問屋場には年寄・帳付・馬指・人足指などのいろいろな役割の役人がいて、宿間の荷物の取次ぎや相川の人足渡の手配を行っていた。
しかし、幕末になると、物資の移動が激しくなってきて、人馬が不足したとき調達する助郷の制度でも思うようにいかなくなった。   幕府は人馬による宿駅制度を維持するため、五街道での荷車の使用を禁止していたが、五街道の先陣を切って小型の大八車の使用を
許可したのである。  このことから見ても、中山道と美濃路の追分であったこの宿場は商品
や特産物の流通が活発であったことの証拠である。
南宮大社大鳥居 100mも歩いただろうか、少し奥まったところで建物工事が行われていた。  車が数台とまっていたので、なにげなく目をやったら、偶然、女性が出てきて、ここが本陣跡という。   垂井宿には本陣と脇本陣がそれぞれ1つあったが、ここは、栗田本陣のあったところのようである。  本陣は建坪百七十八坪の大きさで、門構えや玄関などあったが、明治維新後、学習義校(小学校)になり、その後役場になったが、現在は個人病院になっていた。
その先に鳥居がある。 南宮大社の大鳥居(石鳥居)である (右写真)
「寛永十九年(1642)、将軍徳川家光が南宮大社の社殿を再建した際、石屋権兵衛が約四百両で造った」といわれる明神型石鳥居で、鳥居の横幅(内側)は4m55cm、頂上までの高さ7m15cm、柱の周りは2m27cmある大きなもので、家光が関係しているだけあって、立派なものだった。 鳥居のまわりでは、月に6回、5・9日の日に市が立つ六斎市が立ち、近郷
から集まった人々で賑わったようである。 鳥居をくぐって南へ向かう。 

垂井の泉 少し歩くと右手に玉泉寺という寺があり、 寺境内に隣接して樹齢800年、幹回り8.2mの
欅(けやき)の大樹(県指定天然記念物)根元から清水が湧きでていた (右写真)
垂井の泉と呼ばれ、垂井の地名の起源とされる歴史に残る泉で、岐阜県名水50選にも選ばれている。 木曾名所図会の垂井清水の項には、「垂井宿玉泉寺という禅刹の前にあり、清冷にして味わい甘く寒暑に増減なし。ゆききの人渇をしのぐに足れり」と記されている。 清水は古代より枯れることを知らず、中山道を旅する人々の咽を潤し、地元の人々の生活に利用されてきた。 
古くから和歌などに詠まれており、平安時代の藤原隆経”の歌( 詞 花 集 )
      『  昔見し たる井の水は かわらねど うつれる影ぞ 年をへにける 』
元禄四年、芭蕉もここで
      『  葱白く   洗ひあげたる    寒さかな    』
と詠んでいる。
專精寺 隣にある 專精寺 は関ヶ原合戦に西軍に参加した平塚為広の 垂井城 があったところ
である (右写真)
せっかくなので、南宮大社まで足を伸ばすことにした。
南に向かって進み、国道を横切って行くと、大鳥居が現れた。 コンクリート製だと思うが、
新幹線の車窓から見えるやつである。  東海一のスケールを誇り、新幹線の車窓から
間近に眺められる鳥居として有名のようだ。
さらに進むと南宮山の山裾に、 春日局が復興したといわれる 南宮大社 の社屋が現れた。
玉泉寺から1kmくらいの距離だったろうか? かなり歩いた気がしたが ・・・・・
南宮大社 南宮大社は、 美濃国一の宮 として創建されたが、 関ケ原合戦で社殿のすべてが焼失してしまった。
現在の建物は徳川三代将軍家光が春日局の願いを受け、再建したもので、社叢の中に朱塗りの回廊、楼門があり、社殿も立派なものだった。 
(15棟が国重要文化財指定)
祭神は 中山金山彦神 という金属を司る神なので、全国の鉱工業者の信仰を集める神社でもある。 
(詳細は巻末参照)

寺の西方には、三重の塔が美しいといわれる 真禅院 がある。 
今回は時間の関係で寄れかったが、機会があれば紅葉の頃行ってみたい。
長浜屋跡 街道まで戻り、西に向かう。 鳥居の先に、金岩脇本陣があったが建物は残っていない。 
脇本陣は宿場が開設した当時はなく、天保弐年(1831)ごろになって設置されたようで、
金岩家が幕末まで運営した。 建坪百三十五坪の建物に玄関・門構があるものだったが、明治維新で宿場制度がなくなり、金岩家は大阪に移り取り壊されたが、一部のものが本龍寺に移築された、とあった。  少し行くと、右手に元旅籠の長浜屋の建物がある。 
戸は閉まっていたが、休憩所になっているようである (右写真) 
「天保弐年(1831)十三代将軍徳川家定に嫁ぐ皇女和宮の一行、総数3200名が垂井宿に宿泊したおり、御輿担ぎ23名が泊まった」 と、いう記録が残っているという。 
油屋宇吉家跡 旅籠は鉄道の開通により旅人が減少したため廃業し、酒屋となり、平成十年ごろまでは営業していた。 その先の左側に、江戸時代、油屋を営んでいた屋敷があった。 
油屋宇吉家の跡である。  宇吉家は多くの人を雇い、油商売を営んでいたが、明治の初め、小林家が譲り受け、亀屋という名で旅人宿をしていたという家で、土蔵造りに格子を入れ、軒下にはぬれ蓆かけの釘があり、油屋としての面影を残していた (右写真)
その前にあるのが、本龍寺で、明治十一年十月二十二日、明治天皇が北陸東海両道御巡幸のとき、この寺で御小休された。  
本龍寺 松尾芭蕉ともゆかりの深い寺である (右写真)
門前には 代々高札役の藤井家が管理していた、横幅約5m、高さ約4m、奥行約1.5mの高札場があったされる。 
「親兄弟を大切にすること。 キリシタンは禁止。 人馬賃表」など6枚の制札を掲げ、広報板的な役割を果たしていた。 
大鼓楼は残っていた。 
寺の山門や書院玄関は金岩脇本陣の門と玄関を移築したもの と、いう説明があったが、
書院玄関 山門は別として、書院玄関はなかなかのものと思った (右写真) 
芭蕉は奥の細道を終えた2年後の元禄四年(1691)の十月、寺の第八世住職・規外を訪ね、冬籠りをした。  
その際、規外は、 『  木嵐に  手をあてて 見む  一重壁 』   と、詠み
芭蕉は、       『   四日五日の    時雨    霜月   』 
           『  いささらは  雪見にころぶ   処まで   』      
などの句を残している。
作り木塚 本堂の脇に、 時雨庵と作り木塚がある (右写真)
作り木塚は、芭蕉没後のかなり経った文化六年(1809)に、住職の里外と白寿が
芭蕉が詠んだ句     『  作り木の   庭をいさめる   時雨かな   』
に対して、塚をつくり、句碑を建立したことに由来する。
安政弐年(1855)、化月坊は住職世外と時雨庵を建て、句会を開き句碑を建立している。 これらをみても、美濃は俳句が盛んだったた土地という印象を強く受けた。 
なお、時雨庵には芭蕉像が安置されているが、歳月が経ち、かなり痛んでいる感じだった。 
八重垣神社 宿場のはずれの右奥に八重垣神社があった (右写真) 
祭神は素盞嗚尊と稲田姫命である。 南北朝の争乱で土岐氏に守られて当地に来ら れた後光厳天王が南郡追討を発願し成就したので、山城の祇園社を勧請し、 牛頭天王社と称したのが創建の謂われとある神社である。 
その他にも、後光巖天皇行在所や日目上人法華塚があったが、説明は省略する。
垂井は予想した以上に、見るところが多いところだった。
宿場のはずれは西の見付である。 
広重の版画 大名行列を迎えたり、非常事態の時にはここを閉鎖したところで、小高い丘の上には石碑があった。 道脇に安藤広重の版画のプレートが置かれているが、それには雨が降る中山道の松並木の中を大名行列が西の見付へ入ってくる垂井宿の様子を描いていて、当時の雰囲気を伝えていた (右写真)
今回は東赤坂から旅だったので歩いた距離は比較的短かったが、見るところが多く充分満足できる内容であった。 
垂井駅に行き、米原から来た3両の各駅停車で大垣へ行き、そこから特別快速にて名古屋に帰った。 

(ご参考) 南 宮 大 社
社伝には、「創建年代は不詳ではないが、神武天皇即位の年にこの地に祀り、東山道の要路を鎮めたもの。 その後、崇神天皇の時代に南宮山山上へ、その後現在地に遷座し、国府の南、あるいは古宮の南であったため、南宮という。 延喜式には名神大社で、美濃国一の宮として祀られてきた。 関ケ原合戦では、社殿のすべてが焼失してしまったが、徳川三代将軍・家光が春日局の願いを受け、寛永19年に再建したものである。 当初、21年毎に式年遷宮が行われていたが、応永年間からは51年毎。 最近では昭和47年に行われた。 なお、春日局はここで、家光病気平癒の祈祷や家綱誕生の祈祷を行っている。 祭神は 中山金山彦神(金山彦命) という金属を司る神なので、全国の鉱工業者の信仰を集める。 」というようなことが書かれている。
垂井は、日本武尊が来たとあるところで、南宮大社は鉱山の神を祀るが、その経緯は不明である。 神話では、金山彦大神は天津神から生まれたことになっているが、もともとは南宮大社の南にある南宮山(標高419m)をご神体にした自然物に根ざした神だったと思う。 美濃国南西部の住民が祀る山の神(国津神)だったものが金属の精錬などに携わった伊福部氏など、と結び付き、天津神になったのではないか?

(ご参考) 真 禅 院
西美濃33霊場の第17番札所で、 行基が創建し、南宮大社別当寺となった、と寺伝に伝えられている古刹である。
境内には、県下最古の梵鐘、国指定重要文化財の本地堂や三重の塔、北条政子の寄進と伝わる鉄塔があり、春は桜、秋は紅葉の名所である。
南宮神社同様、関ケ原合戦の兵火により炎上したが、家光が再建した。
明治初年の神仏分離令によって、南宮大社の一角から現在地に移されたものである。

(ご参考) 谷川健一氏の見解
平成20年5月28日の日本経済新聞の私の履歴書で、谷川健一氏は、南宮大社の ふいご祭を見学したことから、伊冨岐神社やそれを氏神とした伊福部が、金属精錬に 関係がしていたことに気づいたと述べておられる。 以下、参考までに転載させて いただく。 

「1975年十一月八日、私は岐阜県不破郡垂井町にある南宮大社のふいご祭を見に いった。 南宮大社の祭神は金山彦神である。 その日の祭りは、神社の拝殿の正面 に設けられた祭場で、ふいごを動かし、炉の炭火をおこしたあと、炉の火に焼いた 鍬先を禰宜が金槌で鍛えるだけの素朴なものだった。 祭りが終わったあと、社務所 で宮司の宇都宮敢から話を聞いた。 それによると、垂井町では伊吹おろしと呼ばれる 冬の西北風がつよく、むかしは、たたらを風の方向にむけておくと、足でふまないでも、 風が炉に入って炭をおこすことができたという。 その時、私に閃いたのは、「吹く」 というのは銅や鉄を精錬することを意味することから、南宮大社の近くにある 伊冨岐(いぶき)神社も、またそれを氏神とする古代の伊福部(いふくべ)氏も、 金属精錬に関係があるのではないかということであった。 
私の連想はとっさの間に花火に火がついたように燃えはじめた。 早速家に帰って 調べてみると、 伊福部氏に関係があると思われる伊福郷が「和名抄(わみょうしょう)に六ヶ所 記されているが、そのうち四ヶ所が銅鐸などの出土地であることが分った。  そこから銅鐸の製作には伊福部氏が関与していたのではないかという仮説をたて、 それを実地に検証する旅行を三年間、毎月のようにくらけした。 私が手がかりに したのは地名と神社であった。 
炉に風を送ることをその姓名に冠した伊福部氏を主役に79年に「青銅の神の足跡」 を著した。 この書物は柳田国男批判も含み大きな反響を呼んだ。 柳田によれば 、「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)」あるいは「目一つの神」というのは、 大昔、祭りの日にいけにえとなる者があらかじめ一眼をつぶして置かれた習俗の名残り である、というものであるが、私説では銅や鉄を溶解する仕事にたずさわる労働者が、 炉の火を長く見つめすぎて一眼を失したことが「目一つの神」の名の由来である、 とするのである。 私説は現在では大方の研究者や読者の承認を得ている。 」

(訪問)    平成16年3月
(追加記述)    平成20年5月


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かうんたぁ。