塩尻から下諏訪宿間には、塩尻峠がある。 別名、塩嶺ともいう。
峠を越えると現在の岡谷市に入るが、江戸時代は貧しいところだったようである。
下諏訪宿は和田峠と塩尻峠の間の宿で、かつ、温泉もあったので、旅人で賑わった。
また、甲州道中(甲州街道)との追分でもあった。
平成十六年十一月十日、塩尻駅から塩尻宿を訪れ、下諏訪宿へ向う。
三州街道石柱の先の左に登る道が旧中山道で、この先、岡谷市内まで残っている。
塩尻宿が終ること示す左側の「是より中山道塩尻宿」の石柱と別れて、坂を登って行くと、左側の林の中に堂々たる楼門の
お寺が見えてきた。 永福寺という寺で、山門には、「立川音四郎種清によって明治二十九年建立された。 ・・」とある
立て札が立っていた (右写真)
中に入ると、本堂があり、その傍らで、掃除をしている女性に出会った。
境内の樹木が黄や赤に紅葉して美しい。 「 きれいですね!! 」 と声をかけると、
「 そのような気にはなれません。 」 と言われてしまった。
樹々からは次から次に落ち葉が
舞い、掃いても掃いてもどんどん積もっていくので、その気になれないようだ。
積もるに任せればよいのではと思ったが、落葉が積もったところにタバコの火を落とされると火事になりかねないので、
片付けざるをえないようだ。 本堂の右側の少し高くなったところに、藁葺きの建物の観音堂がある (右写真)
永福寺観音堂は、安政弐年(1855)、立川流二代目の立川富昌が塩尻宿の沢潟屋に泊まり、棟梁として建築を進めたが、
翌年十一月、工事中の事故でなくなった。 その後、工事は三代目富重が引き継いで、四年後に完成させた。 お堂の
龍の彫刻や象、ぼたん、獅子などの彫刻は二代目富昌の手によるものらしい。
説明によると、「 立川流という大工は諏訪の人で、初代立川和四郎は幕府から内匠の称号を受け、京都御所や諏訪大社、
三河豊川稲荷などを手がけたというからなかなかの腕だったのであろう。
その弟子が二代目・立木富昌であり、矢彦神社神楽殿(岡谷市小野)、伊夜彦神社本殿(塩尻市平出)などをてがけた。 」
お堂に祀られているのは馬頭観音で、お堂にあった絵馬には「嘉永七甲寅年・・・・ 」 と記されているので、
幕末に奉納されたものである (右写真)
寺を出て少し歩くと、車が左右に行き来している。 左折すると、国道20号、右折すると国
道253号に繋がっている。 国道20号には、道の駅小坂田公園があり、食事や休憩に便
利である。 旧中山道は真っ直ぐ進む。
鉄管で作られた鳥居状のものが立ているところを通って柿沢集落に入る。
鳥居状のものは集落の魔よけと思うが間違いだろうか?!
この集落は古い家が多く残っている。
家、庭、門、石垣など、どこの家にもあり、更に、土蔵がある家が多い。 塩尻宿に古い家がなかったので、ちょっと驚いたが、塩尻宿にも同じような家があったのだろうと想像した (右写真)
この集落のたたずまいを見ると、裕福な山村だったのだろうと思った。
首塚胴塚 の表示があるので、なにかと思って案内に従い、寄り道をする。
田畑がなくなった先の土手の上に、石碑があり、首塚とかいてあった (右写真)
天文十七年、武田晴信(信玄)と小笠原長時が塩尻峠で戦い、小笠原軍が大敗した。
その戦死者を集落の人が塚をつくったものである。
集落を過ぎると、少し急になった。
薄が穂を出し、樹に絡んだ蔦が赤く紅葉し、秋であることを伝えている。
道から少し高いところに嘉永の年号のある馬頭観音の石碑が建っている。
まもなく、中央道が見えるところに来た。 見えるのはみどり湖Pらしい。
ここから高速バスを利用する人が多いようで、そのための駐車場が用意されていた。
旧中山道は車1台分くらいの狭い道で、かろうじて対向車がすれ違える程度走ってくる。
国道20号と交差するところを地下道でくぐり、更に進む。
左側に、火水風と書かれたホテル風の建物が現れたが、どうやら宗教団体の建物のようである。 その先は林になった (右写真)
木の間に、牛馬守神と刻まれた石碑が少し土に埋もれながら建っていた。
このあたりはマイクロケーブルが埋められているのか、注意する旨の表示が多い。
木々の隙間から右下側に国道を走って行く車が見えた。
小さな小川が流れているところに、 犬飼に清水 という表示があり、
「中山道を通行中の公卿の愛犬が病気になり、この水を飲ませると直ったと伝えられる。」
とあったが、清水のようなものは見渡らない。 この小川が清水なのか、もうなくなって
いるのか分からなかった。
犬の飲んだ清水が残っているということは公卿が有名な人物
だったのだろう。
そのまま行くと、国道に合流してしまうが、その手前、修理工場の先で、
左に入って行くのが中山道である。 登って行くと、二人づれに出会った (右写真)
下諏訪から歩いてきたという。 峠は近いようである。
この樹の紅葉はきれいだった。 まさに秋である。
その先には、東山一里塚があった (右写真)
東山一里塚は、江戸から五十二番目の一里塚で、犬飼清水と茶屋本陣の中間にあった。
かっては南北二基あったが、南側のみ現存していて、塚の大きさは巾十二メートル、奥行
十三メートル、高さ三メートルである。
長野県に残る数少ない一里塚の一つである。
その先の左側に、「 夜通道 」 と標示があって、2体のかわいい地蔵があった。
「 昔、塩尻の娘が恋人に会いに夜通しかけてこの峠を越えて諏訪まで行った」という故事
から、夜通道という名がついたと、案内にはあった (右写真)
現代と違い、提灯も手軽に使用できない時代にこのように物騒な道を恋人を会いに出かけ
ることは想像しがたい。 女性の男を想う心はすごかったのであろう!!
このあたりはずーと上りになっている。
その先には大名などが休憩した茶屋本陣跡があった (右写真)
塩尻峠は、この先一気に急な坂になるが、それに備えるのと、塩尻峠を越えて一服したよう
に思われる。 当時の建物は残っていないが、建物の一角に、だれの歌か分からないが、
幾つかの歌碑があり、 明治天皇塩尻道御膳水 の石碑が建っていた。
急な坂を登りきると、塩尻峠に到着した。 峠は標高1060m。
夏に登れば、かなり汗をかきそうな登りである。
塩尻峠一帯の山地は塩嶺といわれているようで、高ポッチへのハイク道の案内もあった。
峠には明治十三年に明治天皇が休憩されたという行幸記念碑が建っていた (右写真)
昭和四十一年、空冷700ccのパブリカで、国道20号で塩尻峠を越え、黒部ダムに行った
時、
塩尻峠で仮眠をとったことを思い出した。 車が少ない時代であったが、道も整備されて
いない
ので、かなりの時間をかけてここまでたどり着いた。 風景がどうだったかのかの記憶
はないが、眠くなったので車を止めて寝てしまったことを昨日のように思い出した。
その奥にある展望台に登ると、諏訪湖の向こうに南アルプスの山や駒ケ岳などの中央アルプスの山が見えた。
先程の塩尻宿の石碑にあった浮世絵レリーフにあった風景が正に目の前にあった。
富士山と南八ヶ岳がくっきりと見え、眼下の樹木は晩秋の色に写しだしていた (右写真)
持参した弁当を食べながら、のんびり秋の風景を楽しんだ。
一服したところで、坂を下る。
かなり急な坂で、登るより下るほうが足腰に負担がかかるような気がした。
下りきったところに大石があった (右写真)
木曽名所図会 に、 「 大石、塩尻峠東坂東側にあり。 高さ二丈(約6m)、横幅二間余
(約3.6m)ばかり 」 とある大石で、伝えによると、 「 昔、この大石にはよく盗人が
現れ襲われた。 」 とある。
坂を下ってきた時、突然、賊が現れたとしたら、防ぎよう
がないなあ!!、と思もった。
そのようなことを思わせる場所にあるとてつもない大きな石だった。
その先の左側の山裾に石船観音がある。
石船観音は船の形をした台石の上に祀られたことから呼ばれるようになったが、特に足腰の弱い人に霊験があらたかといわれる観音様。
本尊は馬頭観音であるが、観音堂に上って中を覗いたが、見えなかった (右写真)
これから先の旅が順調に、足が無事に中山道を踏破するようにと祈った。
下に降りると、道端に清水が流れ落ちていた。
境内を流れる沢清水で、参拝者の喉を潤したとある清水である。
柄杓があったので、したたり落ちる水を汲み、かんろこんろと飲んだ。
境内の紅葉はきれいだった (右写真)
そこからは、右手山裾をくねくね登る国道20号と、高速道路が見えた。
その後、歩き始めたが、その先、道を間違えた。
山と渓谷社発行の「中山道を歩く」を見ながら歩いていたが、「その先で国道に合流し、左側を歩く」ような説明があったので、そのようにしたら団地の中に入ってしまった。
散歩をしていた70歳過ぎと思われる老人に道を聞くと、 「 旧中山道は国道の向こうである 」 という。
中山道は、岡谷インターの工事の際に取り壊されたのと、国道20号のバイパスができて、旧街道への入口が分からなくなってしまったのである。
私は気がつかずトンネルの先まで行ってしまった。
(注) 後日、再訪問し、間違えたところの国道から反対側(右側)に横切り坂を下る道を見
つけられた。 以下の説明はその道でないので、今井集落の先に行き、少し戻る結果になっている。
国道に戻り、国道の地下道をくぐって、反対側にでて、坂を下っていくと、今井の集落に出た。
旧中山道より江戸側に出てしまったので、右折して京側に戻り、茶屋本陣だったところを探した。 向こうに大きな木が聳える家が見えたので、そこだろうと検討をつけて歩いた。
堂々たる門構えの家があるが、それが今井家だった (右写真)
説明によると、
「 今井家は、下諏訪宿と塩尻宿の中間にあたるこの今井集落に設けられた茶屋本陣(御小休本陣)で、文久元年十一月五日皇女和宮の御降嫁の時と明治十三年六月二十四日、明治天皇が山梨、三重、京都方面御巡幸の時、御小休なられた。 主屋等の十一件が登録有形文化財に指定されている。 」
と、あった。
門から中を覗くと、大きな建物が姿を現した (右写真)
今井家の斜め前に、今井番屋の石碑はあった。 穀留番所といわれたものらしい。
道には、字が読みづらくなった道祖神碑などの石碑が三体あり、また、少し行くと、常夜燈
が建っていた。 小さな川(横河川?)を渡った先の左側が空き地になっていて、その一角に、
一里塚碑が建っていた。
江戸から56里の 東堀一里塚である (右写真)
その先、国道を斜めに横切る。
このあたりは古い家が残っていて、中にはすごく手入れの
行き届いた立派な庭木の家もあり、また、門構えのある家もあった。
その先、長池中町。
中山道は国道と平行しながら、通っている。
長池(おさち)交差点から岡谷中心部へ向かう広い道を横切る。 この道は、江戸時代の
伊那街道である。 道標は、寛政三年(1791)に建立され、百万遍供養塔を兼ねたもので、
「 右中山道 、 左いなみち 」 と、刻まれている (右写真)
伊那街道はここから飯田を経て清内路越えで妻籠に出る道であるが、慶長七年(1602)に
中山道が開かれたときは、ここから小野宿までは中山道になっていた。
長安の死後、
慶長十九年(1614)以降、小野宿経由の中山道が廃止され、塩尻経由の道筋になった。
岡谷市の中心をなすのが、旧平野村であるが、江戸時代の岡谷地方は米作も気候の関係
から
思ったほどでなく、半農と出稼ぎなどで賄っていた。 江戸時代に力を入れ、幕末に盛んになったのが養蚕である。
これを横切ると東堀、この先からは旧街道はとぎれとぎれになる。
国道に出て、平福寺の前を過ぎ、少し先で右側の狭い道を行くと、右側に
渡辺家住宅という案内があるので、入っていった (右写真)
代々高島藩主に仕えた散居武士(城下町ではなく在郷の村々に住んだ藩士)の家で、創築は十八世紀中頃とされ、その後十九世紀中頃に改築されたが、現存する武士の家として、全国的にも貴重なものである。
十四瀬川があるが、小さな橋を渡る。
ここから、下諏訪町社東町である。
細い路地を歩くと、左右に車が通る道にでるが、その手前に、「旧中山道・右、左」の道標
が建つ(最近建てられたものだろう)
道を横切り、(考えられない道であるが)民家と民家がくっついてところをくぐるように行くと、川にぶつかる。
橋を渡り、右側に入り、斜めに曲がっていくのが旧中山道。 そのまま行くと、下諏訪駅である。
東弥生町の道祖神碑には4本の小さな柱が立てられ、注連縄で囲まれていた。 これも今年行われた御柱の祭事の一つなのだろう。
車道にでた。 左を見ると、国道の先に諏訪神社秋宮の鳥居が見えた (右写真)
道を越えて進む。 このあたりには古い家は見渡らない。
右側の少し高いところに、魁(さきがけ)塚と刻まれた石碑があったが、なんなのだろうか?と思いつつ通り過ぎた (右写真)
後日調べてみると、
『 相楽総三の結成した「赤報隊」は倒幕の先鋒隊として江戸で活躍したが、偽官軍の汚名を着せられ、相楽総三は中山道を戻り、岩倉具視等の手で斬首に処せられた。 赤報隊を供養するため建てられたものである。 』 と、いうものだった。
道は程なく国道に合流したので、そのまま進むと信号交差点に出た。
国道20号はここで右折し、東京方面に向かう。 下諏訪宿は直進で、この交差点を越えるとすぐである。
下諏訪宿は古来、東山道、鎌倉街道の宿駅として交通の要衝にあり、江戸時代には、五街道の中山道二十九番目の宿で、甲州道中の三十八番目の終点であった。
スクランブル交差点で、国道20号線は右折するが、中山道は真っすぐ行く (右写真)
国道142号の起点はここで、この道は和田峠を越え、佐久に通じていて、中山道と重複する部分が多い。
交差点を渡った左奥に菅野の湯という共同湯があり、二人連れが入っていった。
宿場に入る手前の三差路にちょっとした公園があり、御柱グランドパーク、という名が付
けられていた。
諏訪神社で行われる、木落しの御柱を印象づける巨木の年輪を表現し、御柱曳行の
男綱・女綱を型どり取り付けたというモニュメントである (右写真)
下諏訪宿は、七町四十三間(約800m)の長さに、三百十五軒の家があり、千三百人余の人
が暮らしていた。中山道はそこを左斜めに入って行くが、すぐの右側の目立たないところに、
高札場跡の表示があった。
この通りが立町で、出桁造りの低い二階建ての家が多く残っていて、昔の俤をわずかに残し
ている。 みなとや旅館の前に、道標があった (右写真)
道標には、「 左中仙道 右甲州道中 」 と、刻まれていて、ここが甲州街道の追分である。
(注)平成十九年十一月に再訪して、みなとやに行くと、その前に額に入った説明があり、この
道標は文化勲章を受賞した里見淳が作成したもので、文学碑のようなもので、道標とは関係
ない、と書かれていた。
その前には、時の科学館儀象堂がある。 諏訪地方はセイコーなどの時計を始め、精密機械
の産地であるので、ゆかりの深い 「 時 」
をテーマに、平成九年三月にオープンした施設
である。 九百年前の天文時計・水運儀象台が復元展示されていた。
下諏訪町歴史民俗資料館は江戸時代の宿場民家の特色を残しているといわれ、道に面した
側に
「 縦繁格子 」 をはめ、 「 みせ 」 と呼ばれる大戸の横にある広い板の間、そして、
「 通り庭 」 という、建物の内部にあって裏庭に通じる土間などがある (右写真)
下諏訪宿には、本陣が一、脇本陣も一、問屋一、旅籠が四十軒あった。
本陣跡はT字路がぶつかった奥で、現在は旅館になっている。 その前は遊泉ハウス児湯
の駐車場であるが、かっては名湯綿湯のあったところである。
綿の湯は中山道や甲州道中で一番賑わった温泉のある宿場の中心地である。 浴場の綿の湯が、児湯と合併して、「遊泉ハウス児湯」となったときに、名湯「綿の湯」の名残を伝える観光のスポットにと、原湯舎を江戸時代の面影を残す全容に改修した、 とあった。
壁面には、文化弐年(1805)に発行された、木曽名所図会に描かれた下諏訪宿の情景(共同浴場を中心に宿場の情景が描かれている)を有田焼の陶板レリーフしたものが飾られていた (右写真)
また、綿湯の伝説湯玉のモニュメントや永六輔氏揮毫の綿の湯跡の碑もあった。
松尾芭蕉と門人近江国膳所藩士菅沼曲水の連歌
『 入れ込みに 諏訪の湧き湯の 夕まぐれ 曲水 』
『 中にも せいの高き 山伏 芭蕉 』
入れ込みとは共同浴場のことで、夕暮れの宿場の風景が浮かび上がるようである。
T字路にぶつかる所に「甲州道中終点、中山道下諏訪宿問屋場跡」の石碑がある (右写真)
さて、本陣であるが、任されていたのは岩波家で、元禄元年(1688)から明治維新で廃止
されるまでの300年余り続いた。
塩尻峠と和田峠の間にある宿場で、しかも温泉付きとあったので、徳川将軍代々の正室や諸大名が宿泊したのは頷ける。
本家岩波家は隣の元のままの門構えの家で中を見せてくれる。 宿の古い文書、道具などを展示していて、有料で公開している。
本陣制度廃止後、本家岩波太左衛門の弟芝吉氏が分家して本陣の一角で亀屋旅館を始めたが、現在は聴泉閣かめやとして営業している。
かめやの建物は建て変えられたので昔の建物ではないが、分家に譲られた上段の間と中庭は当時のままのものという。
皇女和宮の御降嫁や明治天皇の御巡幸にも使われた。
上段の間入口に、元禄時代狩野派の御用絵師が描いたといわれる「杉戸絵」が残されている。
また、庭も当時のものという。 また、多くの作家が宿泊した旅館としても有名である。
これで下諏訪宿は終りである。 共同湯・遊泉ハウス児湯に入り、今回の歩きは終わった。
温泉の詳細は、温泉めぐり・長野県/
遊泉ハウス児湯をご覧ください。
(下諏訪の現在)
下諏訪は江戸時代中山道で唯一温泉のあった宿場として賑わったところであるが、岡谷市と諏訪市(上諏訪)に挟まれて存在感を無くしている感がある。
町のホームページを見ても、諏訪神社だけの編集になっていて、それだけでは魅力が乏しい。
中山道について1行も書かれていないなど、まだまだ改善の余地があるように思えた。
右写真は江戸時代に描かれた中山道下諏訪宿のレリーフである(武州蕨宿の歩道に埋まられていたものを転用)
(ご参考) 『 五街道細見に書かれた下諏訪宿 』
江戸時代安政五年刊の道中案内記である「五街道細見」には
下諏訪について『 和田へ山路五里八町。諏訪の駅千軒ばかりあり。 商人多し。 旅舎に出女あり。 夏蚊なし。 少しあれどもささず。 雪深うして寒さはげし。』と書かれ、更に『名をしおふ下の諏訪は此の街道の駅にして、旅舎多く、紅おしろいに粧うたるうかれ女たちつどひ、とまさんせとまらんせと袖ひき袂をとりて、旅行の人の足をとどむ。』とある。
また、温泉については『 町の中に温泉ありて、此の宿の女あないして、浴屋の口をひらき、浴させける。 その外よろずの商人多く、駅中の都会なり。 』とあり、宿場が繁盛していた様子が書かれている。
平成16年11月
(追補)平成18年1月