愛知川宿へ行く途中の豊郷は多くの偉人を輩出した土地である。
商社の丸紅・伊藤忠を興した伊藤忠兵衛の生家が残されていた。
愛知川宿は恵知川とも書いたようであるが、広重の宿場絵は、人取り川の異名を取った愛知川に架けた 無賃橋 を描いている。
平成十六年(2004)五月十一日、今日は、鳥居本宿から高宮宿を経て、愛知川宿まで歩く予定である。 高宮宿を出て、愛知川宿に向かう。
宿場の境は、犬上(いぬかみ)川である。
川は南から北へ向かって流れ、琵琶湖へ注いでいる。
川に架かる橋は高宮橋であるが、江戸時代には 無賃橋(むちんはし と呼ばれた (右写真)
「 彦根藩は、この地の豪商・藤野四郎兵衛、小林吟右衛門、馬場利左衛門らに命じ、
橋の費用を広く一般の人々から募らせ、橋をかけさせた。
江戸時代には川渡しや仮橋利用の際、お金をとられたが、このようにして架けられたので、この橋の通行は無料だった。 」 と、案内板にはあった。
橋の許に残る 「 むちんはし 」 と書かれた石碑には、天保三年と刻まれていた。
地蔵堂が川の縁にあるが、上記と関連し、建立されたものである。
「 昭和五十二年(1977)、むちん橋の改修工事の際、橋脚の下から2体の地蔵尊が発掘
された。 天保三年(1832)、橋を架けた際、橋の礎に地蔵尊を埋めたものと思われる。
八坂地蔵尊の御託宣を得て、お堂を建て、 むちん橋地蔵尊 と名付けて祀ることにした。 」
、とあった。
当時は木橋であり、今の橋に当時の面影はないが、地元民の気持ちが今にも
伝わる話である。
橋の上からは、遠く鈴鹿北部の山並みが見えた。 橋を渡ると、二車線
になり、道幅が広がり、車の往来が多くなるが歩きやすくなった。
この辺りは法士(ほうぜ)
町で、道は相変わらず南西に向いている。
数本の松並木が見えてきた (右写真)
出町までの間、枯れてなくなっているものが多くまばらではあるが、
一応並木として続いている。
近江の中山道には松並木は殆ど残っていないので、貴重なものであるが、
歴史的価値を知るひとはどのくらいいるのだろうか?
田植えを終えた田圃が一面広がった風景は心をさわやかにする。 右手の奥には彦根中学校が見えた。
いつの間にか道が狭くなり、車がくると気をつけないとこわい。
葛籠(つづら)町に入る。 昔は、つづら,行李,団扇などが当地の名物だったようで、
町名もそれに由来しているのだろう。
道の脇に小さな山門があるのは、地福寺地蔵堂(延命山月通寺)である (右写真)
真言宗豊山派の寺院で、別名、 柏原地蔵 とも呼ばれているが、
本堂中央には 行基菩薩の彫造と伝えられる地蔵菩薩が安置されている。
山門前の 「 不許酒肉五辛入門内 」 と刻まれた石標は禅宗だったころの名残である。
葛籠の集落は農業が多いのか、昔の茅葺屋根にトタン板を被せた家が多くあった。
一軒だけ茅葺がむきだしになっている家があったが、東北地方と違うのは瓦を併用している点だった (右写真)
この集落の一角の竹林の中に、ぽんと一つある小さな社がある。
若宮八幡宮あるいは産の宮と呼ばれ、古来、産の宮として、安産祈願の参詣客が多い、という (右写真)
「 南北朝の争乱の時、足利尊氏の子、義詮が文和四年(1355)後光厳天皇を奉じて西江州で戦い、湖北を経て大垣を平定、翌五年京都に帰った。
義詮に同行した妻妾がここで産気づき、男子を出産し、家臣とともにここに残った。
しかし、子は幼くして亡くなったので、悲しみ嘆き、尼になり、この地に一庵(松寺)を結んで菩提を弔った。
彼女の保護のために残った九名の家臣は竹と藤づるで葛篭を生産するようになり、
松寺の北方に一社を祀って、この宮ができた。 」 、という伝承が残る。
集落が途切れると、車が比較的多くないのでのんびり歩けた。 新幹線が走っていく姿
の先に、鈴鹿連山が霞んで見えた。 霧雨は終わっだが、少し蒸してきた。
「 中山道・葛篭町 」 と 「 中山道・出町 」と書かれた石標と、少し離れて、彦根市の三人の
旅姿を乗せた 「 またおいで 」 の石標が置かれていた。 道の右側に、水車のある
あづまや風の公園があった。
スーパーで買ってきたパンとお茶を飲み、しばしの休憩をとる。
豊郷町にはいる。
少し行くと、大きな工場が点在している。
道の左側には、縣社阿自岐神社の石標と鳥居、常夜燈があった (右写真)
『 昔、いく日も雨が降らず、農作物が枯れて困っていた村人達は、
阿自岐(あじき)神社の神様に祈願したところ、
「 安食南にある大木から矢を放ってば、矢の落ちたところから水がわく 」 と、教えられた。
早速、弓の名人に放ってもらうと、阿自岐神社の東の地面につきささった。
矢を抜くと清水が湧き出し、大地をうるおした。 その清水を 矢池 と名付けた。
矢を放った大木は矢射り木と呼ばれたが、それがなまって、 矢り木(やりこ) になり、
これが地名になって安食南に残っている。 』 と、説明にあった。
道から少し入ったところに、大きな風格のある伽藍と整備された庭がある 唯念寺 がある。
文和四〜五年(1355〜1356)頃、北朝の後光嚴天皇が行在された寺で、
山号の額、宸斡などを賜ったと伝えられる寺である (右写真)
道脇にある、春日神社と刻まれた石標の神社は、開化天皇の子孫、 恵知王 によって創建された神社で、
明治になって 愛知神社 と改称された。
数百メートル歩くと、左側に 豊郷小学校 があった。
町長とPTAが新校舎の移転で仮押さえなどの法廷闘争を繰り広げたことで、有名になった小学校である。
旧校舎の周りには囲いがされ、ブルが入って整地工事を行っていた (右写真)
学校の入口に回ると、新校舎に移転が済んでいて、生徒たちはそちらで授業を受けているようすだった。
昭和十二年に、ここの出身で、丸紅の番頭だった古川鉄治郎が、当時の金で建物に約三十万円、土地に二万四千円の大金を寄付し、敷地面積一万二千百十坪の旧校舎を建てた 、というものである。
昭和の初期に、大学のキャンバスのような校舎を建ててもらったのだから、自慢にもなっただろう。
山形の白鷹町に行ったときも経験したが、戦前の財界人は故郷に錦を飾るという風潮もあり、このような善行を行う人を産出した。 今の財界人にこのような篤志家はいるだろうか?
学校の周りの家の壁には、 旧校舎解体反対 と書いたビラを多く見かけたが、
卒業生から解体反対の声が出るのも分かる気がした。
東海地震で倒壊の危険があるのは問題だが、残す工夫はできるのではないだろうか? (右写真は新校舎とグランド)
この先の左側に、 延応元年(1239)、京都の男山八幡宮から勧請し創建した 、という 八幡神社 があった。
境内の街道に面したところに、 「 石畑・間(あい)の宿」 という石碑があった。
「 石畑は、文治元年(1185)の源平の戦い、 屋島の合戦 で名を馳せた
那須与一 の次男・石畠民武大輔宗信が那須城を造り、治めていた 」 という古い土地柄
だが、高宮宿と愛知川宿の中間にあたることから、 立場茶屋 が設けられた。
少し進むと、八目という地名になり、町役場があった。
交差点の先の左側に、 くれない園 と刻まれた石碑が立つ公園があった (右写真)
この公園は、昭和十年、伊藤忠商事・丸紅商店の創始者である 伊藤忠兵衛 を記念して造られたものだが、敷地は広いが質素なものだった。
公園の隣の駐車場の脇に、 伊藤長兵衛住宅跡 とあり、伊藤長兵衛家の寄贈で豊郷病院の駐車場になった旨が書かれていた。
伊藤長兵衛は伊藤忠兵衛とともに丸紅商店を創始したメンバーである。
昭和元年(1925)、地元の要請により、多額の金と敷地の大部分を寄付して、豊郷病院
を創設している。 長兵衛の子孫も自宅跡地を寄贈している訳で、並大抵の人たちでは
ないなあと思い、大変感服した (詳細は巻末参照)
伊藤忠兵衛の生家は、その先五十メートル程の中山道沿いに残っていて、火、木、土の週三日、十〜十六時、無料公開されている。
開館日だったので、中に入ることができた。
忠兵衛の概伝は巻末にあるのでご覧戴だければと思うが、創業した会社は金融危機で倒産の憂き目にあい、資産を擲って危機を回避するなど、いろいろ大変な時代があったようである。
私の学友で、両社に就職した人はかなりの数いるが、このあたりのことを存じておられるのだろうか?
建物や敷地などは我々の家と違い大きいが、明治の成功者の家という割には、かなり質素なものだった。 初代忠兵衛が近江の本宅として使い、二代目が生まれたところとあるが、初代は大阪にほとんど行っていた訳なので、どの程度使わ
れたか分からない。 家の間取りは商家としてつくりになっていて、庭には咲き終わった
つつじの花びらが散っていた。
庭の灯篭や庭石の組み方などには感心した。
街道を歩く。 天稚彦神社の標石があり、奥を覗くと鳥居が見えた (右写真)
天稚彦(あめわかひこ)は日本神話に、
「 天照大神が諸国を平定するため使わしたが、地元の姫と恋仲になり帰ってこなかった。
そのため、使わした雉に矢を射たので、天照大神は怒って殺してしまった。 亡骸が祭った
喪屋が落ちたところが美濃の喪山である。 」 と、ある神様である。
喪山は美濃市に同地名があるが、垂井の古墳に天稚彦を埋めたというのもあって、諸説
あるようである。 出雲に行った神(神話では出雲とは書いていないが、)がなぜここに
祀られているか分からないが、愛知川の 武満神社 の祭神は大国主命であるので、これと
関係があるのではと思う。 また、隣町の 秦荘町 は新羅からの渡来人である秦氏が
焼き物の技術を伝え永住した地とあるので、これまた、関係があるのではないか?と、思った。
なお、彦根にも天稚彦を祭る神社があるようだ。
その先には、 又十屋敷 があった (右写真)
又十とは、江戸時代から明治時代にかけて、根室を中心とする道東・千島の漁場を取り仕切った 藤野喜兵衛 という人物で、豊郷から蝦夷に渡り、財をなした郷里の英雄である。
北海道における商人資本の漁場開拓者として位置づけられる人物であるが、先住民のアイヌから見ると、許しがたい支配者であった (詳細は巻末参照)
藤野家は、昭和の初めには、北海道に完全に移住していき、残された屋敷は、日吉村
役場になっていた時期もあったが、現在は地元有志による会館として維持されている。
屋敷前に、 一里塚跡の石柱 が置かれていた。
古い家の屋根上に、小さな屋根が付いている家を見たので、不思議に思い、住民に聞いた。 家で火をたいたときの煙出し用に設けられたもので、古い家だけに付いている、ということだった (右写真)
集落のはずれに、今日歩いたなかでただ1軒の飲食店があった。
お蕎麦屋さんで、四辻の周りには駐車場もある。
弁当とパンを食べていたので、腹はもちそうであったが、街道沿いにあるのは久しぶりなので、入ることにした。
十五時に近かったので、客はいなかった。 ざるうどんを注文する。 七百円なり。
できあがる間、ちかくに置いてあった
新聞を見る。 中日新聞である。 名古屋の新聞だあ!!と思いきくと、このあたりは中日
新聞をとる家が多いのだという。うどんは太めで、腰はあまりなかった。 かなりあまい濃い
たれで食べた。 店員の話では、 「 中山道には宿場歩きの団体がバスで来て、集団で
歩くことが多く、その人たちが寄ってくれる 」 といっていた。
このあたりが上枝、下枝地区だが、ここをはなれると田んぼが散在していた。
一キロ歩いたところの右側に、 日吉山千樹寺 というお寺があった (右写真)
寺の前に、 「 江州音頭発祥の地 」 と書かれた石碑があり、
「 千樹寺は、奈良時代に、行基により創建された江州四十九院の一つである。
天正十四年(1586)、藤野太郎右ェ門が戦火にあった寺を再建したが、落慶供養の余興として、住職の根誉上人が経文の二、三句を節おもしろく、音頭の調子で踊ってみせたところ大好評だった。 これが江州音頭の踊りの始めといわれる。 その後、踊りに華やかさが加わり、更に花笠や扇子などの小道具も加わって、今日のスタイルができた。 」 と、由来の説明があった。
「 寺では、今でも、毎年七月十七日(旧暦)にお祭りがおこなわれ、踊りが披露される 」 とあり、
江州音頭はこの枝村観音の踊りとして始まったものが、他所にも広がっていったようである。
道が少し上り坂になると、宇曽川があり、歌詰橋という変った名前の橋が架かっていた。
江戸時代の橋は数本の長い丸太棒を土台にして、その上に土を被せた土橋だったというが、今は、歩道橋は別という、しっかりしたコンクリートの橋になっていた (右写真)
『 宇曽川(うそがわ)は水量が豊富だったので、人や物資を運び、重い石も舟で運んだ。 材木は丸太のまま上流から流した。 そのような重宝した川なので運送川(うんそうがわ)と呼ばれていたのが、なまって 「 うそがわ 」 になった。 』 と、あった。
歌詰橋の名の由来は、平将門にまつわる伝説によるようである (巻末参照)
橋を渡ると、一.五キロほどで愛知川宿である。
石部神社の鳥居が見えたが、この神社は大きい。
宿場入口の沓掛の三叉路には、 神豊満大社への道標があり、左に行くと 豊満神社で、中山道は右である (右写真)
河脇神社の鳥居がある。
それにしても、高宮からここまで、神社が多いなあ!!と、感心した。
やがて、愛知川宿のアーチが見えてきた。
帰る時間の関係で、今日はこれで終わることにした。
近江鉄道愛知川駅から彦根に出て、東海道本線で、彦根から米原、米原から大垣と乗り継ぎ、大垣で特別快速に乗り、名古屋駅にでた。
帰りは行きと違ってスムースに接続することができ、また、座ることもできたので、大変よかった。
今日は鳥居本から愛知川までの約十五キロを歩いたが、四月の桜見物は車で出かけたため、
足が弱ったようで、すこししんどかった。
(ご参考) 『 伊藤長兵衛 』
伊藤長兵衛は犬上郡河瀬村の若林又右衛門の次男として生まれ、二十二歳のとき、六代目伊藤長兵衛の養子となり、明治二十五年(1892)、その次女やすと結婚して、翌年、七代目伊藤長兵衛を襲名した。
伊藤長兵衛商店は、明治五年(1872)、博多に呉服卸を開店し、九州一円から韓国に至るまで販路を拡大、明治十五年には京都に仕入れ店を開くまで拡大するが、大正十年(1921)、丸紅商店の初代社長に就任した。
この会社は、伊藤忠兵衛が興した伊藤忠商事を分割してできた 株式会社伊藤忠商店 と 伊藤長兵衛商店 が合併しできた会社で、これが、今日の総合商社・丸紅 である。
(ご参考) 『 伊藤忠兵衛 』
初代伊藤忠兵衛は、六代目伊藤長兵衛の弟にあたり、全国に出て呉服の行商をしていたが、やがて大阪で、近江上布を扱ったことから成功。 明治五年(1872)、大阪市本町2丁目に呉服太物商の店「紅忠」を開店、明治十六年(1883)に、店の暖簾に丸の中に「紅」と印した。 丸紅の社名はこれに由来する。
初代伊藤忠兵衛は明治三十六年(1903)になくなり、息子の精一が二代目忠兵衛を襲名したが、その時、十六歳だった。
二代目忠兵衛時代に現在の株式会社組織になったが、大正八年(1919)、会社を伊藤忠商事と伊藤忠商店に分割、伊藤忠商事の社長に就任する。 海外留学した経験もあり、貿易業に積極的に推進し、今日の商社というものを創設した人物である。
(ご参考) 『 藤野喜兵衛 』
又十 こと 藤野喜兵衛は、江戸時代から明治時代にかけて、根室を中心とする道東・千島の漁場を経営した大豪商である。
十二歳のときに、豊郷から単身で北海道の地に乗り込み、 「 後柏屋 」 という屋号と 「 又十 」 の商標で独立開業した。 また、明治には別海町で、現在のあけぼの印の缶詰の前身である缶詰工場を経営した。
なお、根室の金比羅神社の参道には、安政弐年(1855)、藤野家の支配人から寄進されたという石燈篭が二基残されている。
(ご参考) 『 日吉山千樹寺 』
千樹寺は、奈良時代に行基によって創建された江州四十九院の一つであり、古くは比叡山延暦寺に属し、日吉山王社を祀ったところから、寺名が付いた。
永録元亀の頃、織田信長と観音寺城主、佐々木義賢父子・天台宗派との内紛にまきこまれ、この寺も戦火にあったが、藤野太郎右ェ門が浄財を投じて天正十四年(1586)に、再建した。
その際、住職だった根誉上人が、落慶供養の余興として、自ら経文の二、三句を 「 ギャティ ギャティ ハラギャティ ハラソウギャティ ボウチソワカ 」 と、節おもしろく音頭の調子で手ぶり、足ぶみして踊ってみせた。
見物人はおもしろがり、我も我もと、円陣に加わり、夜のふけるのも忘れて踊りあかした。
その後も、毎年踊りが続いた。
天明年間に、村の大火により寺は焼失したが、藤野四郎兵衛により再建された。
弘化三年(1846)七月十七日、遷仏供養を行ったが、その際に踊りに華やかさが加わり、更に花笠や扇子などの小道具も加わって、今日のスタイルができた。
(ご参考) 『 歌詰橋 』
江戸時代の橋は数本の長い丸太棒を土台にしてその上に土を被せた土橋だった。 この橋には以下のようなて伝説が残っている。
『 平将門の乱を鎮めた藤原秀郷(ふじわらひでさと)が、将門の首を都へ運んでいたところ、 その首が目を開いて秀郷に襲いかかってきた。 秀郷はとっさに 「 歌を詠んでほしい 」 と頼むと、首は言葉に詰まって地面に落ちた。 』