塩尻宿は、江戸時代初期に定められた「下諏訪〜小野〜木曽桜沢」ルートが廃止された後に開設された新宿である。
北国脇往還(善光寺街道)や五千石街道、伊那方面に向かう三州街道の追分になっていたので、江戸時代後半には善光寺や秋葉神社、伊勢参りなどの旅人が利用したので、大いに栄えた。
平成十六年十一月六日、本山宿、洗馬宿を経由し、塩尻宿まで歩く。 洗馬宿のはずれに追分があり、中山道と善光寺道の分岐点であることは前述したが、そこにある看板に 「 中山道と善光寺のわかされ 」と表示されていた。 わかされは始めて見る言葉である(右写真)
洗馬宿と塩尻宿間は一里強の距離で中山道では最短距離といってもよい短い距離である。
旧中山道は左側に郵便局がある少し先の交差点で国道と交差する。
後で分かったのであるが、この付近に洗馬の一里塚があったようである。
とはいえ、塚は壊され、表示されているだけのようで、気がつかないのも道理といえよう。
交差点を渡り、細い道をしばらく行くと、国道に合流してしまった。
国道を約一キロほど行った交差点、平出一里塚の標示がある。
平成十六年十一月に訪問した時はこの先、道を間違えて、旧中山道に入らず別の道を行ってしまった。
折角なので、その時の歩いた道を紹介したい。
道を間違えたのは、郵便局の交差点で、国道の向こうにある狭い道を直進してしまった。
その先に踏み切りがあり、越えると田舎道だが舗装されたいい道であった。
右側に石仏群を祀ったところがあった。
荒い板で囲まれたお堂の中には、仏様が祀られ、両脇には石仏と石碑が多く並んでいた (右写真)
この道の沿線には古くから集落があったようすで、江戸時代の中山道より、歴史が感じら
れた。 その先の小井戸には、比叡ノ山といわれる小山に、比岳当佐(ひたけとうさ)神社
があった。
比岳という山自体が祭神というからかなり古い神社なのだろう。
二回目は旧中山道を辿ろうとして、再度、郵便局の交差点から出発。
国道をしばらく歩くと、平出の一里塚の交差点。
交差点の表示からすぐあると思ったが、立ち寄った果樹園では平出一里塚までは三キロほどあるという。
このあたりは昼と夜の寒暖の差が大きいので、良いぶどう酒がつくれるというので、現在は葡萄を栽培している農家が多い。
国道付近は勿論、旧中山道一帯に、観光果樹園を営む店が多い (右写真)
江戸時代には畑以外ない原っぱだったといわれるところで、桔梗が原と呼ばれた。
甲斐の武田信玄が松本を根拠とした小笠原氏と合戦し、破ったところである。
中山道を歩く人はこの広い原っぱを横断したわけであるが、かなりさびしかったようで、前述の九州の商家の御内儀・小田宅子さんの「 東路日記 」にもそれを暗示する文章があった。
『 桔梗が原という、こう(口へんに廣と書く漢字)野は桃の木やすみれが目を楽しませたものの、雉子の声が聞え、 「 道をいそげども見えざりければ 」 という心もとなさ。 』とあり、江戸時代、このあたり一帯に横たわった荒地は旅人を萎縮させる雰囲気があったようである。
少し行くと、右手に駐車場があり、国史跡・平出遺跡と表示されていた (右写真)
この一帯はトレッキングのルートで、数キロ歩くと、「平出考古博物館」があり、それらを周
遊するルートのようである。 博物館には平出遺跡から発掘した古墳時代や奈良時代、
平安時代に至る遺跡や出土した瓦塔(五重塔を模した土の焼物高さ2.3m)などが展示され
ている。 前回歩いた左側と今回歩いた右側一帯は、うばふところ と呼ばれる丘陵地帯で、古墳時代から平安時代まで、古代の平出集落があったところである。
三つの円墳があり、これらは六世紀中頃から七世紀中頃にかけて君臨した権力者たちの墓と考えられるとあったが、その辺の知識に乏しい小生にはさっぱり理解できないことだった。
二キロほどの距離。 踏み切りを渡った先の右側に、一里塚が見えてきた (右写真)
一里塚は慶長九年(1604)に二代将軍徳川秀忠の命で、永井は白元、本多光重などに命
じ、幕府領、私領を問わず人足を徴発して、二十六町を一里として、一里ごとに道の両側に一里塚を築かせたもので、道幅は五間(9m)、塚の高さは一丈(2.3m)と決められた。
また、塚の頂上にエノキなどを植え、道標(みちするべ)にした。
道の南側にある一里塚の松は、桔梗ヶ原合戦の時に、武田軍の軍師、山本勘助が赤子を拾ったという伝説にちなみ、 勘助子育の松 と呼ばれている。
また、 平出の乳松 ともいい、 「 松葉を煎じて飲むと乳の出が良くなる 」 という言い伝えがあった、とある (右写真)
現代では信じられないだろうが、困ったときの神頼みは今でも続いていますよねえ!!
一里塚は一つだけと思ったが、もう一つは左側の民家の中にあった。 ほぼ完全な形で
二基残っているのは、長野県内ではめずらしい。 宝暦六年(1756)頃にはこの付近に茶屋
が二軒あったとあるが、荒野を歩いていて人家を見つけたときのほっとした気持が想像でき
そう。
街道を進むと、左側に昭和電工の塀が続く。
JR中央線のガードをくぐり、しばら
く歩いて行くと前方に社叢が見えてきた。
大きな樹木がある神社は大門神社という。
その手前に、小さな社があり、 耳塚神社 とあった (右写真)
案内を見ると、「安曇族に関係あるといわれ、また、桔梗が原の合戦に関係がある」ともいう。
耳の形に似た素焼きの皿やおわんに穴をあけて奉納すると、耳の聞こえがよくなると評判に
なり、伊奈地方などから御参りにきたとあった。
お堂の中を覗くと、かわらけが沢山綴じられ
て納めてあった。
耳神社は美濃路にもあったが、その由来は合戦にかかわることが多いようである。
戦国時代、将兵が戦勝後の戦功の評価を受けるときに、討ち取った首級を提出したが、多い場合には耳をそいで提出し、これに代えた。
その霊をともらうための首塚もあるが、耳塚も同じであろう。
大門神社は、もとは 柴宮八幡宮 といった (右写真)
柴宮は、正平十年、桔梗が原の南北朝の戦いで、南朝の指揮所になったところに建立されたが、街道にあったので、旅人の参拝が多かったとあり、
昭和二十七年、上野山の麓にあった、若宮八幡宮が合祠されて、現在の大門神社となった。 建物は昭和五十年代に建て
られたものである。 境内から銅鐸が発掘された旨の案内があったことから、当時から祭
祀に係わる場所だったのかも知れない。
間もなく五差路に当たる。 左の広い道は塩尻駅へ、次の左の道は松本へ向かう国道20号線である。 真っすぐ行く道が旧中山道である。
すこし行くと、塩尻宿だが、今回はここで終わることにした。
贄川駅に車を置いて歩いたので、車を取りに戻らなければならないのである。
このあたり一帯を大門というが、塩尻駅までの道は銀座通りと名付けられ、途中に喫茶店やイトーヨウカドーなどがあった (右写真)
近いうちに再度来ようと思いながら、名古屋に帰っていった。
平成十六年十一月十日。 十日を過ぎると、木曽路の秋が終わるといわれるようだが、今年は暖かく、紅葉も遅いとあったが、さすがに木曽路は終りが近づいているのを感じながら塩尻まで車を走らせてきた。
今日は塩尻駅から出発し、下諏訪宿に行く予定である。
名古屋から来たので、出発時間が少し遅くなったが、特急の始発で来るより1時間早い。
駅から右に向かい、イトーヨウカドーと市営駐車場の前を通り、その先で右へ入って大門神社の手前に出た。
途中で見た道祖神だが、親子三人なのはめずらしい (右写真)
前回に来た五又路へ出て、ここから中山道の旅の再開である。
この道は国道153号線で、少しの間歩くが、歩行者のことを考えて作られてはいないので、大きなトラックがひっきりなしに走ってくる脇の狭い歩行帯を車に注意を払いながら歩いていく。
左奥のほうに山が見え、田畑が広がっている。 少し先に塩尻橋があった (右写真)
塩尻橋を渡ったところから右側に少し旧中山道が残っているが、すぐに国道を交差することになる。
国道から左に入る道が旧中山道である。
曲がり角に、 南無妙法蓮華経 、 道祖神 、 秋葉大神 、 繭玉大神 と刻まれた石碑の真ん
中にもう一つの石碑があるが、その上に、阿礼神社七五三健児祭の
看板が被せてあるので、何の神か分からなかった (右写真)
このあたりは昔の堀之内村で、このあたりには古い家も散見された。
道も比較的広く、車も少ないので、安心して歩くことができた。
国道20号とは雲泥の差である。
各家の庭木が紅葉していて美しい。
左側に大きな家が見えてきたので、覗き込むと、堀内家の御住まいになっている部分だった。 隣にある黒くずっしりした門の小さな入口から中に入った。
目の前に現れた建物は、『 本棟造りの立派な外観をした建物は、18世紀末のもので、国重要文化財。
切妻屋根の端に破風板を二段重ねに打って、板葺の厚みに対処するようにし、その頂点に大きな「雀おどり」と呼ばれる棟飾りを付けている。
正面からの外観意匠はこの系統の民家のなかで特に美しい。 』(塩尻市資料より)
とあるもので、立派なものだった (右写真)
信州中南信地域の豪農民家に見られる独特の「本棟造り」は巨大な切妻屋根を持ち、妻入に設計した造りをいう。 正面の切り妻に二重に配した破風が重厚で格式ある外観を
かもし出しているが、その上に乗っている棟飾りはこの地方独自のものである。
上記の説明では、雀おどりとあるが、「雀おどし」とも「雀返し」とも呼ばれるようである (右写真)
堀内家は、江戸時代に堀之内村の庄屋を勤めた豪農の家で、上記建物は文化年間(十九世紀初め)に下西条村から移築したものらしい。 土蔵の鬼瓦も立派なものだった。
内部を見たかったが、一週間前に予約を要するとあり、残念ながら見ることは出来なかった。
その先の家も古かったが、堀内医院とあるので、一族なのだろうか?!
少し歩くと、左側に東小学校がある。 学校の前には、 塩尻宿 と刻まれた石柱が建って
いた。 どうやら最近建てたものらしいが ・・・
道の突き当たりに、健児祭の看板を出ている阿礼神社の鳥居が見えた (右写真)
阿礼神社は、式内社で筑摩郡3座の一つである。 祭神は、素盞嗚命と大己貴命、誉田別命を祀る。
「阿礼神社縁起」によると、
『 諏訪氏を祖とする一族が定住し、山祇神水神を祀っていた。
仁寿弐年(852)、諏訪神社と関係深い素盞嗚命を主祭神とするようになった。
平城天皇延暦年間(728〜806)、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の途次この社で戦勝を祈願した。 木曽
義仲も深く尊信したようである。 』
と、あった。
坂上田村麻呂が戦勝を祝って、社殿を寄進したというのも本当かも知れない (右写真)
境内も広く、幽邃な趣がある。
狛犬が二対あり、一つは獅子であるが、もう一つは犬のような感じで、ユニークな造りであった。
境内で、中山道を歩くグループに出会ったが、歩き始めで最大の人数であった。 案内人が引率し、細かく説明をしていた。 東京から来たと、参加者に聞いたが、東京方面にはツアーを企画し、連れてくる業者があるみたいだった。
神社の前が塩尻宿に入る鈎の手(枡形ともいう)で、道に沿って行くと、国道に合流した。 旧中山道が国道に合流するところに、駕籠立場があった。 明治以降は塩尻村役場が置かれたところでもある。
塩尻とは、富山から運ばれてきた塩も三州街道から運ばれてきた三河・尾張の塩もここまで終りになったという、塩の道の終りを意味した。
塩尻宿は、江戸時代初期に定められた「下諏訪〜小野〜木曽桜沢」ルートが廃止された後に開設された宿場町で、現在の国道153号に沿って問屋や旅籠などが約1kmほどの長さ
で連なっていたという。
右側の家に、造り酒屋の象徴である杉玉を吊るされていたが、その前に、 塩尻陣屋跡の石柱が建っていた (右写真)
塩尻は江戸時代の初めは松本藩だったが、享保十年(1725)から幕府直轄領になったので
ある。
塩尻宿は、東山道時代の塩尻宿の南隣に設けられた。 天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によると、宿場は七町二十八間とあるので、一キロにも満たない長さである
が、旅籠が七十五軒もあったとある。
宿内人口が約八百名、家数が百六十六軒だったというから、旅籠の数は大変多く、中山道ではトップクラスである。
道の右側を歩く。 民家の広い庭の一角に脇本陣跡と中山道の石柱が建てられていた。
庭の木の手入れが行き届いていて、どうだんつつじの赤が強く印象に残った (右写真)
塩尻の場合はこうした個人の善意が中山道の存在を知らしめているのだと思った。
本陣の建物は大きく、中山道一を誇っていたというが、本陣のあったところは民家の駐車場の一角に表示されているだけだった (右写真)
駐車場の奥に、明治天皇に差し上げた御膳水の碑があり、その脇に井戸があるのだが、朽ちていた。 なお、本陣と脇本陣は川上氏の一族が務めていたのである。
明治十五年の大火により、本陣を始め宿場の大部分の家が燃えたので、当時を存在を示すものは残っていない。 その先にある上問屋跡の石柱。 更に、道の反対側には、下問屋と高札場があったようで、それをあわせた石柱が建っているのが宿場だった面影を示す
ものである。
例外が既に紹介したの堀内家住宅と、中町に残る、小野家住宅である (右写真)
市の資料によると、『 小野家住宅は、国の重要文化財に指定されていて、江戸時代は
「いてふや」の屋号で旅篭を営んでいたという。
現在の建物は幕末期の嘉永年代の建築とされ、道路に面した部分は総二階建てで、二階に大部分の客室を設けていた。 町家では珍しく、二階の「桜の間」は、天井・板壁・天袋小襖に桜の極彩色の絵が描かれている。 』 と、あった。 裏庭にある二階建ての文庫蔵も母屋建築当時のもので、これも国指定
重要文化財に指定を受けている。
大型トラックが行き来する道の際にあるので、何時
まで保つか心配である。 江戸時代の塩尻宿は北国脇往還(善光寺街道)や五千石街道、
そして、伊那方面に向かう三州街道への分岐点(追分)として多くの旅人が行き来していた
ので、70余の旅籠があってもやっていけたのであろう。 しかし、明治時代に入り、鉄道が
開通すると、主要施設の多くが駅前の大門地区に移り、宿場町は衰退していったのである。
前述の脇本陣跡の庭には、塩尻宿を描いた浮世絵のレリーフの石があった (右写真)
それには、塩尻峠を下る旅人の正面に富士山、左には高島城、そして右に諏訪湖が描かれて
いるが、宿場の様子は書かれていない。
その先の上町公会所の手前に、五千石街道の石柱がある (右写真)
松本市史 によると、 「 元和三年(1617)の大坂夏の陣後の戦功査定で功績のあった松本
藩主・小笠原忠政は二万石加増で、播磨明石(兵庫県明石市)へ
転封した。
その後には、上野国高崎城主の戸田康長が着任したが、これまでの石高は七
万石だった。
小笠原氏が得ていた石高が八万石だったので、1万石の差が生じたのである。
幕府はその一万石を二分し、松本市の一部と塩尻市の片丘を諏訪高島藩の所領に、松本
市の一部と洗馬宿、山形村、朝日村を高遠藩(保科氏)へ与えたのである。
江戸時代に、松本平の諏訪藩や高遠藩の飛び地での年貢や物資を運ぶ道としてここから桟敷村(塩尻市)を経て、松本に通じ
る道が造られたが、五千石街道の名はこういう背景から生まれたのである。 現在は、県道松本塩尻線として、
松本から諏訪に通じるバイパス道路として活用されている。
上町公会所のあたりには十王堂跡の石柱があった。
その先に右側には、尾張の塩街道である三州街道の石柱が建っていた (右写真)
旧三州街道である現在の国道153号は真っ直ぐ行き、すこし先で弓なりに曲がっていく。
三州街道石柱を少し歩くと、左に登る道がある。
その左側に、塩尻宿の石柱があるので、ここで塩尻宿は終る。
平成16年11月
再訪問 桔梗が原 平成17年6月