安藤広重の木曾海道六十七次・守山宿には、茶屋と背後に咲く満開の桜、その向こう
に三上山を描かれているが、土橋の対岸から宿場を見た風景といわれる (右写真)
守山宿は寛永十九年(1642)に宿場制札が与えられたので、中山道の中でもかなり
遅い宿場である。 隣の草津宿が東海道と中山道の追分であったので、さばききれ
なくなったことが背景にあったのだろうが、守山そのものは東山道時代の宿駅で
あり、また、自由市として発達した町だったのである。 br
観光協会の資料にも、
『 応永二十五年には守山市(いち)として市も存在していた。
その後、信長や秀吉から宿の指定を受け、宿と商いが保護されてきた。
江戸時代になって自由市として繁栄し、 「 京浪速、江戸の盛り場も物の数
ならず 」 と、 語られた程の賑わいがあった。 』 と、ある。
吉身地区に入ってしばらく歩くと、三叉路があり、このあたりに吉身宿の高札場
があったようである (右写真)
吉身郷の説明板には、 「 古来、水が澄んで風景が美しかった。
江戸時代に守山が宿場に指定されると、吉身はその西の今宿とともに、守山本宿
の加宿として宿場の役割を分担した。 」 と、あり、
守山宿の場合、本宿だけでなく、西側の今宿と東側の吉身の加宿からなっていた
のである。
京からの東下がりの場合、初日は守山泊り が一般的だったというから、
初日は三十数キロを
歩き、守山宿に泊まった訳だが、京や浪速に入る客で混雑する草津宿(東海道と
合流する)を避けたいと思うのは人情、守山が宿場に追加されたのもそのあたり
の事情だろう。
ここから百メートル程先にある慈眼寺までの街道に面する民家は、直線的に並列せず、
一戸毎に段違いにする屋敷割りをした、稲妻型道路になっていたとあるが、
現在ではあまり分からなくなってしまっている (右写真)
「 慈眼寺は天台宗の寺で、本尊は伝教大師の作と伝えられ、秘仏とされていて、通称、帆柱観音の名で親しまれる。
薬師堂には薬師如来坐像や日光、月光菩薩坐像が安置されている。 」 と
、あったが、門が閉まっていて外から見た感じでは建物はかなり傷んでいるような
感じを受けたが、街道に残っている屋敷には立派なものが多かった。
吉身西交差点の先の橋を渡ると守山本宿である。 吉身加宿と守山本宿の境には、
野洲川の伏流水である伊勢戸川が流されていて、
それを標(しるし)にした。
水量も多く冷たく清らかだったので、川の水が旅人の飲み水として重宝がられた、
とある。
なお、上記の川の名前は吉身自治会によるもので、市教育委員会の看板は三戸津川
となっていた。
左側の小児病院の前には、 「 すぐ いしべ道 、 高野郷新善光寺道 」 と刻まれ
た石柱があったが、
これは栗東町にある新善光寺と石部への道標である (右写真)
なお、新善光寺は平重盛の子孫の高野宗定が鎌倉時代に開創したといわれる寺院。
この道標は、
中山道より石部道(伊勢道)として分岐する場所にあり、旅人にとって
重要なものだった。
守山本宿は壱千五拾参間とあるから千九百メートルほどの長さだったようで、
街路灯の支柱に「中山道守山宿」と書かれた将棋の駒の形をした行灯
(あんどん)がついていた。
吉身加宿と同様に、段違いに屋敷を建てるという、稲妻型道路になっていた。
道の左側に白と黒の漆喰壁の家があり、栄爵 という銘柄の酒の醸造元・
宇野本家があった。 第七十五代総理大臣宇野宗佑の実家である(右写真)
小生が訪問した時は営業していたが、平成二十二年(2010)に守山市が宇野家より
この家を譲り受けて今は「守山宿町屋うの家」として公開しているよう
である。
すぐ先の右奥に守山天満宮がある。 当初は天徳三年(959)東門院の境内に鎮座
、祭神の神像は菅原道真の肖像と寛平六年(894)に公自ら刻んだ木像彫刻で
ある (右写真)
その裏に回ると、源内塚というのがあり、 「 平治の乱(1159)に敗れた源義朝が落ちのびてきた際、
この地の土豪・源内兵衛真弘が源氏の落ち武者とみて捕らえようとして、逆討ちにあった。
里人はそれを哀れみ、葬ったのが源内首塚 といわれる。 」 と、説明があった。
その脇には、薬師堂が建っていた。
守山市教育委員会の案内板の地図には天満宮から古井戸までの区間は斜線に囲まれ、
本陣や問屋場跡付近と表示されていて、江戸時代には本町(中町)であったことが
分かった。
民家の前に旅籠だった「甲山跡」の説明板があった。
「 ここには中世東山道時代に旅籠甲山があった。
元信濃武士だった主人が旧主の妻子に加勢して仇の望月秋長を討たせ、
恩返しをしたいう謡曲の「望月」 の舞台になったといわれる。 」 (右写真)
訪れた時には「甲屋之址」の石碑があったが、謡曲望月は架空の創作とのことから
撤去され、現在はこの場所は本陣(小宮山九右衛門)があったと推定されているとして、
「本陣推定地」の碑が立っているようである。 また、この場所に建っていた
昭和四十年まで特定郵便局兼局長宅だった建物も平成十六年(2004)に取り壊され
たという。
その先に古井戸跡がある。 この井戸は天保四年(1833)の宿場
絵図に記載され、それ以前から
存在したもので、他にもあったとされるが、現存
しているのはこれ一基だけである。 守山宿は野洲川の旧河道がつくった自然堤防
という微高地のため、用水路がなく、宿場の防火や生活用水に使用されたと思われ
る。
二百メートルほど行くと、三叉路になり、中山道は左に曲がっていく感じになる。
ここには高さ一メートル五十五センチ、一辺三十センチの四角の石柱の道標が
建っていた (右写真)
「 右 中山道 并美濃路 、左 錦織寺四十五町 このはまみち」 と刻まれ、
他の一面には、「 江州大津西念寺京大阪大津講中建之 」 と、刻まれていて、
約四キロ離れた野洲郡中主町にある真宗木辺派総本山・錦織寺への参道の道標と
して、二百年以上も前の延亨元年(1774)甲子に建てられたものである。
高札場があったところで、その近くに市神社があった場所でもある。
左に折れると、すぐに右手に比叡山東門院・守山寺がある (右写真)
近江三十三ヶ所の二番札所で、 「近江国興地志略」 に、 「 桓武天皇、叡山御建
立の節、当寺へも御行あって、我が山を守護したてまつる所なればとて、地を守山
といひ、寺を守山寺と号す 」 とあり、守山の地名のもとになった寺である。
また、延暦十三年(794)、傳教大師最澄が延暦寺を開いたとき、東方の鬼門を守る
ために建立された、と伝えられる寺で、一般的に、
守山観音とよばれるのは、 千手観音 と 十一面観音 の両像を本尊にするから
である。
十一面観音立像は、 「 弘仁元年(810)、琵琶湖の中に光を放つところがあり、
網を投げてこれを
引き、十一面観音尊像を得たり 」 と 、「東門院縁起」 にある観音で、田村将軍
(坂上田村麻呂)が蝦夷征伐に向かった際に持参した護持本尊でもある。
坂上田村麻呂は、戦勝後、本堂を建立寄進したと伝えられるが、織田信長の兵火
で燃えてしまった。
その後、再建された建物は、明治天皇や江戸時代の朝鮮通信使が宿泊したことから
も、かなり大きな寺だったと思われるが、
昭和六十一年末の火災で本堂などの多くの建物を燃失しまった。
本堂は平成に入り、建てられたものである (右写真)
火災から免れた木造不動明王坐像、石造五重塔や石造宝塔などは国の重要文化財
に
指定されている。
昔は、境内に流れる三津川のほとりに柳があり、源氏蛍が多くて、国の重要文化財に指定される石造り五重塔を青白く浮かび上がらせていたというが、
蛍が飛ぶ姿を想像することはできなかった。
山門の仁王像は、「 坂上田村麻呂が東夷をしずめるとき、山門の仁王に戦勝を
祈った 」 と、伝えられるもので、今も、門出仁王といわれる (右写真)
明治天皇は中山道巡幸で、明治十一年十月十二日、恵那宿より来られ、当寺で
休憩の上、草津宿へ向かわれた。
又、十月二十一日、東京への帰路にも、当寺で休憩し、野洲の辻町に向かっている。
寺の脇には、それを記念した石碑が建っていた (右写真)
この先の四辻で、駅からまっすぐ歩き、銀座通りを突き抜けてきた道と交差する。
中山道は直進で、ここからは守山宿の加宿、今宿に入るのだが、今日の旅は守山
本宿を歩き終えたところで、終了である。
守山宿は本陣も脇本陣も残っていなかったが、道標は残されていたので、江戸時代
の歩く道が想像できたのと、加宿である吉身地区に古い街道の面影を見ることが
できた。
本日は武佐宿からここ守山宿まで歩いたので、約十六キロくらいか?
帰りは、JR守山駅より米原に出て、北陸からきた特急しらさぎに乗り換えて
名古屋に戻った。
平成16年6月