美濃と近江の国境には、 寝物語の里 と呼ばれるところがあり、そこには、ロマン溢れる逸話が残っていた。
近江路の最初の宿は柏原宿(かしわばらじゅく)。
福助人形の原型といわれる人形があるよもぎもぐさの店や郷宿(ごうやど)が残っていた。
平成十六年(2004)三月十七日、今日は垂井宿から関が原宿、今須宿を経て、柏原宿まで歩く予定。
中山道は日本橋から草津の追分までなので、厳密に言えば守山宿までが中山道の宿場であるが、東海道と共通する草津宿と大津宿を加えて、近江路十宿と呼ばれている。
今須宿の見学を終え、近江路最初の宿場・柏原に向かう。
宿場を出て少しいくと、坂があり、「 車返し地蔵尊 」 の石柱が建っていた (右写真)
坂には次のような逸話が残っていた。
『 文明の頃、不破関屋が荒れ果てていて、板ひさしからもれる月が風情があると聞いた
公家が訪れることになった。 訪れることを聞いた不破関の人たちはこれでは失礼に
なるとあわてて屋根を直した。 公家は近江の国から美濃に入る坂道でこのことを知
り、車を引き返してしまった。 公家は京都で著名な 二条良基 である。 板ひさし
からもれる月が風情がある、と思い出かけてきたのに、屋根を直されたのでは行く
価値がないと思ったのである。 それ以来、 車返しの坂 と呼ばれるようになった。 』
坂を上ると、中央の祠の中に大きな石仏が祀られていた。
車返し地蔵尊である (右写真)
その脇の祠(ほこら)には、小さな石仏が数多く祀られていたが、
石仏の多くは、街道にあったのを国道工事の際、ここに集められたのではないだろうか? そんな気がした。
坂は行き止まりになっていたので、もとの道に戻った。
坂を下ると、バスが止まっていた。
関ヶ原駅行きのバスだが、時間になると、乗客がいないまま、出発していった。
このあたりにも関ヶ原合戦の遺跡があるので、ハイカーのためのバスかも知れない。
国道を横切り、鉄道の踏み切りを渡って行く。
少し歩いた右側に、芭蕉の句碑があった (右写真)
平成になって建てられたもので、
『 正月も 美濃と近江や 閏月 』
とあった。
そこから百メートルほどで、美濃と近江の国境にある、 長久寺集落に入った。
「 旧蹟寝物語・美濃国不破郡今須村 」 と刻まれた石碑があった (右写真)
「 国境の狭い溝ひとつ挟んで、隣の旅籠どうし寝ながら話ができた 」 ということから、 寝物語の里 と呼ばれたところである。
寝物語については、源義経の妻、静御前にまつわる別の話も残っている。
『 文治年間、源義経が、兄の頼朝と不和になり、奥州の藤原秀衡の許に落ちていった。
義経の妻・静御前は義経の跡を追ってここまで来て、近江側の宿に泊まった。
国境を隔てた隣の美濃側の宿で、義経の家来、江田源造広綱の声が聞こえたよう
なので、寝ながらに壁越に尋ねると、本人だった。 静御前は非常に
喜んで、
「 義経を追ってここまで一人できたが、心細いので、奥州までつれていって貰え
ないか!! 」 、と頼んだところ、承諾してくれた。 』
それが寝ながらの物語であったので、その名が付いたというのである。
(関ヶ原町発行の資料による)
静御前ではなく、義朝を追ってきた常盤御前であるという説もあるようだ。
江戸時代でも現代でも、県境に関してこのようなロマン溢れる話は類はなく、秀逸に思えた。
太田道灌もこの故事を知ってか、
『 ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝ものがたりも 忍びばかりに 』
と詠んでいる。
安藤広重の木曽海道六拾九次今須宿は、ここを描いている (右写真)
美濃側は両国屋、近江側はかめやという旅籠が並んでいて、寝ながらにして話ができるくらい接近して建てられていた姿が、広重の絵からも感じとることができる。
旅籠のあった場所には、最近建てたらしい現代風の建物があった。
その写真を撮っていると、反対側でセール風の男と話をしていたおばさんが突然会話を
やめ、「そんな写真をとってもしょうがないよ!!とるなら、こちら!!」と、声をかけて
きた。 二軒建っている家を「 現在はこうです!! 」と写しておこうかと思ったが、下らん
といわれれば下らんと思った。
指さした先を見ると、先程の「 美濃国不破郡今須村 」石碑の隣に溝があり、その右側に
「 近江美濃両国寝物語 」という石碑があるではないか!! (右写真)
同じようなものが二本立っているとは思わなかったので大変驚いた。
近江側の石碑前には、ご丁寧に 初代標柱基礎石 と表示された敷石が置かれていた。
当県の方が古いのだといいたいのだろう。
岐阜県と滋賀県とのライバル意識がむき出しだ!!、と感じたが ・・・
近江側に数十m入ったところに、寝物語を解説した石碑もあった。
先程の境界線で落合宿から歩いてきた美濃路の旅も終りである。
百キロはないけど、
九十キロほどのたびであった。
ここから、いよいよ近江路である。
その先には京都三條!!と、江戸時代の人ははやる気持ちを持ったのではないか?
私も京都が少し近づいたという感じがした。
集落には、廃寺跡の石碑もあったが、集落を抜けると、右側が山になり、楓並木になった。
街道に松並木や杉並木は多いが、楓並木は珍しいと思った (右写真)
杉や松より季節感が感じられよいかもしれない。
ところがここに、「痴漢が出るから注意する」よう呼びかける看板があったのである。
「学童は痴漢を避けるため早く帰宅するように!!」という趣旨のものである。
いわれてみれば、大変静かで不気味なところである。
そのあと、鳥居本近くでも、同趣旨の看板を見たので、滋賀県には痴漢が多いのか!?とと思ったが、心配ゆえの看板なのだろう。
少し行くと、 神明神社の鳥居があった (右写真)
神明神社は、 延宝五年(1677)に創建された柏原宿の総社で、 祭神は天照大神である。
鳥居前の灯篭は、右は寛政十二年(1800)、左は享和三年(1803)に建立されたものである。
その傍らの案内に、旧東山道とあったので、入っていったら、ブッシュでその先は行けず、引き返した。
柏原宿へもう一歩というところに、 白清水( しらしょうず、と振り仮名が振られていた ) があった。
『 古より白清水または玉の井、と呼ばれた泉は、古いようで、
古事記に 「 倭建命(やまと
たけるのみこと)が伊吹山の神に悩まされたが、この泉で正気づいた 」
とある。
また、中世に発行された 小栗判官照手姫 にも、 「 姫の白粉で、清水が白く濁った 」
ことから、泉の名が付いた。 』
と案内にあるが、水が干からびていて、それを想像する
のは難しかった (右写真)
東海道本線の踏み切りでは遮断機が下りたのでしばらく待った。
周りは少し暗くなってきたので、ライトをつけて電車は通りすぎていった。
鉄道線路を越え、歩いて行くと右側に祠があった。
照手姫笠地蔵 とある地蔵堂である。
地蔵堂の中には二体の石仏があるが、右側の背の低い石像が照手姫笠地蔵 (右写真)
この地蔵には、中世の説話集 小栗判官照手姫 にまつわる話が残る。
『 毒酒を飲まされた夫(小栗判官助重)を助けるため、照手姫は、路端にあった石地蔵を見つけ、自分の笠をかけ、一心にいのったところ、地蔵の告示を受け、その御蔭で、夫を治すことができた。
姫はお礼に寺を建てて、石地蔵を本尊として祭った。 』
と、いうものである (詳細は巻末参照)
話に出てくる寺は、先程通った神明神社鳥居の東にあった、とされる 蘇生寺 である。
延喜八年(930)に建立された真言宗の寺だったが、慶長の兵火で焼かれ、その後は再興される
こともなく、本尊の石地蔵のみが残り、照手石地蔵として親しまれてきた、というものである。
こう度々、照手姫の話に触れると、実在の人物のような気がするのは不思議である。
(ご参考) 蘇生寺と照手姫伝説
中世の説話集 「 小栗判官照手姫 」 にまつわる話は各地に残っているが、照手姫笠地蔵と蘇生寺もその一つである。
『 常磐国小栗の城主・小栗判官助重が毒酒を飲まされ、落命の危機にあいながら一命を取り止めた。
愛妾の照手姫はそうした夫を車に乗せ、狂女のようになって懸命に車を引いて、ここまでたどりついた。
そして、野ざらしに路傍で立つ石地蔵を見つけ、自分の笠をかけ、一心にいのったところ、
地蔵は、「 立ちかえり 見てだにゆかば 法の舟に のせ野が原の 契り朽ちせじ 」 と告げた。
勇気をえた姫は喜んで熊野へ行き療養の甲斐あって、夫は全快した。
姫は再び当地を訪れ、お礼に寺を建てて石地蔵を本尊として祭った。 』
という話である。
この物語にでてくる寺が延喜八年(930)に建立された 真言宗の蘇生寺 である。
近くにあった長久寺(廃寺)の末寺として栄えたが、慶長の兵火で焼かれ、その後、再興されることはなかった。
本尊の石地蔵のみが残り、 照手石地蔵 として親しまれてきた。
(ご参考) 司馬遼太郎の街道をゆく 二十四 近江散歩
司馬遼太郎は近江散歩と題して、昭和五十九年一月から七月の週刊朝日に掲載、その後、朝日新聞より上記の名前の本を
出版している。
その中の寝物語の里の編では、近江路で行きたいと思いながら果たしていないところの一つとしてあげているのが寝物語の里
で、そこを訪れたことが書かれている。
「 近江路のなかで、行きたいとおもいつつ果たしていないところが多い。 そのひとつに寝物語がある。
そこは美濃と国境になっている。 山中ながら、溝のような川(?)が、古い中山道の道幅を横断していて、
美濃からまたげば近江、近江からまたげば美濃にもどれるという。
ねものがたりの里など、地名として、一見、ありうべきでなさように思えるが、しかし中世にも存在し、
近世ではこの地名を知っていることが、京の茶人仲間では、いわば教養の範囲に属した。 」 と書き、
「 別名を長久寺村といい、近江国奥地志略のころはすでに長久寺のほうが正称だったらしい。
志略によると、かって長久寺という寺があったため、この村名がおこった、としている。 一方、長競ともいい、寝物語ともいう、とある。
近江美濃両国の界なり。 家数二十五軒、五軒は美濃、二十軒は近江の国地なり。 と、戸数まで書かれている。
さらに、この書によると、両国のさかいはわずかに小溝一筋をへだてているだけだ、という。
二十五軒の家が、まさか壁一重に共有する長屋であろうはずもないが、しかし壁ごして、美濃の人と近江の人とが寝物語する、
というところからその地名ができた。
ひょっとすると、美濃・近江の国境の二軒だけが合壁の長屋で、その二軒長屋の床下を国境の小溝がながれ、
両国の人が壁ひとつをへだてて仲よく寝物語していた時代があったのこもしれない。 」 と書いているが、
司馬遼太郎と須田画伯は車で訪れたこともあり、その場所を見つけるのに苦労している。
須田画伯はその場所は残っていないと不安視したが、遼太郎は旧中山道に今でもあると信じて、その場所を探す。
「 杉木立をくぐりぬけると、道は平地におりる。 そのあとガードをくぐったり、踏切をこえたりして、
車内で揺れうごくうち、再び広重の絵に描かれているような古街道らしい道に出た。
両側に、家がならんでいる。 小さな町家ふうの家もあれば、農家ふうの家もある。 ガレージもある。
じつはここが寝物語の里だったのだが、気づかずにゆきすぎた。 」 とあり、
最初は通り過ぎてしまい、その後、引き返して見つけることができたが、期待に反し、がっかりした様子である。
その描写であるが、 「 なるほど路傍に花崗岩の四角い碑があった。
腹がたつほど何も象徴性ももたない無性格な碑である。 」 とあり、
また、 「 これを見過ごした理由のひとつに、国境の川という先入観もあった。
いかに小溝と書かれていても、橋ぐらいあるだろうと予断していたのがよくなかった。
橋などはなく道路が溝をおおっている。 道路の下に、下水道のようにして幅五十センチほどの溝がある。
これが国境線だった。 溝は両側が石垣でかためられているが、野普請めいており、両側は小畑になっている。 」 と、
その時の様子を記している。
遼太郎は、近江側の畑から溝を越えて美濃側の畑へ移り、国境を越えたこと。
国境にあった家は長屋ではなく、独立した家屋だったが、それでも、寝物語は聞けるだろうという感想を得ている。
また、途中にあった芭蕉の句碑の 「 正月も 美濃と近江や 閏月 」 の句は、
野ざらし紀行の 「 道のべの むくげは 馬に くはれけり 」 や 「 露とくとく こころみに 浮世 するがばや 」
などからくらべると、いい句ではなかったような気がする、と書き、駄作というような評価を下している。
地蔵堂の先の床屋の前に、 東目付跡 の表示があった。 ここから柏原宿である。
柏原宿は中山道六十番目の宿場町で、伊吹山の南麓に位置していた。
天保のころの人口は千四百六十八人、家数三百四十四軒で、中山道六十九宿の中で、宿高は四番目だったとある。
壬戒紀行 にも、 「 柏原の駅につく。 駅舎のさまにぎはいし。・・・・ 」 とあり、これからも繁盛振りが分かる。
しかし、今回訪れた町の姿からは往年の賑わいはとても想像もできなかった (右写真)
喫茶、英会話教室という看板があったが、それらしい店もなく、し〜んとしていた。
柏原宿は、西目付までの距離は十三町(1420m)と、長い宿場である。
本陣と脇本陣がそれぞれ一。 旅籠は二十二軒あったが、隣の宿の距離が近いことを考えると多かったといえるだろう。
このあたりは、東町であるが、あたりがかなり暗くなってきたので、足を速めた。
右側には秘仏安置竜王院跡の石柱があり、奥まったところにお堂が建っていた (右写真)
そして八幡神社を右に見ながら歩いた。
時計を見ると、十五時二十分なのに、冬のどんより曇っていることもあってか、周りが薄暗くなっている。
この先まで行くのは無理と思った。
車道を横切り右に入ったところに、JR柏原駅があった。
駅の壁に、柏原駅由来が貼ってあったが、内容が今一つ分からず、頭を捻るしろものだった。
伊吹山の影響で日が早くも沈み行くなかで、名古屋へ帰る電車を待った。
ほどなく、東海道線で一番短いといわれる二両編成の電車がホームに入ってきて、垂井宿から歩いた今回のたびは終わった (右写真)
途中に店屋がなく、昼飯にありつけなかったので、チョコレートとお茶ですごしてきたから、お腹が鳴った。
名古屋駅のホーで立ち食いそばを食べ、やっとほっとしたのである。
平成十六年三月最後の週の二十三日、再度、柏原に行く。
今回は柏原駅(右写真)から柏原宿、醒ヶ井宿、番場宿を経由し、彦根郊外の鳥居本宿まで歩く予定である。
前回の反省を踏まえ、名古屋駅で弁当とお茶を買い、持参した。
駅から前回歩いた中山道まで出て、西に向かって歩き始める。
柏原宿は東町、市場町、今川町と西町で構成されている。
東町、中町、西町で構成されている宿場が多いが、ここは中町がなく、市場町と今川町がそれにあたるわけである。
家の前に、蝋燭屋とか、旅籠と書いた木札が張られているのであるが、これは宿場時代の家の職業を表示している感じだが、そういうことの説明はどこにもなかった。
それはともかく、旧蝋燭屋の格子のつくりはなかなかすばらしいものだと感じた (右写真)
左側の はびろ会館 の前の木札には、 荷倉跡 とあり、荷倉は公用荷物引継のための一時保管用倉庫のことで、東西に1棟づつあった、とあった。
柏原を詠った歌で、
( 一条兼良 ) 『 ふく風は まだ来ぬ秋を 柏原 はびろが下の 名には隠れず 』
( 冷泉為相 ) 『 おいくだる 山の裾のの 柏原 もどつ葉交り 茂るころかは 』
とあるが、この中の はびろ とはなにか?
反対側の民家の壁には、 脇本陣・問屋役 と書いた木札が貼られていた (右写真)
説明によると、「 元脇本陣があったところで、その隣の民家と郵便局も敷地であった 」 とある。
南部氏とあるが、松浦氏の間違いではないだろうか?
その先には、郵便局が見えた。
その数軒先の奥まった家の前には、「問屋役年寄吉村逸平」と「映画監督・吉村公三郎の
実家、問屋役年寄、祖父は柏原宿最後の庄屋」という木札があった。
また、「 東の庄屋吉村武右衛門 」 の木札が掲示されている家の右側に高札場跡の表示があった (右写真)
このあたりが江戸時代の市場町の中心であろう。
問屋跡もあった。 問屋が六軒(開宿当時は二十軒を越えた)もあったというから、物量の往来の激しさを物語るものである。
また、問屋役人を務める年寄役の家も八軒あったという。
右に入って行くと、古刹の 成菩提院 があるが、先を急ぐので寄り道はしなかった。
本陣跡 も民家に表示されていた。 工事中で、大工が入っていたが、どこにでもある最近の家だった。
宿場は明和年間(1664〜1672)に二度大火にあっているが、その後は大火にあったという記録はない。
それなのに、本陣、脇本陣や問屋場など公共の施設が跡かたもなくなくなっているのは、それだけ時代の波が激しかったということだろう。
造り酒屋の木札があった家は、古い家なのだろうか? (右写真)
市場川を渡る橋の手前に、秋葉神社常夜灯があった。
これは安永六年(1777)に立てられた古いものである。
ここには高札場があったところでもあるが、橋を渡ると、今川町(?)である (右写真)
柏原歴史館に行けばくわしいことが分かるかも!?と思ったが、残念ながら休館日であった。
歴史館の建物は大正六年に松浦氏により建てられたもので、仏間・備後の中継ぎの畳・栂の柱など贅沢な造りで、平成十二年(2000)に、国登録有形文化財に指定された。
旅といえばてくてく歩くしかなかった江戸時代に、旅の疲れをとるにはお灸が最高で、もぐさはその必需品であった。
伊吹山は古くから薬草の宝庫として知られ、もぐさの原料であるヨモギを産したが、麓に近い
柏原では、伊吹山でとれたもぐさを加工し、全国に販売していた。
全盛期には10軒ほどのもぐさ屋があったというが、現在営業するのは 伊吹堂亀屋佐京商店 、この店だけである。
広重の描いた 柏原宿 にもこの店が描かれている (右写真)
江戸や大坂の大消費地で宣伝をおこなって繁盛させたのが、この店と伝えられていて、 「 江洲柏原 伊吹山のふもと 亀屋佐京のきりもぐさ 」 と、 吉原の遊女に歌わせたというから、現在のコマシャルソングの草分けといえよう。
店の居間には 巨大な福助人形 が鎮座していた。
福助人形は店の番頭がモデルといわれ、効能書きにその姿が刷られ、店のトレードマークとなり、全国に普及していったようである。
亀屋前に、江戸時代に造り酒屋だった、という古い建物が残っていた (右写真)
「 宿には、江戸時代、四軒の造り酒屋があった 」 という記録があるが、脇本陣付近の2軒も含め、いずれも今は営業していなかった。
右側にある 日枝神社 には、 山王権現、毘沙門堂 とあった。
その先の両側には、古い家が多く、白く塗られた漆喰の家や卯達を挙げた桟の多い家などが並んでいた。
左側に滋賀銀行の前身である 柏原銀行跡 があった。
漆喰の大きな屋敷だが、ところどころ壁は落ちており、中はどうなっているのか分からない。
明治に開業したが、昭和初期に廃業したとあるので、取り付け騒ぎがあった時期に
やめたものと思われる。
明治時代に他に先駆けて銀行が創業されたのは、もぐさ商売のよる蓄財と全国との交易網
があったからと、思われる。
右側の道標には、「 やくし江の道 」、「 従是明星山薬師道 」
「 享保2年(1717) 」と陰刻されているが、 三字体 という非常に珍しいものである (右写真)
清滝道は 清瀧寺徳源院 への一キロほどの道である。
清瀧寺は、京極家の墓所で二十数の印塔と湖北唯一の三重塔がある、とある寺である。
清滝道に入る手前にあったのは 元旅籠である。
旅籠に使われた建物かどうかはわからなかったが、その雰囲気はあった。
清滝道との四辻にある駐車場の一角に御茶屋跡の看板があった
『 徳川家康は天下を治めた跡も、数回上洛したが、その時には、地元の有力者の家に宿泊した。
二代将軍秀忠は元治九年(1623)ここに殿舎を新築、以後御殿番を置いて守らせた。 三代将軍家光が上洛の際使用したが、それ以来、将軍の上洛がなくなった。
管理費もかさむことから、元禄弐年(1689)に廃止された。 この間利用されたのは4回のみである。 』 と、あった。
この先の街道筋にも古い家が残る。 加藤家で、柏原宿で一軒現存する 郷宿(ごうやど)跡である (右写真)
郷宿とは脇本陣と旅籠の中間で、中間武士や公用で旅する庄屋などの休泊に使用された。
少し歩くと、家並みが無くなって行く。
王子神社、王子古墳”などを案内した看板を過ぎ、右手にこんもりした山が見えてきた。
数軒の家が建つところに、石造りの 金比羅常夜灯 が立っていた (右写真)
文化十二年(1815)に建立された古いものである。
丸山橋の下に流れるのは中井川。
橋を渡ると、右側の山は迫ってくる。
左には田畑が広がる。
左側に一里塚が現れた。
柏原の一里塚で、復元されたものだろう (右写真)
傍らには、柏原一里塚跡の石碑があった。
江戸時代には松並木が続いていたようであるが、松は3本だけ並んであった。
その下に 中山道柏原宿と表示した石柱があったが、それほど古いものではないようだ。
江戸の宿場絵図に、松並木の中に 西の目付 があったように描かれているので、表示がないのではっきりしたことはいえないが、きっとこのあたりであろう。
他の宿場は中心地区のみが宿場で、はずれは別の村になっていることが多い。
柏原宿は人も住まない郊外から目付を置いて監視していたのだろうか?
それとも民家があったのか?
ここで、柏原宿は終わる。
(ご参考) 司馬遼太郎の 「 街道をゆく 二十四 近江散歩 」の柏原宿
司馬遼太郎の 「 街道をゆく 二十四 近江散歩 三 伊吹のもぐさ」 で、柏原を訪れたことを記している。
「 柏原の宿場は伊吹山の南麓にある。 伊吹山を胆吹山とも書く。 古語で呼吸のことを息吹という。
伊吹山は、たえず風や雲を息吹いている。 古代人の山岳信仰では、山からおろしてくる風は神の息吹きであるとしていた。 」 と記し、
「 古代のひとびとがこの山をたえず息吹いている精霊とみただけでなく、ふしぎに薬草が多く、
いかにも奇(く)すしき山とみていた。 その中でも、灸のもぐさが代表的である。
効能の高い灸には伊吹もぐさが使われねばならないとされてきたが、
その原料であるよもぎは、伊吹山の八合目あたりに自生しているものがもっともいいという。 」 と書いている。 また、
「 江戸期に、この山中の宿場で、街道に面してもぐさ屋が十数軒もあり、明治後は一軒きりになってしまったが、
江戸期はどの店も繁昌していた。 中山道を往来する旅人は、伊吹山の南麓の柏原宿場に入ると、たいていもぐさを買う。
とくに参勤交代のための大名行列がこの宿場にとまったりすると、ひとびとはあらそって江戸や国もとのみやげに袋入りのもぐさを買った。
おもしろいことに、どのもぐさ屋も亀屋という屋号を名乗っていた。
鶴は千年、亀は万年という、その亀のイメージで薬効を象徴させていたのである。 」 とも、書いている。
伊吹もぐさが全国的に有名になったのは、松浦七兵衛によるとあり、松平定信が老中の時代に江戸に出たが、
江戸には行商をしながら上り、江戸の中を歩いて売り広め、金をためた。
「 利益が積みあがると、吉原へゆき、いっさいを散在した。 芸者を揚げ、大夫を買い、それをくりかえすうちに、
廓の評判男になったが、そろそろ潮時であるとみておおぜいの芸者を呼び、酒宴をひらいた。
そのときの七兵衛のあいさつの口上が、亀屋佐京家に伝わっている。 」 と書き、
七兵衛が芸者達に 「 今宵は皆に注文があるが、聞いてくれないか 」 というたら、
居並ぶ芸者衆が 「 私らで聞ける事なら御聞します。 」 と答えたので、
「 そうかそれでは私ももうけては又吉原へ散らしにくるよ、元来私は江州柏原の艾商人であるから、
おまい達はこれから毎夜の御客の宴席で歌う時に、伊吹艾の歌を交ぜて三味線に合して歌ふてくれまいか 」 といえば、
芸者等は 「 其歌は何といふのですか 」 「 其歌か? 其歌は何でもない平凡な歌さ 」 といい、
「 江州柏原 伊吹山のふもと 亀屋佐京のきりもぐさ といふ一つじゃ、さあ皆で歌ふて見よ 」 と云えば、列席の芸者達は面白半分に歌いました。
当時の吉原は流行の源泉のような機能をもっていたので、この単純なCMソングは大いにはやった。
また、七兵衛は多くの売り子を使って、
「 エー、名物伊吹艾で御座い、此艾で灸治すれば病の神はにげて仕舞、万病必ず全快は受合です、エー名物伊吹艾、 」 と、江戸市中を振り売りして歩かせた。
このようにして大成功を収めた七兵衛は柏原に戻ると、五十三ヶ所の田畑を購入して大地主になったという。
遼太郎は以上の話を紹介しているが、現在でもただ一軒だけ残る亀屋佐京の祖先の話である。
また、亀屋佐京の家は、安藤広重の木曽街道六十九次の浮世絵に描かれていることも紹介し、店の一角に休憩所を設け、
無料ですばらしい庭園が見えるようにしたことも紹介している。
亀屋佐京の祖先が近江商人の血をくむものとして、宣伝と商才にたけていたこと。
また、亀屋佐京家の屋敷の中にも訪れて、現在も立派なことなどをかなりくわしく紹介している。
小生は店先しか覗けなかったので、大名が休憩に使用した部屋や庭園の存在など、想像もできなかったが、彼の記述から
すごい歴史を持つ家柄だったことが確認できた。
平成16年3月