『 中山道を歩く −信濃路(11) 岩村田宿  』

塩名田宿から岩村田宿へ行く途中に、駒形神社がある。 当然のことながら、馬の神様である。
岩村田宿は本陣や脇本陣がなく、旅籠は8軒という少なさだったのは城下町だったことが影響したようである。
とはいえ、岩村田はこの地の交通の要路にあったので、この地の物資が集まり、商業で栄えていた。
鼻顔(はなづら)稲荷は五大稲荷の一つである。


塩名田宿から岩村田宿へ

駒形神社入口 平成十七年七月一日。 今日は長久保宿から岩村田宿まで行く予定である。  塩名田宿の五差路を斜め右の道に入り旧道をたどる。  さっきまで止んでいた雨が又降り出した。 梅雨の最中なので止むをえない。 レインコートを着て折りたたみの傘を広げて歩く。 
坂を上っていくと、左手に森が見えてきた。 道の脇の木柱には駒形神社とあり、重要文化財と刻まれた石柱が建っていたので、中に入っていった (右写真)
「 木曾路名所図会 」 には、「 ここの民何某といふ者、駒の形ある石を夢に見し事ひと夜
ふた夜に及ぶ。 その頃、大石畑といふ地より駒の形つきたる石を地より掘り出だしたり。 
駒形神社 人々これに感じて年々花見月の中の七日をもって祭る。 」 と、記載され、今は社(やし
ろ)を建てて、駒形明神として崇め祭っていると紹介されている。 
濁川用水を渡り、じめじめした階段を上ると、左奥に駒形神社があった (右写真)
傍の説明板には
「 創建は定かではないが、信濃の牧の地であり、騎乗の男女二神像が祭神として安置され
ているので、牧に関連した神社と思われる。 文明十八年(1486)の建築と伝えられ、一間
社流れ造り栃葺きで、重要文化財に指定されている。 」 とあった。 鞘堂に覆われている
ので本殿は外からは見えないが、痛みが激しかったので、昭和四十四年(1969)、国費で
石碑群 大修理が行われたという。 
街道に戻り、坂を下ると下塚原集落で、大字も塚原である。 
集落を出ると、右手の畑の中に、点々と小山、塚のようなものが散在する。 
大田南畝が享和弐年(1802)、大阪からの帰路ここを通過した印象を 「 すべて田の中。 ところどころに塚のごときものあり、ここを平塚原村といふ。 立場なり。 」 と、記しているが今も変りはない。  畑の中の十字路に、石塔と庚申塔などが建っていた  (右写真)
のんびりした畑の中の田舎道であるが、この狭い道に時々車が入ってくるので、あわてて
浅間山 道をゆずった。 
左側の畑の向こうに浅間山がかすんで見えた (右写真)
その先の集落には蔵を持つ家や漆喰の家など古い家が残っていた。 
道の左側に堀割が続き、街道らしい雰囲気がする。 
雨交じりが風景をレトロにしているのかも知れない。 
佐久市塚原根々井塚原と住所表示のあるところに、神社があった。 諏訪神社である。
シーソーが置かれているところを見ると、地域の公園になっているのだろう。
双体道祖神 雨にぬれた遊具が子供達の歓声を聞きたいと願っている風情に見えた。 
神社の前で二基の双体道祖神を見つけた (右写真)
雨が強まり、写真を撮るのに苦労する。
古い墓地の前を通り過ぎ,左側に旧中佐都郵便局の建物があった。 今話題の特定郵便
局だったのだろうが、大正〜昭和初期頃の屋敷である。
平塚集落 平塚集落には、新しい家が多いが古い家もあった (右写真)
平塚という地名であるが、塚の地名が多いのはこの地が古いことを示している。 
塚は豪族の墓であることが多く、先程の駒形神社とも関係するが、牧を守る人々が古い時代
から住み着いていた証拠であろう。 その塚の一つに荏山稲荷があった。 
社(やしろ)の前に芭蕉の句碑が建っていた。 
相生の松 この辺りに平塚一里塚があったはずだがその場所は分らなかった。
そのまま歩くと、砂田橋に出た。 橋を渡ると、左手にジャスコや佐久平の駅周辺の建物が見えてきた。  浅間病院西交差点で国道141号線を横断し、直進する。 ここからは車の通行量が一気に増えてきた。  道は左にカーブするが、その右側に、江戸時代に発行された旅行案内にはかならず載っていたというほど有名な相生の松があった (右写真)
皇女和宮が江戸に降嫁された折、野点をしたと伝えられるところである。  どんなに素晴らしいかと期待していたのであるが、小さく貧弱なものだった。 何度も枯れたようで何代目
御嶽神社 かというものである。   傍らに、文化年中(1804〜18)に建てられた石碑があり、
「 其むかし 業平あそんの尋ねけん おとこ女の松の千とせを 」 という歌が彫られていた。
岩村田高校の前を通過すると、右側に石仏群があり、石柱には 「 ○(不明)木分社御嶽
神社 」 と刻まれていた。  社(やしろ)は極めて小さなもので石柱の大きさとアンバランス
なので、元は大きなものだったのかも知れない (右写真)
右側にこんもりとした森が見えるので行って見る。
若宮八幡社 若宮八幡社で、本殿の左側の囲いの石柱を見ると、 「 三峰山講、天保十五年甲辰 」 とあり、江戸時代からこの集落の鎮守であったようだ (右写真)
本殿隣に鳥居があり、その奥には、御嶽山座主大権現と刻まれた石碑を中心に、左右に覚元霊神、磨利支天、八溝山神などの石碑が祀られていた。 又、鳥居の脇にはこれだけ大きな庚申塔があった。  その他にも、馬頭観世音碑や裏には小さな石祠などが林立している。  元の道に戻ると、小海線の踏み切りがあり、その右側に若宮八幡大神と書かれた石柱が建てられていた。  踏み切りを渡ると、大通りに出るが、それを越えると右にセブンイレブンがあり、相生町交叉点にでた。 ここからが岩村田宿である。 
駒形神社から一時間半程の行程であったか?! 
長久保宿から岩村田宿までの雨の強行軍であったため、靴に水が入り、靴下が濡れて気持
悪いが、なにはともあれ今回の旅はここで終わった。

岩村田(いわむらだ) 宿

佐久平付近 平成十八年(2006)五月三十一日、 約一年ぶりで岩村田宿に来た。 前回終えた相生町からのスタートである。  今回は岩村田宿から軽井沢に出て、碓氷峠を越えて横川までの旅である。  午前一時に家を出て、高速は使わずにきた。 名古屋から国道19号で木曽路を抜け、岡谷からは和田峠のトンネルを抜けてきた。  朝が早いので吉野家で朝特定食を食べ、しばらく休憩。 今日は岩村田の駐車場に車を置き、追分宿まで歩いた後、取りに戻るつもりである (右写真) 
平安時代〜鎌倉時代は、信濃のほとんどが天皇家一族や寺社領であり、岩村田は、八条
院高倉の所領の一つの大井庄の中心地であった。 その後、信濃国守護・小笠原長清の
相生町交叉点付近 息子、朝光が大井庄に入り、大井氏と名を変え、この地を支配した。 戦国時代は、更埴を本拠にして村上氏、そして武田氏の支配下に入る。  江戸時代になると、当初は小諸藩の領地だったが、その後、幕府直轄地となり、元禄十六年(1703)、内藤正友が武州赤松より転封になるが、大坂常番に転じた。 子の正敬が正徳元年に一万五千石で岩村田に再び入封し、陣屋を本町と荒宿の中間に置いた。 岩村田藩の誕生である。
相生町交叉点付近が宿場の中心だった (右写真)
佐久平駅近くの駐車場に置き、相生町交叉点に出た。 今日はここから出発である。 
この交差点を右折すると佐久甲州街道で、南下していくと韮崎で甲州街道(国道20号)に
合流する。 中山道は左折である。 といっても、中山道を歩く前に寄り道をした。 上ノ城
上ノ城址 祉である。  岩村田藩七代目の内藤正縄は水野忠邦の弟で、六代藩主の正国の養子になり、大番頭や伏見奉行を歴任して城主格となった。 それまでの陣屋を廃して、この地に築城を計画、元治元年(1864)、八代正誠の時に、築城許可が下り、文久元年に上ノ城の築城を始めたが、明治を迎え未完に終わったというものである。  相生町交叉点を直進したら、その先で右折し、少し歩いた後左折し、坂道を登りきったところが上ノ城址である。 左側の鳥居の先に小さな社があり、岩村田城址の石碑が建っていた (右写真) 
そこからは岩村田全体が見下ろせ、正面には浅間山の姿が見えた。
岩村田でもう一つ関心があったのが光苔である。 城址の対面には小学校があり、丁度出
相生町商店街 勤した先生に光苔自生地を聞く。 細い坂道を下り、一.五キロ先の河川敷の崖の下の洞窟の中にあると云われた。 往復すると三キロになるので、この後の行程を考えて断念した。
街道に戻るため、坂を下り、相生町交叉点に戻る。 相生町や本町はアーケードのある商店街になっていて、多くの店が軒を並べ、古い家はなかったが、左の小道には古そうな家があった (右写真)
岩村田宿は、相生町交叉点から住吉神社までの九町三十間(約1000m)という短い宿場町である。 人口は1627人と多かったが、本陣も脇本陣もなく、問屋が二軒のみだった。 
西念寺 旅人は城下町の堅苦しさを嫌ったのか、旅籠も八軒のみという少なさだった。 
人口が多いのはこの地方の米の集合地であり、経済の中心地になっていたので、商業の町として栄えていたからである。  相生町交叉点から歩き始めたが、まだ早いので、当然のことながら、店はしまっていた。 夕方再度訪れたが、駐車場がないので、道脇に車を停めて手短に用事を済ます風景を見た。 車時代以前の商店街の風景である。 
岩村田本町交叉点の次を左に少し入ったところに西念寺がある (右写真) 
門前の道路の反対側には六代藩主・内藤正国の墓があった。
仙石秀久の墓所 西念寺は浄土宗別格本山で、弘治元年(1555)に武田信玄が開基した寺である。 
阿弥陀如来坐像は、藤原期(十二世紀末)のもので定朝様式の寄木造りの四尺三寸
(130cm)の堂々としたもので、県宝に指定されている。 
本堂脇に賎ガ岳七本槍で知られた仙石権兵衛秀久と弟五郎の墓がある (右写真) 
仙石秀久は小田原征伐で武功をあげ、関ヶ原では秀忠に仕え、小諸藩の藩主となり、 慶長
十九年に没している。 文政八年(1825)藩主の内藤豊後守正縄が、大阪城勤番を終えて、
徳本上人の念仏碑 帰国の際、淀川産の鯉を持ち帰り、藩財政の立ち直りに協力した野沢村の豪農・並木七左
衛門に土産として与えた。 並木氏はその鯉を育てたところ、千曲川の水が合ったのかすく
すく育ち、佐久鯉の養殖の基礎となった。 佐久の鯉は淀川産とは驚いた。
境内には、左に藤棚、右側には菖蒲などが植えられていた。 
また、徳本上人の念仏碑もあった (右写真) 
街道に戻り、岩村田交叉点を越え、少し歩いた右側に、 「 武田信玄公御墓所龍雲寺 」
の大きな石柱があったので入っていく。
竜雲寺山門 正面に山門があるが戸は閉まったまま。 惣門には武田菱の紋があり、大田南畝が書いた
壬戌紀行に、 「 右に一禅寺あり。 門に東山禅窟といふ額をかかぐ。 」  とある額が掲げ
ら れていた。 山門に掲げた額は、元亀三年に武田信玄が当寺に於いて、千人法幢を奉行
されたときの正親町天皇の勅額である (右写真) 
龍雲寺は大田山龍雲寺といい、曹洞宗の寺院であるが、鎌倉時代初めの正和元年(1312)、
地頭の大井美作入道玄慶による創建で大井氏の菩提寺(天台宗)だったが、戦火で荒廃し
竜雲寺 現在地に移った。 武田信玄が永禄三年(1560)に中興開基となり、北高全祝禅師を迎えて
興隆をはかったという寺である (右写真) 
なお、開山の北高全祝禅師は越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄の禅の師として、民百姓
の迷惑を思われ、両雄に川中島で戦うよう図られたり、謙信公に塩を甲斐に送らせるよう
指導した、と伝えられる人物である。
本堂と右側の建物を繋ぐ回廊に、 「 信玄公霊場 」 の木標が掲げられていたので、その下を
供養塔 くぐると木立の中にでた。 昼でも薄暗い場所で、右側に大井公が茶道に使ったという井戸がある。  更に進むと左側に供養塔があった (右写真) 
信玄の遺骨の一部をここに埋めたと伝えられており、発掘したところ言葉通り出てきたといい、信玄の遺骨はその先の石橋を渡った霊廟に納められている。 
武田信玄は京に上る際、必勝祈願の千人法 幢を元亀三年四月から七月にかけてこの寺で
執行している。  そういう意味で、この寺は武田信玄と縁のある寺である。
住吉神社 また、信玄の部将原大隅守などの墓があるというので、墓地に入ったが、雑然としていて分
からなかった。 その代わり、北高全祝禅師の墓碑を見つけた。
街道に戻ると、住吉町、 左に入ったあたりは荒宿。 三差路があり、左に行くのは小諸を経
て上田に行く国道141号だが、善光寺街道とか上田道といわれる古い道はその先の狭い道
である。 岩村田本町郵便局の先の右側に、住吉神社があった (右写真) 
以前は広い敷地だったらしいが、道路拡張で境内が狭くなってしまったようだ。
道祖神 階段を上っていくと、大きな木の下に道祖神があった。 左側は道祖神と書かれた石碑だった
が、右側は双体道祖神像である (右写真)
境内には二十三夜塔などの石碑が並んでいた。 街道に戻ろうとすると、住吉神社石柱の脇に、
善光寺道道標を見つけた。 これは享保二十(1735)年の建立で、「従是善光寺道」と書かれて
いて、前述の善光寺街道の追分に立っていたのだが、事故で破損したため、修復された後ここ
に移され保存されている。  街道の追分にあるのはこれの複製である。 
かってこのあたりは桝形が住吉神社していたといwれる。 ここは岩村田宿の江戸方入口で、
岩村田宿は以上で終わりである。 
宿場あるいは江戸時代を感じさせるものが一つも残っていなかったのは残念であった。

鼻顔(はなづら)稲荷

鼻顔稲荷 岩村田には、五大稲荷の一つの鼻顔稲荷がある。 
追分宿までの歩きを終え、車をとりに戻ったとき、訪れてみた。 
相生町交叉点を越えたあたりは稲荷町であるが稲荷はそこにはなく、湯川に架かる鼻顔橋を渡った左にあった。  神社の社殿は湯川の絶壁に朱塗りの柱を立て、その上に建てた、懸け造りの建物である (右写真)
今から四百年前の永禄年間(1558〜69)に、京都の伏見稲荷から勧請されて創建され、祭神は宇迦乃御魂命(うかのみたまのみこと)、猿田彦命、大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)である。  男坂と女坂があり、男坂には道祖神碑などが林立していた。 
鼻顔稲荷 坂を登りきると、御姿殿があり、狐の狛犬風のものが祭られていた。  本社につながる建物に入ると、本殿前に奉納された額が掲げられている。  一つは北辰一刀流のもので、もう一つは白いものがびっしりついていたのでなにかと思ったら、繭(まゆ)だった。  養蚕の豊産を祈念し奉納たもののようである (右写真)
建物の規模などは伏見、豊川、笠間とは比べものにならないほど小さかった。  三大稲荷は伏見、笠間そして豊川稲荷と定まっているが、五大稲荷というと地方によって違うようで
ある。 例えば、山口県の津和野では、茨城県の笠間稲荷神社、京都の伏見稲荷大社、
その他は宮城県岩沼市の竹駒稲荷神社と佐賀県鹿島市の祐徳稲荷神社に、津和野の
太鼓谷稲成神社を加えている。 熊本県では高橋稲荷だし、岐阜県では千代保(おちょぼ)
稲荷、岡山県では最上(高松)稲荷である。 
稲荷社は神社と思っている人がいるが、かならずしもそうではない。 
大部分は神道系であるが、豊川稲荷や最上(高松)稲荷は荼吉尼天(だきにてん)を祭る
仏教系である。 鼻顔稲荷はもちろん神道系だが・・・

(塩名田宿から岩村田宿)平成17年7月
(岩村田宿)平成18年5月


信濃路(12)小田井宿へ                                           旅の目次に戻る







かうんたぁ。