大津宿は、湖内交通と街道が集中したことで、人や荷物の往来がさかんで繁栄したところである。
三井寺や石山寺などの寺院もあり、ゆっくり歩けば見所も多いところである。
平成十六年六月二十日、今日は石山から京都・三條大橋まで歩く予定である。
昨日、京都市内で大学時代お世話になったおばちゃんを偲ぶ会があったので、京都駅前のホテルに泊まった。
そのおかげで、今日の出発時間は前回より二時間も早かった。
ホテルでの朝飯も早々にして、JR京都駅から琵琶湖線に乗り、八時前に石山駅に到着し、前回歩いたところまで戻り、そこから歩き始めた。
旧東海道はJRのガードをくぐると、左側のNECの工場を一回りするように続いている。
一キロほど歩くと、左側に、朝日将軍・木曾義仲と乳兄弟だった 「 今井兼平の墓 」 の道案内があった (右写真)
このあたりは 御前浜 という地名だが、江戸時代以前にはこのあたり全体を 粟津野 といったようで、古戦場である。
近江八景のひとつ、 粟津の晴嵐 もこのあたりであるが、湖が埋め立てられた結果、水面を望むという風情は残っていない。
街道は狭くなり、左にカーブする道脇の新築の民家の前に、 膳所城勢多口総門跡 と書かれた石碑があった。
隣に古い家の前には、水盤(?)の上に、石仏が祀られ、花が飾られていた (右写真)
膳所(ぜぜ)城 は、徳川家康が、大津城に代え、慶長六年(1601)に、藤堂高虎に縄張りを命じ、築いた城で、
琵琶湖に浮かぶ水城として有名だった。 瀬田の唐橋を守護する
役目を担った膳所城は、琵琶湖の中に石垣を築き、本の丸、二の丸を配置し、本の丸
には四層四階の天守が建てられた城だった (巻末参照)
この先は、城下町特有の鉤形になっていて、道はかなり曲がっている。
電車の踏み切りを渡ると、右手に若宮八幡神社がある。
「 白鳳四年(675)天武天皇がこの土地に社を建てることを決断し、四年後に完成、
九州の宇佐八幡宮に次ぐ古さ 」 とあるほど、神社の歴史は 古いが、
社殿は幾多の戦火により焼失したのでそれほど古くない。
鳥居の先にある表門は、明治三年に廃城になった 膳所城の犬走り門 を移築したものである (右写真)
切妻造の両袖の屋根を突き出した高麗門で、軒丸瓦には本多氏の立葵紋が見られる。
江戸時代に著された 「東海道名所図会」 に、 「 粟杜膳所の城にならざる已前、膳所明神の
杜をいうなるべし 」 とあるのはこの神社のことだろうか?
不思議に思ったのは、神社の左側に新羅神社という石碑があり、鳥居があったこと。
これは、八幡神社とは別なものか?
また、社前の常夜燈に金比羅と刻まれていたがこれはなにか? など、疑問を残しながら神社を後にした。
道が鉤形になっていて、京阪電車の踏切を渡る。
古い家がかなり残っていて、それを大事にしながら生活しているような気がした (右写真)
木曾路とは造り方が違うので、数枚写真を撮った。
左側のマンションの隣に、篠津神社の鳥居があったので、奥に入って行く。
「 祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)で、古くは牛頭天王と称し、膳所中庄の土産神であった。 創建は明らかではないが、康正2年の棟札から室町時代にはあったと考えられる。 宮家の御尊崇高く、膳所城主の庇護を受けた。 」 、 という神社で、表門は、膳所城で使用されていたもので、廃城により、北大手門を移設されたものである (右写真)
狭い道が続き、左にカーブして進むと、膳所の町に入った。
左側の寺院の壁に、
『 釘を踏んで痛む足が蟻をつぶしても平気だ。 身勝手な被害者。 』
と、大書されていた。
膳所の地名は、天智天皇が大津宮を造営したとき、この地を御厨所と定められたことに由来する。
その先にある膳所神社は、天武天皇の六年に、大和国より奉遷して、大膳職の御厨神とされた と伝えられる神社で、
祭神は豊受比売命(とようけひめのみこと)である (右写真)
中世には諸武将の崇敬が篤く、社伝には豊臣秀吉や北政所、徳川家康などが神器を奉納したという記録が残っている。
表門は、明治三年(1870)廃城の膳所城から、二の丸から本丸への入口にあった城門を移築した薬医門で、本瓦葺の重厚な構えをしたもので、国の重要文化財に指定されている。
本殿、中門と拝殿の配置は、直線上東正面の琵琶湖に向かって建っていた。
また、境内に 「 式内社膳所倭神所 」という石碑が建っていた。
神社を出ると、広い道と交差する。
「 逢(あ)の道湖(こ)の道山歩(さんぽ)みち 」 と、だじゃれぽく書かれた道案内が立っていた。
右折すると湖岸で、膳所公園があったが、近江大橋が近いので、頻繁に車の往来があり、公園にはなかなか渡れなかった。
膳所公園は徳川家康の命で建てられた膳所城の跡地であるが、それを示す石碑以外に城の痕跡はなかった (右写真)
それでも、ジュースを買って飲むことができ、顔を洗えたのはよかった。
街道に戻り、大津宿を目指す。
街道の左側にある 梅香山縁心寺は、 膳所城主・本多家の菩提寺である。
その先には、 和田神社があった (右写真)
『 祭神は高竈神で、白鳳四年(675)に勧請、古来から八大龍王社とか、正霊天王社とも称されたが、明治に城主が和田神社 と名付けた。 透かし塀に囲まれた本殿は一間社流造、軒唐破風付で、国の重要文化財に指定されている。 桧皮葺きの屋根は安土桃山期に改築されたもの。 側面の蟇股(かえるまた)は鎌倉時代の遺構。 』
とあり、歴史の古さが感じられた。
境内にあったイチョウの大木は六百五十年の樹齢といい、 「 石田三成が京都へ搬送されるとき、縛られていた 」 と、いう話が残る。
訪づれた日は大祭だったようで、氏子は準備におおわらわだった。
二百m先で右折し寺の周りを回って、道なりに行くと、西の庄に入る。
義仲寺まで約二キロというところである。
小さな橋を渡るとすぐあるのが、石坐(いわい)神社。
八大龍王社とか、高木宮と称したこともあったようだが、延喜式にも、「 近江国滋賀郡八社の一つ 」 と、記録されている古い神社である (右写真)
祭神に、海津見神(わたぬみのかみ)を主神、天智天皇、弘文天皇などを祀っている。
本殿は文永三年(1366)とあるので、鎌倉時代のものらしい。
法応寺を過ぎると、膳所城北総門跡の石碑が建っている。 このあたりが膳所城の北の
はずれである。
馬場1丁目に入ると、義仲と芭蕉との逸話で有名な、国指定史跡・義仲寺がある (右写真は義仲寺山門)
義仲寺(ぎちゅうじ)は、朝日将軍・源義仲が葬られたところと伝えられる寺だが、第二次大戦により、寺内全建造物が崩壊したので、古い建物は残っていない。
門を入ると、左奥に義仲の供養塔がある。
供養塔は、木曾塚ともいわれ、土壇の上に宝きょう印塔を据えたものである (右写真)
その隣には、武勇に優れ美女であった側室・巴御前の巴塚があった。
説明によると、 「 尼になった巴御前は義仲の供養に明け暮れていたが、ある日突如として旅に出た 」 とあり、美濃路で亡くなったのと合致する書き方だった。
ここには、JR大津駅前にあった山吹姫の山吹塚も移設されている。
芭蕉が義仲寺に最初に訪れたのは貞享弐年(1685)、その後、四回滞在している。
元禄七年(1694)五月、江戸を出発、伊賀上野に帰郷し、その後、膳所そして落柿舎へ、
六月十五日、京都から当寺無名庵に帰り、七月京都の去来宅に行っている。
これがここでの最後となった。 芭蕉は、元禄七年(1694)十月十二日、大阪で亡くなった
が、 「 骸(から)は木曾塚に送るべし 」 との遺言により、去来、其角ら門人十人の手で、
川舟に乗せられ、淀川を上り伏見からこの寺に運ばれ、埋葬された。
其角の芭蕉翁終焉記に 「 木曾塚の右に葬る 」 とあるが、今も当時のままで、木曾塚の
隣に、松尾芭蕉の墓があった (右写真)
墓の右側には、 『 旅に病で 夢は枯野を かけ廻る 』 と、
いう芭蕉の辞世の句を刻んだ句碑が建っていた。
伊勢の俳人・又玄(ゆうげん)は、芭蕉の亡くなる三年前に無名庵に芭蕉を訪ねた。
その際、 『 木曾殿と 背中合わせの 寒さかな 』 と、
いう句を
詠んでいるが、芭蕉の心境を的確につかんでいるように思われ、俳句のことは分から
ないが、よい句だなあと思った。
境内には、その他、芭蕉の門人達の多くの句碑がある (巻末参照)
芭蕉の句碑も、巴塚の近くに
『 古池や 蛙飛びこむ 水の音 』 があり、
真筆を
刻んだとされる句碑が朝日堂に近いところにあった (右写真)
『 行春を あふミの人と おしみける 』 (芭蕉桃青)
義仲寺の街道に面しているお堂は巴地蔵堂である。 巴御前を追福する、石彫地蔵尊が
祀られて
いて、昔から遠近の人の信仰が深い。
電車の踏切を越えたところが、石場というところ。 江戸時代には立場茶屋が並んでいた。
石場には、琵琶湖を舟で渡ってきた旅人が利用する港があったので、大変賑わったとある。
港には、弘安弐年(1845)、船仲間の寄進で建てられたという、高さ八メートル四十センチ
の花崗岩製の大きな常夜燈が立っていて、船の安全を守る灯台の役目も担っていた。
現在は、少し北の琵琶湖文化館 の前に移されている。
このあたりには、古い家が残っていた。
道を左にとると、平野神社の石碑が見えた (右写真)
左の坂の上にあるのだが、古くから、芸能の神として信仰を集めていた神社で、蹴鞠の祖神という精大明神が祭神である。
平野集落を過ぎると、大津宿に入る。
(ご参考) 『 膳所(ぜぜ)城 』
徳川家康は、慶長六年(1601)、瀬田の唐橋に近いこの地に、藤堂高虎に縄張りを命じ、城を築いた。
瀬田の唐橋を守護する役目を担った膳所城は、琵琶湖の中に石垣を築き、本の丸・二の丸を配置し、本の丸には四層四階の天守が建てられた城だった。
京都への重要拠点であったので、徳川の譜代大名を城主に任命したのである。
初代は戸田氏だったが、本多氏、菅沼氏石川氏と続き、慶安四年(1651)、再び、本多氏が城主になり、そのまま幕末まで続いた。
(ご参考) 『 若宮八幡神社 』
白鳳四年(675)天武天皇がこの土地に社を建てることを決断し、この土地の上下八丁での殺生を禁じたので、別保(最初は別浦)という地名がついた。
社殿は四年後に完成、九州の宇佐八幡宮に次ぐ古さという。
粟津の森八幡宮といっていたが、若宮八幡宮となり、明治から現在の名前になった。
社殿は幾多の戦火により焼失したが、膳所城完成後は城主の寄進を受け、建物の修繕などが行われてきた。
(ご参考) 『 義仲寺 』
義仲寺の由来によると、
『 寿永三年(1184)、源義仲は源範頼(のりより)、義経の軍勢と戦かったが、討ち死にした。 その後しばらくして、側室の巴御前が、尼になってこの地に訪れ、草庵を結び供養した。
尼の没後、この庵は、無名庵(むみょうあん)と称えられ、あるいは、巴寺ともいわれ、木曾塚、木曾寺、また、義仲寺とも呼ばれたことは、鎌倉時代の文書にある。 しかし、戦国時代に入り、寺は荒廃してしまう。 室町時代末、近江守護佐々木氏の庇護により、寺は再建され寺領を進めた。
その後、安政の火災、明治二十九年の琵琶湖洪水などに遭ったが、改修された。
第二次大戦により、寺内全建造物が崩壊したので、現在の建物はその後のものである。 』
(ご参考) 『 松尾芭蕉と無名庵 』
『 芭蕉が義仲寺に最初に訪れたのは貞享弐年(1685)で、ついで同五年に滞在。
元禄弐年(1689)、奥の細道の旅の後、十二月に京都、大阪に在り、膳所で越年、いったん伊賀上野に帰り、三月中旬再び来訪、九月まで滞在している。
その後も、元禄四年にも滞在している。
元禄七年(1694)五月最後の旅に、江戸を出発、伊賀上野に帰郷し、その後、膳所そして落柿舎へ。
六月十五日、京都から当寺無名庵に帰り、七月京都の去来宅に行っている。 これがここでの最後であった。
十月十二日、大阪で亡くなったが、 「 骸(から)は木曾塚に送るべし 」 との遺言によって、
去来、其角ら門人十人の手で、
川舟に乗せて淀川を上り、伏見からこの寺に運ばれ、埋葬された。 』
(義仲寺資料より)
(ご参考) 『 芭蕉の弟子達の句碑 』
義仲寺には、芭蕉と弟子達が詠んだ句碑が沢山建てられている。
『 木曾殿と 背中合わせの 寒さかな 』(又玄)
『 鶯の ほっと出らしき 初音哉 』(栃翁)
『 しぐれても 道はくもらず 月の影 』(紫金)
その他にもいろいろあったが、紹介は省略する。
大津の名前が歴史の舞台に登場するのは、天智天皇の大津京遷都(667年)であるが、
大津京は壬申の乱を経てわずか五年で滅びてしまった。
しかし、平安遷都後、都の玄関口として、人や物資が集まる重要拠点に成長。
戦国の武将もそうした大津を重要拠点として重視した。 織田信長の坂本城、豊臣秀吉の大津城はまさにそうであった。
しかし、徳川家康は、慶長七年(1602)、大津城を廃城にして、大津代官が支配する大津陣屋を置く。
これ以降、大津の町は宿場町として、また、近江商人の町として発展を遂げた。
明治に入ると、近江国は滋賀県に名前が変わり、大津に県庁が置かれた (右写真)
そういうところなので、大津宿訪問を楽しみにしていた。 ところが、石山から膳所までは古い
建物が残っていたのに、大津に入ると、古い町並や建物が残っていないのである。
推測になるが、第二次大戦の空襲で、大津市中心部はほぼ全壊したことや大津市の人口
が昭和四十年後半から急増し、市域が五倍に拡大し、市中心部の高層化が進んだこととも関係があろう。
なお、大津宿は、南北一里十九町(4km強) 、東西十六町半(200m)の広さで、本陣が二、脇本陣一、旅籠は七十一軒を数え、極めて大きい宿場だった。
また、近江上布を扱う店や大津算盤、大津絵など、近江商人が商う店も増え、天保年間頃には、人口が一万四千人を超え、家数は 三千六百五十軒と 、東海道最大の宿場町になっていた。
旧東海道が通るのは、京町通りといい、京都への道筋にあったので名付けられた (右写真)
スーパーやデパートのある湖畔べりの道からそれほど離れていないし、県庁などの官庁
が近くにあるのにかかわらず、喧騒を忘れたような静けさの通りである。
道脇に、天保十二年造と書いた、北向地蔵尊を祀った小さな社があった (右写真)
寺院もけっこう多いのだが、寺なのか貸し駐車場なのか分からないような寺もあるのは時代を反映しているのだろう。
左に行くと、滋賀県庁である。
江戸時代には四宮といわれたところで、天孫神社がある。 延喜年間に創建された、というが、確かではない。
祭神が、彦火火出見尊、国常立尊、大己貴尊、帯中津日子尊の四神であることから、四宮の名が付いたといわれ、四宮大明神とか、天孫第四宮などと呼ばれたが、明治になり、
現在の社名に変えられた。
十月上旬に行われる大津祭の曳山巡幸は豪華華麗で有名である。
曳山会館では曳山を見ることができるのだが、台風の接近で天気がどう変わるか分からないので、先を急ぐことにした。
京町は、江戸時代と違い、住宅が多くなったが、それでも仏壇屋や料理屋など、商店もあった。
御饅頭處 と書かれたお菓子屋で買った、わらびもちは冷えていておいしかった (右写真)
「すだれ老舗」の看板を掲げた店があった。
すだれは時代の遺物と思えたのだが、中を覗くと、装飾を施したものなど、室内インテリアとなるモダンなものが飾られていた。
古いものでも、センス次第ではまだまだいけると思った。
少し歩くと、右側に元旅籠かと思える古い家があったが、どうなのだろうか?
左側の洋品店の脇に、 「 比付近露国皇太子遭難之地 」 と書かれた石碑があった。
明治十三年(1880)五月、親善のため、来日したロシアの皇太子がこの場所にて警備中の巡査に切りつけられた 、という事件で、歴史の教科書には、大津事件として掲載されている。
(右写真の左側の家角が大津事件石碑、 右側の家は元旅籠か? )
明治政府は外交問題に発展することを懸念し、死刑を主張したが、殺人未遂に死刑は適用できないとして、政府の圧力にも屈せず、司法が独立を守ったことで知られる。
そのまま歩くと、大通りに出る。
ここは札の辻といい、高札場が置かれたことから、名付けられたところ。
交差点の向こうに、大津宿の人馬会所があったとあり、大津市道路元標の石碑が立っていた。
この前の道は国道161号であるが、江戸時代には北国西街道と呼ばれ、坂本や堅田など、琵琶湖西岸を通り、敦賀へ抜ける街道で、鯖街道という名で知られていた。 また、この先には、天智天皇が素佐男命を勧請し、天安弐年(858)、比叡山の僧・円珍が大山咋命を合祀した 、 といわれる長等神社がある。 (右写真)
更に進むと、三井寺や大津絵作家の家がある。 数年前、妻と大津絵を求めて歩いたこと
を思い出した。
札の辻一帯には、江戸時代には旅籠が多くあった 、とされるが、その面影は残っていなかった。
旧東海道はこの四差路(京町1丁目)を左折する。
数百メートル歩くと、京阪電車が道路上に出てきて、車道を走る光景に出合った。
学生時代以来の光景だったので、懐かしく思えた。
その脇を派手な女を乗せたバイクが走っていった (右写真)
労働基準局の前に、本陣があったことを示す石碑が建っているが、ここが大塚嘉右衛門本陣
跡のようである。 少し行くと、国道1号線に合流し、大津宿は終わりになる。
(ご参考) 『 大津の歴史 』
大津の名が歴史の舞台に登場するのは、西暦667年の天智天皇による大津京遷都である。
大津京は壬申の乱を経てわずか五年で滅びたが、八世紀末の平安遷都 により、大津は都の玄関口となり、古津(古い都の港) から大津(都の港) になった。
北陸や奥州、蝦夷地などで産した品物は越前の敦賀や若狭の小浜で陸揚げされて、荷駄(にだ)で湖北の海津や塩津へ運ばれ、そこからは船にて大津港へと運ばれた。
また、陸上輸送でも、東海道や中山道そして北国街道などを利用して、人や物資を運ぶための重要な要路になったのである。
そういうところであったので、古(いにしえ)から都での争いが起きると、大津、坂本、膳所が戦いの場になった。
戦国武将も大津の重要性に注目し、織田信長は 山中越え と 北国西街道 が交わる坂本に城を築いた。 豊臣秀吉は、比叡山の戦いで傷(いた)んだ坂本城を廃城にし、交通の要所の浜大津に大津城を造った。
徳川家康は、関が原の戦いの翌年、大津城が三井寺のある長等山から大砲の射程距離であることを理由に、大津城を廃城にして、膳所城をつくった。
壊された大津城の天守は彦根城に移設され、城門などの資材は膳所城で使われた。
しかし、家康は、慶長七年(1602)、大津藩を廃し、大津を天領にし大津代官の支配する大津陣屋を置いた。
また、東海道の開設に伴い、宿場を置いた。 その後の大津は宿場町と近江商人の町として発展を遂げることになる。
大津宿は、天保年間頃には、人口が一万四千人を超え、家数は 三千六百五十軒と 東海道最大の宿場町になった。
平成16年6月