塩名田(しおなた)宿は、慶長七年、近隣の村から集められて出来た宿場である。
荒れ川であった千曲川の川岸に、川留めに備えて設けられたので本陣が二軒あったとある。
平成十七年七月一日。 今日は長久保宿から岩村田宿まで行く予定である。
八幡宿の見学も終えたが、望月宿から降り始めた雨は続いている (右写真)
八幡宿から塩名田宿までは二十七町(約3km)、四十分ほどの距離であるが、県道は車の往来が激しく、歩くのには安全な道とはいえないが、そのまま、塩名田宿に向って歩き始めた。
八幡神社を出発し、橋を渡ったら道は左にカーブし緩い登り坂になる。 右手の駐車場の中に、馬頭観音と生井大神がある。 道に背を向けているのは道が付け替えられたためである。
このあたり一帯は望月の宿で出てきた布施との間で水争いをした五郎兵衛
新田である。
市川五郎兵衛は上州(群馬県)の武士階級出身で、今から三百七十年前、20キロ先の水源から水を引き、荒野を豊かな田に変えた人物である。
道を進み続けると、佐久川自動車学校の前の道の左側に御馬寄一里塚跡の石柱が建っていた。
道が二又に分かれ、左の道が旧中山道なのだが、すぐに県道に合流してしまった。
ここは御馬寄(みうまよせ)というところである (右写真)
牧畜が盛んな頃に、この地に馬を集めたことから名付けられた地名といい、江戸時代には千曲川西岸一帯の米の集散地として賑わったというが、その面影はない。
坂を下っていくと、千曲川に出た。 橋の手前の右側に数軒の古い家があり、その前に細い道が川まで残っているが、短い区間だが旧中山道である。
(右写真は旧中山道から千曲川に出たところ)
千曲川を渡るためには中津川橋がかかっているが、江戸時代には徒歩渡し、舟渡しと橋渡しの三様で渡ったという。
壬戌紀行に 「 筑摩川ながる、 河原ひろし、 大橋小橋をわたりゆく 」 とあり、船渡しの時もあったが、橋をいくつが架けて渡していたようである。
現在の川の水量は少なく、河原に草が茂げる風景を醸しだしているが、江戸時代は橋を架
けても三、四年で流れてしまうような荒れ川だったといい、そのため、地元の負担は大変だった。
塩名田宿と御馬寄村を始め近隣の百三十もの村が千曲川橋組合を結成し、橋の維持に務めてきたが、その負担たるや並大抵のものではなかった、 とある。
明治に入り、組合が続けられなくなり、つくられたのが船橋会社で、明治六年(1873)に九隻の舟の上に板を敷き、船橋を架けたのである。
舟をつないだ石は川原に下りていけば見ることができるが、中津川橋をわたるとき川を見ると、左側の岩に傷状のものがあり、
上からも見ることができた (右写真)
橋を渡り終え、下に降りて行く。
何軒かの川魚料理店があったが、季節営業なのかどこも営業している様子はなかった。
旧中山道は少し下流の穴のあいた大きな石・舟つなぎ石のところから始まる。
江戸時代の渡し場(舟橋)は、現在の橋より少し上流にあったことになるが、旧中山道は川魚料理竹廼家の前を通り細い道を上る (右写真)
両側に十数戸の家があり、橋とその道の間にあるのが、道中記などで紹介されている滝不動の跡である。 道を上り、県道にでると塩名田宿である。
郵便局の前に、うだつに軒看板という造りの大和屋があった。
建物は新しそうで少ししゃれていたので、レストランかと思ったが、酒屋と書いてあった (右写真)
隣のえび屋豆腐店の建物は江戸末期の建築である。 この辺りの町屋は町並に対し斜交して建てられている。
塩名田宿の長さは四町二十八間(500mほど)、人口は五百七十四人、家数は百十六軒だったが、千曲川が増水すると川留めが行われ滞在が延びるので、本陣が二軒設けられたようである。
中宿、下宿、河原宿の三つに分かれていたが、脇本陣は一、問屋一、そして旅籠は七軒という構成だった。
次の八幡宿との距離は中山道最短でもあり、普段は宿泊客が少ないが、川留めになると賑わったという宿場である。
宿場のほぼ中央、交差点の手前左側、生垣に囲まれた妻入り切妻造りの家は本陣・問屋を勤めた丸山新左衛門家で、宝暦六年(1756)の建築である (右写真)
丸山家には、慶長七年(1602)六月二日付で、大久保長安、伊奈忠次らが、 「 塩灘太宿 (塩名田宿 )」 へ宛てた
「 伝馬の定書 」 といわれる古文書や天明三年(1783)七月八日に起きた浅間山の大噴火の様子が描かれた絵図が
残されているという。 隣は高札場跡である。
交差点の先にの右側、スーパー大井屋には「本陣丸山善兵衛」の木札がある。 延宝年間(1673-81)から本陣を勤め、建坪百七十
坪でした。 向かいの旧屋号丸山煙草屋の前に「中津村道路元標」がある。
ここも旧浅科村なので、宿場の案内は皆無なのであるが、宿並の家屋に往時の屋号札が掲げられている。
歩いて行くと右側に佐久鯉と書き、鯉の絵の看板のある店があった (右写真)
佐久鯉とは観賞用の鯉と思っていてそうした鯉を販売するところと思っていたが、
鯉のあらいとあり、持ち帰り用に裁いてくれるようすである。
土地では鯉料理を気軽に食べているということか ・・・・・
雨は止んだが、通りには車がはげしく走り、古い建物は殆どなく見るべきものは残っていなかった。
しばらく歩くと、五差路にでた。
宿場の江戸側入口にある枡形があったところであるが、道路工事で壊されて今の形になってしまった (右写真)
それの名残か、道の一角に道標と道祖神が建っていた。
県道は真っ直ぐ行くが、中山道は右に見える最初の道へ入っていく。
塩名田宿はここで終わりになった。
降り続いていた雨は止んでいた。
平成17年7月