芦田宿には200年以上続く金丸土屋旅館や本陣の建物が残っている。
長久保宿から芦田宿への途中にある笠取峠の松並木には樹齢150年から300年以上経た松が現在も110本残っている。
平成十七年(2005)七月一日、昨日は諏訪に泊まったので、早く出発ができる。 今日は長久保宿から岩村田宿まで行く予定である。 岩村田宿までは約20kmの距離である。
宿はずれの松尾神社から今日の旅は始まる。
笠取峠を越えて歩いていかなければならないのに雨の予報。
国道142号線の左側にある舗装された道が旧国道である (右写真)
旧中山道はつづら折れした旧国道を直登するように上っていくように作られていたとあるが、跡を辿るのは難しい。
ところどころにその痕跡があるが、それはわずかばかりである。 とはいえ、旧中山道に近いのは旧国道なので、この道を歩くことにした。
新国道は大型トラックを始め、多くの車が行き来していたが、こちらの道は良い道なのに車が少なくのんびり歩けたのはありがたい。
上っていくと、道端に二十二夜供養塔があった。 また、カーブしている道脇に、馬頭観世音石碑と石仏を見ることができた (右写真)
しかし、その他にはこれといったものはなかった。
途中に、長久保城祉に上る道案内があり、石仏めぐりとあったので、少し興味を引かれたが、先が長いのでそのまま進んだが・・・
少し鬱蒼とし道が狭くなったところでは、中山道の道を間違えたかと思ったが、「旧中山道は斜め斜面に道があった」と表示されていたので、一安心。
途中、新国道とは数回出逢うが、別れていく。
しかし、九十九折を登りきった所でいよいよ合流してしまったので、国道の歩道を歩く。 ここまで順調な歩きである。
しばらく歩くと、左側の道路壁面に笠取峠立場図のレプリカがあった (右写真)
立場とは立場茶屋のことで、将軍や大名が宿場以外で休憩をとるために設けられた施設である。
これは長久保宿の釜鳴屋に版木が残るもので、茶屋は峠の斜面に建てられていたことが分かる。
少し行くと、右側に学者村別荘地の管理事務所が見え、左側に中山道の道標と少し向こうに笠取峠の石碑があった (右写真)
笠取峠(標高900m)は、雁取峠とも呼ばれたが、当時の峠は現在の国道より数メートル南にあり、今より数メートル高かった、
と説明にあった。
もしかすると、笠取峠石碑が置かれていたこのあたりかと思ったが、推測の域を出ない。
管理事務所の近くに銀明水と金明水という立て札があったが、水は出ていなかった。
事務所には人影がなく、焚き火をしている老人一人しかいなかった。
しかも、食事処を営む峠の茶屋以外は立ち入り禁止となっていて長居できるところでは
ない。 峠を越えた右側には道路改良の記念碑があったが、かなりの苦労が
あったと
思うが、佐久から岡谷にあったいう間に抜けられることを思うと、かって山岳ラリーで
走った頃と隔世の感がする。
それはともかく、峠近くで愛くるしい道祖神を見つけたが、
なかなか愛らしい (右写真)
下りかけてすぐの左側の歩道の脇の小高いところに一里塚があった。
これは日本橋より四十四里目の笠取峠の一里塚だが、気を付けないと通り過ぎてしまい
そうなところにあった (右写真)
赤松が植えられているが、塚の形状は美濃路で見たものと違い、かなり削られたような
気がした。
また、一里塚の位置は道路からかなり高いので、現国道はかなり土を削って
つくられたのだろう。
どちらにしても国道により影響を受けたのは明らかである。
なお、笠取峠は、風が強く吹く為、旅人の笠が飛ばされるようなところから、名がついた
と言われる。 歩きながら見上げると、左側の山には松の木が多い。
このように
生えているのを見るのは久しぶりである。 以前はどこにでも生えていた松は松くい虫に
やられて姿を消してしまった。
十分ほど歩くと右側に松並木が見えてきた。
国道を右側に渡ると、松並木の下に笠取峠の松並木の石碑がある。
狭い道だが車が通れる道の状況から推察すると、旧国道で以前は松並木の下を車が走って
いたのではないだろうか? そんなことを思いながら、
松並木の下を歩いた (右写真)
「 松並木は小諸藩が幕府から下付された七百五十三本の松を領民とともに峠道約十五町
(約1.6km)にわたって植樹した。 その後も補植を行い、保護管理を続けたが、松喰い虫
にやられ、現在残っているのは百十本ほどである。 いずれも樹齢百五十年から三百年
以上経たもので、昭和四十九年に県の天然記念物に指定された。 」
と、ある。
立ち枯れたものや欠けている形跡はあるが、中山道でこれだけの松並木が残っている所
は他にない。 東海道にはここより規模は小さいが、大磯、舞阪、御油などに松並木がある。
保護のため平行してバイパスが作られた結果、枯れる心配は少なくなったことだろう。
この道は、途中から石畳の道に変り、六、七百メートル位歩くと、国道に出た。
国道の向こうに公園のようなものが見える。
道を横切り、入って行くと入口に道祖神の石碑が建っていた。 ここは、松並木公園である (右写真)
松並木が続いていて、その下の石畳の道は、遊歩道になっていて、周辺には芝生が植えられ、休憩所もあり、
ベンチやテーブルそしてトイレもあった。
中山道を歩くものにはありがたい設備である。 しばしの休憩を兼ねて見て回ると、
句碑やら、安藤広重の中山道六拾九次の「 長久保宿 」「 芦田宿 」などのリリーフがあった。
道の傍らに石標があったが、そこにあった説明には
「 小諸藩が文化三年(1806)に領地の境界に石標を設置した。 東側は小田井宿と追分宿
との間の追分原に「従是西小諸領」の石標を建立した。 西側は笠取峠に「従是東小諸領」
と刻まれた石標を建てた。
これはその石標を復刻したもの。 』 と、あった (右写真)
峠の茶屋にあったという金明水も復元していた。
松並木のある遊歩道を歩くと、道祖神を見つけた (右写真)
また、草むらの中には句碑があったが、作者などは読み取れなかった。
松並木が終わると、通りに出た。 左折すると国道254号で、長門町から丸子に抜ける
道だが、その道に入り、右折して北に五百メートルほど行ったところに津金寺がある。
大宝弐年(702)、行基により開創されたと伝えられる天台宗の寺院で、平安鎌倉時代には
望月の牧の牧官滋野氏、戦国時代は武田信玄、江戸では小諸藩の庇護を受けたと寺の縁
起
にある。 観音堂は元禄十五年(1702)、本堂・阿弥陀堂は元文三年(1738)に建てられた
もの
である。 また、鎌倉初期(1220年)に建てられた滋野氏一族の石造宝塔3基の他多く
の五輪塔、重層塔などが林立している。
時間があれば寄られるとよいだろう。
旧中山道は直進すると国道の横切る交差点にでる。
そこが芦田宿の入口である。
芦田宿は、慶長弐年(1597)に宿場になったとあるので、信濃路では古い部類に入る。
宿村大概帳によると、江戸後期の芦田宿は六町二十二間の長さに本陣一、脇本陣一、問屋場二があり、宿内人口三百二十六名、家数八十軒だった、とある。
なお、安藤広重は木曽街道六十九次の芦田宿浮世絵で、宿場から離れた笠取峠の松並木を描いている。 こちらからだと、少し下って、松並木を登っていく姿が印象に残ってのだろうか? (右写真)
昭和の合併で、当時の芦田村と三都和村、横鳥村が合併し、現在の立科町になった。
その結果、町域は南北に細長くのび,南縁には蓼科(たてしな)山,八子ヶ峰(やしがみね)
がそびえるというところで、白樺湖、女神湖や蓼科牧場などの観光地がある。 町の歴史に「町名は住民感情の融和のため、蓼科の名を冠し、当用漢字になかったことから立科した」とあるが、当時は芦田村が威勢が良かったが合併のために名を捨てたという風に理解したが間違いだろうか?!
そんな経緯があってか、今回の合併では、周りの町村のほとんどが合併したのにかかわらず、独自路線を貫いた。
それはともかく、国道を越え、町中に入ると、道が二股に分かれるところに、芦田宿入口の表示があった (右写真)
左側の道を取りあるいて行くと、左手に火の見櫓が見えてきた。
かってはよく見なれた風景だが、火の見櫓が残っているところは大変少ない (右写真)
少し下り坂になったところの右奥に大きな枝垂桜の木があって、正明寺という寺があったが、
これも朽ちそうな建物だった。
江戸時代に芦田宿には、旅籠は6軒しかなかった。 旅籠は6軒と少ないのはなぜか?
望月や八幡、塩名田がその後、宿場に加えられたことから宿場が増え、競争が激しくなった
ことは間違いないが、それに加え、公定価額の駄賃や人足の賃銭が高かったことが要因
ではないか?
幕府は、その理由に途中の悪路を挙げているが、駄賃(荷物1駄の賃金)
は、望月方面六十八文、長久保方面八十七文とその他の佐久の宿場の五割から倍も高かったのである。 宿場経営が厳しいので、宿場では飯盛り女を置くことなどを小諸藩の役人に陳情したが認められなかったようである。
そんなこともあってか、壬戎紀行には、「 蘆田の駅も又わびしき所也 」 という記述が残っている。 それはともかく、歩いていくと右側に出桁(だしげた)造り連子格子の白壁の古い家があった (右写真)
江戸時代の旅籠だったという、二百年以上の歴史を持つ金丸土屋旅館で、二階の軒下には 「 津ちや 」 と大書された歌舞伎字の庵看板がかかげられていた。
この旅館は中山道を歩く人が多く泊まる好評な旅館のようである。
その隣がこの地を治めた山浦庄屋跡である。
その対面に、酢屋茂の看板がある建物があったが、どういう由来の家なのか分からなかった。
古い家なのは間違いないとカメラを向けていたら、学校に向かう姉弟が少してれながら会釈したので、微笑ましくその姿を見送った (右写真)
その先の交差点左側の道脇に見える御屋敷は、本陣だった土屋家である。
立派な門から本陣だった建物の玄関前(本陣客殿だと思うが)までは入場できた。
「 土屋家は芦田宿が設置された時に開発に従事し、その後、本陣(問屋を兼ねる)を
明治の宿駅制の廃止まで勤めた家柄。 本陣客殿は寛政12年(1800)に再建されたもので、
間口五間奥行十一 間の切妻造り、桟瓦葺で 屋根の上にシャチホコを掲げている。 明治
維新まで大名や公家などの宿泊や休息に使われたが、今も当時の面影を良く残している。 」
と、説明板にあった。 屋敷の壮大さはここからは分からないが、入ることができたことで
その片鱗を味わうことができた (右写真)
その隣は下屋敷跡である。
その前の駐車場になっているところが山浦脇本陣跡である。
駐車場奥の家の前にそれを示す木柱が建っていた (右写真)
その先の左に行く道は、脇街道の上田へ通じる道である。
カーブを下ると、立科町役場に通じる道と交差する。 中山道は道なりに進む。
宿場の終わりは分からないが、道祖神の石碑が建つところあたりか?!
これで、芦田宿は終わり。
平成17年7月