平成十六年(2004)五月二十五日(火) 前回の反省で、出発時間は三十分遅く、名古屋駅
七時二十分発の新快速・大垣行きに乗った。 大垣駅で十五分程待ち、米原行きに乗り換えて、米原に
八時四十七分に着く。 早速、明石行きで彦根へ。 ここまでは順調だった。 しかし、近江鉄
道では、高宮、多賀への電車は入線していたが、愛知川へ行く電車は九時二十四分ということ
安藤広重が描いた、 「 木曽街道六拾九次の内 恵智川宿 」 には、 愛知川の宿場風景ではなく、郊外の愛知川に架かる橋を描いている。
当時の橋は有料通行が普通だったが、この橋は無料だったので、人々から「 無賃橋 」 と呼ばれ、旅人に感謝されたとある。
広重の絵にも、橋のたもとに、 「 むちんはし はし銭いらす 」 の標柱 がしっかり描かれている (右写真)
(注) 愛知川は恵知川とも書かれたようで、安藤広重の浮世絵では、「 木曽街道六拾九
次の内 恵智川 」 と、なっている。
で、三十分ほど待たされた。 前回もそうだったが、近江鉄道を利用する場合は、事前に時間を調べて合わせるようにしないと、このような目にあうようだ。
トイレに行ったりジュースを飲んだりして時間を費やし、やっと出発したが、乗客は私を含めて五人。
前回訪れた高宮、豊郷などを経由する。 豊郷駅で、ほとんどが降りた。 豊郷病院に行く人がほとんどだったようである。 代わりに、病院帰りのひとが乗ってきた。
車中から、前回訪れた豊郷小学校の立派な建物が見えた。 愛知川駅に到着のは、九時四十分過ぎだった (右写真)
家をでてから、3時間以上かけてたどり着いた計算になる。
愛知川駅は、2000年3月に新しい駅舎ができたばかりである。
郷土物産展示スペースやギャラリーを併設したコミュニティハウスとなっていた。
今日の予定は、愛知川宿を見学した後、武佐宿まで歩くつもりである。
駅からでて、左折すると、駅舎のトイレ前に郵便ポストがあった。
この地の残る伝統工芸・びんてまりを形どったものだった (右写真)
「 中山道宿村大概帳 」 によると、
「 天保年間には本陣一、脇本陣一、旅篭が二十八軒、
問屋が三軒で、宿内人口は九百二十二人 」
と、あり、中規模の宿場町だった。
愛知川宿は、愛知川の渡し場として発達した集落で、中世以前からの宿駅だったが、
江戸時代に、中山道の江戸から六十六番目の宿場町となった。
「 市 」 という地名が残っているところから察すると、商業も盛んであったのではないだろうか?
それはともかく、駅から前回終えた愛知川宿のアーチまで戻った (右写真)
沓掛の三叉路にあった、籏神豊満大社の道標が気になり、駅の南東にある豊満神社に行ってみることにした。
鉄道線路を横切り、幼稚園や中学校の施設がある地区を過ぎ、交差点を直進すると、左側に森が見えてきた。
神社に入る両脇には、常夜燈が点在していた。 駅から2km弱という距離だったろうか?
豊満(とよみつ)神社は、 籏神豊満大社 ともいい、 地元では、 旗神さん 、 御旗さん という呼び名で、親しまれている。
神社に入る門は、本柱の前後に四本の控柱があるので、四脚門といわれるものである。
鎌倉時代後期の作で、屋根は入母屋造り、檜皮とこけら板を交互に葺いた鎧葺きという珍しい工法であり、国の重要文化財に指定されている。 「 ポイ捨てに注意!! 」 などの注意書きがあり、門の周りがてすりで囲まれていた (右写真)
神社の境内には脇門から入ると、広い敷地で、立派な社殿があった。
御参りを済ませてから、少し休憩し神社を後にした。
道脇の畑では麦が黄色く色づいて、まさに麦秋を迎えていた (右写真)
子供の頃には、麦畑も多くあったが、このような風景に出会うのは何年ぶりだろうか??
今日は青空が出て、肌に刺すほどの日射である。
温度が高いので、上着を脱いてTシャツになった。
来た道を引き返し、中山道に向かう。
町長(町?)は、 箱もの の建設が好きなようで、
愛知川びんてまりの館(図書館併設)や近江上布伝統産業会館(中央公民館併設)など、金をかけた極めて立派な施設があったが、
展示品はそれに比べると貧弱というか、世間レベルで見ればアピール性に乏しい工芸などであり、どのくらいの来客が期待できるものだろうか?
道脇の古びた建物が変に印象深いので、立ち止まった。
道脇の草むらに半分隠れた石柱から、愛知郡役所だったことが分かった。
いつの建築かは確認できなかったが、大正時代ぐらいのものではないだろうか?
新しい建物はよいから、このような建物こそ、保存してほしい、と思った。
踏み切りを渡り進むと、中山道との交差点にポケットパークがあった。
ポケットパークには、郵便書状箱の復元されたものがあった。
『 愛知川は、今は穏やかな流れだが、古来、 「 暴れ川 」 と知られ、大洪水のたびに溺死
者を出してきた川であるが、愛知川宿の成宮弥次右衛門と五箇荘の三人の商人が、私財を拠出し、数年の歳月をかけて、橋を架けた。
成宮家には、愛知川に架かる橋をつくり上げていく過程が、精密な描写で描かれている 「 愛知河架橋絵巻 」 が残されている。 』
と、無賃橋が建てられた経緯の説明があった。 ポケットパークの壁面に描かれた絵(右写真)を見ると、
橋は一つと思っていたが、真ん中に中州があり、二つの橋が架けられていた、というように描かれていた。
交差点を左折し、少し行くと、 親鸞聖人御旧跡 ( 古い旧という字だが ) と、彫られた石柱があり、
その先に、豊満神社の別当寺だった、 宝満(ほうまん)寺 があった (右写真)
「 中世の豪族の屋敷跡 」 といわれ、
「 愛知川の氾濫で渡れなくなった親鸞上人が仮宿にした 」と伝えられる寺である。
境内には「 聖人自らが植えた 」 と伝えられる梅の木があった。
「 この紅梅を見に多くの人が訪れる 」 とあったが、訪問したときは青々と葉が茂っていた。
その隣に、八幡神社があった。
宝満寺のあったところに居館があった 愛智氏 の守護神として勧進された、 と伝えられる神社で、
本殿は、寛文十一年(1671)頃に建立された、 と推定され、県の有形文化財に指定されている (右写真)
社伝によると、 「 聖徳太子が物部守屋との戦いで、身の安全えを祈願したところ、神託により
この八幡神社に身を潜めた。
その結果、無事難を免えことができたので、太子は報養に田園を奉納したようで、それ以来皇室の崇敬が篤かった。 」
と伝えられるが、草創は明らかではない。
参道を歩いて正面の鳥居や常夜燈のあるところにでて、中山道に戻った。
常夜燈の脇には、江戸時代、高札場があったところであり、その先の洋館のところには、
脇本陣があったようである。 それらは、全て小さな石柱が建てられていたので、分かった
が、それ以外には昔の宿場の面影は残っていなかった。
これまで歩いた他の宿場では衰退しつつある商店も健在なのは、ご同慶にたえない。
街道が右にカーブするところに、料亭・竹平楼(たけへいろう)がある(右写真)
200年以上前に開業した旅籠で、明治天皇が北陸、東山道巡行の際には、ここで御小休された。
当時は、 竹の子屋 と言っていたようで、玄関の前に 「 旅籠竹の子屋 」 と書かれた提灯が2張りあったが、現在は料亭である。
この先で愛知川宿は終わる。
(ご参考) 『 豊満神社 』
豊満神社は、 籏神豊満大社 ともいい、地元では 旗神さん 、 御旗さん という呼び名で親しまれている。
「 旗神(ハタガミ) 」 とは、このあたりを開拓した 秦氏 の祖神を指すものと考えられるが、 神社の祭神は 大国主命(オオクニヌシノミコト) 、 息長足姫命(オキナガタラシヒメノミコト) 、 足仲彦命(タラシナカツヒコノミコト) 、 誉田別命(コンダワケノミコト) の四神である。 境内の竹を軍旗の棹に使うと戦勝がある、と云われ、 源頼朝を始め、多くの武将が珍重していた、と伝えられるが、今回訪問し、境内を見た限りでは竹はどこにもなかった。
平成16年5月