『 中山道を歩く− 近江路 (10) 大津宿  』


大津宿までは長いので二回に分けて掲載する。 一回目は石山までである。
東山道の時代には、野路が宿駅で大いに賑わったとあり、野路の玉川は多くの歌人に詠われた。
野路を出ると、月輪、一里山を経て、大江、となり、瀬田の唐橋へと続く道。
琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川に架かる橋が瀬田の唐橋である。





草津宿から 石山まで

草津川 平成十六年(2004)六月九日、JR守山駅から草津宿を経由して石山まで歩いた。 草津宿のはずれの立木神社を出て、旧街道の細い道を歩いて行くと、大きな川が現れた。   新しい草津川である (右写真) 
「 旧草津川は草津宿より8mも高い天井川であった。 平素は水がなく歩いてそのまま歩けることから、砂川と呼ばれたが、大雨が降ると一気に水嵩を増し、川止めになることもしばしば、堤が決壊して宿場町が飲み込まれて、復旧するのに大変苦労した。 」  と、記録に残るが、それを変えるため、名神高速道路と交差する場所より少し下流付近から新たに開削された川である。 
矢橋道標 橋を渡り少し行くと、矢橋道標が建っていた。 ここは、東海道と矢橋街道の追分で、 道標には、 「 右やはせ道、これより廿五丁 」 と刻まれている (右写真) 
案内板には 「 矢橋街道は、矢橋港まで通じる道<で、江戸時代多くの人に利用されたが、 旧街道は分断されてしまい、今は一部しか残っていない。 矢橋港から、大津行きの大丸子船 (百石船)が出ていたので、旅人はここから矢橋港に出て、大津の石場までの約二時間の船旅を楽しんだ。 」 、とある。  私は中山道(東海道)を歩くひとは全て徒歩と思っていたが、近江路では船旅が利用できたことで、この区間の時間短縮や疲労防止を図ったことを知った。 
草津川 道の右側にある瓢箪屋は旧姥ヶ餅屋の跡である (右写真) 
「 瀬田へ廻ろか矢橋へ下ろか 此処が思案のうばがもち 」、と言い囃された餅屋で、
江戸時代の旅人はここで茶を飲みながら舟にするか大津まで歩くかを思案したことだろう。 
後日、 矢橋道を 歩いたので、参考までに紹介します。 
与謝蕪村は、『  東風吹くや   春萌え出でし    姥が里     』 と、詠んでいる。 
矢倉集落を過ぎると、国道1号線に出る。  対面の標識に旧東海道の案内表示があるので、 それに従って、国道を斜めに渡るとこれからは野路である。 野路は、東山道の宿駅の
野路一里塚碑 野路駅として、源頼朝など武将達が往来したところで、宇治に抜ける分岐点に当たり交通の要所だったが、 草津が宿場になったころには、野路の存在はかなり低下していたようである。  そういえば、JRの駅名も南草津駅だった。  左折した先に保育園があったので、野路の一里塚を尋ねたが、 草取りをしていた若い男性二人は土地のものではないので分からないという。  向こうから歩いてきた六十五歳前後の男性に聞くと、案内してくれた。  道を渡った反対側に小さな公園、北池公園があり、 その中に 「 野路一里塚 」 と書かれた石碑が建っていて、 説明文に、「 野路の一里塚はこれより北西30mと道を挟んだ北東20mのところにあった。  明治十四年、国有地払い下げで消滅した。 」 と、あった (右写真)
四阿には、休憩できる椅子もあったが、そこには布団などが置かれていて、どうやらアウト
清宗塚 サイダー(ルンペン)の住居になっている様子だった。 案内していただいた方も呆れ顔をしていた。  休憩は諦めて、歩き始める。  旧東海道は国道と平行した一本東の狭い道である。  教善寺の前を通り、少し行くと、右側に 清宗塚 と表示されている。  民家なので躊躇したが、人の姿が見えたので入っていき、「 見てもよいでしょうか? 」 と訊ねたら、 「 どうぞ!! 」 といわれたので、中に入って行った。
錦鯉が泳いている池の奥に、五輪塔があるのがどうやら 清宗塚 のようである (右写真) 
前述の守山宿で、平清宗親子の断首のことを書いたが、ここの話は多少違っていた。  「 壇ノ浦で敗れた平家の総大将平清宗の長男・清宗は、父清宗が野洲の篠原で断首されたことを知り、 西方浄土に手を合わせて祈った後、堀弥太郎景光の一刀で首をはねられた。 」  と、いうものである (詳細は巻末参照)
清宗の亡骸を葬ったというのが、清宗塚で、「 遠藤家は今日まで守ってきた 」 とあり、 遠藤
家の歴史の長さと行為に感心した。 このあたりは、野路集落の中心であるが、道が狭い。 
野路の玉川 「 立命館生の進入お断り!! 」 という看板があり、なんのことか分からなかったが、住民の話では、 「 立命館大学のキャンバスが出来てから車が入り込んでくるので困る。 」 ということだった。   野路の玉川を探しながら歩く。  野路の玉川とは、十禅寺川の伏流水が湧き水になり、一面に咲く萩と共に、近江の名水・名勝として名高いだったところである。 しばらく歩き、大きな道を渡った右手のフェンスに囲まれたところにその跡があった (右写真) 
源俊朝が 『 あさもこむ 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やとりけり 』(千載和歌集)と詠んだ他、多くの歌人が詠んでいる。  阿仏尼の十六夜日記では、
野路の玉川跡 『 のきしぐれ ふるさと思う 袖ぬれて 行きさき遠き 野路のしのはら 』  と詠んでいるが、しみじみとした感慨にふける歌である。  しかし、野路宿駅の衰退とともに野路の玉川も運命をともにしたようである。  現在のは昭和五十一年に復元したものだが、水道水(?)を少しづつ流すだけのものなので、上記の歌の風景を想像することは出来なかった (右写真) 
炎天下の中歩いたので、ペットボトルのお茶はぬるま湯になってしまっているし、おやつに
持ってきた板チョコは溶けてしまって捨てるなど、この暑さはさんざんである。 
それでも、玉川のあまり清潔とは思えない水で顔や手足を拭いた結果、少しさっぱりした。
十分ほど休憩してからまた歩きだした。  江戸時代には、玉川から南笠東との間に松並
見た家 木があった、とあるが、今はないようである。  右側に弁天池があるのだが、マンションや
住宅などが建っているため、確認できないまま、通り過ぎた。 草津もそうだったが、この
あたりは京津地区のベットタウンとして大きく変わってしまっている。 狼川からは、道は緩やかな上り下りをくり返しながら続いている。  このあたりには、農家だったと思
われる家が散在するが、畑はもう少なくなってしまったのだろう。 左にあった白塀の屋敷は、農家なのかどうか分からないが、かなり立派な家だった (右写真) 
栗林を過ぎたあたりから民家の中に、工場が増えてきた。 以前は畑か山林だったと思
月輪寺 われるところに工場や住宅が建っているので、街道という雰囲気はないが、道が狭いのは当時のままなのかもしれない。  少し歩くと、 月輪 という集落。  江戸時代には、立場茶屋があったところで、それを示す石碑が街道脇にあった。  月輪寺は、文久三年(1863)の開基で、門前に新田開発発祥之地、明治天皇駐輩之碑 などの石碑が建っていた (右写真) 
ここから一里山である。 先輩達が「近江路の中で自然が残りのんびり歩ける」と書いていたところだが、ご他聞に洩れず住宅化の浪が押し寄せてきていた。 
道は車道を横切りながら、くにゃくにゃ続いて行く。 車一台位しか通れない狭い道なのに、 
一里塚碑 予想した以上の車が走り、歩きずらい道だった。  しばらく歩くと、瀬田駅へ行く広い市道と旧東海道が交差しているところにきた。  店の一角に、 一里塚碑が建っていた (右写真)
「 この地点に一里塚があり、松が植えられていたが、明治に取り除かれた。  一里山という地名は、ここからでている。 」 と、説明板にはあった。  交差点を横断すると、狭い下り坂。 
この先、旧街道は大江三丁目と六丁目の境を行くが、道は国道に向かっているのが多く、分かりずらい。  小生も間違えた。  道筋に市の案内板があるので、見ながら行くとよいのだが、少しはずれると分からなくなってしまうのである。  瀬田小学校の南の忠魂碑付近には、
西行屋敷跡があるが、なにも残っていなかった。  「 佐藤義清は北面の武士であったが、
高橋川の橋 二十三才で出家し、西行法師となり、諸国行脚にでて、多くの歌を残した。 一時、この大江の地に住んだと言い伝えられている。 」 
旧中山道は瀬田小学校が右手に見えてきたら左、保育園を過ぎたら右に曲がる。  真っすぐ行くと、近江の国の国府跡に行く。 
やがて旧国道1号線である広い道に合流する。 
高橋川の橋を渡ると、神領である (右写真)
地名の神領は、建部神社の門前に位置し、その御料田(神領)となったことから名付けられた。 
建部神社 少し古い家が残る商店街を行くと、神領建部大社前のバス停があり、三差路になる。 
左折すると官幣大社の大きな石柱が目に飛び込んできた (右写真) 
古来、建部大社とか建部大明神などと称え、延喜式内名神大社に列し、近江一の宮として崇敬を受けた古い歴史を持つ神社である。  神社名には変遷があったようだが、現在の名前は建部大社である。  祭神は日本武尊、相殿は天明玉命、権殿は大己貴命。 なお、神社の由来は、巻末参照のこと。 
参道を歩いて行くと、正面に、神門、その奥に神木の三本杉がある。 御神木の三本杉の一本は枯れて しまっているよう思えたが・・・  
拝殿と本殿 入母屋造の拝殿の先には中門を隔てて本殿と権殿があった (右写真)
火災でほとんどが燃失した中で、平安時代の作といわれる国重要文化財の「 女神像三体像 」 などがわずかに残っていて、 それらは宝物館に保管されている (拝観料200円)
  街道に戻り、商店が立ち並ぶ道を歩くと、唐橋東詰の交差点に出た。  四辻の一角に、
田上太神山(たなかみやま)不動寺 の道標があり、 「 是より二里半 」 と刻まれていた。  不動寺は、三井寺を再興した智証大師円珍により、貞観元年(859)に創建された寺で、湖南アルプスの主峰・太神山の山頂にある。 
瀬田の唐橋 石山からバスで三十分乗って行き、そこから寺まで二時間登るという花崗岩が露出した岩の上に建つ寺院のようである。  夕方のラッシュには少し早いが、交差点では車がひしめいていた。  琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川に架かる橋は瀬田の唐橋である (右写真) 
奈良時代からあった橋で、鎌倉時代に付け替えられた時に、唐様のデザインを取り入れたために、 唐橋と呼ばれれるようになった、 という。  東国から京に入る関所の役割を果たし、軍事・交通の要衝でもあったため、 「 唐橋を制する者は天下を制す 」 とまでいわれ、 壬申の乱を始め、承久の乱、建武の戦いなど、幾多の戦いがこの橋を中心に繰り広げられ、 常夜塔と句碑 そのたびに破壊・再建を繰り返してきた。
(注)詳細は巻末参照。
橋のたもとには常夜塔と、大江匡房の句碑があった (右写真) 
匡房は、 「  むかで射し  昔語りと   旅人の  いいつき渡る  勢田の長橋   」 
と、いう歌を詠んでいる。  河川敷の中には、小さな社(やしろ)の 「 勢多橋龍宮秀郷社 」
がある。  祭神は瀬田川の龍宮様と俵藤太秀郷である。  俵藤太が竜神の頼みにより
大ムカデを平らげたという伝記による神様であろう。
練習風景 唐橋は、二つの橋からなっていて、川中島には屋形船で網で打った川魚をてんぷらにして出してくれる料理旅館が建っている。
河岸を歩いてから橋の中央まで歩き、下を覗く。
時刻は十六時半を過ぎていて、大学のボート部の人々が練習にいそしんでいた。
ボートを漕ぐオールと川の流れ、少しピンクがかってきた雰囲気が大変よかった。
しばらくの間、写真撮影に没頭した (右写真)
橋を渡った先の道を左に行くと石山寺があるが、旧街道は直進。
変わった建物 左側の変わった建物はいつ建てられたものだろうか?  古い家も数軒並んで建っていた。 京阪電車の唐橋前駅の踏み切りを越えると、鳥居川町の十字路にでる。  右折したところに、明治天皇鳥居川御小休所の石碑が建っていた (右写真)
なお、左折すると、悲劇のヒーロー、大友皇子を祀る御霊神社がある。  また、直進した先にある晴嵐小学校は近江国分寺があったところと伝えられる。  京阪電車の線路を越えたところで、左側に入ると、JR石山駅が見えてきた。  十七時を過ぎていたので、今日はここで終了することにした。  今日は守山から草津そして瀬田を経て、ここ石山までの十五キロ強の歩きであった。  帰りは、京都から新幹線という方法もあったが、米原まで
快速で行き、そこから新幹線で名古屋に戻った。

(ご参考)  『 野 路 』 
野路の集落は平安末期には存在しており、平家物語に登場する。  鎌倉時代には東山道の宿駅・野路駅 として、源頼朝など武将達が往来したところでもあり、宇治に抜ける分岐点に当たり交通の要所だった。  しかし、草津宿が登場するようになると、野路の存在は急速に低下していった。 

(ご参考)  『 清宗塚 』 
『 壇ノ浦で敗れた平家の総大将平清宗の長男・清宗は、父清宗が野洲の篠原で断首されたことを知り、西方浄土に手を合わせて祈った後、堀弥太郎景光の一刀で首をはねられた。 御年、十六歳だったというからあわれ!!  親子の首は京都六条川原にさらされたが、清宗の胴を葬ったという 、胴塚 を遠藤権兵衛家は守ってきた。 』  と案内にあった。

(ご参考)  『 月 輪 』 
月輪池に由来する地名で、 池に映った月の姿から名付けられたとも、 月輪殿九条兼実の荘園内にあったからとも、いわれる。 原野だったのを江戸時代に入って開墾が進められて、延宝四年、大萱新田となり、明治七年(1894)月輪村になった。 

(ご参考)  『 建部神社 』 
『 天武天皇の頃の白鳳四年(676)に、建部連安麿が天皇の詔を受けて、日本武尊を祀ったのが始まり。 最初は、神崎郡建部村にあったが、天宝勝宝七年(755)に、近江の国府のあったこの地に遷座したと伝えられる。  日本書紀にも、 「 日本武尊は三十二才で熊野に於いて崩御されたが、父・景行天皇は尊の永逝をいたみ、御名代として、建部を定め、その功名を伝えた 」 という記述がある。 また、源頼朝が伊豆に流される途中、この神社に立ち寄り、前途を祈願したことが平家物語にある。 源氏再興の宿願がなって、頼朝が建久元年(1190)の上洛の折、神宝と神領を寄進したといわれる。 そうしたことから、武将の間では「武運の神」として知られ武運長久が祈願された。 元中八年(1391)の承久の乱の時、戦火にあい、社殿と多くの社宝を失った。』

(ご参考)  『 瀬田の唐橋 』 
『 瀬田の唐橋は、近江八景の一つ 「 瀬田の夕照(せきしょう) 」 として有名な橋で、古くは日本書紀にも登場するほどです。  瀬田の唐橋は、本来、橋はもう少し上流にありましたが、天正三年(1575)、織田信長が現在の位置に新しい橋を建設し、以来、今の場所が定位置になっています。  その後も、たびたび橋は架け替えられ、現在の橋は昭和五十四年に造営されたもので、ゆるやかな反り、旧橋の擬宝珠(ぎぼし)をつけるなど、昔のおもかげをしのばせています。  瀬田の唐橋は文学や民話にもたびたび登場しています。 民話 「 三上山のムカデたいじ 」 では、唐橋を渡る俵藤太の前に龍宮の姫が変身した大蛇が現れますが、橋の東詰めには藤太や竜宮の王を祀る龍王宮秀郷社(りゅうおうぐうひでさとしゃ)や藤太の追善供養のために建立された雲住寺があります。 』   (大津市の観光案内より)

(ご参考)  『 大友皇子 』 
大友皇子は天智天皇の子であるが、父の死後おきた壬申の乱で、叔父の 大海人皇子 に敗れ、大津市の 長等で自刃した。 長い間天皇とは認められなかったが、明治になって天皇に列せられ、 弘文天皇 という諱がおくられた。

(ご参考)  『 近江国分寺 』 
近江国分寺は前述の近江国衙に近くにあったが、延暦四年(785)に焼失したので、晴嵐小学校の場所にあった寺を国分寺とした 、といわれる。



                                           後半に続く








かうんたぁ。