『  中山道を歩く ー  近江路 (8) 守山宿  』


武佐宿と守山宿の間にあった、 鏡宿立場は、義経の元服をテーマにした 謡曲・烏帽子折 の舞台である。
野洲町は古墳や銅鐸で有名な町で、古墳に出会うことができた。
中山道の最後の宿場である守山宿には、今でも古い家並みが残っていた。





武佐宿から守山宿へ

JR彦根駅 平成十六年(2004)六月二日、名古屋を七時半に出たのに、彦根駅での近江鉄道との接続が
悪いため、武佐駅には九時半過ぎに到着した  (右写真ーJR彦根駅) 
早速、守山宿へ向って出発。 今日は快晴で暑くなりそうだが、九州は例年より一週間も 早い
梅雨入りを宣言したので、もう一週間もすればここも梅雨に入るだろう。 
中山道は、踏み切りから少し歩いただけで、西宿町交差点で国道8号線に合流してしまった。 
しかも、歩道が設置されていないという状態である。 歩道がない状況は、野洲で国道と別れ
卒業生の案内板 るまで続いていた。 国道を歩く人がいないので、歩道が無くても問題な いと思われているの
だろうが、中山道を歩く私には少し危険な道だった。 
武佐宿の江戸側の入口の牟佐神社には、武佐小学校卒業生の案内板があって、入口と確認
できたが、京側の入口は分らなかった (右写真ー卒業生の案内板 )
六百mほど歩いた、六枚橋交差点で左折し、国道を離れるが、三百m程でまた国道に合流す
る。 枡形のところが 住蓮坊首洗池 である。 住蓮坊首洗池は、後鳥羽上皇の后(きさき)
東川町交差点 二人が法然上人の弟子・住蓮坊等の信者になり尼になったことで、上皇が怒り二人の僧の首を刎ね、 住蓮坊の首を洗った池とされるところだが、小公園のようになっているだけである。  馬渕町交差点からまた、国道を歩き、東川町の交差点を通り過ぎる (右写真)
(注) 旧中山道は、馬淵集落で右に分岐し、田園地帯の中に入って行き、 東横関集落を抜けて、日野川を渡るというルートであるが、 現在は川を渡る橋が無いので、三百メートルほど上流の国道8号線の橋へ迂回しなければならない。  小生は、時間的な制約もあったので、このルートは通らず、国道をそのまま歩いたが・・・ 
道標 少し歩くと、日野川である。 川に架かる横関橋を渡り、右側の小さな道に入ると、道は左に
カーブし、西横関の集落に入った。 これが旧中山道であるが、十分ほど歩くと、また、国道
と一緒になった。  西横関町交差点の一角に、道標があった (右写真)
「 是よりいせみち、 ミ津くち道 」 とあり、水口を経由して行く伊勢街道の追分である ( 津は
変体仮名になっていた )
善光寺川を渡ると、道はやや登り坂になり、斜め左に入って行く道がある。 この道も五百メートル
ほどで、 鏡口交差点にでて、国道に合流した。 ここからは急坂になった。 
一帯は、 鏡(かがみ)集落で、 東山道時代には「鏡の里」として、八十六の宿駅(うまや)の一
真照寺 つになっていた と、いうところである。  徳川幕府が制定した中山道の宿場にはなれなかったが、守山と武佐の間が長かったので、 間(あい)の宿として 立場茶屋が置かれた。  なお、地元でいただいた資料では、 「 本陣、脇本陣が置かれ、特に紀州侯の定宿で、将軍家の御名代をはじめ、多くの武士や旅人の休憩、泊の宿場であった。 」 とある。  本陣や脇本陣,旅籠などの建物は残っていないものの、元旅籠などを表示した立て札が立てられていた。 国道に面したところに、 真照寺(しんしょうじ) がある (右写真)
この寺には、 額田王(ぬかたのおおきみ)の父・鏡王の墓 がある。
鏡神社 日本書紀に、 「 鏡王の娘、額田姫王(ぬかたのひめみこ) 」 と記されているが、 額田王(ぬかたのおおきみ) の出生についてははっきりしない。  ここでは、 「 鏡王は鏡神社の神官で、その娘、鏡王女や額田王は、この神官家で育てられた 」 という説を採っていて、 「 父の鏡王は、壬申の乱で戦死し、この寺に葬られた 」 と、あった (関連資料は巻末)
坂の頂上近くの右手には、 鏡神社がある (右写真)
鏡神社は、「 陶芸や金工を業とする天日槍の従人の末裔が、 天日槍 を祖神として祀ったことに始まり、 その後、この地を支配した近江源氏の佐々木氏一族の鏡氏が護持した 」と、伝えられる神社である。 
鏡神社本殿 日本書記に、 「  新羅の王子の天日槍(あめのひぼこ)は、この鏡の地で陶器に適した土を見つけ、従人達をこの地に留め、新羅の優れた製陶技術を伝えた  」 と、いう趣旨のことが書かれていて、第十一代垂仁天皇の時代に帰化したと、伝えられる伝説上の人物である。  神社の主祭神は、天日槍で、相殿神は、天津彦根命と天目一箇神である。 
本殿は、三間社造り、こけら葺きで南北朝時代の創建で、国の重要文化財に指定されている (右写真)
鏡神社の参道の左側に大きな根(切り株)があったので、これはなにかと思ったら、
烏帽子掛松 源義経が元服したとき帽子をかけた と、いわれる、 烏帽子掛松 だった。   明治六年の台風で倒れたため、株上二.七メートルを残し、その上に仮屋根をつけて保存されているものだった (右写真の左側部分)
謡曲に、源義経にまつわる 烏帽子折(えぼしおり) と、いうのがある。
「 奥州の藤原秀衡のもとへ行こうと、鞍馬山を抜け出した牛若丸は、その夜、近江の  鏡の里 に入り、時の長者、沢弥傳(さわやでん)の 白木屋 と称した屋敷に泊まった。 」
という史実に基ずく話である (詳細は巻末参照)
その時、牛若丸は十六歳、烏帽子名を源九郎義経とし、天日槍、新羅大明神を祀る鏡神社
古い建物 へ参拝し、源氏の再興と武勇長久を祈願したと伝えられている。 
鏡口交差点から鏡神社までの道は近江路ではかなり急な坂だった。  国道に沿って並ぶ家には古い建物も少し残っているが、 本陣や脇本陣、義経が泊まったという白木屋や五郎大夫家は残っていない (右写真)
観光パンフレットには、白木屋の茅葺屋根の家の写真があったが、すでに畑になっていて、 白木屋自身は絶家し、代々続いた<「義経元服の盥(たらい)」は、保存会で保管されている と、 のことだった。 
元服池 西に百三十メートルのところに、義経が元服に使用したと伝えられる、 元服池があり、石碑が建っている。  裏山の湧き水がしみ出してきているもので、水道が普及するまでは地元の飲料水として使用された池で、 旅人もここで立ち止まり喉を潤していっただろう (右写真)
「 東関紀行 」の作者は、
『 鏡の宿に至りぬれば、昔なゝの翁のよりあひつゝ、老をいとひて詠みける歌の中に、
「  鏡山   いざ立ちよりて   みてゆかむ  年経ぬる身は  老いやしぬると  」
 といへるは、この山の事にやとおぼえて、宿もからまほしくおぼえけれども、猶おくざまに
 とふべき所ありてうちすぎぬ。 』 と、記し、
『  立ちよらで  けふはすぎなむ   鏡山  しらぬ翁の  かげは見ずとも  』
道の駅 と詠んでいる。
鏡山は別名、竜王山という標高三百八十四メートルの山である。  古来から都の貴人に名をはせ、多くの歌が詠われている (詳細は巻末参照)
(注) 東関紀行作者が挙げた歌は古今集にある句で、大伴黒主の作といわれる。 
最近、坂の上の国道沿いに、 道の駅・竜王かがみの里 ができたが、一服するにはよい場所である (右写真)
近くには、 西光寺跡 があり、ここには国の重要文化財指定の 宝きょう印塔 や 石灯籠
明治天皇聖蹟 が残っている。   西光寺は、伝教大師(最澄)が夢のお告げで建立した寺(西暦818年)
で、 嵯峨天皇の勅願寺で、僧房三百といわれ、源頼朝も往還の時、たびたび宿泊している。  また、足利尊氏が後醍醐天皇に帰順を表明した場所でもある。 しかし、信長の兵火により廃寺になってしまった。  道の駅で一休みした後、旅を続ける。  坂を下り始めると、左側に狭い道があるので、それに入る。 これが旧中山道である。  民家のある中に、小公園があり、明治天皇聖蹟碑が建っていた (右写真)
また、小さな石仏が二体祀られていた。 しかし、この道はすぐに国道に合流してしまった。
宗盛塚 野洲町に入り、光善寺川を渡ると,左手に池と村田製作所が見えてきた。 
道の左側の目立ないところに、宗盛塚の案内板があった。 丘に沿って中に入る。 
源義経は、平家最後の総大将・平宗盛(たいらのむねもり)を壇ノ浦で破り、 宗盛と息子の清宗を捕虜として鎌倉に向かったが、腰越で追い返され、 仕方なく京に引き返す途中、この地で、平宗盛父子の首がはね、首だけを京都に運んだ。  残された平宗盛父子の胴を葬ったのが、宗盛塚である (右写真)
野洲町の説明板では、 「 平家が滅亡した地は壇ノ浦ではなく、ここ野洲町である 」 と、あった。 
首洗い池 国道の左にある池は、(以前に比べかなり小さくなったようであるが)、宗盛の首を洗った、首洗い池である。  蛙が哀れと思ってそれ以後鳴かなくなった と、いう逸話が残り、またの名を、「かわず鳴かずの池」という (右写真)
国道の右側は、田畑が連なり、その先に見える三つの小高い丘は、向山古墳群である。 
この先で、中山道は右側の狭い道に入り、約五百mでまた国道と一緒になった。 
炎天下で蒸し暑いので、国道脇のコンビニに寄り、冷たい飲み物を買い、 水道でタオルを濡らして首にかけ、再び、国道を歩く。
天井川 左側に西池があり、その先に正蓮寺がある。 このあたりは小堤集落である。 
大笠原神社の石柱を過ぎたところで、右の狭い道に入って行くのが旧中山道である。 
ここまでの国道には歩道がなく、道に細く線が引いてあるだけなので、本当に恐かった。
集落を過ぎると、鉄道の土手のようなものがあり、アーチ形トンネルになっている。
トンネルの上にあったのは、新家棟川である (右写真は振り返って写したもの)
この先でも出会うことになる天井川の一つである。 
  石積みのアーチがとても美しかったが、何時ごろ作られたものだろうか?
(注)その後、天井川の川底を低くし、現在の新家棟川は天井川ではなく、 橋が架けられている。 
篠原神社 トンネルをくぐると、右側に篠原神社の石柱と鳥居があったので、 中に入っていった。 
篠原神社本殿は応永三十二年(1425)建立の一間社隅木入り春日造りで、国の 重要文化財に指定されている。 (右写真)
社叢が鬱蒼と茂って、境内は静かなので、汗をひくまで休憩をした。
四辻にでると、駐車場があり、その先に 桜生史跡公園 がある。
国史跡の大岩山古墳群のうち、六世紀を中心とする、甲山古墳、円山古墳、天王山古墳 の三古墳があり、自由に見学できる。  それにしても、このあたりは古墳が多いところである。 
野洲町は、銅鐸の町としても有名で、銅鐸博物館なるものをつくっている。  案内によると、
銅鐸博物館 「 野洲町小篠原の大岩山からは、明治十四年に十四個、昭和三十七年に十個の銅鐸が出土した。  中には、日本最大の銅鐸があり、また、近畿地方だけではなく、東海地方で作られたものもある。 』 とある。  銅鐸に興味があったので、寄り道をすることにした。 
入場料は二百円と安い。 当地で発見された銅鐸がすべて展示されていたが、よく見ると全て模造品(レプリカ)で、本物はないようだった。  特に、明治時代のものは、銅鐸が持つ価値が分からなかったので、売られてしまい、かなりの数が海外に流出しているようである。  国内では上野の国立博物館に所蔵されているのが多い。
日吉神社 銅鐸とはなにかという基礎知識を得るにはよいだろうが、現物を見ようとして寄ると当てがはずれるというのが見ての感想である。  街道に戻って少し歩くと、 日吉神社 の案内があったので、入っていくと国道の下をくぐった先に神社があった (右写真)
「 創建はあきらかではないが、少なくとも鎌倉時代には造営されたと考えられ、祭神は大山咋(おおやまぐい)である。  本殿は鎌倉時代後期に建てられたもので、一間社流造である。  小規模ながら、室内は板扉で、内陣と外陣を区別し、正面に格子戸を建てている。 」
と説明にあった。
集落は続き、その中には伝統工芸の 「 ジャパンブルー 」 といわれる 本藍染 を滋賀県内
ではただ一軒だけ伝えていて、桂離宮などの装飾に使用されている森氏の家もあった。 
このあたりは昔から住んでいる人が多いようだが、駅に近づくに連れて他所から移り住んで
小篠原稲荷神社 きた人が多くなるという印象を受けた。 街道から少し入り、国道8号を越えた野洲中学
の近くに、小篠原稲荷神社があった (右写真)
神社は、天暦弐年(948)の創建と古く、以前は、ここから南西に五百mほど離れたところにあったが、 延宝七年(1679)、領主・伊達政宗(仙台藩主)より千坪の土地の寄進を受け、 元禄十六年(1703)に現在地に移ってきた と、ある (詳細は巻末参照) 
お稲荷さんには狐と鳥居が付きものだが、狐が見られないので、普通の神社と変らない。 
神社にくわしい娘の話では、「 稲荷神社の祭神である、宇迦之御魂神は五穀豊穣を司る神で農民の神だったが、 江戸時代に入り、商売の神となった。 稲刈りの頃、狐が頻繁に
稲荷神社図 山里に現れることから、狐が五穀豊穣を司る神の使いといわれるようになった。 」 と、いう。  お稲荷さんは民間信仰の神で、狐は神ではなく、神様との橋渡しをする使いなのだ。 
神社には稲荷神社だけではなく、若宮神社、古宮神社、愛宕神社など多くの神社が合祀されていた。  正面の囲い(塀?)中に三つの社(やしろ)があり、 中央が稲荷神社本殿、左が古宮神社、右側は若宮神社である。 その他の神社は境内にあった (右図参照)
古宮神社が国の重要文化財指定とあるので、説明を読むと、
『 古宮神社の建物は、福林寺境内にあった十二所神社の建物を移管したもので、 室町時代に建られたと考えられ、唐草模様の彫刻が欄間や向拝の蟇股に入れられるなどの意匠
古そうで立派な家が優れている。』  とあり、鎌倉時代創業の歴史がすごいのではなく、他所から移された
建物に価値があることが分かった。  明治の神仏分離で寺院に併設された神社をここに
集めたのではないだろうか? 
三上山の山岳信仰である、天御影命(あまのみかげのみこと)を祀った御上神社にも行きたかったが、 離れているので断念。  道は曲がりくねって続いていて、新しい家が大部分だが、一部、古そうで立派な家もあった (右写真)
突然、分譲住宅が立て込む地区になる。  国道に通じる大きな道に沿って広がる新興住宅地には、スーパーの平和堂があった。  大きな道を横切り、新幹線の高架をくぐる。
(注)京方面から来た場合、トンネルをくぐって、中山道に入る道が分かりずらく、
地元の人でも中山道の旧道を知らないひとが多いことを知った。 
朝鮮人街道との追分 住宅の立ち並ぶ道を道なりに進むと、五叉路に出た。  大きな道が交差している左側に、野洲病院があった。  大きな道を渡り、野洲小学校の裏手を通ると、三叉路にでた。
ここが、朝鮮人街道の追分で、鳥居本宿の追分で分かれた朝鮮人街道が、 彦根、近江八幡を経由して、約四十キロ先のここで合流した訳である。 
(注) 右上写真は振り返って写したもの。 
京都方面からは、中山道は右側、小学校の裏の道で、朝鮮人街道は左の道(小学校の前を通る)である。
(注)  後日、朝鮮人街道を 歩いたので、ご覧下さい。 
背競地蔵 それはともかく、小生はこのまま直進し、行畑地区に入った。 商店街の看板が続く。
四辻にポケットパークがあり、背競地蔵堂と書いたお堂があり、中には二体の石佛が祀ら
れていた。  東山道が通っていた時代から街道を歩く旅人をお守りしてきた地蔵尊で、
また、子を持つ親たちは我が子も地蔵さんの背くらいになれば一人前と背比べをさせるよう
になり、名がついた”とある鎌倉時代の阿弥陀如来立像である (右写真)
その先には、行事神社があり、鳥居をくぐって入ると、注連縄に榊か杉葉を付けたものが
張られていたので、驚いた。
行事神社の道切り 後日調べたところ、道切りという習俗で、全国では少なくなったが、 滋賀県の湖東、湖南、奈良県の一部、千葉県房総地方に残るものらしい (右写真)
『 道切りとは、村に悪霊が入ってこないように村の境界に縄を張り、 あるいは、境を守る標として、道祖神、御幣、蛇やむかでの藁細工を置いた。
この地方では勧請縄あるいは勧請吊りと称し、注連縄と違い、太くて長い藁縄に杉、 榊などの葉を組み込んだ縄を吊るすもので、神社により、形状や吊るすものが違う。 』
長野県では道祖神があったが、あれも道切りの一種とは知らなかった。
道標 更に歩を進めると、左に唯心寺、そして、右手に蓮照寺という寺がある。
境内は広くはないが,手入れが行き届いており,道標は草花に囲まれるように 建っていた。  また、鬼瓦や石仏が目立たないところに置かれていた。 
三つの石標には、 「 右 中山道 左 八まんみち 」、「 自是錦織寺四十五町 」 の道標と 「 従是北淀藩領 」 と刻まれた領界石である (右写真)
八まん道 とあるのは、先ほどの追分のあった、朝鮮人街道 のことである。  道標の根元は折れたのか見えない部分があったが、道路工事で街道が整備された ときにここに移されたのだろうか? 
野洲川橋から見た風景 野洲本町商店街の看板が掲がる街道には、 玉の春 という銘柄の醸造元や古い家が残っていた。  東海道本線のガードをくぐると、右側に明暦三年(1657)開基の十輪院があり、 反対側には石仏群が祀られていた。  野洲川東詰交差点を過ぎると、野洲川にでた。  近江では最も大きい川で、奥は甲賀、信楽そして東海道水口、土山、その先の鈴鹿山中に発している。
川に架かる野洲川橋を渡っていく。  振り返ると、東海道本線と新幹線の鉄橋の先に、 近江富士と呼ばれる三上山が見えた (右写真)
標高は四百三十二米と高くはないが、”俵藤太秀郷”の”百足退治”の伝説がある山で、 古来、信仰の対象とされてきた山だが、近畿の山歩きをする人には人気のある山である。
馬路石邊神社 橋を渡ると、西町でここが野洲町のはずれ。  守山市に入ると、吉身集落で、ここには馬路石邊(うまじいそべ)神社が祀られていた (右写真)
『 白鳳朱雀年間(650年頃)創建されたいう神社で、平安時代に著された「 延喜式神名帳 」にある式内社である。  祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)と大己貴命(おおなこちのみこと) 荘園時代には、馬路郷田中荘(今の吉身、守山、金森など)の総鎮守となっていたので、 田中大明神と称されるようになった。 戌年に創建されたことによるのか、神の使いは白犬である。  元亀、天正の頃、戦火により燃失。 現在の建物は江戸末期のものである。  』 と、 あった。
蛍が出る小川 街道に戻るため歩いた参道は林になっていて、小川が流れていた。  この集落では蛍保護に
力を入れていて、「 六月上旬には、源氏ほたるが舞う 」とあった。  蛍を見た最後はいつだった
だろうか?  交差点のあたりは守山宿の加宿の東端に当たり、昭和三十年ごろまでは松並木が残っていたようである。  平成六年の調査の結果、「 中山道の道幅は今の道幅と同じと推定され、両脇に水田が広がっていたことが分かった 」 と、あった。  また、益須(やす)寺跡の説明板には、
『 日本書紀の持統天皇七年(692)と八年(693)に記述がある寺だが、場所は特定できていない。  このあたりから、法隆寺式の素弁蓮華文や複弁蓮華文などの軒丸瓦など、いろいろな瓦が
出土された。 』 とあり、 守山の歴史の一齣を示すものである。  守山宿はもう少しである。


(ご参考)  『 額田王 』 
額田王(ぬかたのおおきみ)は、日本書紀には、鏡王の娘、額田姫王(ぬかたのひめみこ)と記されているが、 天武天皇の妃となり、十市皇女を生んだ。  鏡王女(鎌足の嫡室)の妹かともいわれるが、額田王の出生については今なおはっきりしないとされる女性である。  美人で優れた女流歌人だったといわれ、いろいろな歌が残されている。
『   あかねさす   紫野行き   標野(しめの)行き   野守は見ずや   君が袖振る   』 (万葉集1-20)
は、近江八幡から野洲にかけて広がる蒲生野で天智天皇が行った狩を詠んだものといわれる。

(ご参考)  『 謡曲「烏帽子折(えぼしおり)」 』 
『 鞍馬山で修行をしていた牛若丸は、金売り吉次と下総深栖の三郎光重が子、陵助頼重(みささぎのすけよりしげ)を同伴して、 奥州の藤原秀衡のもとへ旅立った。
その夜、近江の鏡の里に入り、時の長者、沢弥傳(さわやでん)の屋敷に泊まった。  長者は駅長(うまやのおさ)とも呼ばれ、弥傳屋敷は宿名を 「 白木屋 」と称していた。
宿に入ってまもなく表で早飛脚の声がするので、よく聴くと、「 牛若丸が鞍馬山を抜け出したことを知って、追っ手が差し向けられたことをはなしている」ではないか!!
牛若は、稚児姿では取り押さえられてしまう。 急ぎ髪を切り、烏帽子を着けて、東男(あずまおとこ)に身を窶(やつ)さねばと、元服することを決心するのである。
そこで、白木屋の近くの烏帽子屋五郎大夫に、源氏の左折れの烏帽子を注文する。
牛若は烏帽子の代金に、護身に持っていた刀を与え、宿に戻った。
烏帽子屋は見事の刀を賜ったと喜ぶが、その妻は刀を見て涙を流す。
刀は古年刀(こねんとう)で、源氏の重代の刀剣だったからである。
烏帽子屋の妻(あやこの前)は、知多半島(野間)の内海で果てた源義朝の家臣、鎌田兵衛正清の妹だったのである。
夫が受け取った刀は、義朝が牛若に授けた護り刀で、自分が使いしたので見覚えがあったのである。
「 源氏繁栄の世にてあれば、牛若君が身をやつして流浪することもなきものを、何とおいたわしいことか 」 と、 夫にうち明けたのである。
烏帽子屋は驚嘆落涙し、刀を妻に渡し、妻を使いにやった。
妻は喜んで早速刀を持って宿を訪れ、「 この刀を御受納ありて 」 と刀を返し、主従の名乗りを挙げたのである。
牛若は、なんと不思議な縁(えにし)かと喜んだ。
あよこの前が帰った後、牛若は鏡池の石清水を用いて前髪を落とした。』
(義経サミット実行委員会「鏡の宿・義経元服ものがたり」を基に作成)

(ご参考)  『 鏡 山 』 
鏡山は、この奥に数キロ行ったところにある、別名、竜王山という標高三百八十四メートルの山である。  「 聖徳太子が二十六歳の時(西暦600年)に自ら観音像を彫られ、創建した 」 と伝えられる 雲冠寺(うんかんじ) があったところである。  嵯峨天皇の頃(809〜823)、伝教大師(最澄)の手で再建され、堂塔僧坊5堂、精舎千坊といわれるほど繁栄したが、織田信長の焼き討ちにあい、消滅した。
鏡山は、古来から、
 『  鏡山     君に心や    うつるらむ   いそぎたたれむ   旅衣かな   』 (藤原定家)
 『  かがみ山  老いぬるかげを  はずかしみ  たれこめてはが 行くと見るらん 』 (本居宣長)
 『  我妹が   鏡の山の   もみちはの    うつる時にぞ   物はかなしき  』 (大伴家持)
など、多くの歌が詠まれた場所である。

(ご参考)  『 宗盛塚 』 
源義経は、次々に武勇を発揮し、清盛の子で、 平家最後の総大将だった平宗盛(たいらのむねもり)を壇ノ浦で破り、 平宗盛と息子の清宗とともに、捕虜として鎌倉に向かう。  しかし、兄の頼朝は勝手に官位をもらった者は鎌倉に入ってはならないと命令を出し、 義経は仕方なく腰越から京に引き返す。  元服した「鏡の宿」は避け、篠原(しのはら)に入ったこの地で、 平宗盛父子の首がはね、首だけを京都に運んだ。 

(ご参考)  『 桜生史跡公園 』 
国史跡 「 大岩山古墳群 」 のうち、六世紀を中心とする、甲山古墳、円山古墳、天王山古墳 の三古墳があり、 自由に見学できる。  円山古墳と甲山古墳では、横穴式石室の内部に熊本県阿蘇から産出した凝灰岩をくり抜いた家形石棺や大阪府と奈良県の境に位置する二上山で産出する凝灰岩をもちいた組合式石棺を見ることができる。

(ご参考)  『 小篠原稲荷神社 』 
小篠原稲荷神社は、天暦弐年(948)の創建とされ、京都伏見大社より勧請、主祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、 延宝七年(1679)、時の領主・伊達政宗(仙台藩主)より1千坪の土地の寄進を受け、 元禄十六年(1703)に現在地に移ってきた。 以前は、現在は旅所になっている、 ここから南西に五百メートルほど離れたところにあった。 
この神社には、稲荷神社だけではなく、若宮神社、古宮神社、愛宕神社など多くの神社も合祀されている。  稲荷神社本殿は神社の中央にあり、左側には古宮神社、右側は若宮神社が祀られている。
また、古宮神社の建物は、歴史的価値の高いもので、国の重要文化財に指定されている。  傍らにあった説明板には、『 現在、稲荷神社の境内社になっている 古宮神社 は、 鎌倉時代の草創であるが、 建物は、福林寺境内にあった 十二所神社 の建物を移管したものである。  この建物は室町時代に建られたと考えられ、唐草模様の彫刻が欄間や向拝の蟇股に入れられるなどの意匠が優れている。 』 
と、あった。

                                                       後半に続く







かうんたぁ。