番場宿は、古代から開かれた宿場町であるが、明治以降、交通が米原経由に替わってしまい、
今では場所を知るものはほとんどいなくなった。
蓮華寺には長谷川伸作「瞼の母」の主人公・番場の忠太郎にちなんだ地蔵尊がある。
この宿を越えると琵琶湖が見え、いよいよ近江平野に入る。
平成十六年三月二十三日、今日は柏原宿から醒井宿、番場宿を経由し、鳥居本宿までいく予定
である。 醒井宿の終りと思われる 「番場宿まで一里」 と刻まれた道標を通過する (右写真)
番場宿はここからわずか一里の距離である。
橋を渡ると、四差路になり、右に行くと、醒井駅である
が、中山道は直進する。
東海自然歩道の案内はこれとは別のルートのようなので、まぎらわしい。
このあたりは江戸時代に、 六軒茶屋 と呼ばれた茶屋があったところで少し賑やかに民家が
並んでいた。 醒ヶ井は、譜代大名・柳沢氏が治める 大和郡山藩(石高15万石余) の支配
地になっていたが、 「 彦根藩との境界に茶屋を置いたのは、境界をはっきりさせるため 」
といわれる。 今やその面影はなく、民家の前に、 六軒茶屋跡 と書かれた木柱が立って
いるだけだった。
十年前までは松並木が一部残っていたようだが、今は見あたらない。
国道に合流してしまうが、丹生川を渡り、 河南交差点で 、国道から離れ、右の道に入
って行く。 河南集落は、最近建てられたと思える家が多かった。
河南の隣の集落は 樋口 だが、どこが境界なのか分からない。
左側に車がとまっている家には、茶屋道館と表示されていた (右写真)
茶屋通りといわれるこの通りには、比較的古そうな家が点在していた。
樋口の交差点で、国道と交差するが、中山道は直進し、狭い道に入っていくと、
三吉地区である。 和佐川を越えると、右に 敬永寺 があり、工事をしていた。
中山道はこの道でよかったか?、と不安がよぎった時、向こうからパトカーが来た。
停めて道を尋ねると、親切に教えていただけた。 その先で、三叉路に突き当たる。
右に行くと、 米原ICだが、中山道は左折し、高速道路の下をくぐる。
くぐりぬけた右側に、囲った場所があり、ここが 久礼の一里塚跡 である。
「 江戸時代には、北側の一里塚に榎が三本、南側にはとねり木が一本植えられていた 」 とあり、
どうやら、最近作られたもののようであるが、 中山道一里塚跡の石碑と木が一本植えられていた (右写真)
中山道は、右の細い道なので、車道を離れ、そちらに入る。
右側には山が迫ってきていて、左右にくねくねと曲がりながら道が続いている。
このあたりは久礼集落である。 道の両脇には、家はあるが、数えられる程であった。
少し歩くと、左側には、家はなくなり、田畑が続く。 高速道路が近づいてきている。
右側の山裾に植えられている数本のマンサクの黄色い花がきれいだった (右写真)
樹齢百数十年のしだれ桜が街道の脇にあったが、
「今でも春になると、見事な花を咲かせ楽しませてくれる 」 と、地元の人が話してくれた。
右側に、番場宿と書いた木札があるが、朽ち始めていた。
このあたりが、番場宿の入口なのだろうか?
これといって見るものもないまま、約四十分で 番場宿に到着してしまった。
醒井宿から 番場宿の間は歴史的なものや古いものは全て消え失せていた。
番場宿は醒井宿から一里、鳥居本宿まで一里一町の位置にあり、宿間の距離が短い。
道が少し曲がっているところがあるが、宿場に鉤型があったのだろうか?
少し歩くと、車道が現れてきた。 慶長年間に開削された 深坂道 である。
慶長年間に入り、北村源十郎が米原に湊を築くと、中山道から米原へ通じる道が開削され、
ここから米原へ出、湖岸を大津や塩津まで船便が使わうことができるようになったのである。
これが深坂道である。 現在は道幅も広がり、中山道に代わり、米原へ通じる地元の生活
道路になっていた。交差点右角の道標は、「 米原、汽車、汽船道 」 と刻まれているので、
明治以降になつて建てられたものである (右写真)
交差点の一角に、番場宿と刻まれた石碑があった。
また、街道絵図の複製もあった (右写真)
そこは、座って休憩できるようになって場所だった。
十三時を過ぎていたので、持参の駅弁を広げ食べ始めた。
目の前で、道路工事をやっていたので、それを眺めながらである。
食事を終えたら歩きだす。 このあたりが、宿場の中心の中町である。
当時の記録によると、
「 町並みは七町三十七間、上下番場合わせて八百八人、家数百七十八軒、本陣、脇本陣の他、旅籠十軒、問屋場六ヶ所だった。 」 と、あるが、
宿場の中心部は一町余り、即ち百数十メートルという短さだったようである。
また、「 本陣は百五十六坪、門構え玄関付き、脇本陣は八十四坪、門構え玄関付きだった。 」 と、あるが、これも他の宿の本陣に比べると、けっして広くはない。
交差点から数軒先が脇本陣。 その隣あたりに、本陣があったと記録にはあるが、現在は民家になっていて、その旨の表示はなかった。
明治天皇番場御小休所石碑が建っているところが、本陣か脇本陣跡なのだろう?かと、疑問に思いながら立っていた (右写真)
すると、食事をしているとき、家から眺めていたおじさんが出てきて、自分でつくったというワープロ打ちの資料を戴いた。 それによると、
『 深坂道が出来る前は、宿場は西番場地区にあった。 深坂道完成後の寛永年間(1624
〜1644)に、ここ(東番場地区)に宿場を移した。 』
とある。
道ができても本陣など一部の施設しか西番場には移動したかったということだろうか??
西番場の旧宿場の存在を考えると、宿場が短いのも分かる気がした。
パンフレットをいただいた人の話では、
『 江戸時代(寛永年間)に宿場になった東番場地区はよその地区から移転してきた人が
占め、明治以降も人の出入りが多かったようです。 』
という説明なので、住民自身詳しい過去には興味がなく、資料が残っていないのも納得できた。
また、この地区に案内板などがないのは分かるような気がした。
百メートルほど歩いた左側に、史跡蓮華寺という大きな石柱があり、「 北条仲時以下430余名の自刃の跡 」 とある。
四百名余の人が・・、ということに興味を持ち、入っていった。
「以前は街道から見えた」とあるが、高速道路に遮られ、ガードをくぐらないと、見えなかった。
勅使門 のような立派な山門があった (右写真)
門前に、 血の川 と大きく書かれた木札があり、「自刃した鮮血で川の如くなった」とある。
( 詳細は巻末参照 )
蓮華寺は、
『 千三百年前の昔、聖徳太子が創建せられ、法隆寺と称していたが、建治弐年雷火にかかり焼失した。
鎌倉時代になり、弘安七年、一向上人(法然上人の法曾孫)が、鎌刃城主・土岐三郎元頼の帰依を受け、堂宇を再興し、八葉山蓮華寺と改称して、時宗一向派の本山となり、幾多の変遷を経て、浄土宗になっている。 』 と、いう寺である (右写真)
寺に入ろうとしたら、男に呼び止められ、入場料を取られた。
中山道では、宝物館などの仏像拝観以外には徴収されることがなかったので、こんな辺鄙な寺で拝観料とは驚いた。
南北朝の史跡と、史実にない 「 番場忠太郎地蔵尊 」 を売り物にしてお金をとっているのである。
本堂の前の 「 聖徳太子 叡願の紅梅 」 と表示された八重の梅 が見ごろであった。
傍らには、「 一族の果てし 白刃もかくならん 紅梅散りし 蓮華寺の庭 」
という、句が掲示されていた。 さっきの男が近寄ってきて、
「 この花が美しいので、多くの人が写真を撮りにくる。 自分も撮ってみたがうまくとれない。
貴方のカメラは高そうだ。 レンズが大きいが、どのように写るのか? 」 などを話しかけてきて、離れない。
そういわれてみると、なかなかすばらしい梅である (右写真)
しばらくの間、梅の花を写し、デジカメ一眼のメリットで写した画面を彼に見せた。
本堂の裏には、浪花節などで有名になった番場の忠太郎の地蔵がある。 戯曲「瞼の母」
を書いた作家の長谷川伸が、昭和三十三年に、 「 南無帰命頂礼 親をたづぬる子には
親を子をたづねる親には子をめぐり合わせ給へ 」 と、祈願して建立された地蔵尊で、
愛知岡崎の成瀬大吉の製作である (右写真)
昭和三十三年といえば、浪花節の全盛時代で、伊奈の勘太郎、国定忠治とか、清水の次郎長
などが、全国各地の映画館などで公演されたものである。 番場の忠太郎もその中の一つで、
母を訪ねての股旅ものではかなり多くの人が涙を流したはずだ。 番場の忠太郎は、この
宿場の旅籠のせがれ、という設定になっていて、地蔵尊や墓まで建てられているので、実在の
人物と思ったが、違っていた。
案内してくれた男とはここで別れた。
右側の道を登ると、中腹に大小さまざまの五輪塔の群が見えてきた (右写真)
これらの墓は、仲時以下四百三十余名の自刃後、時の住職三代同阿上人が深く同情してその姓名と年齢、法名を一巻の過去帳に認め、更に、墓を建てて供養したものである。
過去帳は国の重要文化財に指定され、宝物館に所蔵されている。
上記の史実は吉川英治の私本太平記により詳しく書かれている。
「 自刃せし 遠祖の眠る 蓮華寺 散り敷く紅葉 流れる血の如く 」
という墓前にあった歌は誰が詠んだのだろうか?
本堂脇には、斉藤茂吉の歌碑がある。
『 松風の音を聞くときは 古への 聖の如く 我は寂しむ 』
茂吉は四十九世の和尚の門弟で、再三寺に訪れたようである。
土岐三郎元頼 と伝えられる墓があった (右写真)
元頼は室町時代の武将で、土岐成頼の三男である。 石丸利光に擁立され、明応三年
(1494)、舟田の乱を起こし、兄の九代守護となった土岐政房と対立して、翌年六月、
政房と戦い、加納城を包囲するが敗れ、明応五年(1496)城田寺城を包囲され、自刃した、
伝えられる人物である。
また、弘安七年と銘のある梵鐘は国重要文化財に指定されている。
再びガードをくぐって中山道に戻る。
右に入ると、藩主・井伊直孝を慕って、寛永二十年に祭神として祀った 直孝神社 がある。
幕末の騒動で井伊家に不遇な時代があり、明治初年に神社名を 溝ノ尾神社 に変えて
しまったが、社標は直孝神社のままである。
更に百メートルくらい行くと、北野神社があった (右写真)
このあたりが、東番場のはずれだろうか??
家並みが途絶えたところに、「鎌刃城跡まで3km」という標識があり、更に行くと、番場宿と鎌刃城跡への大きな標柱が現れた
近くには鎌刃城跡の立派な案内板もあった。
鎌刃城は、鎌倉時代に箕浦庄(番場の古い呼び名)の地頭であった土肥氏によって築かれたとされる。
その後、堀氏が入り浅井氏の勢力下に置かれたが、元亀元年(1570)、同族の樋口氏とともに織田信長に降ったが、浅井氏が滅亡すると、堀、樋口両氏は粛清され、鎌刃城も破棄された。
「 鎌倉時代に、地頭として関東より下向してきた土岐氏が構えた居館の跡があり、 殿屋敷 と呼ばれる 」 と、あるが、どこなのか分からなかった。
西番場地区に入る。
古い東山道の時代から交通の要衡にあり、宿の機能を果たしていた、といわれるところで、江戸時代には上番場村だった。
戦国時代までは鎌刃城の城下町としての機能も果たしていたともいわれる。
米原に通じる深坂道が出来たことで、下番場村(東番場地区)に宿場が移されたことは前述した通りである。
この地区の家は、ほとんどが石垣の上に建てられており、庭木の入った庭を持つ立派な家が多い (右写真)
また、自宅の前に、石仏を置いている家が散見され、信仰の深さに驚いた。
パンフレットをくださった方が、 「 西番場には、 さかい という姓の人が多い。 」 といって
いたので、 表札を見ながら歩くと、堺、酒井、坂井 と、漢字は異なるが、 「さかい」 という
姓は三分の一を占めていた。 その他には、泉 という姓も多いようである。
和泉の国の堺から来た人たちの末裔かと思った。
そういえば、「 西番場は、東番場と違い、江戸時代以前から住んている家系が多い 」 ともいわれていた。
番場宿が終わると思える民家の一角に、 「 中山道 西番場 」 の石碑があり、その下には 「 古代東山道 江州馬場駅 」 と刻まれている (右写真)
東山道が通っていたころ馬場だった地名が、時代を経て、番場と名を変えていったのだろうか?
これで番場宿は終わる。
(ご参考) 『 番場宿の歴史 』
番場宿は、東山道が通る交通の要衡として、鎌倉時代には宿場の機能を果たしていた、といわれる。
東山道は中山道より古い道であるが、中山道より東の山を通っていた。
応仁の乱〜戦国時代に入ると、湖北の覇権をめぐり、このあたりで多くの戦いが繰り広げられたが、近くにあった鎌刃城(かまはじょう)が要(かなめ)だったため、幾度も城主が変わった。
番場は、その城下町としての機能も果たしていたようである。
その当時は、現在の西番場地区が宿場の中心で、上番場村といった。
慶長年間になり、北村源十郎が米原に湊を築くと、米原から下番場村(現在の東番場地区)へ、 深坂道 が切り開かれた。
寛永年間(1624〜1644)、中山道と深坂道の交差点に、西番場にあった中世からの番場宿を移転し、中山道の 番場宿 とした。
(ご参考) 『 血の川 』
元弘三年(1333)、後醍醐天皇が隠岐から京都へ戻ったが、その時、京都を守っていたのが、鎌倉幕府の六波羅探題・北条仲時である。
足利高氏らが後醍醐天皇側に寝返りし、両者の戦いになった。
俗にいう、京都合戦である。
北条仲時は、足利高氏らとの戦いに敗れ、北朝の光厳天皇と2上皇、皇族を奉じ、東国に落ちのびる。
中山道を下り、、この地まで逃れてきたが、佐々木道誉らの軍勢に包囲され、蓮華寺本堂前庭にて自刃した。
その数、430余名。 鮮血滴り溢れて、川の如くなった、と伝えられる。
(ご参考) 『 殿屋敷 』
鎌倉時代に、地頭として関東より下向してきた土岐氏が構えた居館の跡があり、 殿屋敷 と呼ばれる。 最近の発掘調査で、鎌倉〜室町時代の建物跡や井戸跡、焼き物などが見つかった。 なお、土岐氏は源頼朝の重臣土岐次郎実平の一族である。
平成16年3月