『 中山道を歩く − 信濃路 (9) 八幡宿  』

八幡宿には貞観元年(859)に創建されたという八幡神社があり、宿場の名もそれに由来する。
望月との間は三十二町(約3.5km)約一時間の行程であるが、途中に瓜生坂と金山坂があり、一里塚が残されていた。


望月宿から八幡宿へ

弁財窟 平成十七年(2005)七月一日。 今日は長久保宿から岩村田宿まで行く予定である。 
望月宿までは順調だったが、望月宿に入ると降り始め、ついに雨が本降りになってきた。  バスターミナルで雨具を付けた。 登山用に買ったものだが、軽い上むれないので重宝して使っている。  中山道への入り方が分からず、突き当たりの丁字路を左折し橋の前まで行ったが、本にある鉤形の道ではないのでおかしいと思い引き返した (右写真)
バスターミナルの先のポストがある古い大きな家(丁字路の手前の四つ角)の前に道標があった。 よく見ると、同じ側面に←と↓があり、ここで左折しなければならないことが分
弁財窟 かった。  左折しまた左折する。 まさに鈎型である。 道を下り鹿曲川にかかる橋を渡った。  橋を渡ると、右側の正面に弁財窟がある。 先程引き返した橋の正面に見えていた場所である。  教育委員会の説明では、 「 室町時代末期の永正年間に近江の竹生島の弁財天を勧請したと伝えられ、洞窟の上の蟠龍窟の文字は望月宿本陣の大森曲川の書である。 」 とあった。  崖を削ったところを歩いていき、中を覗いたが暗くて何が祀られているのか、分からなかった (右写真)
石段の上のお堂がどういうものか、登って行かなかったので分からない。 
去来句碑 石段脇には古そうな石碑が建ち、西宮神社の小さな社やお稲荷さんが祭られているなど、地元には縁深いところなのだろう。
丸形の句碑には 『 馬曳や  木曽や出るらん  三日の月  』 の句があるが去来のものである。 
前述の教育委員会の説明に「句碑は芭蕉は間違いで去来が正しい。」とあった。 (右写真) 
いよいよ中山道を歩き始める。  坂を上りトンネル手前で左の道に入る。
県道はトンネルをくぐりぬけてその先で国道と合流しているが、旧中山道はトンネルの上を越えていく道である。 
百万遍石碑 左側に、長坂分岐点の道標が建てられている。  この道を登ると、道の両側に長坂の石仏群がある。 かなりきつい坂で、目に雨が入る。
道なりにあるいて行く。 これが瓜生坂。  道は車の走れる道であるが、ところどころに旧街道の未舗装の小道が残っているので、
直登しながら上った。 坂の上に「中山道瓜生坂」の石柱があり、その横に元文元年(1736)建立の奉供養念佛百万遍念仏塔と 享保二年(1717)建立の石仏が祭られていた (右写真)
安藤広重の木曽街道六拾九次の望月宿の絵は宿場風景ではなく、長久保同様、松並木が画かれている。  瓜生峠の上りを描いたものといわれるが、そんな痕跡はなかった。
一里塚 木が繁茂して道を覆っているところを抜けようとしたところに望月(瓜生坂)一里塚があった。  両側に小丘があるが表示がなければ見落としてしまうところである (右写真)
右側(南側)の塚はほぼ原形を留めているが、左側(北側)は道路にとられて半分のみである。  ここからの金山坂は下りである。  左右にカーブし下り行くと人家が見えてきた。
二又で右に道をとると、国道142号線に出た。  中山道を正確に行くのなら、国道を越えて二十メートルほど直進し、右に馬頭観音があるところで左折し、あぜ道を歩き、橋を渡って大きな道に出たら左折し、進むと国道に出る道であるが、雨が強いので無理はせず、国道を
百沢集落 そのまま歩くことにした。
少し歩き、信号のある交叉点を左折し、二十三夜塔がある公民館の手前を右折する。 
ここは百沢の集落であるが、古い街道の面影が残る家並みである (右写真)
しかし、この道は長くは続かず、畑の中の道になり、国道に合流してしまった。
2kmほど歩いたか?! 八幡の宿の入口に到着した。
望月から八幡までは三.五キロ程の距離であるが、一時間程かかった。

八幡(やわた)宿

八幡西 八幡西の信号交差点で国道と別れ、左の道に入る。 軽井沢、小諸に行く県道438号線である。 そして、すぐに左の細い道に 入る (右写真) 
入った右側に「中山道八幡宿」の道標があり、ここが八幡宿の京方(西)入口である。 
入ると左側に大きな馬頭観世音の石碑と小さな石碑二基が御幣を飾って祀られていた。 
この道は短く、三百メートル、八幡入口バス停のところで県道と合流する。  県道は、歩道がないのに車の通行量がとても多く、あまり歩きたくない道である。  このあたりは、ほとんどの家が新しいが、一部だけ古い家があった。 少し歩くと、八幡中町の交叉点である。 
八幡中町の交叉点 八幡宿は、慶長七年(1602)中山道が開設された時、塩名田宿と望月宿との間が悪路だったことから、近隣の村を統合し、 住居を移動させて作られたという宿場である。  七町二十五間(約820m)の長さの宿場だったが、家数が百四十三軒、人口が七百十九人と他に比べて多く、本陣が一、 脇本陣は四、問屋が二と多い。  しかし、地元行政の中山道に関する関心が薄いのか、どこにでもある史跡に関する説明板がない。  中町交叉点の先には、漆喰の家があり、左側には卯達をあげた家があった (右写真) 
その先の右側の屋敷門がある家は脇本陣跡である。 代々、依田家が勤め、問屋を兼ねていた。 門構えのみが残っている。 
本陣の門構え その対面にあるのは本陣跡で、それを示す石柱が建っている。 代々小松家が務めていたといい、建物は残っていないが、敷地はかなり広いものである。 建坪ウ百二十坪、門構え玄関付。  本陣門は文化元年(1804)の建築で、皇女和宮が御降嫁の際、十六日目に宿泊され、下賜された品や貴重な資料が残っている という (右写真) 
右側の養蚕用小屋根のある家が問屋場の跡で、代々依田家が勤め、名主を兼ねていた。 
また、中町交差点右側に高札場があったようだが、表示はなく確認できなかった。 
道を進むと、右にカーブする途中の左側に神社があった。  この宿の名になった八幡神社である。
八幡神社随身門 正面の鳥居をくぐると、天保十四年(1843)に建立されたという随身門があった。 
随身門は三間一戸の楼門(楼造りの門で、二階建ての門のこと)で、門の両側に武官神像の随身を置くものだが、 なかなか堂々とした建物だった (右写真)
境内には道祖神碑が数基、そして、双体道祖神が立っていた。  奥に進むと、右側に本殿があり、それより奥に、小さな建物が見えた。   八幡社由緒には、
『 貞観元年(859)、御牧の管理をしていた滋野貞秀による創建といわれ、 吾妻鏡に、 「 佐久八幡宮御前二十騎 」 という記述があるのを見ても、武将の崇敬の厚かったことが分かる。 延徳三年(1491)の滋賀光重の棟札に、 「 建立始望月御牧中悉致本意云々 」 
八幡社本殿 とあり、御牧七郷の総社であり、住民の総意で建立されたことが窺える。  天正五年の修理、元禄十一年の葺替を経て、天明三年(1783)には本殿の建替えが行われた。  御祭神は応神天皇、神功皇后、玉依姫命である。 』 と、あり、現在の建物は、今から二百二十年前に建てられたものである。 彫刻もしっかり施されていて、なかなか立派な本殿と思いながら、旅の無事を祈った (右写真)
本殿の左側のところにそれに比べると小さな社があったが、この建物が、建替える前の本殿だった。 現在は、高良(こうら)社の社殿になっている。  建物はその後天保、嘉永、明
高良社本殿 治、昭和と四度にわたって営繕され、庇門手狭、木鼻の絵模様など室町時代の特徴が現れていることから、国宝(後に重要文化財)の指定を受けている (右写真)
高良社の御祭神は武内宿弥(神名高良玉垂命)である。  高良社あるいは高良神社は全国各地にあるが、その起源について研究者間に論争があるようである。  福岡県久留米市にある高良大社は、続日本後紀の承和七年(840)に高良玉垂神として記載される筑後国一の宮であり、延喜式神名帳にも高良玉垂命神社として登場するが、その起源については、高良(こうら)とは高麗(こうらい、こま)から転じたもので、帰化人の信仰神だとする説があり、進化の過程で武内宿弥を祭神にしたとする。 その一方では、地元の地主神が
進化したもので、川原神社が起源で、その後、全国に普及した八幡神社と結びついたと考え
る説もある。 この説では、川原の地主神である川原社が転じて高良社になり、そのうちの
一部が八幡宮の侍神の武内宿弥に組み入れられたと考えるのである。 
双体道祖神 即ち、高良社は元は河原(川原)社であり、高良社は川原杜の佳字化と見るべきである、と
いうのである。 その例として、京都の八幡市の男山の西麓に鎮座する高良神社を挙げ、 
高良神社は石清水八幡宮の摂社であるが、石清水八幡宮が日本国の安泰を祈願したのに
対し、高良神社は八幡の町を守護する神様として祀られているとあり、八幡の産土神である
ことがその証拠と、主張する。 この境内にある八幡神社と高良社との関係であるが、
「 高良玉垂命を祭神とする高良社は、本来は高麗社で、このあたりに定着して牧畜の先駆
けをした渡来人の社と推定される。 」 という説は妥当なものではないだろうか? 
(注) 右写真は、随身門近くにあった双体道祖神である。
そうすれば、地元の鎮守だった高良社と宇佐八幡宮から勧請した八幡様が、並存でき、八幡
神社が新築されたとき、旧本殿を棄てるのは惜しいと、高良社の本殿として、移しかえたこと
も、すんなり説明がつく。 
街道に戻る。 神社前に中山道八幡宿の標柱が立っているので、八幡宿はここで終わりである。
雨は、更に、勢いを増してきた。 

平成17年7月


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かうんたぁ。