『 中山道を歩く ー  近江路 (2) 醒 井 宿  』


柏原宿のはずれに、北畠具行卿墓があった。
後醍醐天皇の側近で、鎌倉幕府を倒幕する企てたが、露見して斬首された人である。
醒井宿にはいたるところから湧き水がわき、バイカモが流れにゆらゆらしていた。
湧き水に関連し、日本武尊や西行法師にまつわるロマン溢れる伝説があった。




柏原宿から 醒井宿へ

北畠具行卿墓入口 平成十六年(2004)三月二十三日、今日は柏原宿から醒ヶ井宿、番場宿を経由し、鳥居本宿まで歩く予定である。  柏原宿のはずれにある一里塚跡を過ぎると、道の右側に、北畠具行(きたばたけともゆき)卿墓とある標識があったので、寄り道することにする  (右写真)
標識の下には小さな五輪塔一基がひっそりと立っていた。
入ったところで、すごい剣幕で犬が吠えた。  道沿いの家が飼っている犬で、数匹いる。  家人は働きにいっているようで、留守番をしているようだが、一斉に吠えるとすごい。
草薮の中のじくじくした細い道を通ると林の中に入る。
宝しょう印塔 土の道を登り、短い石段を上り、また、土の道を登ると、四、五百メートルで、「 北畠具行卿 」
と刻まれた大きな石柱がある三叉路にでた。 直進すると、 清瀧寺に通じるが、右の道を登る。 
広場が現れ、奥に、 二米余りの砂岩製、 宝しょう印塔の形をした、 北畠具行の墓 があった。
『 北畠具行は後醍醐天皇の側近で、鎌倉幕府を倒幕する計画の正中の変(1324年)の中心
人物である。 計画が失敗に終り、捕らえられ、鎌倉に護送される途中、護送にあたった佐々木
京極道誉(京極家第5世高氏)の助命嘆願も及ばず、幕府の命により、元弘弐年六月十九日、
この地で斬首された。 』
宝しょう印塔には、「 貞和三丁亥年(1347)に建立てられた 」 という陰刻があるので、 亡くなって
から十六年後の建てられたことになる。  昭和五年に国の史跡に指定された。
道標 明治天皇は、近江路行啓で訪れた際、使者を送って御参りをさせている。 
天皇家の忠臣であるので、明治天皇には後醍醐天皇の心境だったのかも知れない。
中山道に戻り歩き始める。 長沢集落に入ると山合いの村という感じがした。 
そこには、 明星山薬師みち と刻まれた道標があった (右写真)
この道標と同じものを数か所でみたが、これだけあるということはこの寺は当時かなりの力を
持っていたという証拠だろう。 
神社鳥居の脇の小屋に、 長沢惣倉 と書いた木札が貼られていたが、これはなにを意味する
ものだろうか?
ここからしばらく、静かな田舎道を歩いた。 
小川関跡 民家の前に、小川(こかわ)の関跡の石柱があった (右写真)
古代には、東山道が通っていて、このあたりに 横川駅 があったという。  民家の前の細い道が、旧東山道、左の太い道が旧中山道である。  このあたりは寒いのか、三月下旬なのに紅梅が満開であった。  右に竹林、左に杉林になっているところを通る。 少し薄暗く気味の悪いところだ。  粉河坂 といわれたところだろうか? 
道脇の小さな石柱には 集落跡 番の面遺跡 とあった。  具体的な説明がないので、どういうものか分からないが、古墳時代の集落があったのではないか。
小さな石仏を多数集めた祠があった。
梓河内 このあたりは、交通の要路で左側に、上に名神高速道路、下には国道21号となっている。
バス停は、多くの車が走る国道と、旧中山道が接近したところにあった (右写真)
信号機に 梓河内 と表示があった。  バス停の近くに、 「 墓跡 黒谷 」の石柱と「 中山道左 」 と記した石の道標があった。
黒谷遺跡は墓のような感じであるが、古墳時代よりも古いものだ、といわれる。
右側の崖斜面にあったはずなのだが、ここに石柱があるのは、道路工事で崖が削られてしまった、ということか?
杉並木 中山道は国道21号とは合流せず、右側に平行して続く道となっていた。 
右側には川が流れ、川の向こうに並ぶ家並みが 梓集落 である。 小さい橋を渡る。 
道脇の家には梅が咲き、サンシュウの黄色の花が咲き乱れていて、春の風情を楽しむ
ことができた。 五百メートルほど歩くと、松並木が残っている場所にでた 中山道でこれまで
見たものに比べ、かなり大きな木が残っていた。
民家が数軒立ち並んでいるなと思ったら、ラブホテルだった。
ここで中山道はなくなり、国道に合流してしまった。
コンビニやパチンコ屋があり、乗用車だけではなく、大型トラックも多く駐車していた。
久しぶりに人の多いところにでた感じがした。  コンビニでお茶とのど飴を買う。
国道を500mくらい歩くと、道の左側に、中山道左、と刻まれた大きな石碑が現れた。
三叉路で左側の道に入る。  これが旧中山道である。
一里塚跡 うっそうとした林のような場所を通りすぎると、民家が増えてきた。
道の脇に 石仏群があるが、壊れて石のかたまりにしか見えないものが多くあった。
時間の経過で刻まれた線が磨耗してしまったようである。
美濃路では石仏はあまり見られなかったが、近江路に入ると、ど〜と増えてきた。
この後も、いたるところで祀られていたが、どうして多くの石仏があるのだろうか?
右側に 八幡神社 があり、その先には、 一里塚跡があった (右写真)
醒井宿はもうすぐだ!!

醒 井(さめがい) 宿 

宿場の家並み醒井宿の入口には宿場特有の枡形があり、歩いていくと、宿場には古い家が多く残っている (右写真)
醒ケ井の名は、日本書紀の 「 日本武尊(やまとたけるのみこと) 、伊吹山にて大蛇をふみて、山中の雲霧にあい給ひ、御心地なやましたりしが、此水をのみて醒めたまひぬとなん 」 に因むものである。 
 『  川となる すゑまで清し 岩間より 余りていづる さめが井の水 』 (夫木集)
とあるように、古来から 名水の誉れ高く、醒ヶ井養鱒場では清流の水で鱒を育っていることでも有名である。  私が醒ヶ井に訪れたのは二十五年以上も前で、息子が理科の教材で
加茂神社 養鱒場を見学したいというので、訪れて以来である。 
左手の山が迫り出してくるところに、加茂神社の鳥居があった (右写真)
かなり急な石段を登っていくと、社殿が現れた。  早速、この先の無事を祈願して賽銭と柏手を打った。  社殿の上に聳えているのは、名神高速道路である。  改修工事中のようで、道路に通じるゲートから作業着の人達がぞくぞく現れたのには驚いた。
そこにあった遷宮記念碑によると、
『 昭和三十四年の名神高速道路建設に伴い、敷地と建物が道路予定地に組み込まれて移転のやむなきに至った。 翌年、社殿を解体移転し、現在の場所に復元した。 』 
宿場風景 と、あった。  下を見下ろすと、宿場がカーブして京側に続いているのが一望できた (右写真)
朝が早かったので、お腹がぺこぺこである。
昼には少し早いので、さっき寄ったコンビニで買った豚まんを食べた。
あっという間に食べ終わってしまった。
1個では足りないが、お茶でごまかして、階段をおり、街道に戻った。
神社前の池には、底からこんこんと清水が湧き出ている。 
居醒(いすい)の清水と呼ばれる水である。 
蟹石という石があった。 また、なんと読むか分らなかったが、石碑もあった。 
池の周りを散策できるようになっていた。
腰掛け石 「 木曾路名所図会 」 には
『 此駅に三水四石の名所あり、町中に流れありて至て清し、寒暑にも増減なし 』 
とある。
四石とは、鞍掛け石、腰掛け石、影向石と前述の蟹石を指すようである (右写真)
鞍掛け石は、日本武尊が鞍を掛けて休まれた石。  腰掛け石は、武尊が腰を掛けて 清流で伊吹山の毒気を清められた場所である。
影向石は源海寺の竹林にあったが、名神高速道路の工事で池の周りに移された。 
先日、テレビ番組の世界ふしぎ発見で、日本武尊(やまとたけるのみこと)を取り上げていた。 
日本武尊像 番組では、日本武尊は日本書紀や古事記に登場するが、架空の人物だろう、と仮説し、
鉄の採掘や製造にかかわる地に訪れているのが共通項で、 「 地元に残る英雄伝説を
大和朝廷 に集大成したものだろう 」 と結論付けていた。 
池のまわりに、右手を高々とさし挙げた日本武尊像が建っていた (右写真)
当時、伊吹山を中心とした勢力があり、これに手を焼いた中央勢力が鎮圧した歴史があり、
それを美化した話だとすれば、ロマン溢れるものである。 
あまり深く詮索するのはやぼというものだろう。
石仏群のあるところから、清い泉が涌いていて、柄杓が置いてあった。
これを使わせていただき、水を飲んだ。 透明感のあるうまい水だった。
その近くに、雨宮芳州の歌碑があった。 
地蔵堂   『    水清き  人の心を  さめが井や  底のさざれも  玉とみるまで    』 
芳州は滋賀県高月町の出身の江戸時代の儒学者で、朝鮮や中国との外交に尽くした。
池の脇には、一丈一尺(1.6m)の 地蔵菩薩坐像を祀る地蔵堂がある (右写真)
地蔵尊縁起によると、「 伝教大師(最澄)が刻んだ 」 といわれる石仏である。
花崗岩を丸彫りした半伽像で、鎌倉時代後半の作と推定される。
始めは水中に安置されていたので、 尻冷やし地蔵 と呼ばれていたが、 慶長十三年、 大垣城主・石川日向守が泉の一部を埋め、辻堂を建立し、安置した 、 と伝えられている。
( 地蔵尊縁起については巻末参照 )
地蔵川 道に沿って流れるのは、 いたるところから湧きでる湧水 を水源とした 地蔵川である。
水が澄んで美しいので、清流しか育たないと言われる バイカモ が、夏には梅に似た白い花 を咲かせる。  また、冷たい湧水を好む ハリヨ という小魚も生息している。  バイカモの花は日光大谷川で見たことがあるが、水の中でゆれる白い花は優雅なものである。   小さな水車も置かれているのが、ご愛嬌というところか!? (右写真)
清流が勢いよく流れているのは気持ちのよいもので、末永く大事にしてもらいたいものである。

本陣跡 醒井宿の天保時代の家数は百三十五軒、人口は五百三十九人で、本陣、脇本陣が各一、旅籠は 十一軒であった。 
川のへりの 樋口山 という料亭が、 本陣跡 である (右写真)
江戸時代、問屋を務めていたのは 川口家 であるが、 問屋場の一部が資料館になっていた。  江戸時代初期までさかのぼることができそうといわれる建物である。 
その先の右側に立派な門構えのある江龍家は長期に渡り問屋や庄屋を務めて 
明治天皇御駐輦所 いた家で、本陣や脇本陣同等の規模を誇る屋敷でした。 門前には「明治天皇 御駐輦所」の碑が立っている (右写真)
その先の源海寺の紅梅が美しかったので、写真に収めた。 
また、近くの了徳寺(りょうとくじ)には、 お葉つきイチョウの木がある。
葉にイチョウの実がなるという珍しいもので、昭和四年に天然記念物に指定された。
地蔵川の小さな橋を渡る。  道が二つに分かれていて、左が十王水。 前述の三水の一つ。  十王 と書かれた石灯があり、こんこんと清水が涌いている。
右に行くと、江戸時代、川を下り、琵琶湖にでる 船着き場 があったという。 
泡子塚・西行水 中山道は左の道を行く。
その先に 泡子塚 があり、ここから涌くのが 西行水 である (右写真)
前述の三水の一つである。  岩の上に、「 仁安三戌子年秋建立 」の五輪塔があり、
「 一煎一服一期終即今端的雲脚泡 」 の十文字が刻まれている。
これに纏わる西行の伝説が残っていた。
『 西行法師が東遊のときここに立ち寄り、水の畔で休憩していたら、茶屋の娘が西行に
  恋をし、西行が立ち去った後、西行の飲み残したお茶を飲んだところ、懐妊し男の子を
  出産した。  関東からの帰途、西行はこの茶屋で休憩し娘より一部始終を聞いた。 
  西行は児を熟視して、
泡子塚  「 今一滴の泡変じてこれ児になる。 もし我が子ならば元の泡に帰れ 」 と祈り、
  「 水上は  清き流れの  醒ケ井は  浮世の垢を  すすぎてやまん 」
  と詠ったところ、児はたちまち消えて、元の泡になった。
  西行は 「 実の我が子なり!! 」と、この場所に石塔を建てた。 』
というものである。
岩の上には石仏があった。 今もこの地名(小字)は児醒井という (右写真)
更に歩くと、交差点があり、右に行くと醒ヶ井駅。
中山道はそのまま直進する。 「 番場宿一里 」 と書かれた道標兼用の 醒井宿の
石碑あたりが宿場の終わりと思ったが、間違いだろうか?

(ご参考)  『 延命地蔵尊縁起 』 
弘仁八年(817)、百日以上続いた旱魃によりm、田畑が干上がり、農民が難儀したのを心配した嵯峨天皇は伝教大師に命じ、比叡山根本中堂で護摩を焚き、祈祷をさせた。
最澄の夢の中に、薬師如来が現れ、「ここより東方数十里行ったところに、清涼な水のいずるところがある。 そこへ行って雨を求めよ」と告げられた。
伝教大師はここを訪れ、仏像を備えてお祈りしたところ、三日三晩雨が降り続いた。
それ以来、地元の人々はこの地蔵を大事にしてきた。 

平成16年3月


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かうんたぁ。