望月宿に行く途中に、間(あい)宿だった茂田井(もたい)があり、豪壮な建物が今もなお多く残られている。
望月には古来朝廷に献上する馬を生産する官牧があった。 満月の日に献上することから望月の名になったという。
平成十七年七月一日。 今日は長久保宿から岩村田宿まで行く予定である。
芦田宿のはずれだと思った道祖神碑を眺めながら、坂を上りそして下った。
交叉点を直進すると、家並みがなくなった。 田園風景が展開する中をのんびり歩いた。
このあたりは丘陵地帯で、左の方角には国道142号を走る車が見下ろせた。
40分ほど歩くと石原坂(?)の途中に、間の宿茂田井入口の道標があり、中山道は左へ行くという表示があった (右写真)
茂田井は、江戸時代、望月宿と芦田宿の中間に設けられた間(あい)の宿である。
間の宿は宿場と宿場の中間に設けられたことからそう呼ばれたもので、木曽路や美濃路で
も見かけたが、休憩を取るためのものである。 しかし、茂田井の場合はそれと違い、望月
宿の臨時的な宿場として利用されたようであった。 指示された道に入った右側には、かな
り大きな古い建物があったので、関心を持ったが、塀が邪魔して中は見えなかった。
しだれ桜が大きかったので咲くときれいだろう。 その先の右側の民家の隣の藪を切り開い
たところに、一里塚跡の説明板があった (右写真)
茂田井の一里塚があったところであるが、説明板には一里塚の由来という一般的な説明の
みで、この一里塚に関する記述はなかった。
坂道を下っていくと、古い豪壮な構えの家がどんどん増えてきた (右写真)
望月宿は、寛保弐年の大洪水で、望月新町が道ごと流されたり、本町も大きな被害を受けた
ため、茂田井村を望月宿の加宿にしようと幕府に願い出たが、却下されたという経緯がある。
茂田井は、その後も宿場で収容できない場合は引き受けてきたという。
元治元年の水戸天狗党が中山道を通行した時、追ってきた小諸藩兵士四百人余の本陣と
なっていることや、文久元年(1861)、和宮が御降嫁の為、当地を通過した際は12軒が
御弁当宿となったとあるのも、このような壮大な屋敷群を見ると、なるほどと得心がいった。
右側に小川が流れ、大きな馬頭観世音碑が建っていた (右写真)
このように大きなものを誰が建てたのか?!
両脇に立ち並ぶ屋敷を眺めながら進むと、崩れかけた塀の一角に、小さな案内板を見つけた。
「 茂田井村の高札場がここにあった。 茂田井村は天文弐年(1737)から明治四年(1871)
まで大澤家が名主を務めた。」 と、 旧茂田井村高札場跡 と書かれた説明板にはあった。 塀に囲まれた屋敷は、説明板にある元名主の大澤家のようである (右写真)
塀沿いに正面に向かうと、門が開いていたのでなにげなく入った。
二階建ての建物が建ち、右側に杉玉が吊り下げられた事務所のような建物があ
る。
立ちすくんでいると、奥の方で見ていた老人が近づいてきた。
「 中山道を旅しておられるのですか? 」 と言われたので、 「 長久保から岩村田まで歩こうと思いここまできたら、名主宅とあったので、なにげなく入りました。 」 というと、 「 ここは三百年以上続く酒蔵です。元禄二年(1689)に創業した。 」 と反ってきた。
酒造りでは長野県で1、2番に古いという、300年以上続く名家だったのである。
それからしばし歓談した。
「 蔵から発見された古伊万里の一本に残る日本酒は、創業時の元禄二年のもので、昭和四十四年にNHKテレビ「スタジオ102」にて全国に紹介され、その後、発酵学の権威、坂口謹一郎先生(故人)により現存する日本最古の酒として評価されました。 」 と、いわれた。 この酒造は大吉野という銘柄の酒を出されているそうで、酒蔵(さかぐら)は元禄年間(1688〜1704)の建築とのことである (右写真の左側)
話を伺っていると、1台の車は入ってきたので、見学者と思い、「 失礼します。 」 というと、 「 三番目の息子で、製造部長を務めていて、杜氏だ。 」 という。
そこで、かねがね疑問に思っていたことを質問した。
「 中山道を歩いていると、本陣や脇本陣が造り酒屋というのが多いのは何故か? 」
すると、 「 江戸時代、名主(地主)が小作人から納められた米は勝手に処分できなかった
ので、酒に変えた。 」という返事。 米本位の時代であったので、幕府は貨幣の価値を守る
ため、米の自由販売を禁じていたのである。 その為、地主は米を酒に変えて処分し、金に
換えたとは知らなかった。
また、茂田井の歴史について、次のような話も伺った。
「 茂田井集落の家は大きいので、望月宿に客が一杯の時は泊めてやって欲しいという依
頼があった。 当時の農家は現金が手に入る手段が少なかったので、喜んで依頼を受
けた。 明治に入ると、大きな家を改造し、二階で養蚕を始めた。 製糸業のある岡谷が近
いので、それを奨励する人が回ってきたからである。 」
茂田井宿の歴史を明快に教えてくれ、大変おもしろかった。
ここには、大澤酒造民俗資料館としなの山林美術館が併設されていて、入場は無料である。
少し下り坂になったところに、ひときわ目立つ白壁の大きな屋敷があった。
ここにも、杉の葉を毬形にした酒林が下がっていたが、武重酒造である (右写真)
門の入口には杉玉にしめ縄。 新酒が出来たことを杉玉を造り掲げるのは江戸時代のやり方で、今でも中山道にはこうした酒屋が残るのはうれしい限りである。
ここの銘柄は御園竹といい、酒造りは慶応以降というが若山牧水が愛飲したと伝えられる蔵元である。 道の反対側の建物前に若山牧水の歌碑があった (右写真)
「 白珠の 歯にしみとほる 秋の夜の 酒は静かに 飲むべかりけり 」 のほか二首が刻まれていた。
歩きが続くので、買わなかったが、どんな酒か飲んでみたい気がした。
白い漆喰壁に千本格子といった洒落た造りの多い茂田井の集落は、鄙びた風情ながらもどこか垢抜けているなあ!! と、いう印象を持った。
明治以降の交通が集落から離れたため、今でも古い家が多く残っているのは偶然の産物とはいえ、この集落の建物はなんとか残して欲しいと思った。
(後記) 映画「たそがれ清兵衛」の第二オープンセットが作られ、武重本家酒造の裏
で撮影が行われた、という。 この雰囲気ならぴったりと思う。
茂田井集落を離れると、車道に合流する。 先程茂田井集落に入る時分かれた道である。
ここにも、茂田井宿入口の道標があり、茂田井宿の歴史が書かれていた。
天気予報のお告げ通り小雨が降りだした。 折りたたみ傘を広げて歩いた。
坂の上からは国道が下に見え望月の町が遠望できた (右写真)
坂を下り、鹿曲川を渡り、本牧小学校の前を通り、青木坂を下っていくと、交叉点があり、左に上ると国道142号線。
国道の下をくぐり道を下ると、御桐谷(おとや)の交叉点で、百メートルほど直進すると
下り坂になり、望月宿が見えてきた (右写真)
望月の歴史は古い。 律令制の頃より馬を飼っていて、平安時代にはに官牧になり、東国
三十二牧の筆頭で1年間信濃の貢馬八十頭中二十頭をこの牧から献上していたという程の
名馬の生産地であった。 宿の北側一帯は官牧であったようで、江戸時代には、御牧の原
と呼ばれていたと、ある。
木曾名所図会にも、 「 望月の牧は望月の駅の上の山をいう。 」
という記述があり、上述と一致する。 案内には、更に、「 むかしは例年勅ありて駒牽あり
天皇紫宸殿にましまし信濃の貢馬を叡覧し給ふとぞ。 」とあり、信濃国の馬は旧暦の八月
二十九日に献上することになっていたが、その後、改まって八月の満月の日、十五日(もちの
ひ)に朝廷へ名馬を納めることになったので、牧の名に望月の名がついた、とあった。
望月の馬が都では有名だったことは、紀貫之の歌
『 逢坂の 関の清水に 影見えて 今や牽くらん 望月の駒 』
でも窺える。 (注)大津宿の蝉丸神社境内にこの歌碑があった(大津宿の項参照)
道の右側に、大伴神社の石柱と寛延元年の銘がある御神燈があったので、石段を上って行くと、古い社殿があった (右写真)
木曾名所図会に、 「 大伴神社 ー 望月駅にあり、延喜式、佐久郡三座の内也、今御嶽社と称す。 此所生土神とす 」 とあるが、景行天皇四十年の鎮座と伝えられているので、
大変歴史のある神社である。 本殿は延宝五年(1677)建築の春日造りである。
境内には磨り減った道祖神や庚申碑などが並んでいた (右写真)
雨で濡れているので階段は避け、隣の道を下り、街道に戻った。
望月宿は、芦田宿まで一里八町、八幡宿まで六町と短く、宿場の長さも六町(700m強)
と短かった。
天保十四年に編わされた中山道宿村大概帳によると、宿内人口は三百六十人、家数八十二軒で、
本陣が一、脇本陣も一、問屋一、旅籠は二十九軒あった。
道の左側に、重要文化財の出桁造りの真山(さなやま)家の建物がある (左写真)
真山家は、望月宿の問屋と旅籠を兼ねていた。 大和屋の屋号が、京方はひらがなで、
江戸方は漢字で書かれている。 この建物は、望月最古である。
説明がないので、推測になるが、街道に面してある縁台のようなものは、膳所で見たものに
似ていたので、不要になると倒せるのではないか? また、板戸で閉められていたが、戸が
横にして入れられていたので、昼間は障子戸に入れ換える方式ではないだろうか?
その隣は脇本陣鷹野家跡で、京風の格子戸が面影を残している (右写真)
その先にあった旅館山城屋は江戸末期の創業の旅籠で山城屋幸左営門、インターネットでも予約ができる (素泊まりも可)
その対面の井出野屋旅館は、木造三階建だが、大正五年(1915)の建築である。
映画「 犬神家の一族 」で、金田一耕介が泊まったのはこの旅館である。
佐久平にはビジネスホテルもあるが、街道周辺に泊まれる旅館は少ないので、望月に泊まるのはよいのではないかと思った。
その他には数軒しか古い建物は残っていないが、しとしとと降る雨が静かなただづまいの町並みを演出していた (右写真)
左側に「脇御本陣」の木札を出している家が脇本陣鷹野家で、問屋もかねていた。
本陣は脇本陣の対面にあったのだが、現在は歴史民族資料館と個人病院になっている。
本陣を示す看板が病院前に掲げられていたが、隣の歴史民族資料館に入った (右写真)
中庭には、 「 釣瓶沢の水割り場石と木樋 」 と書いた説明板があり、蓼科山の五斗水水源から
引いた用水を布施村と五郎兵衛新田村とで分けあっていたが、その配分を巡って争いがあった
ことが記され、
配分に使用した石や樋が展示されていた。
この施設と共通券に記念館が
ある。
天来は聞いたこともない名なので、伺ったところ、比田井天来という地元出身の書道家
で、近代書道の開拓者であるとのことだった。 資料館の前には、道祖神碑と道祖神像が置
かれていた。 集落のどこかにあったものを移動してきて、展示しているのだろう (右写真)
施設の裏の山上に立派な建物があり、天来記念館は、そこにある、という。
4月まで望月町役場があったようであるが、まだ新しくかなりお金をかけた建物に思え、俗に
言う箱物行政の遺産といえよう。 このような立派な施設をどう使うかが、合併効果を左右する
ように思えた(現在は佐久市望月支所)
書道には興味がないので、登っていってまで見学することはやめた。
上田道に入り、鹿曲川を渡り突きあたったところを登ると城光院である。
天台宗の寺院で、望月城址の西方のふもとに望月城主によって開基されたもので、望月氏の
菩提寺だった寺である。 雨の降る中で緑が輝きを増し、江戸後期享保年間の建物という
本堂が光って見えた。
本堂裏に室町末期の永正年間の宝しょう印塔二基が残っている。
延宝八年庚申天と刻まれた憤怒(?)の顔をした仏像が刻まれた大きな庚申塔があり、その右に多くの石仏が林立していた (右写真)
望月宿の探訪は以上で終わる。
平成17年7月