『 中山道を歩く − 信濃路(12) 小田井宿  』

岩村田宿から小田井宿に行く途中に、鵜縄沢端(うなざわはし)一里塚があった。 
その先の皎月原(こうげつはら)に残された伝説は古代のロマン溢れるものである。
小田井宿は小さな宿場であったが、その先の浅間3宿が男の天下だったので、それを避けた女性が多く泊まった。
明治以降は幹線から離れてしまったため、今でも宿場の雰囲気を留めている。


岩村田宿から小田井宿へ

上州屋 平成十八年(2006)五月三十一日、今日は岩村田宿から追分宿までの予定である。  小諸から上田に抜ける道の善光寺道との追分を過ぎ、大きな木が聳えている住吉神社を越えるあたりが岩村田宿のはずれである。  中山道はここから小田井までの約二キロ間は広い車道である。  この先の左側には、家具のコヤマやしまむら、上州屋といた大型店が並んで建っていた (右写真)
このあたりは、十年ほど前まで家もなく寂しいところだったが、様相が一変していた。 
石仏群 これは上信越自動車道路の開通と関係があるのだろう。
それでも右側の林の中には千手観世音や石仏群が残っていた (右写真)
奥を覗くと墓地になっていて、以前は土葬していたのであろう。 
民家の一角には、馬頭観音が祀られていた。
少しあるくと、左側にベイシアが見えてきて、左に行くと佐久インターチェンジである。  金井ヶ原 このあたりは金井ヶ原といい、寂しいところだったが、高速道路が建設された結果、周りの景色が一変
したのである。  佐久平駅前といい、ここといい、近代的なインフラの導入で東京が大変近い存在になっているのには驚く。  右側に佐久長聖中があり、上信越自動車道路が見えてきた。  道路は平らで自動車道が下にあるので、意識しなければ気が付かずに通り過ぎてしまう。  緩い下り坂がしばらく続く。 道が左右にカーブすると、正面に浅間山が大きく見えてきた。  右を見ると、浅間りんご園とあり、急に浅間山の存在が大きくなったのに気付いた (右写真)
左側にSAKU STATIONというモールがあり、更に、SAKU TNTER WAVEというモールもあった。 
SAKU TNTER WAVE 佐久小田井ショッピンクセンターというところらしい (右写真)
それを脇目に見ながら進むと、一番最後あたりに、文教堂がある。 
文教堂は一里塚のある場所の目印にしてきたのである。 
店の前の道の反対側の林の中に、鵜縄沢端(うなざわはし)一里塚の説明板が立っていた。 
説明板の前から延びる小道を雑草を掻き分け登っていく。
鵜縄沢端 一里塚 左側の盛り上がったような土の出ているのが一里塚である。
東側の塚だけが残っていた (右写真)
慶長年間(1596〜1614)の中山道初期に築かれたが、その後、道が変り使われなくなったとあり、  T字交差点角からかすかに旧道の跡を見ることができる。
その下の整体師の庭には馬が飼われていて人恋しそうな顔を向けていた。
少し歩くと、右側に皎月原緑化センターがあり、その先の左側に大きな松の木が見える。 
皎月原 松並木の残ったものだろうか?
ガソリンスタンドと道を隔てた緑地に、皎月原(こうげつはら)の木柱があった (右写真)
奥に入ると、佐久市教育委員会の案内板があり、  『 用明天皇(欽明天皇の第4皇子)の時代(西暦586年頃)に、御所に仕えていた皎月という官女がお咎めを受けて 佐久郡の平尾へ流されてきた。 いつも白馬を愛していた官女はあるとき小田井の原へ馬を引き出して乗り回していた。 
ところが天の竜馬だった白馬は空へ駆け上がり、平尾山の頂上に立ち止まった。  官女は 「 吾は唯人ではない。 白山大権現だ 」 と言って光を放って岩の中に入ってしまった。 
歌碑 その後、官女は白山大権現といわれるようになり、時々小田井の原へ
来て馬の輪乗りをして、跡には草が生えなかったので、そこを皎月の輪と呼ぶようになった 
と伝えられている。 』 と、あった。
その奥にあった歌碑は、享保七年(1723)小諸藩の馬術師範で、皎月原で押兼流 馬術を
習得したと伝えられる押兼団衛門長常が、当時の小田井本陣・安川圧右衛門に 送った
文書 「 夢想皎月記 」 の中の古歌を昭和十年、御代田村が建立したものである (右写真)
江戸時代の木曽路名所図には、皎月原について 「 右に明神の馬に乗玉ふ馬場とて、
芝に輪騎の跡あり。 左に明神の杜有 」 と書かれている。
このあたりは官馬の牧であったので、このような話が生まれたのではないだろうか?!
石仏群 少し歩くと、小田井南の信号交叉点に着く。  ここで県道とは別れ、右の細い道に入る。 
これが旧中山道で、ここから追分までは旧道が残っている。  車が少ない静かな道なのはバイパスができたお陰であるが、県道と平行しているので、ちょくちょく車が通り抜ける。
荒田集落では道の右側に石仏群があった。  (右写真)
民家が続き、「飴製造卸小林のあめ」と書いた看板の古い家を見かけたが、営業しているようには思えなかった。 麦芽糖で飴を作っていた時代のものだろう。 その先の左側にある、白山比め(口へんに羊という文字)神社の鳥居に国威宣揚とあるのは大東亜戦争時代の遺物だろう。  暑くなったので、上着を脱ぎ、Tシャツになって、また、歩きはじめた。

小田井(おたい)宿

小田井下宿 小田井宿は、日本橋より第二十二番目の宿場で江戸より四十里十四町、京へ九十五里八町、
隣の追分宿まで一里十町、岩村田まで一里七町である。
火の見櫓が見え、小田井下宿と表示されたバス停がある集落にきた。 
ここから小田井宿である (右写真)
小田井宿は八町四十間(約900m)の長さに、下宿、本宿、そして荒宿と続き、かっては一つ
下宿の古い家 の町であったが、現在は、下宿は佐久市、本宿と荒宿は御代田町と別の町に属している。
ここ下宿は茶屋などの小商売が多かったと伝えられるが、古い家が散見できた (右写真)
道がなだらかな上り坂になる右カーブの途中の左側の家の前に、小田井宿跡の標柱が建って
いた。 
ここからは本宿だが、枡形はわずかにその形を留めているのみであった。
街道の右側にある建物は、下の問屋と言われた屋台家(おだいけ)である。 
屋敷全景 母屋 横から見た風景 門の建物
左の写真は屋敷全景である。 左から二枚目は母屋で、説明によると、 「 明和九年(1772)の大火以降のもの。 切妻造り、屋根は元は板葺き、石置きだったが、現在は変えられている。  三室続く客間を備えた良質な建物である。 」 とある。
三枚目の写真は横から見たものであるが、左側の白い漆喰の蔵のような建物は屋敷門である。 
「 荷置き場と問屋場はこの屋敷門に設けられた左右の建物を使った。 」 と、説明板にあったが、一番右側の写真の建物は、その部分である。

元旅籠 小田井宿は天正年間(1573〜1592)に設けられ、中山道の宿場として慶長年間(1596〜1615)には整えられたが、文政五年(1882)で家数は百七軒、人口は三百十九人だった。  しかし、宿場の規模は小さく、本陣が一、脇本陣が一、問屋が二で、旅籠は五軒のみである。
少し歩くと、バス停があったが、立派な建物なのでバス停とは思えなかった。
その先の右側の建物は学習塾になっているが、旅籠だったところである (右写真)
木曽名所図会には、 「 駅内二町ばかり。 多く農家にして旅舎少なし。 」 という記述があるが、旅籠は五軒と少なく活気がなかったので、宿場を盛りたてるため、飯盛り女を置くこと
旧家大黒屋(旅籠) の許可を代官や幕府に願い出たが、追分宿など周辺の反対があり、幕府の方針を変えることが できなかった。 大名一行が宿をとる際、旅籠五軒だけの小宿だったため、隣の追分宿へ泊まったため、姫君たちだけが泊まったことから、姫の宿とも呼ばれている。
学習塾の斜め前の広い屋敷の一角にある標柱には、 「 旧家大国屋(旅籠) 」 と書かれていて、これも旅籠だが、敷地も広く、建物も立派だった (右写真) 
郵便局の隣の民家の前には、脇本陣跡の標柱が建っていた。
「 すはま屋又左衛門が脇本陣を承っていたが、その建物はないが、文久元年(1861)
上問屋跡 当時の屋敷図は現存しているので、当時の間取りは分かる 」 と、説明文にあった。
大田南畝の壬戌紀行には、 「 小田井の駅にいれば一重の桃花さかりなり。 駅中に用水あり 」 と記されており、 江戸時代には道の中央に水が流れていたものであるが、昭和に入って数度の道路工事で、用水路も南側に寄せられた。  今でもきれいな水が流れており、木曽名所図会に 「 此駅の中に溝ありて、流清し。 」 と、あるとおりだった。  少し先の左側には、上問屋跡の安川家があったが、これまた立派な建物である (右写真)
その隣に案内板があり、宿場の概要とこの場所に高札場があったと書かれていた。
御代田村道路元 下を見ると御代田村道路元標があった (右写真)
それからすると、このあたりが小田井宿の中心だったのであろう。 
本陣だった安川家前にトラックが停まり工事中だったので、撮影は出来なかった。
白壁に屋敷門。 道路に突き出た松の木があり、植木が多く植わっていた。 
建物はどうなのか覗けないので分からないが、客室部の保存状態がよく、宝暦六年(1756)
に建てられた広間、上段の間などが形を留めているそうである。
文久元年(1861)、皇女和宮の御降嫁の際はここで昼食をお取りになられたし、江戸に御嫁
入りした姫君や大名の奥方がこの先の追分宿の喧騒さを避け、ここで休泊された。 
その際、和宮から拝領したと伝えられる人形が残っていて、毎年八月十六 日に開催される
宝珠院 小田井宿まつりでは、授かった拝領人形を籠に乗せ行列する、という。
その先の四差路を右に入って行くと、左側に宝珠院があった (右写真)
真言宗で法印幸尊が永正年間(1504〜1520)に開山したといわれる寺で、 入口の馬鹿でっかい馬頭観世音碑が印象的だった。  道を進むと,左カーブの途中に東枡形跡の説明板があったが、形はくずれて枡形とは思えなかった。  江戸時代、荒宿には茶屋などの小商売が多かったとあるが、荒宿はどのあたりかの説明がないので、確認は出来なかった。   その少し先の信号交叉点に、小田井宿跡入口の標柱が立っていた。  小田井宿は小さな宿場ではあったが、幹線から離れているため、古い町並も残り、宿場の雰囲気を今に留め
ていたので、訪れた甲斐があった。

平成18年5月


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かうんたぁ。