『 中山道を歩く −  近江路 (4) 鳥居本宿  』


番場宿から鳥居本宿へ行く途中の摺針峠からの琵琶湖の風景は、中山道一の絶景といわれた。
広重の 「 木曾海道六十九次 」 の 鳥居本宿 には、摺針峠の茶屋が描かれている。
鳥居本宿は、静かで落ち着いた雰囲気の中に街道時代の面影が残る町だった。




番場宿から 鳥居本宿へ

坂道 平成十六年三月二十三日、今日は柏原宿から醒井宿、番場宿を経由し、鳥居本宿までいく予定
である。 番場を出ると、道は緩やかな坂道になる。 峠の入口に二、三戸の家があるが、
昔から住む家なのだろうか。 ここからの中山道は、名神高速道路工事で壊されて今はない。
名神高速道路に沿って付けられた道を歩いていく (右写真)
上りきったところが、 小摺針峠 で、小さな祠と湧き水があった。
峠と気がつかないほどのものだった。 彦根市と米原町の境界になつているようである。 
左側にある金網越しに、名神高速道路を走る車が見えた。
降りたところに、 番場宿と彦根 と記されている道標があった。 三叉路になっている場所
だが、右に行く道は広く、左は狭い。  右の大きな道を歩いて行くと数軒ある集落にでた。
摺針峠 左側に、称名寺という寺があるのを横目に見ながら、上っていく。 道が少し険しくなった
ところで、左の小高いところに、民家がみえ、よく見ると鳥居もある (右写真)
これが 摺(磨)針峠(すりはりとうげ) である。   摺針峠という名前は、
『 その昔、諸国を修行して歩いていた青年僧が、挫折しそうになってこの峠を通りかかったとき、 斧で石を摺(す)って針にしようとしている老婆を見て、老婆の苦労に比べたら自分の修行はまだまだ甘かったことを悟り、 心を入れ替えて修行した。 』 と、いう故事に由来しており、「 青年僧はのちの弘法大師である 」、 という説がある。 
望湖亭跡 左に坂道を登ると、 中山道の石碑があり、民家があった。  明治天皇磨針峠御小休所の石柱が建ち、望湖堂のあった場所である。 望湖亭ともいわれた (右写真)
望湖堂は、茶屋本陣で、明治天皇や皇女・和宮が休憩されたところで、本陣を思わすような造りであったが、 平成三年(1991)に火災に遭い、焼失してしまった。 
まことに残念なことである。
峠は琵琶湖から約百五十メートルの高さにあり、琵琶湖、彦根を見下ろす絶景の地として、 江戸時代のほとんどの案内記に記述されていた。
琵琶湖を見下ろす その一つの 「 近江輿地志略 」 には、 「 眼前好風景なり。 山を巡て湖水あり。  島あり。船あり。遠村あり。 竹生島は乾の方に見ゆる。 画にもかかまほしき景色なり。 」 と、ある。
広重の描いた鳥居本宿にも、中山道の絶景の一つとして、望湖堂が描かれている。
遠くに琵琶湖。 手前には鳥居本か彦根か(?)、立派な茶屋の建物が描かれていて、 琵琶湖が広く描かれているのは内湖がまだ干拓されていなかったためであろう。
琵琶湖は春霞で長浜あたりまでしか見えなかったが、冬ならもっと先まで見えるのでは、と思った (右写真)
なお、摺針峠には、茶屋が多くあり、するはり餅が名物だったらしい。
神明宮 うっすらした森があり、その中に、小さなお堂があった。
神明宮と表示された鳥居をくぐり、石段を登って行くと、 石段途中に、「 弘法大師のお手植え杉 」 と刻まれた石柱があった。  千二百年生き永らえた古杉だったが、落雷により切り倒されたようである。  周囲が八米にも及ぶ大きな切り口であるが、周りに苔(こけ)がびっしり張り付いていた。  腐らないでいつまで保つか心配である。
神明宮はそれほど大きな建物ではなかった (右写真)
森閑した境内の社では、若い女性がなにやら熱心に祈っていた。
急な坂道 彼女の祈るのを待って、私もお祈りをした。
峠からの下りは、曲がりくねったかなり急な坂道である (右写真は振り返って写す)
中山道当時と違い、改良工事でかなり変わったようすである。 車も楽に通行可能で、
私も駆け足くらいのスピードで歩くことができた。 鳥居本宿までは二キロ弱であるが、
私も太陽はかなり傾いてきた。 坂を下りると、国道に合流した。
国道8号線で、元の 「 北国街道 」 で、長浜を経て越前へ向かう道である。
松並木の残る旧道 大型トラックや乗用車などがびゅうびゅう飛ばしていく。 
道の向こうには新幹線も見えた。
国道の区間は短く、三叉路で左に入っていく。 これが旧中山道である。
しばらく国道を平行した道で、右に田畑が広がっていた。  わずかに残る松並木に出た。 
左側に、「おいでやす彦根市」と、彫った三本の大きな石柱が建っていて、上には三人の旅人の像が乗っていた (右写真)
日が暮れかかる時間に、鳥居本宿に入った。

(ご参考)  『 望 湖 堂 』 
彦根藩が建てた公式接待所で、公家、大名を始め、”明治天皇”や皇女”和宮”が休憩された茶屋本陣である。
本陣を思わすような造りで、朝鮮通信使の一行が江戸への行き帰りに立ち寄ったことを記す文書や扁額など貴重な資料が多く残っていたが、平成三年(1991)に火災に遭い、焼失してしまった。 


鳥居井(とりいもと)宿 (その1) 

白い漆喰のきれいな家 旧中山道を歩いていくと、古い建物が増え、また、道脇に小さな社を祀る家も多かった。  静かで落ち着いた街道情緒がある街とは聴いていたが、まさにその通りである。 
茅葺きの家が一軒だけ残っていて、棒屋跡という表示があったが、詳細は分らなかった。  屋根にこけがびっしりとへばりつき、1本の雑草が生えていて、歴史を感じさせた。 
少し歩くと、道が左にカーブしているところにきた。 
その左側にある家は、白い漆喰の格子のある家で、かなり古いのではと思った (右写真)
鳥居本の地名は、「 昔、多賀大社の鳥居があった。 」 ということから来ているといわれるが、 鳥居がいつまで存在していたかは不明である。 
有川家 鳥居井宿は、天保時代に著された 「中山道宿村大概帳」 によると、 本陣は一、脇本陣が二、旅籠は三十五軒、宿場の人口は千四百四十八人、家数は二百九十三軒、とあり、 旅籠の数は三十五軒と、近江路では最大であった。  琵琶湖と伊吹山の影響で雨が多く、また、関ヶ原に抜ける山道に差し掛かる場所だったことから、 宿泊者が多かったのだろう、といわれる。  道の右側に、 明治天皇鳥居本御小休所石碑 がある立派な門構えの屋敷があった (右写真)
かなり広い敷地なので、右側から裏に回ると、白い漆喰の塀に囲まれた屋敷で、奥に工場があった。 
有川製薬販売所 この家は、江戸後期の道中案内である、 「 木曾路名所図会 」 に、 「 此駅の名物神教丸、俗に鳥居本赤玉という。 此店多し・・・ 」 と、書かれている 「 赤玉神教丸 」 を現在も製造、販売している有川製薬である。   先ほど覗いた裏の工場で、製造しているようだった。  街道に面している建物は販売所で、二百年以上も前に建てられたもので、格子窓が付いた二階部分などは当時の姿を残していた (右写真)
赤玉は直径六ミリほどの丸薬で、腹痛や下痢止め薬で、一回十五粒を服用するものだ
旧合羽製造所 が、三百年以上も前から作っていたという記録が残る、というから、すごい!! 
歩いて行くと、古い家がどんどん現われてくる。
その間に、夕闇が迫り、カメラのシャッタースピードがどんどん落ちていく。
右側の白い漆喰の家に、木製の変わった形をした看板があるのが目に入った (右写真)
かなり色あせた看板には、 「 本家合羽所木綿屋嘉右衛門 」 と書かれていた。
道中合羽を製造販売していたところのようである。  現在の人には、合羽(かっぱ)そのものがどういうものか分からないかもしれないが、和紙に荏(え)の油と柿の渋を塗って、
道中合羽の看板 防水したものである。 
戦後直後は、ゴム製の他、かぶると菜種油のようなにおいがしたものも作られたが、
ビニールが登場するとレインコートが登場し、市場から姿を消した。
木製の看板は、形が面白いのと、鳥居本が江戸時代、合羽が特産品であったことから、
歴史的なものを残すため、引き続き掲示されているのだろう (右写真)
すっかり薄暗くなったとので、本日の旅はここまでとし、近江鉄道の鳥居本駅から米原
経由で名古屋に帰ることにした。 今日は柏原を出発し、鳥居本まで歩いたので、
途中見るものも多く、大いに満足した旅であった。  歩いた距離は順調ならば十五キロ弱
だが、途中、道を間違えたり、寄り道をしたので、二十キロ弱というところだっただろうか?

鳥居井宿 (その2) 

近江鉄道鳥居本駅 四月は桜であっちこっちに撮影にでかけ、一月を費やしてしまったが、五月十一日、再度、鳥居本を訪れた。  暑くならないうちに近江路を歩こうと思うからである。  今日の予定は、鳥居本から高宮宿を経て、愛知川宿までの十五キロを歩くことである。 
五時に起き、 六時五十分発の大垣行きになったのはよかったが、大垣から先の電車がなく、三十分以上も待たされた。  米原駅でも近江鉄道で二十分以上も待ち、鳥居本駅に着いたのは九時二十分になっていた (右写真ー近江鉄道)
朝の通勤時間は名古屋方面の電車はどんどんでるが、米原〜大垣間の電車はないと分か
近江鉄道鳥居本駅 ったので、次回はもっと遅くするか、新幹線を使う方法があるなあ、と思った。 
それはさておき、 鳥居本駅から前回終わったところまで戻り、そこから再開する。  鳥居本駅は昭和六年(1931)、近江鉄道の米原〜彦根間の開通に伴って建てられた洋風建築の建物である (右写真)
この鉄道は朝夕の高校生の通学以外には利用されることがないようで、私が利用した時間には三人しか乗っていなかった。  西武の創業者の堤氏の出身地だから続いているのかも知れないが、かなりの赤字であろう。  ワンマンカーで無人駅であるが、それでもやっていく
本陣跡 のは大変だろうと思った。
駅前をまっすぐ行くと、正面の空き地に、本陣跡の木札があった (右写真)
また、その近くの民家の庭に 脇本陣跡の木札 も置かれていた。  そういえば、鳥居本宿では問屋も含めて、どこにあったか、や、宿場のいわれという類の表示はない。  鳥居本宿を守ろう会といった組織が表示をしている程度のようである。  彦根市は鳥居本宿を観光で使おうという感じがないようである。
中山道の道は車がすれ違うのがやっとという狭さであり、旅館も商店も見当たらない。 
常夜燈 街道に面した家はどのような職業についているのかと思った。 南に向かって歩いて
いくと、交差点の角に、常夜燈の立派なものが建ち、角の家も古かった (右写真)
このあたりには、漆喰壁の家や卯達を揚げた家が点在しており、近江路で古い家が一番残っているところであるが、彦根市などの行政機関が保護の手を伸ばさないと、いつまで保つだろうか? 
右側に、 長浜地蔵尊 と大きく書いたスチールハウスが建ち、その中に小さな社がちょこんと入っていた。
彦根道道標 專宗寺の前には、聖徳太子の縁がある石碑が建っていた。 
やがて、三叉路が現れた。  彦根への追分で、角には、「 左中山道 右彦根道 」 と
刻まれた道標が建っていた (右写真)
右側の道は彦根道で、まっすぐが中山道である。 彦根道は、徳川家康が関ヶ原合戦
後の上洛に使用した道であるが、朝鮮通信使が通ったことから、 朝鮮人街道 とか、
朝鮮人来朝道 と呼ばれていて、彦根から近江八幡を経て野洲に至る街道である。 
東海道本線に沿うように進んで行き、野洲で再び中山道に合流する。
鳥居本宿はここで終わりである。

( 再訪) 鳥居本宿の後半部分
彦根道道標 平成二十三年五月二十五日、朝鮮人街道を歩いて、七年振りに鳥居本宿を訪れた。 
前回は北から南に歩いたが、今回は南から北へ近江鉄道鳥居本駅まで歩いた。 
上述の「 左中山道 右彦根道 」 の道標のところに今回は彦根方面から歩いてきた訳だが、 道標の説明板があったのが前回と違う点だった (右写真)
『 鳥居本宿の最南の百々村は室町時代には百々氏の居館があり、江戸時代の記録では百々氏の祖百々盛通の菩提寺、百々山本照寺が建立されていました。  中山道と彦根道(朝鮮人街道)の分岐点に建つ「 右彦根道 」 「 左 中山道京いせ 」 と刻まれた道標は文化十年(1827)に建立されたもので、 彦根道は二代彦根藩主井伊直孝の時代に
專宗寺 中山道と城下町を結ぶ脇街道として整備されました。 』 とあるの説明は分りやすくてよい。  道の両脇には相変わらず漆喰壁の家や卯達を揚げた家があり、宿場町の雰囲気を保っていた。  專宗寺にも説明板が設置されていたので、前回は聖徳太子の縁の寺としか分らなかったが、説明により、この集落の誕生についても理解できた (右写真)
 「 專宗寺は文亀二年(1502)および天文五年(1536)の裏書のある開祖仏を有する浄土真宗本願寺派の古寺で、聖徳太子開祖と伝わります。  かっては、佐和山城下町本町筋にあり、泉山泉寺と号していましたが、寛永七年(1640)に洞泉山專宗寺と改め、ここ西法寺村に移ってきました。  本堂などの建立年代は十八世紀後半のものと推定されて
合羽屋「松屋」 います。  山門の右隣の二階段の太鼓門は佐和山城の遺構と伝わります。  西法寺村は佐和山山麓にあった元集落(古西法寺)から寛永年間に街道沿いに移されました。 」 
右側に屋根の上に合羽の形をした看板をあげている家があった (右写真)
合羽屋「松屋」という説明板があり、 「 江戸時代より雨具として重宝された渋紙や合羽も戦後のビニールやナイロンの出現ですっかりその座を明け渡すことになり、 鳥居本での合羽の製造は一九七〇年代に終焉し、今では看板のみが産地の歴史を伝えています。  昔そのまま屋根の上に看板を掲げる松屋松本元輔店は丸田屋から分家し、戦後は合羽製造から縄づくりに転業しています。  二〇〇〇一年にはかっての家屋の構造を生かし
脇本陣 ながら改修されました。 」 とあった。   その先の右側の民家の庭に、脇本陣跡の手書きの木札が前回も置かれていたが、今回は下記の説明板も貼られていた (右写真)
「 鳥居本宿には脇本陣が二軒ありましたが、本陣前の脇本陣は早くに消滅し、問屋を兼ねた高橋家のようすは、上田道三氏の絵画に残されています。  それによると、間口のうち左三分の一ほどに塀があり、その中央の棟門は脇本陣の施設で、奥には大名の寝室がありました。  そして屋敷の南半分が人馬継立を行う施設でる問屋場です。  人馬継立とは当時の輸送システムで、中山道では宿ごとに五十人の人足と五十疋の馬を常備するよう定められていて、 次の宿まで常備した人や馬を使って荷物を運んでいました。 」 
本陣  とあった。 その先の本陣跡にも、前回見た本陣跡の木札の他に、下記内容の説明板があった (右写真)
「 鳥居本本宿の本陣を代々務めた寺村家は、観音寺城六角氏の配下にありましたが、六角氏滅亡後、小野宿の本陣役を務めました。  佐和山城落城後、小野宿は廃止され、慶長八年(1603)鳥居本に宿場が移るとともに鳥居本宿本陣役となりました。  本陣屋敷は合計二〇一帖もある広い屋敷でしたが、明治になって大名の宿舎に利用した部分は売り払われ、住居部分が、昭和十年頃ヴォーリズの設計による洋館に建て直されました。  倉庫に転用された本陣の門が現存しています。 」 とあった。  前回空き地になっている
部分だけが本陣跡と思っていたが、説明文から洋館の部分も含むことが分かり、うれしかった。 
宿場はその先も続くが、既に見ているので、本陣跡正面の近江鉄道鳥居本駅から帰った。 
なお、朝鮮人街道も 興味がありましたら、ご覧ください。 


( 番場宿から 鳥居本宿 )   平成16年3月
( 鳥居本宿 ) 前半      平成16年3月
( 鳥居本宿 ) 後半      平成16年5月
( 鳥居本宿 ) 後半 ( 再訪)  平成23年5月


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かうんたぁ。