守山宿と草津宿の間は距離は短いが、草津に入ると狭い鉄道トンネルをくぐるなど、少し分かりずらい。
草津市は京阪神のベットタウンとして人口が増え続けている他、工場も多く、滋賀県では一番変貌を遂げたところである。
そういう中で、草津本陣は今なお当時の姿で残っていて、江戸時代の雰囲気を味わうことができた。
平成十六年六月九日、前回と同じ時間に名古屋を出たので、九時半過ぎに守山駅に到着した (右写真)
駅を出て、銀座通りを直進し、前回終わった交差点まで戻り、交差点を左折し、今日の旅を始めた。 中山道は厳密に言うと、江戸日本橋から草津宿までである。
そういう意味では、中山道はあと数キロで終わりになってしまう。
しかし、中山道を歩いてきた人はその先の草津宿と大津宿を東海道と共用するという感じで、中山道を旅してきたと思えるので、私も京都までを中山道の旅ということで、旅を続けたい。
草津宿に向かって歩き始めるとすぐ、土橋(どばし)と書いたコンクリートの橋にきた。
土橋は、本宿の守山宿と加宿の今宿(いまじゅく)の間に架かっていた橋で、江戸時代には全長二十間(約30数m)、巾二間(3.6m)もあった。 徳川幕府は防衛上橋を架けさせなかったが、瀬田の唐橋とこの橋は例外だったようで、板橋の上に土を乗せたことから、この名がついた。
しかし、現在の橋の長さは数メートルしかなく、家並みも変わって、とてもその姿は想像しづらかった (右写真)
安藤広重の守山宿の絵は、今宿側から川を隔てた本宿側の家並みと桜、そして、遠く
に三上山を描いたものだが(前回の守山宿の項参照)、当時の川には屋形船が浮かび、
両岸には宿屋、茶屋が建ちならび、おおいに賑わっていたようである。
川を渡ると、右側に樹下神社がある (右写真)
境内の両側に沢山の常夜塔が並んでいるが、その中に大きなものがある。
当地の旅商人だった伊勢屋佐七が、天保弐年(1831)、どばし界隈を往来する旅人の
安全と宿内平穏を祈念し、建立した伊勢屋佐七の常夜燈である。
太神宮 、 金比羅大権現 などが書かれていて、その他、商売していた地名や一緒に
建立した人の名など刻まれている。 最初は街道の脇にあったが、水害にあったり
して痛んでいたのを明治二年に修理し、ここに置かれた (右写真)
少し先の左側には、本像寺という日蓮宗の寺院があった。
本堂前の築山には、寺の草創の由緒を伝える 石造題目塔があり、 貞治六年(1367)
の銘がある。
墓地にも、 大永四年(1524) の銘の石造題目塔がある。
全国を旅して
二千以上の奇石・珍石を収集した江戸時代の<鉱物学者・木内石亭の墓碑は、本堂左前にあった。
このあたりは古い家も残っていて、昔の宿場の面影を残していた (右写真)
車が行きかう交差点で左折し、楓三道 と案内のある道で右折し、少し行くと、左側に 勝部神社があった。
昭和十六年までは、栗太郡物部村だったので、物部神社と称されていた神社である。
大化五年(649)、当地を支配していた物部氏が物部布津神を祀り、物部郷の総社としたのが始まりという古い神社で、
本殿は、室町時代、明応元年(1492)の造営で、近江国守護・佐々木高頼が造営したものである (神社の由緒は巻末参照)
本殿の間口は一間三尺、奥行二間一尺で、一棟の中に二神殿が置かれ、屋根は檜皮葺き、前流れを長くした三間社流造で、国の重要文化財に指定されている (右写真)
境内にほうきのようなものが置かれていたので、不思議に思い、神社の人にお聞きしたら、1月8日に行われる火祭りに使用されるたいまつのミニチアだという。
ミニチアでも大きいので驚いていると、写真があるからと社務所玄関に案内され、
貼られていた火祭りの写真を見せていただいたが、かなり迫力のある祭りのようだ。
旧街道に戻る。
この道は車が多くないのでのんびり歩ける。
今宿一里塚は少し戻ったところにあった。 南だけの片側しか残っていないが、滋賀県
内で唯一残る一里塚で、江戸から百二十八番目である (右写真)
塚の上の榎(えのき)は枯れたが、ひこばえから生じた二代目の木が、空にむかって
大きく枝を伸ばしていた。
ここから草津宿までは、約一里、四キロの距離である。
焔魔町の交差点を越えると、町名になった焔魔堂がある五邊山十王寺が右側にあった。
門前には、小野篁(おののたかむら)作と刻まれた石柱が建っていた (右写真)
門は閉まっていたが、引き戸を引くと中に入ることができた。
左側の瀟洒なお堂が、焔魔堂なのだろう。
お堂の中には、小野篁(おののたかむら)が造った焔魔像が安置されているのだろうが、しんと静まりかえって人の気配はなかった。
このあたりはところどころに田園が広がるので、農家なのだろうか?
守山市が終わり、栗東町に入った。
左側に森が見えてきて、幼児達が遊んでいた。
公園のようになっているが、大宝神社
の境内である。 街道から幼児達が遊んでいる脇を抜けて歩いて行くと、松尾芭蕉が、
元禄三年(1690)、北陸方面に旅をした帰りにここで足を留め、惜春の情を詠んだ
『 へそむらの まだ麦青し 春のくれ 』
といわれる句碑があった。 へそむら は綣村と書き、この地区の名前である (右写真)
当時、ここに立場茶屋があり、芭蕉が立ち寄って詠んだとされるが、芭蕉研究者からは
芭蕉の作ではないのではと、 存偽の部 に分類されている。
もしそうだとすればおへそで茶を沸かす??
大宝神社は、素盞鳴尊である牛頭天王を祭神とし、近江国守護佐々木氏の庇護を受け
て隆盛し、江戸時代以降は氏子が五十余村にもおよんだ”と言われる神社で、社域が今でも約二万七千uにおよぶ神社で、
明治までは、大宝天王宮とか今宮応天大神宮と呼ばれていた。
建物は一間社流造で、良質の檜材が使われているが、後世のものという話だった (右写真)
境内社の追来(おうき)神社本殿は、弘安六年(1283)の棟札が残っていて、鎌倉時代中期の建築で、国の重要文化財に指定されている。
また、国の重要文化財の指定を受けた 「 木造の狛犬(こまいぬ)一対 」 が祀られていたというが、現在は京都国立博物館に寄託されていてここにはないようだ。
木造の狛犬というのはあまり聞かないので、見てみたかった
(詳細は巻末参照)
案内板には、「 本殿には、もう一対の狛犬がある。 造られたのは前述の狛犬より後の
鎌倉時代(14世紀)頃で、木造の狛犬よりかなり大きく、吽形は頭上に角を持ち、阿形にはこれがないことから、いわゆる獅子・狛犬の一対として作られた。 」 、とあるが、
中に入れないのでどういうものか、確認できなかった。
なお、神社の入口脇には、大宝村道路元標の碑が建っていた (右写真)
再び、歩き始める。 綣(へそ)の集落はけっこう広い。
小学校前を通り、左にJR栗東駅を見ながら、歩く。
花園交差点 を過ぎると、左側にJRの高架が大きく弧を描くようにして近寄ってきた。
JR草津線である。 葉山川を渡ると、草津市に入った。
線路に沿って歩く。 車道はやがて高架になるが、そちらには上がらず、左側を歩き、左側の線路をくぐるトンネルを探して、入って行く。
二つ目のトンネルは極端に低いのだが、自転車に乗ったまま器用に走っていくのには驚いた (右写真)
線路の反対側に出てすぐの道が、旧中山道である。 中山道は、渋川から大路井の
集落を通り、砂川(草津川)を越えたところにある草津追分で、東海道と合流する。
道を右折し、線路に沿ってしばらく進むと、左側に伊砂砂(いささ)神社がある(右写真)
神社の名前は”明治の神仏分離後に、祭神の石長比売命(いわながひめ)、寒川比古命(さむかわひこ)、寒川比売命(さむかわひめ)の頭文字を取って付けられたというもので、
本殿は、一間社流造檜皮葺きで、国の重要文化財に指定されている (詳細は巻末参照)
境内には、二宮尊徳像や「渋川、草津市合併記念碑」もあった。
若いお母さんが幼児と赤ん坊を遊ばせているのをほほえましく見ながら、少し休憩した。
渋川には、光明寺や梅木和中散出店小休所などがあった、 とされるが、街道の
右側に、光明寺はあった。 五百mほど行くと、十字路があり、サンサン通りで、右折
すると、草津駅である。 江戸時代、このあたりは大路井村だったが、スパーの平和堂を
中心にビジネス街が展開していて活況を呈していた。
昼飯時に近かったので、早い内に食事をすまそうと思い、近くのそばやに入った。
トイレで顔を洗い、汗を拭いてさっぱりした。
店のそばはいまひとつだったが、値段とボリューム、そして、冷房の効いた部屋を考えれば十分だろう。
ゆっくりしたかったが、昼時とあって客がぞくぞく来たので、外にでた。
目の前にある、きたなかと書かれたアーケード街を通りぬける道が中山道である (右写真)
北中町商店街には八百屋、酒屋、洋品店などの店があった。
車道と交差する交差点を左折したところに、覚善寺がある。
寺の前の道は明治に造られた東海道の新道で、門前には、明治十九年(1886)に建てられた、 「 右東海道 、 左中山道 」 と、刻まれた大きな石柱の道標がある (右写真)
新東海道は、明治になり、草津川(砂川)の下にトンネルが掘られ出来たもので、それ以降、東海道は新道に変わり、新追分もできたのである。
寺の先に、女体権現の小汐井神社がある。 道をそのまま東に行けば、名物 うばが餅 を商っている店にいけるが、神社で引き返した。
商店街を歩くと、トンネルが現れた。
トンネル内には、東海道の旅風景をイメージした壁画が数枚あった。
(ご参考) 『 勝部神社(旧物部神社) 』
神社の由緒書によると、
『 神社の祭神は物部布津神、宇麻志間知命、などである。
大化五年(649)、当地を支配していた物部宿彌広国が祖神物部布津神を祀り、物部郷の総社としたのが始まりで、これを物部大明神と称した。
日本三代実録にある、従五位下の神位階が授けられた物部布津社が当社である。 その後、民衆の信仰を集め、特に近江国守護・佐々木家の信頼が厚く、戦いにでる時は神社の竹で幟を作り戦勝を祈願した。 本殿は、室町時代、明応元年(1492)の造営で、近江国守護・佐々木高頼が造営したもの。 』
(ご参考) 『 大宝神社 』
由来書によると、
『 大宝神社は明治まで、大宝天王宮とか今宮応天大神宮と呼ばれていた。
祭神は、素盞鳴尊(すさのおのみこと)すなわち牛頭天王であるが、
牛頭天王が勧請される以前からの地主神と考えられ、栗東を支配していた小槻氏が神主を務めていたことが、本殿の棟札などから確認されている。 その後、近江国守護佐々木氏の庇護を受け、社運はますます隆盛した。 牛頭天王は、古来から、除疫の神として崇敬され、江戸時代以降は氏子が50余村にもおよんだと言われる。 本殿の棟札から弘安元年(1278)に棟上げが行われたことが分っているが、現在の建物は後世のもので、一間社流造で、良質の檜材が使われている。 境内社の追来(おうき)神社本殿は弘安六年(1283)の棟札が残っていて、鎌倉時代中期の建築であることが確認されていて、国の重要文化財に指定されている。 』
(ご参考) 『 大宝神社の木造狛犬 』
平安時代から鎌倉時代にかけての作で、洲浜座に蹲踞する像高五十センチに満たない小さな阿吽(あうん)像一対である。
口を大きく開けて怒号する阿形は金箔押し、たてがみと尾は緑青で彩色、口を閉じて上歯列を剥き出す吽形は銀箔押しで、
たてがみと尾は群青で彩色したもので、日本美術史における動物彫刻の代表作として国の重要文化財の指定を受けている。
(ご参考) 『 伊砂砂(いささ)神社 』
現在の名前は明治の神仏分離後につけられたもので、以前は、 天大将軍社 とか、天大将軍之宮 といわれた。
祭神は、石長比売命(いわながひめ)、寒川比古命(さむかわひこ)、
寒川比売命(さむかわひめ)、伊邪那岐神、素盞鳴尊の五神である。
本殿は、室町時代の中期の応仁弐年(1468)に建立され、元禄四年(1691)に修理をされたと棟札にある。
一間社流造檜皮葺きで、国の重要文化財に指定されている。
トンネルを出ると、三叉路があり、その先の左側に公民館があったので、立ち寄っていろいろ伺った。
「 草津川はトンネルの上に川が流れているという極めて珍しいもので、天井川といわれる。
昭和になって、川に沿って桜が植えられ、今は桜の名所になっていて、とても美しい。 草津川は移されたので現在は流れていない。 」 などを教えられた。
川にはトンネルの左側から登れるというので、見にいった。
たしかに水は流れていなかった (右写真)
散歩を楽しむ人に混じって私のように草津宿を訪れたひともいた。
降りたところに小さな社が祀られているが、ここは、草津宿高札場があった所である。
江戸時代の東海道と中山道の追分を示す道標は、トンネル脇の小高いところにあった。 文化十三年(1816)建立の高さ四米の石造の常夜燈兼用(火袋つき)の道標には、
「 右東海道いせみち 」 「 左中仙道みのぢ 」 と、刻まれている (右写真)
右折して行くのが伊勢道と江戸時代の東海道で、直進が中山道と美濃路への道である。
つまり、中山道はこのT字路が起点(終点)なのである。 従って、京・三條大橋に行くには、この先合流した東海道を歩くことになるのである。
私の京への中山道の旅は、厳密にいえば、この道標で終りになるが、京までの行程を含めて中山道の旅というのが普通なので、それに従い歩き続けることにした。
草津宿は、江戸方の入口の横町道標から始まり、ここ草津追分を経て、京方の立木神社の南二百メートルにある黒門までといわれた。 その長さは十一町五十三間半(約1.3km)程である。
右の草津宿の浮世絵は、草津川が描かれているが、江戸時代、東海道の江戸方面に向うには、草津川の土手を登り、橋を渡り対岸の土手を下って行った。
草津宿は、本陣が二、脇本陣も二、旅籠は七十二(最盛期はもっと多くあった)、家の数は五百八十六軒、宿内人口は二千三百五十一名と大きな宿場だった。
宿場の中心はここ草津追分からこの先の本町商店街あたりだったようである。 本陣は、追分からすぐ右側に田中九蔵本陣と田中七左衛門本陣があったが、田中七左衛門本陣は今でも健在である。
田中七左衛門本陣の敷地は、千三百坪もある広大なもので、建坪は四百六十八坪、部屋数は三十余もあり、現存する本陣の中では最大級で、国の指定史跡である (右写真)
田中家が個人でこの古い由緒のある建物を守ってきたものを当時のままに復元し公開している (月曜日・年末年始は休み、200円)
立派な構えの門をくぐると、玄関広間には、関札が並べられていた。
関札とは、大名、公卿、幕府役人が泊まる際持参した札で、宿(自身賄い)、泊(賄い付き)、休(昼飯休)を札で示したことを知った。
玄関から座敷広間、台子の間、そして殿様の上段の間と続く (右写真は上段の間)
奥には庭園があり、風呂場や厠がある。
上段の間の反対側には向上段の間、玄関に向かって、上段相の間、東の間、配膳所、台所土間と続いていた。
真ん中は畳敷きの通路であるが、人数が多いときにはそこに泊まるとあったのはおもしろかった。
宿帳が公開されていて、「慶応元年5月9日、土方歳三、斉藤一、伊藤甲子太郎、など32名が宿泊した」と記載された大福帳もあった。
写真の大福帳には、 浅野内匠頭の九日後に吉良上野介が泊まった ことが記録されていた。
本陣職を務めた田中家の住宅部分もあったが、六畳以下が大部分とはいえ、九部屋以上もあり驚いた。
裏には厩(うまや)もあり、本陣というものはすごい施設と思った。
現在、田中家はこの奥の家に御住まいの様子だった。
東海道の本陣でもこれだけのものは5つしかなかったらしい。 江戸時代の街道の歴史を知る上に一度は訪れたいところである。
草津宿はここから四五丁続くわけだが、昔の建物の残っているものは殆どなかった。
左側の白い漆喰の建物の壁には、脇本陣と記されているが、観光物産館で草津宿のおみやげとレストランである (右写真)
名物の姥(うば)が餅も置いてあるのだが、午前中に全て売れてしまい、買えなかった。
信長に滅ぼされた佐々木氏の忘れ形見の幼子を、その乳母が餅を売って育てたという故事のある菓子で、乳房をあらわしているという餡餅である。
もう1軒の脇本陣は、少し先の民家の前に、紙に書かれアクリル板に入れられたもので、ここにあったことが分かった。 この先、アーケードになっている 本西商店街を歩く。
左側に草津宿街道交流館があり、宿場をバーチャル映像で見せているとあったが、通過した。
道灌という銘柄の太田酒造所は、 「 問屋場を預かり、また、隠し目付けを勤めた家で、政所といわれた。 」 と
酒造所前に説明文があった。
また、奥に続く倉庫が幾つか見えた (右写真)
前の喫茶店(?)には、問屋場・目貫改所だったことを書いた紙が貼られていた。
本西商店は、街駅前の商店街と違い、客足はまだらで、シャッター通りの一歩手前という印象を受けた。 br>
少し歩くと、立木神社の手前に、旅館・野村屋がある (右写真)
幕末から営業している元旅籠のようであるが、この付近にはビジネスホテルも多いので、ここに泊まる人はどのような人かと、ふと思った。
交差点の先にある立木神社は、旧草津村と旧矢倉村の氏神だった。 鳥居をくぐり入ったが、屋根の修理を行っていて、本殿まで行けなかった。
神社に鎮座するのは狛犬が普通だが、ここでは獅子の狛犬の他、神鹿があった。
草津宿はこの先の黒門までとあったが、探しても分からなかったので、草津宿は立木神社で終わりということにしたい。
平成16年6月