和田宿は、下諏訪から和田峠を越えた海抜八百二十五メートルの山の中にある宿場である。
江戸時代でも冬場にここを歩くというのは難渋したようで、それを少しでもと造られたのが接待小屋であった。
和田宿には皇女・和宮の御降嫁の際の宿泊のため、建てられた多くの建物が残っている。
平成十六年十一月十一日、昨晩は塩尻市に泊まったが、今日は下諏訪宿から和田宿まで歩く予定だが、京から江戸に向う場合は、和田峠越えが最大難関である。 その前に、下諏訪宿には諏訪大社下社秋宮があるので、安全を願ってお参りに向かう。 なお、秋宮の駐車場の脇の道が旧甲州道中(甲州街道)である (右写真)
諏訪大社は、我が国最古の神社の一つであり、延喜式の神名帳に、 「 南方刀美神社(みなみかたとみのかみのみやしろ)二座 」 と、記されているのがそれである。
諏訪大社は、上社と下社4つの神社を合わせて、一社となっている。
主祭神は、建御名方命(たてみなかたのみこと)と八坂刀売命(やさかとめのみこと)であるが、上社は 建御名方命、下社は八坂刀売命を主祭神としている。
真冬、諏訪湖が全面結氷し更に寒気が襲ってくると、湖面に亀裂が入り轟音とともに氷がせり上がる現象を御神渡り(おみわたり)と呼び、諏訪大明神(建御名方富命)が女神(八坂刀売命)のもとへ渡った跡と信じられ、諏訪七不思議の一つと言い伝えられてきた。
入って行くと最初に目に入るのが神楽殿である (右写真)
神楽殿は、天保六年(1835)に、二代目立川和四郎富昌を棟梁として造られたもので、
国の重要文化財に指定されている。 建物の前のしめなわは独特のもので、今年行わ
れた御柱祭に使用されたものという。 左右の青銅製の狛犬は、青銅製で一番大きいと
いわれる。
諏訪神社は、古来、諏訪大明神、諏訪南宮大明神などと称したが、信濃国
一之宮として広く天下の崇敬を集め、御神徳を奉じ分社・分霊を祀ること全国津々
浦々に五千社以上に及ぶとある神社だが、創建時期ははっきりしない。
神楽殿の奥の建物は幣拝殿といい、安永十六年(1776)の建築である (右写真)
信濃一といわれた棟梁初代立川和四郎富棟の手によるもので、上部を飾る彫刻は本人の作で、これも国重要文化財である。
諏訪大社は不思議な神社で、本殿はないという。 神社の生い立ちが古く、自然信仰から始まっていることと関係があるのだろう。
雨や風を司る竜神の信仰や、水や風に直接関係のある農業の守護神、そして、狩猟の神としての土着の信仰であったのが、その後、 「 大国主命の第二子である建御方命がこの地に逃れきて永住し、妃神八坂刀売神並びに御子神と共にこ
の地の農耕・機織をすすめられた。 」 という伝承になり、その末裔は神氏(諏訪氏)
ということになっていったようで、この地を統治した諏訪氏の護り神であった。
また、水の信仰が海の守り神となって、遠くは北海道(蝦夷)の港にもお祀りされている。
幣拝殿を囲む一角に御柱(おんばしら)が立てられていた。 特に、右前の一之柱は
つるつるに磨かれていて男根を象徴するような感じだった (右写真)
坂上田村麿が東征したときに御詣りし神助があったと伝えられたことから、東関第一の
軍神(武家の守護神)と尊ばれたので、鎌倉幕府は社領を寄進、武田信玄は社殿を造営
・祭祀を復興し、江戸幕府は社領千五百石を奉献した。
江戸時代になると、歌舞伎や浄瑠璃
に取り上げられ、多くの参拝客が詰め掛けた。
秋宮には、樹齢六百年とも七百年ともいう杉の木が残る。
神社を出たところに、名物塩羊羹で有名な新鶴本店があった (右写真)
また、このあたりの道路に一角に、甲州道中と中山道を示すブロックが埋められていて、そこが甲州街道の追分であったことを示していた。 このあたりから春宮の中山道に沿って温泉街になっていて、大小の旅館が立ち並んでいる。 複数での旅なら旅館も良いが、小生のような一人旅で素泊まりとなると、ビジネスホテルの方がよい。
街道を進むと、右手に児湯がある。 児湯は綿の湯、旦過の湯とともに、江戸時代に三名
湯といわれたもので、和泉式部伝説銕焼地蔵のご利益で湧き出したといわれる。
地蔵を背負ってきたといわれる最明寺入道時頼や諏訪藩主などが延寿の湯として入浴したとあった。
この湯も、先述の綿の湯と同様、源泉が枯れ、旦過の湯とその他の混合泉で、名も 「 遊泉ハウス児湯 」 として営業している。
中山道は、その先の交差点で坂を下っていくが、交差点で右折して坂を登っていくと、右側に、来迎寺(らいこうじ)というお寺がある (右写真)
浄土宗知恩院派の寺で、天文十年(1541)、栄海上人の開山で、諏訪大社大祝金刺氏の
一族で諏訪右衛門尉の開基の古刹である。
境内はまさに紅葉の盛りだったが、ここには和泉式部にまつわる話が残っていた (右写真)
『 下諏訪の湯屋別当方にかねという幼い娘がいた。 畑にいくときには、道端の御地蔵様に自分の弁当の一部を供える心の優しい娘だったが、仲間のねたみから告げ口を受け、別当の妻は怒り、焼き火箸で額を打ちすえた。
いたみに耐えかねたかねは日頃信心する御地蔵様のところに走り、痛いので泣きながら仰ぎ見ると、御地蔵様の額から赤い血が流れていて、娘の痛みはなくなり、傷は消え、美しい顔になっていた。
かねやき地蔵は身代
わり地蔵といわれるようになり、近隣の参拝者が多く訪れた。 当地に訪れていた大江
雅致がこの話を聞き、娘を別当から養女として引き取り、詩歌などの教養を付けて育てた。
その後、娘は和泉守橘道真と結婚、和泉式部となり、平安を代表する女流歌人になった。 』 と、ある。
和泉式部に纏わる話は美濃路の御嵩宿にもあったが、この話はよくできていると思った。
銕焼地蔵尊を祀ったお堂があったが、秘仏ということで拝むことができなかった (右写真)
なお、毎年4月にご開帳供養があるという。
街道に戻り、狭い道を下っていくと、右側に古い家があり、少し下ると、左側に今井邦子文学館があった (右写真)
この建物は、宿場時代に茶屋だった 「 松屋 」 (邦子の実家)の建物を復元したものである。 向かいには、旦過(たんが)の湯があった。
鎌倉時代、慈雲寺を訪れる大勢の修行僧のために建てられた旦過寮の湯とのことで、湯口は五十八度もあり、切り傷によく効くということで、昔、合戦で傷ついた武士が入浴して治した、と伝えられる。
この坂を湯田坂というが、その先には鉄鉱泉旅館など、冷泉の湯もあり、この温泉の泉質
の多いことが頷けた。 右側に御作田神社、そして、下之原の一里塚跡の石碑を見ると、
竜の口にでる。 その先の右側に、諏訪大社下社春宮があった。 下社の祭神は、八坂刀売命(やさかとめのみこと)であるが、春宮には二月から七月まで鎮座するという。 建物は秋宮と同じ構成である。 神楽殿は秋宮のものより小ぶりで、しめ縄も狛犬もデザインが違っていた (右写真)
その奥に、門と拝殿を兼ねた幣拝殿、その左右に廊形式の片拝殿があり、これらは国の重要文化財である。
瑞垣内に東西宝殿があるが、茅葺き、切妻造平入の建物で、甲寅の七年ごとに新築する式年造替制度がとられている。
春宮は下社最初の鎮座地と考えら
れ、農耕開拓神の姿を留め、一月十五日の筒粥の神事が残り、作物の吉凶を占う行事が行われる。
幣拝殿は、大隅流の芝宮(当時は村田姓)長左衛門矩重が、立川流の秋宮と競って作ったもので、建物に施された彫刻が素晴らしかった (右写真)
左右片拝殿も幣拝殿と同じ、安永元年(1780)に造営されたものだが、秋宮に比べ、巾が短く屋根は片切りになっていた。
神社から左手に出ると砥川が流れ、中洲に浮島社がある。 また、石碑も建立されていた。
当日は橋のペンキを塗り直ししていたため、浮島には入れなかった。
道を回って対岸の道をたどる。 この先に岡本太郎が1974年に下諏訪町を訪れ、石仏を見て絶賛したという、万治の石仏があり、岡本太郎の筆である石碑が
入口にあった。 万治の石仏は畑の中にあった。
胴体の部分に刻まれている年号から、
万冶三年(1660)に建てられたとされたことから、名が付いた。
『 明暦三年(1657)、諏訪第三代藩主忠晴が、春宮に石の大鳥居を寄進するため、依頼した
石工がここにあった大きな岩を刻んだところ、岩から血が流れ出した。 恐れをなした石工
が仕事をやめたところ、夢枕に諏訪明神が立たれ、神のお告げで良材を見つけることが
でき鳥居を完成することができた。 』 と、いう伝説も残っているというが、はっきりしたこと
は分からないようである。
万治の石仏から諏訪神社に戻り、坂道を上に登っていく。
坂の途中に、 「 左、諏訪宿、 右、中山道 」 と刻まれた道標があった (右写真)
前述の白華山慈雲寺(じうんじ)は道の少し上にあり、臨済宗妙心寺派の名刹である。
正安弐年(1300)の創建で、鎌倉五山の建長寺や円覚寺の住職を勤めた、一寧一山国師
が寺の開基で、開祖は金刺満貞である。 この寺は信州における禅宗の代表的な寺院で、
鎌倉十刹に並ぶ寺格と言われた。
裏山には高島城を築いた豊臣秀吉の家臣・日根野織部正高吉の墓がある。
参道は美しい杉並木で、前庭には樹齢400年以上の「天桂の松」といわれる赤松があり、白砂の上に岩が配置してある石庭も背景の本堂とよくマッチしていた。
右写真は其処から見た下諏訪町であるが、旧中山道はこの先は残っていないので、国道142号をしばらくの間歩くことになる。
塩尻峠の道も急なところがあったが、和田峠の道は比べ物にならない山道である。
下諏訪から和田峠を越えて和田宿までは距離にして五里強(21km)であるが、江戸時代でも険しい山道であったが、車時代に入った現在では、歩く人もなくなったため、道が分からなくなったり、国道になってしまったりしているので、要注意と案内書にはあったので、不安である。
山の神、落合集落などに残る旧道を歩いて行く。
左側に見える山々には晩秋の深い色彩を見せる黄葉が見られた。
昨日に続いての歩きで多少疲労が残っているのが心配である。
途中に注連掛(しめかけ)広場があるはずなのだが、気が付かずに通り過ぎてしまった。
落合橋の向こうには新しい道が見える。 国道のバイパスのようだ。
落合橋の先の右側に、馬頭観音の石仏や石碑などが十くらい並べられている場所があった (右写真)
江戸時代、観音坂と呼ばれた坂で、荻倉集落の入口にあたる。
また、芭蕉の句碑もあった (右写真)
『 雪ちるや 穂屋のすすき 苅り殘し 』 芭蕉
同じ句碑は長野市寂照院西光寺(刈萱堂)、富士見町御射社神社、同町八幡社にもある。
ここにある句碑は明治二十六年に建立されたものだが、富士見町にあるものは天保年間
であるし、長野市のも江戸時代後期で、芭蕉没後五十年くらいのものだが、こちらのはそ
れらに比べ新しい。
中山道は右側に流れる川に沿って設けられていて、現在は水力発電所の導水管に沿って
付けられている道を登っていくことになる。
登っていくと、その上には御柱祭の御柱を引き落とす広場があった。
落とした場所には御幣をくくりつけた棒を立てた一本の柱が置かれていた (右写真)
御柱祭は六年毎に行われる行事であるが、木の選定から始まり御柱を立てるまでに四年間かけるとあった。
今年が御柱を立てる年で多くの観光客が訪れ、大いに賑わったようである。
小生はテレビのニュースをみただけであるが、かなり勇壮な祭りであると驚いた。
祭りのクライマックスである御柱を坂から一気に落とすシーンが行われる場所である。
上から見るとそれほどではないと思ったが、下に下りてみてみるとかなりの傾斜であったので、危険を覚悟とはいえ大変と思った。
車が通る坂道を下り、国道と合流する手前には、木落とし坂の標識があった。
更に、木落とし坂トンネルをくぐってきたバイパスとも合流した。
ここから国道の路側帯を歩く。 鈴ヶ口を左に入り、また、国道へ出て、深沢では少し残
った道を歩く。 荻倉一里塚の石碑があるはずだが、下を向いて歩いていたせいか、見
つ
からないうちに通りすぎたようである。 樋橋で旧道に入り、浪人塚へ向かう。 川の水
は冬の色になっていた (右写真)
国道の下をくぐって出たところから左に少し入ったところに浪人塚があった。
元治元年(1864)十一月、水戸藩浪士武田耕雲斎などの天狗党の一党千人余と幕府の命を受けた松本、諏訪の連合軍千人余が戦った際、浪士軍に十余人、連合軍に十人の死者を出した。
浪士たちはこの地に討死にした浪士を葬ったが、諏訪の高島藩は塚を造って祀ったというものである (右写真)
(注) 右写真は、平成17年6月に再訪問した時に撮影したものである。
近くに徳本上人名号碑や大きな馬頭観世音碑が建っていた。
街道に戻り、少し歩くと国道に合流してしまった。
しばらくの間、国道を歩く。
その先、旧道が残るようなので、その道に入って行くと、左側に少し高いところに一里塚の石碑が見えた。
これはどうやら西餅屋一里塚のようである。
日本橋から五十三番目の一里塚になるのだが、斜面に造られているので、原形が残っているのか、分からなかった (右写真)
一里塚を過ぎると、その先は藪のような道になっていた。
そちらから突然自転車が現れた。
マウンテンバイクに乗った四十歳過ぎの男性である。
若い人を想像していたので驚いた。
バイクで中山道を辿っているのか、峠越えの趣味
かは分からなかったが、危ない腰つきで下っていった (右写真)
道はあるといえばある、ないともいえる程度だったが、落葉の季節なのであまり問題に
せず通り抜けることができたが、六月〜七月ではブッシュや茂った木で歩きずらくなるよ
うな気がした。 西餅屋は、江戸時代には茶屋があったところであるが、今はなにも残っ
ていなかった。
ここで直進する広い道と左折する狭い道がある。 直進するのは西餅屋から男女倉に
抜ける有料道路である。 和田峠の下付近に新和田トンネルを造ったので、楽に峠を
こせるので、多くの車はそちらに向かって走っていった。 国道は左折し、和田峠の下
の和田トンネルまでくにゃくにや曲がりながら続いているが、旧中山道は直登のように
道が付いている (右写真)
途中国道を横断して登り、古峠沢橋の手前の細い道を約三キロほど登れば峠のようだ
が、昨日の疲れか、行く年のせいか、それとも冷えのせいか、左足がつってきた。
そのまま登って歩けなくても助けを求められないので、大事をとって国道を歩くことにした。
国道には車はまだらで時々来る程度であり、歩くのには支障はなかった。