昨年、木曾路を歩いたときは木曾路だけで終わるつもりであった。
終わると欲がでて、年末までに京都まで歩こうと計画したが、思ったより早いスピードでその日を迎えた。
最終日の石山から京都までの旅は台風が接近中で少し荒れた天候で行われた。
平成十六年(2004)六月二十日、昨年、木曾路を歩いたときは木曾路だけで終わるつもりだったが、
終ってみると欲がでて、年末までに京都まで歩こうと計画し始まった旅だが、思ったより
早くその日を迎えた。 旧東海道は、札の辻から山科までは国道1号線に吸収されているので、国道を歩くことになるが、通過する車の数は半端ではない。
歩くことを前提にしていないため(?)、歩道は片側にしかなく、その上、脇を自動車が疾走するので、排気ガスを吸いながら歩くことになるのである。 それでも、日曜日だったので、大型トラックが少なかったのは助かった。
JRの線路を跨ぐ道の右側に見える東海道線のトンネルは、左と右で造られた年代が違い、左側は明治時代に造られた煉瓦製であった (右写真)
(注) ハイカーは国道を避けて、長等神社から小関越で追分にでる道を歩くようである。 又、完歩を目指さないなら、この区間は歩かないでもよいのかも知れない。
台風の接近で風が少し強くなり始めたので、先を急ぐ。
すぐ先の右側に、蝉丸神社下社の常夜燈と石碑、そして、線路の向こうに鳥居が見える (右写真)
踏み切りを渡って入って行くと、紀貫之の歌碑があった。
『 逢坂の 関の清水に かげ見えて 今やひくらん 望月の駒 』
古(いにしえ)には、関の清水という清水があり、有名だったようである。
蝉丸神社は、「 冷泉天皇の頃、日本国中の音曲諸茶道の神を勅し、当神社の免許を
受ることとされたと伝えられる神社である。 蝉丸宮と開明神祠と合祀のことは定かでない。 」
と、傍らの看板にあったが、いまひとつ意味不明な文面だった (巻末参照)
蝉丸神社は、音曲の神様ということで、 琵琶法師は神社の免許がないと地方興行ができないほどの権力を持っていた。
境内は薄暗く少し薄気味悪い雰囲気がした (右写真)
『 これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 』
という蝉丸の歌は百人一首で誰でも知られる有名なものだが、境内に歌碑があった。
蝉丸の素性はさだかでないようだが、盲目の琵琶の名手だったことは間違いないよう
である。
貴船神社もこの神社の境内の一角に祀られていた。
京阪電車の踏切りを渡ると、右側の小高いところに、 安養寺 がある (右写真)
ここから逢坂山の登りが始まるという地点である。 逢坂(おうさか)の地名は、
日本書紀の 「 神功皇后の将軍・武内宿禰がこの地で忍熊王と出会った 」 、という故事
に由来するが、平安時代には、京都防衛のため 「 逢坂の関 」 が設けられ、関を守る
鎮守として 「 関寺 」 と 「 関蝉丸神社 」が建立された。
(注) 関蝉丸神社は蝉丸宮(現在の蝉丸神社)のこと
それ以来、逢坂山は、和歌などに詠まれる名所になった。 安養寺の入口に、 関寺旧跡 と表示した教育委員会の木札があった。
安養寺には、行基作の 阿弥陀如来坐像 (国の重文に指定)が安置されている。
蓮如上人の旧跡であり、上人の身代わりの 名号石 が残されている。
この先で、国道1号線が左側から合流してくる。
右側には歩道がないので、信号を渡り、左側に移動することになる。
頂上までは、右が国道、左が京阪電車京津線に挟まれた狭い空間を歩く。
右側に、赤い鮮やかな鳥居の 蝉丸神社上社 が見えてきたが、渡るすべがない (右写真)
頂上近くに民家のような建物があった。
交差点も横断歩道もないので近づけないが、
弘法大師堂 のようである。 小さな社が幾つか建ち、石仏が祀られている (右写真)
大師堂に興味があったが、車が多くて道を横断できないのであきらめた。
建物から少し離れた左側に、逢坂常夜燈が建っていた (写真では見えないが)
右にカーブをしながら頂上に至る。 旧東海道はここで国道としばし別れることになる。
逢坂の頂上にある歩道橋で国道を越え、右側に渡る。 大津側に少し戻ると、
「 逢坂山関址 」 の石碑と 「 逢坂常夜燈 」が、並んで建っていた (右写真)
常夜燈には寛永六年建立と刻まれ、先程見えた 、弘法堂脇のものと同じもののようで
ある。 道を戻り、国道の右に入ると、 うなぎ日本一 の看板が大きく掲げられていた。
うなぎ日本一は各地で聞くが、大津では初耳であった。 店の名は、かねよといい、
鰻料理の老舗のようで、料亭とレストランとかなり大きなものだった。入ろうか?!とも
思ったが、焼くのに時間がかかりそうなので、時間の制約もあるので、あきらめた。
その先の右側に、「 蝉丸大明神 」 と書かれた常夜燈が建っていた (右写真)
石段を上った小高いところに、もう1つの 蝉丸神社があった。 このあたりは、江戸時代には茶屋があり、山から流れてでた清水を使った、走井餅が評判だったところである。
旧道はすぐ終わり、また、国道に合流してしまった。 国道の左側に歩道があるので、そこを歩く。 民家の前に石柱があり、 「 大津算盤の始祖・月岡庄兵衛住宅跡である。
庄兵衛は慶長十七年(1612)、明国から長崎へ渡来した算盤を参考にして当地で製造を
開始した。 最近まで子孫の方が住んでいた。 」 と、あった。
今や、そろばんは時代の長物化した感があるが、当時はパソコンの到来くらいのすごいものだったのだろう。
坂は下り坂なので、快調である。 道脇に咲く 紫陽花が季節感を漂わせていた (右写真)
このあたりは、 旧寺一里町 で、江戸時代には両脇に 一里塚 があったところである。
先程もでてきた、旅人が喉を潤した 名水・走井 が今でも残るのは、 月心寺 である。
橋本関雪 の別荘跡といわれる。
名神高速道路をくぐる。 国道の横断歩道に、大津市追分町の表示がある。
道が少しごちゃごちゃしている感があるが、左に入っていくのが、旧道である。
国道1号線とは、ここで別れる。
道の北側が 大津市追分町 、南側が 京都市山科区髭茶屋屋敷町 で、滋賀県と京都府の県境である。
少し歩くと、三差路があり、 伏見道の追分である。
伏見道は、伏見や宇治に出る街道で、難波(大阪)にはこちらが近道だった。
また、参勤交代の大名が京都に入るのを幕府は好まなかったので、こちらを使ったようである (右写真)
名所図会に、 「 追分ー村の名とす。京師・大坂への別れ道なり。 札の辻に追分の標石
あり 」 と、あるが、道標は今も残っていた。
道標には、 「 みきハ京みち、ひだりふしミみち 」 と、刻まれている。
その脇の蓮如上人石碑には、 「 明和三丙 」 と刻まれて
いたが、途中で折れたものか?、かなり短かった (右写真)
広い道ではないのに、伏見に向かう道にかなりの数の車が行き来していた。
右の道は京都への道だが、車は一台しか通れないので、一般車は進入禁止になっている。
しかし、それに気づかないのか、平気で通りぬけていく車があった。
公民館の前には、追分の由来を説明する看板があったが、字がかすれて読めなかった。
右側の寺の門前の右側に、 東海道、京三條 と刻まれた道標があり、左側には車石が
展示されていた (右写真)
寺が作成した説明板によると、「 逢坂山は大量の荷物の輸送があったので、牛馬車が
使用されたが、急坂なので難儀していた。 文化弐年(1806)三月、 京都の心理学者、
脇坂義堂が発案、近江商人・中井源左衛門が一万両の財を投じて、大津から京三條
まで、花崗岩に轍を刻んだ敷石(車石)を並べ、荷車が通行できるようにした。
この付近は車道と人道に分かれていて、京に向かって右側に車石を敷き、左側に人や
馬が通る道があった。 」 と、ある。 右のレリーフは牛車による運搬風景である。
これだけ大掛かりのことが行われたのも京への物量が車で運ばなければならないほど
多くなったということだろう。 それにしても、一万両というお金は半端なものではない。
前述の 無賃橋 もそうであるが、文化文政時代くらいから商人の経済力が強くなり、
幕府に頼らず自分達で行う動きがでてきた。 車石工事から、幕末にかけて商業資本主義が止められ
なくなってきたことを感じとることができた。
もう一軒のお寺の庭にも、車石が展示されていたが、これらの車石は道路工事で取り外されたのを残してきたのだろう。 歴史を知る一コマだった。
左側の古そうな家を見て立ち止まった。
白壁と黒く焦がした木材をはめた倉の壁に、 煌き大津賞(都市景観部門受賞) と、プレートが貼られていた (右写真)
古い家を改造したのかどうかは分からずじまいだった。
横木1丁目で旧道は終わり、国道にでた。 ここからどういけばよいか分からず、近くの
おばさんに聞いた。
「 旧街道は横断歩道橋でこえて行く。 」 とのこと。
「 このあたりは、大津市で少し先は京都市なの!! 」 と少し残念そうな一言を漏らした。
山城と近江の国境、即ち、京都府と滋賀県の境となっているところであるが、行政サービスに差があるのだろうか?
それとも、ネームバリューか? 言われた通り、横断歩道橋に登る。
橋上からの見ると、京都東への道や北国街道に抜ける道など多く壮観である (右写真)
階段を下りて少し歩いたところに道標があり、 三井寺観音道 とあった。 街道を歩くことに
固執しなければ、国道を歩かず、この道を歩いた方がよいと忠告にあった道であるが、
大津の長等神社から小関越 をしてきた道がここへ出て来るのである (右写真)
このあたりは横木1丁目で大津市。 四ノ宮町 に入ると、京都市山科区である。
(注) 後日、小関越道を
歩いたので、ご覧下さい。
私が学生時代には京都市には編入されていなかったと記憶しているが、間違いだろうか? 山科刑務所がある程度の山間の町で、京セラや京都薬科大などもなく、人里はなれた町であった。
現在も一部古い家があるが、地下鉄の開通もあって、山科の景観は一変しそうな気
がした。
右側に、徳林庵という名の寺
がある。 南無地蔵尊と 人康親王墓所 という、二つの石柱が道脇に並んで建っていた。
この寺は 六地蔵 ともいわれ、 六角堂の中には 山科廻り地蔵尊 が安置されている (右写真)
「 西光法師が保元年間(1156〜1159)に、京都の入口に当たる街道筋に六体の地蔵を安置したもので、俗に、六地蔵といわれる。 各寺で授与される六種のお幡を家の入口に吊るすと、厄病退散、福徳到来のご利益があるとして、六地蔵廻りの行事が定着した。 」
といわれる、六地蔵の一つである。
手水鉢には、 丸に通 の字が彫られ、裏には 「 定飛脚、宰領中、文政四巳年(1821) 」 と彫れていて、日通のマークになったともいわれる。
四ノ宮の地名の由来になった、 諸羽神社 は天兒屋根命、天太玉命を祭神とする延喜式に記名されている古い式内社である。
線路を越えた先にあるが、時間がないので、石標を見ただけで、通りすぎた (右写真)
この付近には、 山科疎水 、 毘沙門堂 などがあり、時間があれば寄りたいところだが、待ち合わせの時間があるので、今回はパス。
「 毘沙門堂は、細い道をたどり、疎水を越えて行くとあり、もみじの多い山寺でいい雰囲気である。 」 と、紹介されていたので、寄れないのは残念だった。
大きく 義士餅 の看板を掲げている、漆喰壁の菓子屋があった (右写真)
店先に 東海道 の道標があり、 大津札の辻 にも 京三條 にも、 一里半 と刻まれているので、ここが丁度中間地点であることが分かった。
義士餅なる名前に興味を持ち、どんなものか一つだけ買うつもりで入ったが、パックでしか売らないというので、五個入りを買った。 京菓子の繊細な味を想像して買ったが、田舎の素朴な餡菓子だった 。
帰宅してから妻と一緒に食べたが、 「 一個の大きさが大きい。 甘ますぎて大味。 」 と、 okanの講評はきびしかった。
(注) 平成十九年四月、菓子屋を再訪したところ、店はなく、マンションになっていた。
その前には東海道道標は残されていたが・・・
山科は大石内蔵助が一時住んでいたところでもあり、赤穂の浪士の墓もあるやに聞いたが
はっきりしない。
お菓子屋の先の交差点の右手に、JR山科駅がある。 交差点を越えた
右側の RACTOビル の前に、明治天皇御遺跡と書かれた石碑があった (右写真)
明治天皇は、新政府樹立のころ、京都と東京の間を数回往復している
その際、都合三回、
本陣あるいは小休所として利用されたのが、毘沙門堂の領地内にあった、 奴茶屋 だった。
昭和の終わりまで料亭として残っていたが、今はこのビルに移転して営業している。
少し行くと、 「 右三條 、 左五条橋 ・・・・ 」 と刻まれた道標があった (右写真)
左の五条橋・・・・は、 澁谷越道 で、五条大橋へ出る旧道である。
国道1号線がほぼ同じルートを通っているが、旧道は途中で途切れているようである。
道を右にとり、道なりに進むと、県道に合流し、鉄道のガードくぐる。
最近、左にポケットパークのような散歩道が造られているが、そのまま歩いて、次の左へ
入る細い道が旧東海道である。
ここは間違いやすいところなので、要注意。
そのまま行き右に入った森の中に、 天智天皇陵 があるが、このあたりの地名、 御陵町は、
それから付けた名前である。
旧街道はこの先、数回交差し、左右からの道の方が広いが気にせず、まっすぐ行く。
左側に畑が一部残るところを過ぎると、上り坂になる。 坂を登りきった左側に、亀水不動
があった。
先客が数人いたが、すぐに立ちさり、一人になった (右写真)
「 木食上人は、日ノ岡峠の改修に心血を注いだ。 元文三年(1738)、三年がかりで
完成させ、峠の途中に、木食寺梅香庵を営み、道路管理と休息を兼ねた。 井戸水を
亀の口から落として石水鉢に受け、牛馬の渇きを癒すと共に旅人に湯茶を接待した。 」
、というところである。 亀の口からこぼれ落ちる水を飲み、お茶を全部飲み干していた
ので、空のペットボトルに少し入れた。 少し休憩していこうかと思ったが、日陰なのに
すずしくないので、顔を拭き、濡れ手ぬぐいを首に巻いて出発することにした。
そういえば水もつめたくなかった。
少し進むと、「 右明見道 」 「 右かさんいなり道 」 と記した二本の道標があった (右写真)
明見道とは、大塚の妙見寺への道であろうか??
光照寺の石段の下を通るが、 「 東海道分間延絵図 」 では、光照寺の北側辺りに、義経
千本松、
高札場、毘沙門堂 が書かれているが、現在は残っていない。
日の岡集落の両側に民家が並ぶ中に小さな社と石仏が祀られていた (右写真)
中山道のガイドブックに 「 この集落 は都会から隣接しながら落ち着いた暮らしの雰囲気がある 」 と、あったが、周りの住宅地開拓がどんどん進んでいるので、 次回来たときには大きく変貌しているだろう と思った。
1台しか通れない狭い道なのに車の通行は多いのはそのせいだろう。
しばし歩くと、県道に合流してしまった。 歩道は右側にしかないので、道を反対側に渡って、歩きだした。
天気は悪くなって雨がぱらぱらとしてきたが、歩くのには支障はない。
上り坂も少し歩くと頂上で、道路標識に 九条山 とあった。
左に 京都蹴上浄水場 、右に登って行くと、 将軍塚 に通じる道がある。
将軍とは、征夷大将軍・坂上田村麻呂のことである。
坂を下り始めた右側の、 式内・日向大神宮 の石柱を見て、 疎水 を見ようと思い、鳥居をくぐって登っていくと、疎水が流れていて、橋の上から見ると、トンネルが見えた (右写真)
橋は 太神宮橋 とあり、 安政六年(1859)三月建立の常夜燈が建っていた。 日向大神宮は、筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移したのが始まりとされ、天智天皇がこの山を日御
山と名付け、清和天皇が天照大神を勧請したといわれている神社である。
反対側に行くと、疎水を利用して、大津港から堀川に通じる 南禅寺溜まり まで、船に人や荷物を載せたまま運んだ インクライン の跡地だった (右写真ー船を載せた台車)
「 この区間は、水路が使えないので、トンネルを掘ったとき出た土砂で傾斜を付け、そこにレールを敷いた。 船を載せた台車は巻き取り機でロープを引き上げるようになっていたが、動力には蹴上発電所で起こした電気を利用した。 」 とあり、
船を載せた台車が展示されていて、レールも引かれていた。
引き上げ方法はケーブルカーと同じ原理である。
船に人や荷物を載せたまま運ぶなどは江戸時代には考えられなかったので、欧米との科
学技術の差を痛感したと同時に、明治時代を代表する近代的な施設だったたことだろう。
橋の上でブラックバスを釣っていた子供達は大粒の雨が降り出したのであわてて帰っていく。
大神宮の参道を二人づれが急いで降りていった。 小生も、あわててかっぱを取り出し、身につけた。
街道に戻るないなや、雷がなり、すごい雨が降ってきた。 折りたたみ傘も出して差すが、それでも、顔に当たるはげしさである。 まったくすごい。 道の右下に、煉瓦造りの蹴上発電所の建物が見えた (右写真)
三叉路にきた。 右に行くと、平安神宮に行くが、東海道は真っ直ぐ進む。 ここから先は、
かって知たるなんとやらの道である。
左に、都ホテルが雨で霞んで見えた (右写真)
右に 大谷聖堂があるが、雨は激しく、スコールのように降る中、下っていった。
地下鉄の駅があったので、雨宿りしようかと思ったが、先を急いでいたので、歩き続ける。
粟田口 、ここには 刀匠・三條小鍛冶宗近の居宅 があったところである。
「 宗近は稲荷大明神の神助を得て、名刀・小狐丸を打った 」 と、伝えられる。
謡曲・小鍛冶はこれを基に作られている。 合槌稲荷明神というお稲荷さんがあった。
これまで何回か前を通ったが、気がつかなかった。
道の反対側には、粟田神社があり、通り過ぎていく道の両側に多くの寺院が
あった。 四差路の右に 平安神宮の大きな鳥居、 左に行くと 知恩院 に行く道は昨年春桜を撮りにきたとき歩いた道である。
四差路を越えると、橋があり、 三條通白川橋 の石柱が建っていた (右写真)
雨はあがったが、雨具のせいもあって、身体が汗だくになっていた。
時計を見ると、待ち合わせの時間まで余裕がある。
道脇から川面に降りて、衣類を脱いてタオルで汗を拭き、新しいシャッツに着替えた。
ついでに、汗臭いシャッツを水洗いして、ビニール袋の中に収めた。
これで、三條大橋ゴールへの準備終了である。
時間にあわせ再度歩き始める。
学生時代に市電Eでよく利用した、東大路通の東山三條の交差点を越える。
修学旅行で泊まったいろは旅館は、ビルに変わったが、現在も健在。
変わったといえば、 京阪三条駅 、かってはここが終着駅で地上を走っていたが、
現在は出町柳まで延伸して、地下に潜っている。
跡地にはしゃれた喫茶店とモダンな庭園になっていた。
青春時代を京都で過ごした私には思い出深い場所ではあるが、このような変化は驚きだった。
車や新幹線での訪問では気がつかない(?!)
高山彦九郎”像に久しぶりに対面した (右写真)
いよいよ、京都・三條大橋である。
「 中津川から出発したのが、昨年末だった。
冬だったのと交通手段がないため、美濃路の東濃地方では苦労した。
赤坂宿を過ぎると、JRが利用できるようになり、ペースは上がった。 」
などなど、歩いた思い出が次ぎから次へと頭をよぎった (右写真ー三条大橋)
三条大橋の手前で、妻と娘が出迎えてくれた。
三人で橋を渡る。
橋の上で記念写真を撮ってもらった。
橋の向こうには、東海道膝栗毛の弥次喜多の像があった (右写真)
今年はNHKのドラマ「新撰組」 が放映されているので、京都市内はそれ一色である。
「池田屋騒動」 のあった処はパチスロになってしまったのも、時代の趨勢なのだろうか?
そのような移り変わりの中で、加茂川は淡々と流れていた。
国道になる道を歩くのはたのしいか?と友人に冷やかされても、中山道には四百年の歴史があり、事前に歴史を調べ、現地で確認することは大変楽しいものである。
これからも、中山道をのんびり歴史見聞をしながら、残り半分の旅路をお江戸日本橋に向かって歩きたいと思っている。
(ご参考) なお、上述したokanが別のページでペーソスも交えてこのときの京都の感想を書いています。
ぜひ、 『暑かった京都』 もご覧ください。
(ご参考) 『 蝉丸神社 』
蝉丸の素性はさだかでないようだが、 盲目の琵琶の名手だったことは間違いないようである。
蝉丸が天皇の皇子であった、という設定の、謡曲「蝉 丸」もある。
平安時代にはあったされる「蝉丸宮」は蝉丸を祭神として祀る。 、江戸時代の万治三年(1660)に、現在の社(やしろ)が建立された際、「蝉丸宮」に、街道筋にあった「猿田彦大神」と 「豊玉姫命」を 合祀した、といわれが、
神社にあった案内文 『 冷泉天皇の頃、日本国中の音曲諸茶道の神を勅し、当神社の免許を受ることとされたと伝えられる神社である。 蝉丸宮と開明神祠との合祀のことは定かでない。 』
はかならずしもはっきりした話ではない、といいたいのだろう。
それはともかく、蝉丸神社は「音曲の神様」ということで、琵琶法師は神社の免許がないと地方興行ができないほどの権力を持っていた、ことは間違いない。
平成16年6月