やがて和田トンネルが見えてきた。
車が一台しか通れないので、信号があり交互通行である。
トンネルの上が現在の和田峠で、茅野から来るビーナスラインが通っている。
トンネルをくぐると下り坂になり、何軒かの家が見えてきた。
レストハウスなどのようである。
その一角の和田峠の標示があった。 どうやら、和田峠は越したようである。 やれやれ・・・ (右写真)
旧中山道の和田峠の方はは古峠といい、ここからビーナスラインを数回横切ったところにあるようである。
木曾名所図会に、「 和田峠にいたる。 ここを鳩の峰ともいう。
空快明なる時は富士山能く見ゆる。西坂嶮し。 東坂やすらかなり ・・・・・ 」 とあり、眺望がよいようだが、この和田峠の標識からは何も見えなかった。
下諏訪宿から和田宿までは五里余(約20km)であるが、この道は正徳三年(1614)ごろ完成したといわれる。
石畳が少し残る道を下ると、一軒のドライブインがあった。 ここが東餅屋といい、江戸時代、茶屋があったところである。
ドライブインの看板に力餅と黒耀石の標示が見えた (右写真)
車が一台あるだけで、広い駐車場ががらんとしていた。
下諏訪で弁当を買ってきたが、寒いのと小休憩がしたかったので、中に入っていった。
中には親父は一人いてこちらを見ていた。
椅子に腰掛け親父がいるカウンター上のビラ
を眺めた。
入口の看板にあった力餅が気になっていたので、それを頼むとコーヒーとセ
ットになって五百円という。
出てきたのを見ると、力餅二個と野沢菜そしてコーヒーである。
コーヒーを飲みながら力餅を食べる。
変な組み合わせだったが、餅がやわらかくって野沢
菜の塩で塩味が少し効いてうまかった (右写真)
地名の餅屋は力餅に由来するとあり、江戸時代には立場茶屋として東餅屋に五軒、西餅屋
に四軒あった、という。 救難という意味もあったようで、なにがしかの援助を幕府から受け
ていたようである。
店は十月一杯くらいで閉店にするが、今年は暖かいのと中山道が
ブームになって日に二百人もくることもあり、十一月に入っても営業を続けているといった。
東餅屋から石畳が残る道を下ようとしたが、台風でがけ崩れで通れなくなっていたので、国道を歩く。
左手に一軒の茅葺の家が見えてきた (右写真)
復元された永代人馬施行所(えいだいじんばせぎょうしょ)の建物である。
文政十一年(1828)、江戸の豪商・かせや与兵衛が中山道の旅人の難儀を救おうと金千両を幕府に献上した。
その金を貸付に回し得た利息を与兵衛が指定した碓氷峠の坂本宿と和田宿に下付した。
その金で運営されたのが、この施行所で、毎年十一月から翌年三月まで峠を越す旅人に粥と焚き火を振舞い、牛馬には年中桶1杯の煮麦を与えたとある。
今と違い、暖房がなかった時代に冬の信濃路を歩くのはそれなり事情があったのだろうが、至難のことであったと思う。
その時の一杯の粥はなにものにも代えがたいものだったに違いない。
歴史の道と標示されている道に入り、降りていく。
道は台風で荒れていて歩きずらかった。
下りるのなら足は大丈夫と思ったが、意外と痛む。
左側に案内板が立っているのが見え、近づくと金網の中に、三十三体観音があった。
三十三体観音は街道に埋まってしまっていたのを発掘したようであるが、数体見つからなかったと案内板に書かれていた (右写真)
そこを降りると、男女倉口で、右側から国道のバイパスである新和田トンネルをくぐってきた道と合流した。
なお、新和田トンネルを出たあたりを男女倉といい、男女倉沢では古代から黒耀石が取れ全国に運ばれたところである。
折角の機会なので、料金所の手前まで行ったが、そこには男女倉遺蹟を埋め戻した場所があった。
国道を歩き、唐沢で左の道に入ると、
道脇に道祖神の石碑が建っていた (右写真)
唐沢は茶屋本陣があったところである。 和田宿から和田峠を越える場合、大名達はここで休憩をとり、上る準備をしたのだろうか、それとも下諏訪から上ってきて、一服したの
か、どちらにしても良い地点である。
唐沢に入る手前の右に少し入ったところに唐沢の
一里塚跡があるのだが、急いでいて気が付かず、寄らなかった。
(追記) 平成十七年六月、再訪し、唐沢一里塚を訪れたので、以下に記す。
国道脇の和田川を眺めながらあるくと、右側にその案内が大きく見えた。
案内に従い上っていくと、緑の木立の中に左右二つの一里塚が見えた (右写真)
説明文によると、「 中山道の一部路線変更により山の中に取り残されたもので、天保弐年(1831)の絵図面ではすでに路線から外れていた 」 と、あった。
一里塚の一帯はぽっかり空いた空間と言う感じであるが、梅雨の合間の風景はみずみずしくてきれいだった。
よく見ると、小さな祠があり、周りに、石碑群がある。 山の神のようで、山之神とか、御嶽山座王大権現と刻まれた石碑である。
唐沢集落は少し行くとまた、国道に合流してしまうほど短かった。
国道に合流、更に下っていく。 足の方は、茶屋で休憩したお蔭で、なんとこか動いている。
道の左側には、扉峠口という標識があり、そこを行くと扉温泉にいけるが、冬期は閉鎖されるようである。
少し下ると、その先には、ドライブイン杉の屋など数軒の食堂が点在していた。
杉の屋の前が牛宿があったところといわれる(右写真)
牛宿とは、牛や馬を輸送に使う場合、牛や馬と一緒に泊まることが出来た施設である。
さらに2kmほど歩くと、大出で右下に道があるのでそれを歩くと、また、国道にでた。
交差点があり、その手前に一里塚の石碑が建っていた (右写真)
鍛冶足一里塚である。
交差点を左に入ると、鍛冶足集落。
鍛冶足集落は古そうな佇まいがする集落であった。
下諏訪から家をほとんど見なかったので、久しぶりに人家にあったような気がした。
また、足を騙し騙し歩いてきたが、何とか宿場まで来られてという安堵感を持った。
鍛冶足と和田宿とは家並みが繋がっている。 和田宿まではあと一歩である。
和田宿は標高825mの高いところにあり、京側の下諏訪宿からは峻険な和田峠を越えて五里十八町(22km)もあったので、問屋に支払う荷物一駄あたりの料金は五百二十二文と他の宿の4〜5倍もしていたのである。
鍛冶足から入って行くと、上町。 上町の木戸口に高札場があったと、道の左の案内板に書かれていた (右写真)
江戸後期の天保十三年(1843)に編纂された中山道宿村大概帳によると、
「 七町五十八間(約870m)の町並みに中町、下町および上町があり、家は126軒、宿内人口は522人、男272人、女250人だった。 」 とある。
(注) 和田村の作成した案内板には、宿場は鍛冶足、上町、仲町、下町、堀場、新田までを加えた1510mの区間として、家数も186戸としてある。
田畑もないところなので、宿内の126軒の家はなんらかの形で宿場稼業に係わったのだろう、と思った。
街道の両脇には屋号を書いた看板を掲げている家が続くが、これは過去の職業を示したものだという。
右側に白い袖壁が両脇に立つ酒屋があった。 インターネットで和田宿を紹介したり、通信販売をしている万屋(よろずや)である (右写真)
和田宿には、本陣が1、脇本陣が2、問屋場が2、旅籠が28軒あった。
和田は、戦国時代には大井信定が支配していた土地で、信濃を手中に納めようとする武田信玄と対峙していた。 しかし、天文二十三年(1554)に武田信玄の攻撃を受け、大井信定父子は、青原地籍で自害したのである。 大井信定の菩提を祈る為に建立されたといわれる信定寺は、街道から奥に入ったところにあった (右写真)
寺には、和田城主だった大井信貞の墓がある。 和田城跡はこの寺の裏山にあるようであるが、そのまま、街道に戻った。
和田宿は、慶長七年(1602)の中山道の開設と同時に始まったが、この信定寺に近い中町と下町が宿の中心で、そこに本陣、脇本陣や問屋場が置かれた。 なお、上町は少し遅く開けた町である。
その先に、立派な門と塀に囲まれた、倉や連子格子、出桁造りの建物などが並ぶ屋敷があった。 庄屋だった長井氏の家で、現在は本亭旅館として営業している (右写真)
文久元年(1861)の三月、大火事が発生し、和田宿の大半が焼失してしまった。 しかし、同年十一月に皇女和宮の御降嫁の話が決まっていて、その際の宿泊地に和田宿が指定されていたので、幕府は全力挙げて宿場を復旧することになった。 宿場は、幕府より九百万両を借り受け、問屋場や名主宅、旅籠等を建てたのである。
現在残っているこの家もこの時建てられたものである。
内部は改造されているが、上段の間、広い中廊下がある。
堂々とした造りに感服した。
街道から左に少し入ったところにあるのが、脇本陣の翠川家である (右写真)
御殿部分が残っているが、現在も居住に使われているので、見ることはできない。
街道に戻って少し行くと交差点があり、その先の左側にも立派な家があったが、由来は分からない。
広い駐車場スペースもあり、無人であるが、掃除が行き届いていたので、なんらかの公共施設になるのかも知れない。
その前に周囲を塀で囲んだ建物があった。 これは、江戸時代に本陣だった建物である。
本陣は、和田城主大井信定の娘婿である長井氏が宿創設以来、問屋、名主を兼ねて勤めていた。
この建物は文久の大火の後建てられたもので、本陣が廃止されてからは村役場や農協事務所として昭和五十九年までに利用されてきたが、復元保存するため、昭和六十一年(1986)から解体修理が行われ、昭和六十四年(1989)に完成した (右写真)
あるのは本陣の居室棟だけで、御殿部分は丸子町の竜顔寺へ、御門は同町の向陽院に売却されてそちらに今日も残っている、という。 本陣の中は拝観できた。
本陣の居室棟は本陣の持ち主が生活する場所であり、建坪は百三十五坪、軒高5.3m、
棟高8.8m、正面の間口は十二間である。
内部は十四室、土間の上部に二階部屋二室など。
屋根は石置きの板葺き屋根で手割の栗板を並べて石で押さえられている。 ( 9時〜16時、月曜休、大人300円、なお、歴史の道資料館かわちや・と黒曜石石器資料館も見られる )
その先には、古い家が多く、全て道より高く土を盛って建てられていた。
右側に大黒屋と記された戸のある大きな建物があったが、現在復元工事中と思われた (右写真)
その先の左側の少し高くなったところに「歴史の道資料館」がある。
これは、かわちや という、江戸時代には旅籠だった家で、この建物も文久元年に建築されたものである。
この宿の旅篭としては大きい方だったらしく、出桁造り、格子戸のついた宿場建物の代表的な遺構だった (右写真)
道の奥に、黒耀石石器資料館がある。
黒燿石は黒い堅い鉱物で、矢じりや石斧、石製の刃物などに使われてきたという。
太古の時代に和田は黒燿石の産地として知られて、全国に広く流通されたとあるが、石器時代にここで採れた石が全国各地に伝わったとは驚きである。
新和田トンネルが掘られた時、学術調査が行われ、男女倉(おめぐら)遺跡から
膨大な発掘品が見つかったという。 その一部が展示されているのである。
川に架かる橋のところに橋場という表示があった (右写真)
上町、中町、下町で始まった宿場も時代とともに狭くなり、正徳年間(1713年頃)には江戸側になるここ橋場や新田に宿場も広がり、こちら側にも旅籠や茶屋そして宿場役人の家などが並んでいったようである。
和田峠は昭和40年代までは上諏訪からの国鉄バスの利用も多く、人の行き来も話題になっていたが
モーターリィゼーションの進展でビーナスラインが開通すると流れがすっかり変わり、夏しか人が訪れない静かなところになってしまった。
和田宿は鉄道の開通とともに役目を終えたが、そのお陰で今でも多くの本卯建が上がった
商家や出桁造りの旅篭だった家など古い家が残っている。
役場前を通り、和田宿ステーション(特産物販売所)で小雨が降りだした外を眺めていると、温泉に行くという人がいたので、今回の下諏訪宿からの歩きはこれで終わり、便乗することにした。
少し離れたところにある和田宿温泉である。
露天風呂がないのは残念であるが、高台にあるので見晴らしも良く、入浴後は足の痛みもやわらいだような気がした (右写真)
温泉の詳細は、温泉めぐり・長野県/
和田宿温泉ふれあいの湯をご覧ください。
平成16年11月