五個荘は近江商人発祥の地といわれるところで、立派な商人屋敷が残っていた。
老蘇の森は、地が割れ水が湧き出て、人の住めるところではなかったが、
石辺大連が神の助けで、
松、杉や檜を植えたところ、大森林になったといわれる。
武佐宿は八風街道の追分であり、商売の盛んな八幡への交通の要路にあたるところである。
平成十六年(2004)五月二十五日(火)、愛知川宿を探訪して、その足で武佐宿
に向う。
愛知川宿の西端の竹平楼を過ぎると、不飲川が流れている。 水の量が少ないので、
気がつかないほどの川だが、中山道国道と合流する交差点には、不飲橋の標示があった
不飲(のまず)川は、井伊直弼が安政六年に通船水路を開削し、
年貢米の運送に使ったという川で、
東海道本線が開通するまでは、人の輸送にも使われ、琵琶湖を横断し、大津への近道
だった、という。
愛智川郡史には、 「 不飲池より発し愛知川を経て、柳川に至り、湖に注いでいる。
不飲池は往古にこの池で激戦があり、池水、血を流すに至る。 地人忌みて之を
飲まず、よって名づくという。
或いはガスを含む毒水ならん。 」 、 とあるが、
実際には湧き水が出ていたようで、毒水が流れていた訳ではなさそうである。
「 平将門が身の汚れを洗い清めたため、誰もこの池の水を飲まなくなった 」 と、
いう言い伝えもある。
現在は、 湧き水もなく、小さなため池のようになり、とても飲めるものではないと 、
いうことだった。
旧中山道はここで国道8号線に合流してしまった。
交差点の先の地名、祇園町(旧町名)はこの先の橋の脇にある祇園神社による。
十五分ほど歩くと、道は少し上りになり、右手に牛丼の吉野家 、
その先に御幸橋が見える (右写真)
昭和三十六年、国道8号の開通に伴い、愛知川に架けられたものだが、
明治十一年に架設された木橋が、
明治天皇巡幸を記念して、 御幸橋 と名付けられたので、その名を踏襲した。
木橋からは四代目になる橋である、 とあるが、それ以前の橋は、 むちん橋 と呼
ばれていた。
江戸時代、幕府の政策で橋を架けることを原則として禁じていたので、渡し
か、川を歩いて渡っていたため、水難事故は絶えなかった。
文政十二年(1829)、地元の成宮氏と五個荘の四人が彦根藩に申し出て、
天保弐年(1831)に完成させた橋が無料であったことから、そう呼ばれた。
弘化三年(1846)には、川を照らすことにより旅人の水難防止と安全を守るため、
地元の有志が金を出し合って、高さ四メートル三十五センチの大きな常夜燈を建てた。
橋はその後、何度も場所を変えたようで、そのたびに常夜燈の位置も変わったらしいが、
現在は 祇園神社境内にある (右写真)
国道に架かる橋なので、車の通行量が多いが、歩道帯は片側にしかないので、その道を
歩いた。
愛知川は予想した以上に川巾が広かった。 橋の向こうには鈴鹿連山が連なって
見えた。
新幹線の鉄橋もあり、新幹線があっという間に消え去るのに、
橋を渡る近江鉄道の電車は、とぼとぼというくたびれた感じで、走りすぎていった。
橋を渡ると、近江商人の発祥の地といわれる、 五個荘町(ごかしょうちょう)に入る。
橋を渡ったところですぐ左折し、川沿いの道に入り、少し歩くと、 太神宮 、
その下に、 講中 と刻まれた常夜燈があった (右写真)
旧中山道はここで右折し、狭い道に入る。 この道は、国道とほぼ平行しているが、
車の通
行はほとんどなく、人も歩いていない道だった。
このあたりは静かな集落で、かっては茅葺だったと思われる、トタン屋根の軒に
火災予防の
水 と書かれた、魔よけが目に付いた。
家の構造からは農家のように思われるのだが、どうであろうか?
「 東嶺禅師御誕生地 」 と、刻まれた石柱があった (右写真)
「 東嶺禅師は、京都妙心寺の高僧・白隠禅師の弟子で、東嶺円慈禅師のことで、
滋賀県
日野町川原の 臥竜山妙楽寺には、禅の大悟を得たという遺跡や開悟偈文(
げもん)が残る。
生涯の大半は静岡県三島市の竜澤寺(りゅうたくじ)で送り、晩年、
この地に戻り、齢仙寺で
なくなった。 」 と、いう人物である。
少し歩き、近江鉄道の踏み切りを渡ると、
「 聖徳太子御旧蹟法皇山善住寺 」 と、刻まれた石柱があった。
その先の右側には、
小幡神社御旅所と刻まれた大きな石柱が建っていた。 (右写真)
このあたりに、御代参街道(ごだいさんかいどう)の道標がある筈と
探すが、分からない。
左右をきょろきょろ探すが、分らないので、外に出ている人に聞いたが、知らないと
いう。
小幡バス停前の交叉点は五差路になっていて、中山道は直進であるが、左にY字路があり、
道の二又の間にある家の垣根の中に、探していた道標があった。
五メートル程手前の家人に聞いたのに知らないといわれた道標である (右写真)
これは、 御代参街道の追分を示す道標で、 「 右京みち」「左いせひの八日市みち 」
と、刻み込まれている。
御代参街道は、多賀から伊勢への近道で、八日市や日野を経て
東海道の土山宿に続き、伊勢や多賀大社への参詣道である (詳細は巻末参照)
このあたりは、もとの小畑村である。 道はまた、三叉路になるが、ここも右折する。
この角の土地はポケットパークになっていて、街道の入口にあったと同じ、太神宮の
常夜燈があった (右写真)
歩いて行くと、右側に古い茅葺に家があり、道はその先で左右の道に突き当たる。
ここで左折するが、これから先は五個荘の近江商人の家があるところである。
道は広くなり、左側には川が流れていた。
右側に町役場が見えたので中に入り、観光パンフレットをいただく。
中山道は直進するのだが、折角来たので近江商人の屋敷があるところにみることにした。
道の左側に、中山道分間延絵図のレプリカがあったので、それを見て、出発した (右写真)
お堂の脇の道を入り、国道を越えると、左側にてんびんの里文化学習
センター
の建物が見える。 その3階には 近江商人博物館 があるが、素通り。
小学校で左折する。
金堂という集落は、湖東平野を代表する農村集落で、加えて、近江商人が築いた
意匠の
優れた伝統的建造物群として、平成十年十二月に国の重要伝統的建造物群保存地区
に
選定されたところである (詳細は巻末参照)
文化学習センター駐車場の先を右折し、歩いて行くと、道幅が広がり、右側に
常夜燈とお堂があり、左側には金堂の標示がある。
その先の右側に、 大城神社があった (右写真)
「 西暦621年頃、厩戸皇子(聖徳太子)が金堂寺を建立した時、護法鎮守のため、東部にあたる大城の地に社檀を設けたのが始まり。 嘉応弐年(1170)に現在地に社殿を移転した。 」 という神社で、 高皇産霊大神 と 菅原道真 が主祭神である。
( 社伝 (大城神社の歴史) は巻末参照 )
対面には、 日若宮神社 があった。
少し行くと、金堂の中心地に到着。
右側の空き地奥にあるのが、 金堂始まりの寺 といわれる 安福寺 (右写真)
間口三間奥行四間のお堂で、境内には五輪塔があった。
右折すると、道が狭くなり、寺前・鯉通りで、左側に数軒の立派な屋敷が見える。 これらはみな元近江商人の屋敷である。
道脇の掘割には、カラーの花が咲き、錦鯉が泳いでいる、のどかな雰囲気のところ
であっただった。
五個荘町は近江商人発祥の地で、金堂からも多くの商人が輩出し、明治十三年
(1880)に
は集落の三分の一に当たる六十七軒が呉服、太物などの繊維商で、うち、十三軒は
県外
に出店を持っていた。 この通りには、近江商人屋敷の 旧外村繁家 、旧外村
宇俵兵衛家 などがあり、五百円なりで見学できる。
商人の本宅は広大な敷地を板塀で囲み、内部に切妻や入母屋造りの主屋を中心に
数奇屋風の離れや土蔵、納屋を建て、池や築山を配した大きな日本庭園をもつ。
外村宇俵兵衛家が本家にあたる外村繁家は、澪標(みおつくし)の
作家・外村繁の生家で、 外村繁文学館 になっている。 (右写真は外村繁文学館)
道を戻ると、突き当たりに 弘誓寺(ぐぜいじ) がある (右写真)
山門は元禄五年(1692)の建立で、本堂は入母屋造り、本瓦葺き、間口十八間、奥行二十間で、国重要文化財に指定されている。
なお、隣に、 淨栄寺 がある。
街道に戻る途中、 「 観音寺へ1.5km 」 の表示があった。
右折して進めば、突き当たりが 観音寺山の下、 石寺の集落に至る道である。
石寺集落は、近江源氏の佐々木氏が守護として勢力を張った所で、山の中腹に観音正寺がある。
西国めぐりの寺院の一つだが、本堂は最近の火災で燃失したようである。
観音寺城は、永禄十一年(1568)、織田信長の上洛を阻止すべく戦った城主、六角承貞(佐々木氏の分流)の落城により、寺を含めてすべて焼き尽くされた。
旧街道に戻ると、その先は川並地区。 大郡神社の石柱には、東郷平八郎謹書と
あり、鳥居や常夜燈が見えた。
その先の茅葺屋根の家は茶屋本陣跡で、立派な金比羅権現常夜燈が建っていた (右写真)
道脇の農家には、切妻あるいは寄棟造りの茅葺屋根が多く残っていた。
木曽路、美濃路そして近江路とあるいたが、これだけ立派な茅葺屋根が残っているところはない。
そのまま道なりに進み、国道と合流して、すぐに右の清水鼻の集落に入る。 清水鼻は立場
茶屋があったところで、一里塚もあったようであるが、茶屋がどこのあったのかの形跡もなく、
一里塚も残っていない。 その先の三叉路を左折して国道に戻った (右写真)
なお、そのまま直進すると、石寺集落にでられる。
国道には相変わらず大型トラックが走って
いて歩きずらいが、がまんをして歩く。
新幹線のガードをくぐりぬけて、少し行くと、左に入る
道がある。 これが旧中山道だが、信号がない上、横断歩道もなく、車がひっきりなしに来る
ので怖くてなかなか渡れなかった。
渡ったところに、 鎌宮奥石神社の案内板 と 中山道東老蘇の石柱 があった。
少し歩くと、右の奥に森が見え、入口には、奥石神社の石柱と常夜燈が、森に向かって並んで建っていた (右写真)
老蘇の森 (国史跡) は、
「 二千年以上の前の孝霊天皇の時代には、この地は地が割れ水が湧き出て、人の住めるところではなかった。
石辺大連が神の助けで、松、杉や檜を植えたところ、大森林になった。 」 と、伝えられるところである。
昔から文人の間で有名な森で多くの人が訪れている。
東関紀行の著者は、この森を訪れた印象を「 おいその森という杉むらあり。 下草深き朝露の、霜にかはらむゆくすえも、はかなく移る月日なれば、遠からずおぼゆ。 」 と、綴り、
『 かはらじな 我がもとゆひにおく霜も 名にしおいその 森の下草 』
と詠んでいる。
奥石神社は、山を御神体とする原始的根元的神社で、延喜式神名帳にある古く格式のある式内社である。
本殿は天正九年(1581)に建てられた檜皮葺きの豪壮なもので、国の重要文化財に
指定されている (右写真)
「 当時安土城の建設をしていたので、信長の寄進によるともいわれるが、
その可能性が高い。 」 と、町教育委員会の説明にあった。
境内には、 賀茂真淵 と 本居宣長(右写真)の歌を刻んだ歌碑が建っていた。
『 身をよそに いつまでか見ん 東路の 老蘇の森に ふれる白雪 』 (賀茂真淵)
『 夜半ならば その森の郭公 今もなかまし 忍び音のころ 』 (本居宣長)
神社の境内には誰もいなくしーんと静まり返り不気味なくらいだった。
上を見上げると、大きく成長した杉の巨木が聳えていた。
しかし、老蘇の森も、今や、奥石(おいそ)神社の境内とその隣接地が残っているだけになってしまった。
それでも幽玄で、手が加えられていない、自然のままなのはよかった。
森を出て、街道を西に向かう。 小さな橋の傍らに立派な案内板があり、 轟橋 という名で
あることと、 轟地蔵 の由来が書いてあり、隣に、常夜燈が建っていた (右写真)
轟地蔵は、小幡人形の可愛い千体仏で、安産祈願の地蔵である。 現在は福生寺にある
が、中山道分間延絵図(1806年)ではこの橋に描かれていた、とあった。 市町村や集落
により、このように丁寧に説明してくれるところと何もないところとあり、千差万別なのだな!
と、思った。 少し先には、 「 中山道大連寺橋 」 の石柱があり、 内野道の表示があった。
小学校があり、 老蘇っ子マップのある絵図が掲示されていた。 下校時の子供達から
元気な挨拶を受けた。
右の家並みの奥に林が見えると、 西老蘇地区である。
大きなお宮があり、 鎌若宮神社 である (右写真)
東光寺は、豊臣秀吉の祐筆だった 建部伝内の寓居があった跡で、 伝内堂には、元禄八年
造立の木像が安置されている。 寺は清水鼻にあったが、観音寺城落城後に、寺の名と本
尊がこの寺に移された。
30℃くらいの気温のうえ、西日が照りつけるので参ったが、武佐までもう少しと頑張って歩く。
亀川交差点を過ぎると、安土町西老蘇から西生来町に入る。 西生来中バス停を
過ぎると右側の西福寺山門脇に地蔵堂がある。
山門脇の地蔵堂は泡子の僧が「泡と消えた子のために、あら井の延命
地蔵尊をお堂を建て安置せよ」との告げにより建立された地蔵堂で、堂内には
泡子延命地蔵尊が安置されている (右写真)
汗をかきかき、武佐宿の入口にあたる 牟佐神社 に着いた。
牟佐神社で少し休憩をとり、武佐宿に入って行った。
(ご参考) 『 御代参街道 』
御代参街道は、多賀から伊勢への近道で、八日市や日野を経て東海道の土山宿に続き、伊勢や多賀大社への参詣道である。
退位した天皇(上皇)が伊勢神宮や多賀大社に御参りに行くならわしになっていたのが、何時ごろからか、貴族に命じて代参させるようになり、また、大名や家臣たちもそれをまねて御参りするようになったので、そう呼ばれるようになったのである。
また、近江商人が伊勢方面へ商いに出かけるのに使用した道でもあった。
(ご参考) 『 金 堂 』
『 江戸幕府領だったが、貞亨弐年(1651)以降、大和郡山の領地になり、元禄6年に陣屋が置かれた。
町割は条里制を基礎に、寺や民家により集落が形成され、周辺に農家が集まり、東側に大城神社が祀られた。
湖東平野を代表する農村集落で、加えて、近江商人が築いた意匠の優れた伝統的建造物群として、平成十年十二月に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。 』(町教育委員会)
(ご参考) 『 大城神社 』
社 伝 によると、
『 西暦621年頃、推古天皇の御世、厩戸皇子大臣が小野妹子に命じて金堂寺を建立した時に、それの護法鎮守のため、東部にあたる大城の地に社檀を設けたのが始まり。 嘉応弐年(1170)に現在地に社殿を移転した。 文亀三年(1503)には、地頭那須与一の末裔が金堂修理と社宇の加造を行っている。 佐々木氏が観音城を築城してからは、守護神として神田も寄進されたが、織田氏との戦いで度々兵火にあい、佐々木氏の没落とともに、衰退した。 江戸時代に入り、大和郡山領や柳沢氏の陣屋ができ、奉行による例祭が行われ、明治になり県社になった。 』 という神社である。
武佐宿は、宿場の東はずれの牟佐神社の隣に、高札場があったようで、
武佐小学校の卒業生が十数年前に書いた案内板がその旨を表示していた。
武佐宿は近くに近江商人の町である近江八幡があり、物資の往来が盛んに行われ、伊勢に通じる
八風街道の追分を控え、塩や海産物の往来で賑わいました。
天保十四年(1835)に著された、中山道宿村大概帳によると、『 武佐宿は、八町二十四間(900mほど)
の町並みで、本陣一、脇本陣一、問屋二、旅籠が二十三軒で、家数は百八十三軒、
宿内人口は五百三十七人だった。 』 とある。
武佐小学校を過ぎると右側にある白壁に連子格子の家が平尾家宿役人跡である。
平尾家は宿場の伝馬人足取締り役人を勤め、庄屋を兼ねました。
向いの廣済寺の参道口右側に「明治天皇武佐行在所跡」の石碑がある。
廣済寺は推古天皇二年(694)聖徳太子による創建で、 明治十一年(1878) 明治天皇の
巡幸の際、行在所となりました。
その先の右側にある冠木門は武佐町会館で、ここが武佐宿脇本陣跡である。
脇本陣は奥村三郎右衛門 が勤め、建坪六十四坪、門構玄関付でした。
敷地内には馬頭観世音文字塔と愛宕大神碑がある。
その斜め向かいにある旧八幡警察所武佐分署庁舎は明治十九年 (1868)に建てられた
木造二階建ての洋館で、文化庁の有形文化財に登録されている。
武佐町交差点の手前の右側に武佐宿中山道公園があり、東屋と武佐宿常夜燈
モニュメントと武佐宿の案内板が立っていて、象の絵が描かれている。
享保十三年(1728)安南国(ベトナム)より徳川第八代将軍吉宗に献上された象は
武佐宿に宿泊し、東海道、姫街道を経由して、江戸まで
歩いて運ばれた。
武佐町交差点で国道421号線を横断する。 この付近には古い建物が残っている。
その代表が創業して四百年以上たつ商家の大橋家である。
大橋家は米、油等を商い、十五代目金左衛門は伝馬所 取締役を
勤めた。 宿内最古の建物で二階は低く虫籠窓、出格子の建物は塗篭壁で造られ
ている。
対面(右側)の武佐郵便局が伝馬所(問屋場)跡である。
書状集箱(しょじょうあつめばこ)が復元されていた。
武佐郵便局の左手に門があるのが武佐宿本陣跡である。
武佐宿本陣は代々下川七左衛門が勤め、建坪二百六十二坪、 門構玄関付で、本陣門と土蔵を残して
いる。 皇女和宮は下川本陣で昼食を摂りました。
旧本陣前にある料理旅館・中村屋は中山道近江路で唯一、現在も営業を続ける旅籠
である。 武佐宿が開かれた当初から創業していたと云う由緒ある建物である。
本陣跡の四辻を右折すると、八幡町への道である。 江戸時代の八幡町には朝鮮街道が通り、商人の町として多いに賑わっていた。
それに対し、武佐宿は、交通の要(かなめ)に位置していたのだが、
八幡町の賑わいとは異なり、ひっそりとした町だった。
現在、同じ近江八幡市に
属するが、今も静かなたたづまいであることに変わらなかった。
交叉点の手前左に文政四年(1821)建立の道標があり、「いせ 三な口 ひの 八日市
道」と刻まれている。
八風街道追分道標で、八風街道は八日市、鈴鹿山系の
八風峠を越えて伊勢に通じる街道である (右写真)
交叉点を越えると右側に「安土浄厳院道」の道標があり、安土道の追分でもある。
浄厳院は天正五年(1577)織田信長が伊賀と近江の浄土宗 総本山として再興した
寺院で、浄華宗と浄土宗との間で争われた「安土 問答」で有名である。
交叉点を越えた左側は松平周防守陣屋跡である。 武佐の地は川越藩の松平家の
飛び地領でした。
陣屋跡の並びに愛宕山常夜燈と愛宕山碑がある。 ここに
西の高札場があった。
先に進むと左側に「武佐寺長光 従是三丁」の道標が
ある。 ここで、街道から はずれて、長光寺に寄ることにした。
ここを左折し、法性寺前を通り、近江鉄道八日市線を越し、左に進むと右側に
長光寺の参道があり、奥に山門が見えてくる。
東関紀行に「 ゆき暮れぬれば、むさ寺といふ山寺のあたりにとまりぬ。 」 と
書かれている。
太平記に「 足利尊氏は後光厳天皇を奉じて、武佐寺に逃れた 」 とあるので、
昔はかなり大きな寺院だったと思われるが、 今は小さな建物である。
長光寺は推古天皇時代(592〜628) 聖徳太子が建立した四十九院の一つで、
武佐寺と呼ばれました。 寺の御本尊は聖徳太子の持念仏といわれる千手観音
で、五十年に一度の御開帳である。
境内のハナノキは樹齢六百年の大きな木で、春先には葉に先立って花が咲く
珍しい木である。 武佐寺建立時に聖徳太子が手植えしたと伝わる伝説の木で
ある。
「東関紀行」 の著者は「 まばらなるとこの秋風、夜ふくるまゝに身にしみて、
都にはいつしかひきかえたる心ちす。 枕にちかき鐘の聲、曉の空に音づれて、
かの遺愛寺の邊の草の庵の寢覺もかくやありけむと哀なり。 」 と秋の暮の
寂しさをつづり、
「 都いでゝ いくかもあらぬ 今夜だに 片しきわびぬ
床の秋風 」
と、詠んでいる。
街道に戻り中山道を進むと突当りの近江鉄道八日市線を右折するがここは枡形で、
この辺りが近江宿の西見付跡で、武佐宿の京方(西)の入口である。
今日の旅はこれで終わり、近江鉄道の武佐駅へ行った (右写真)
武佐駅では、長浜から来たという大きなリックの人とおしゃべりができた。
中山道を歩き始めてから、約1年になるが、久しぶりに多くの中山道を歩く人に出会った、
といっても、八人であったが、平日でも月曜日だったせいだろうか?
帰りは、米原で富山から来た特急に乗り、名古屋に戻った。
快速と三十分しか違わないが、
冷房が快適なのと、車内販売でビールが飲めたので、疲れがとれたことが大変良かった。
(ご参考) 『 安土浄巌院 』
浄巌院は、織田信長の命により、天正六年(1578)に開かれた浄土宗の寺院で、平安時代製の阿弥陀如来像や本堂(阿弥陀堂)などは国の重要文化財に指定されている。
法華宗と浄土宗との間で争われた、 「 安土問答 」 で有名である。
(ご参考) 『 武佐寺(長光寺) 』
長光寺は道路から奥まったところにあるが、その途中におびただしい「石仏群」がある。 隣の工場を造成したとき、地中から掘り出されたものらしい。 「太平記」 に、「 足利直冬、桃井直常らが京都に迫り、足利尊氏は後光厳天皇を奉じて、武佐寺に逃れた 」 と、いう記述があるので、当時の武佐寺は、かなり大きな寺院であったことが想像できる。
前述の大量の石仏群と合わせて考えると、寺の大きさが納得できそうである。 敷地の大部分は工業団地になってしまい、武佐寺の跡は確認できないが・・・
それにしても、現在の長光寺は小さな建物だった。
平成16年5月