洗馬(せば)宿は、 朝日将軍 と呼ばれた木曾義仲と縁(ゆかり)のある土地である。
江戸時代盛んだった善光寺参りの善光寺西街道との追分でもあった。
昭和七年の大火で宿場町は全焼したので、宿場らしいものはなにも残っていない。
平成十六(2004)年十一月六日。 本山宿の出口にあたるところに、道祖神碑や馬頭観音の石仏などが多く残されていた。
集落の入口にあたるため置かれた道祖神碑や、旅のために供された馬や旅人の道中安全を祈願した馬頭観音像などである (右写真)
この石塔石仏群の前を通りぬけて、貯水池の前で国道19号に合流する。
ここからはしばらく国道を歩く。
右手にセブンイレブンが見えるところで、左の道(県道304号)に入る。
JRの鉄道線路をくぐると、洗馬宿に入っていく。
洗馬(せば)宿は木曽義仲の家臣が義仲の馬の足を清水で洗い癒したことから地名がついたと伝えられるところで、北国西往還、通称善光寺道との追分であった。
少し歩いたところに、広場があり、それを囲った塀に高札場跡の案内があった (右写真)
後に御判形(おはんぎょう)と呼ばれた高札の伝馬駄賃御定や幕府のお触れが掲げられていたところである。
明治になって裁判所の出張所が設けられたが、宗賀村役場になり、現在はどんぐりハウスになっている、とあった。
なお、手前にあるお堂にあるのが「 言成地蔵 」 で、言(こと)を願えば必ずかなう地蔵だといわれる霊験あらたかな地蔵というが、
どれなのか
確認できなかった。
脇本陣であった志村家の建物はなく、明治天皇が休憩をとられたことを示す記念碑があり、
その反対側に脇本陣を示す木杭が立っているだけである。(右写真)
洗馬宿は、塩尻宿とは一里三十町ほど離れているが、本山宿とはわずか三十町しか離れていない。
このように短いところになぜ二つの宿場を置いたのだろうか? すこし疑問に感じた。
洗馬宿の長さは五町五十間とあるので、七百メートル程度と思うが、中山道宿村大概長によると、百六十三軒の家があり、六百六十一人が暮らしていた、とある。
本山宿より人口が多いのは善光寺詣りの客の増加が背景にあり、その御陰で、宿場はかな
り繁栄していたようである。
脇本陣の隣に、 貫目改所跡を示す木杭が立っていた。
江戸時代、この宿に置かれた荷物貫目改所とは、街道を通過する公用荷駄の重さを調べる検問所のことで、
中山道では板橋宿と追分宿とここの三ヶ所に設けられたとある。 規定を超えた荷物には割り増し金を課した。
伝馬役に加重な負担がかからないようにするためである (右写真)
貫目改所には問屋場の併設されていたが、明治に入り、この建物は一時期、洗馬学校になっていたとあるが、
建物がなくなったのはいつかは書いてなかった。
洗馬宿は、江戸時代から明治にかけ、何度も火災に遭遇しているが、
昭和七年の火災で、本陣や脇本陣を始め二百軒以上の家が焼失してしまったことと関係があるのだろうか?!
本陣であった百瀬家の跡地には家が建っていて、その前にそれを示す木杭が立っていた (右写真)
先ほどの本山宿にはJRの駅がないが、ここには洗馬駅が設けられているが、
本陣の敷地のかなり部分が鉄道用地に提供されたようである。
なお、JR洗馬駅には、かなり広い駐車スペースがあった。
江戸時代に有名だったのが、 あふた(太田)の清水 である。
木曽氏の馬を洗ったので、
洗馬 という名が付いたといわれるところだが、太田の清水と呼ばれたところはどうも二ヶ所
あったようである。
駅に近いところと善光寺西街道に入った先の二ヶ所。
駅に近いところに行く。
街道の左側にある民家の狭い道を入ると、民家の裏は崖のようになっていて、下は田んぼ、その先は奈良井川で、その先には里山が見えた。
下りていくと、大木の根元から水がこんこんと湧きだしていた (右写真)
旅人はここで汗をぬぐい、冷たい水を飲んで旅の疲れを癒したことだろう。
あふたは太田と思っていたが、清水の傍にあった案内には、 「 しんにゅうの中に解という
字としんにゅうの中に后という文字でおおた 」
と書いていた。 街道に戻った。
その先のT字路に、「 右中山道 左北国往還善光寺道 」 と彫った道標が建っている。
ここが北国往還(北国街道)との追分(分岐点)であり、左を行くと、松本を経て、長野の
善光寺に行ける道で、善光寺西街道ともいわれた (右写真)
江戸後半になると、善光寺参りが盛んになったので、善光寺道は大変賑った。
田辺聖子さんが書かれた「 姥ざかり花の旅笠 」は、天保年間(1740頃)に九州の商家の
御内儀・小田宅子さんの「 東路日記 」を基にしているが、彼女一行も、善光寺をおまいりしている。
彼女等は、伊奈谷を経由して塩尻に出てこの場所で北国西往還(街道)に入り、松本を経由して善光寺に向かっている。
ここには道祖神や石仏や徳本上人名号碑が朽ちたように置かれているが、街道を整備した際にここに集められたのだろう (右写真)
江戸時代の中山道は、左側の道を五百メートルほど歩いたところが枡形になっていて、そこで右折していた。
道標はそこにあったのであるが、
昭和七年(1932)四月六日の大火で、
集落が全滅した後、現在のように右側に道が造られ、道標は現在の場所に移された、とある。
左側の道をとり少し歩くと、右側に常夜燈が立っていた (右写真)
ここが江戸時代の中山道と北国往還との追分である。 これまで歩いた木曽路沿線の市町
村は街道に関する丁寧な説明文を用意し、それを表示する立派な石碑や木柱を立てていた。
これらに接してくると、塩尻市管内の宿場は説明らしいものや道案内の類がほとんどなく、
塩尻市の史跡に対する姿勢はかなり違うように感じた。 この宿や本山宿は町村合併により
塩尻市に組み込まれ、また、ここに住む人の大部分が市内の会社や工場に勤めるサラリー
マンなのだろうから、宿場の存在には関心がないのかもしれない。
江戸時代は遠くなりにけり!!である。
右折し民家の間の小道を登ると、火災後に作られた新道にでたので左折し、合流した。
少し上ると、左側にひょろとした松があり、肱掛松とある (右写真)
細川幽斎が肱を掛けて歌をよんだという言い伝えがあるものだが、木が小さいので、
何代目かのものだろう。
注意しないと気が付かないで通り過ぎるほどのものである。
以上で洗馬宿は終り。
私は平成十六年十一月と平成十七年六月と二回訪れた。 最初の訪問で太田の清水と肱掛松を見落としたので、再度、訪れたのである。
二回目の訪問では、説明文が付け加えられ、かなり詳しくなっていた。 贄川宿がある木祖村を併合したことが要因かと思ったが ・・・・・
なお、右の写真は、その後、武州路の蕨宿で見たもので、洗馬宿の浮世絵をタイルにしたものである。 奈良井川とあふたの清水を表現したものだろうか??
平成16年11月
修正・追加 平成17年6月