『 中山道を歩く − 信濃路(13) 追分宿  』

小田井宿から追分宿へ行く途中には御代田一里塚がある。 
慶長七年(1602)に中山道が開道したときに作られた一里塚だが、 その後、中山道の道筋が変ったので、使われなくなった。
追分宿に入る手前の分去れ(わかれされ)は中山道と北国街道との分岐点、即ち追分であった。
追分宿は浅間三宿の一つとして大いに賑わった宿場であった。


小田井宿から追分宿へ

石碑群 平成十八年五月三十一日、今日は岩村田宿から追分宿までの予定である。  小田井宿の探訪を終えたので、追分宿に向って歩き始める。 小田井宿入口の信号交叉点には、小田井宿跡入口の標柱が立っていた。 ここが、小田井宿の江戸方の入口だったのであろう。  道を越え、向う側に渡っると、左側に御嶽山座主大権現や八海山など山岳信仰を示す石碑群があった (右写真) 
前述の小田井宿高札場の案内板では夢覚堂跡とあったが・・・・
道は緩やかな右カーブ、その先で直角に近い左カーブ、さらに右にカーブすると緩い登り坂に
荒町 なった。  途中に小さな橋があるので、それを渡る。 小田井宿入口で見かけた小柄で痩身な老婦人はなかなかの健脚である。  とても速いペースはとは思えないのだが、小生がスナップを撮っているうちに、先に進まれてしまう。 
家が連なる集落は荒町で、荒町バス停があった (右写真) 
道はだらだらと上っている。 どこにいくのかなあと思っていたら、御代田駅に着くまでに一軒の民家に消えていった。 
馬頭観音 彼女にとっては生活道路なので、淡々と続くのぼり坂は苦にならないのだろう。  荒町からは湯川の支流の久保沢川が右手に見えるはずだが、家に遮られて見えない。  道端に、馬頭観世音碑と二体の馬頭観音像を見つけたが、今にも地面に埋まりそうであった (右写真)
ここまで来ると、JR信越線の御代田駅は近い。 御代田駅入口の交叉点を越えると坂道は終わった。  中山道は栄町の信号を渡り、しなの鉄道の地下道をくぐって反対側にでる。 
中山道は鉄道の踏み切りが廃止されたため中断されてしまったが、線路をくぐって北側に出た
御代田駅 ところから分去れ(北国街道との追分)までは旧道が残っているのである。 
朝が早かったので、腹が減ってきた。 駅に行けばなにかあるかと駅に向かった。
しかし、御代田駅にはなにもなかった (右写真) 
また、駅前にはそれらしい店は一軒もない。 少し離れて交番があり、手作り弁当店がある。
手作り弁当店を覗いたが、あまりうまそうでなかったので、他を探すことにした。
交番で御代田一里塚の在り処を聞いたが、だれも知らない。 
山頭火句碑 本署に問い合わせて教えてくれたのだが、結果は遠回りを強いられたのである。 
群馬県松井田の一里塚のときもそうだが、警察では昔の史跡についての情報はないのである。 
聞くのなら、役場のほうがよい。 
今回も役場で確認した。 教えられた道を行くと、浅間縄文ミュージアムとメルシャン軽井沢
美術館の前に出た。  浅間縄文ミュージアムの庭に、種田山頭火の句碑があった (右写真) 
山頭火は昭和十一年(1936)五月十四日、御代田駅で降り、雄大な浅間山を眺めながら、小諸
に向かっている。 句碑はそのとき詠んだ十首のなかから、三句を選んだとあり、旅から七十年
記念で、建てたものである。 
 「  浅間したしい  あしたで  ゆうべで    」
 「  浅間をまえに  まいにち畑うつ   ちょうちょう  」
メルシャン軽井沢美術館  「  浅間のふもとにいる  こんなに蕎麦がうまい   」 と、いう句が刻まれていた。 
その前にあった、蕎麦がうまいの看板につられた訳でもないが、そば処やまゆりで、地元産100%の天ざるを注文し、しばしの休憩をとったが、客が多かったこともあり、予定以上に時間をとられた。  メルシャン軽井沢美術館は、ルーブル美術館の内装を担当したジャンミシェル・ヴィルモットが、ウイスキーの樽貯蔵庫を改修したものである (右写真) 
そば処やまゆりの店員に教わった通り、店の裏を通って、町役場に抜け、しなの鉄道の
蒸気機関車 線路脇の道に出た。 なにげなく下を見ると、蒸気機関車が見えた (右写真) 
特定日にしか公開していないようなので、金網越しからである。
少し歩くと、先程別れた中山道がJRの線路下の地下道を通り、出口のところにでてきていた。 
ここから中山道を再び歩き始める。
坂道が再び始まり、ここから追分宿の入口までのおよそ五キロにわたって、緩い坂道がだらだらと続く。
御代田一里塚入口 十分ほど歩くと左側の民家の前に標柱があり、御代田一里塚とあった。 
標柱には、 「 西塚 径13m、周囲40m、高さ5m、 東塚 径13m、周囲40m、高さ4.5m 」、 
と書かれていた (右写真) 
 「 もっと大きなものに代えてください!!、と町に言っているのですが 」  、と突然、声がした。 びっくりしてみると、婦人が立っていた。 声につられて歩み寄った。 
声につられて歩み寄った。 表示に気が付かないで通り過ぎる人が多いらしい。
御代田一里東塚 彼女は先頭になり歩を進め、右側を指差した。 
「 あの塚に木を植えてくださいとお願いしているのに国がどうのこうのと埒があかない。 」
といわれた。 見ると雑草が生えたこんもりして塚がある。 
東塚のようである。 彼女は江戸時代のように木を植えたらというのであった (右写真)  
西塚はその先に民家の前で右折すればいけるというので、お礼を述べて別れた。
彼女は、一里塚を一人でも多くの人に知ってもらいたいのだろう! と、思った。 
御代田一里西塚 西塚にはすぐ到着した。
一里塚は榎(えのき)や松が植えるのが普通なので、枝垂れ桜なのは大変珍しい。
しかも大きくなっていて根元からはファインダーに収まらなかった (右写真) 
春の満開時にはさぞ見事であろう! と思い、彼女の自慢したくなる気持はわかるような気がした。
御代田一里塚は江戸時代初期、慶長七年(1602)に開道したとき作られた一里塚である。 
寛永十二年(1635)の改修時、現在のルート(7mほど右側に道を移動)に変更されたが、
大山神社 一里塚はそのまま残され今日に至ったものである。
中山道に戻り、また緩い坂道を歩き始める。 
立ち寄った大山神社の境内には馬頭観音像や道祖神碑があった (右写真) 
馬頭観音の頭に二重に縄が掛けられていたがどういう意味なのだろうか??
大山神社の前を過ぎても坂道が続く。   久保沢川に架かる大久保橋を渡る。  両脇には家が立ち並び、最初は別荘かと思ったら、車が駐車し布団や洗濯ものがはためいていたので、一般的な住宅地だと分かった。
浅間山 右へ左へ、カーブが続く。 それでも,まだ坂道は続く。 しばらくの間は畑と家があり、浅間山が更に大きく見えた (右写真) 
貝原益軒は、岐蘇路之記で、 「 寒甚だしく五穀生ぜず。 ただ稗蕎麦のみを生ずる故畠少なし。 ・・・ 不毛の地といひつべし 」 と述べているが、昭和三十年代まではまさにその通りだったので、頷ける。 平成の時代の今日は技術革新もあり、果実や野菜は勿論米を獲れるだろう。  火山灰耕地のせいか、レタスが適しているようで、この先の中軽井沢も含め移植された幼苗を見た。
まだまだ坂道は続いていく。 やがて、道は林の中に入っていった。 分譲地のようだが、
家はぽつりぽつりとしかないようだった。 更に歩くと、さきほどの場所と違い、別荘地と
して売り出されていて、地名もいつのまにか西軽井沢に変っていた。  日差しは強く、暑い
ので、ペットボトルで水分補給しながら歩いたが、夜テレビを見ると当日の温度は23℃
追分教会 とあったので、体感温度の方がずーと高かったのだろう。 なお、名古屋は30℃で今年初めての真夏日を報じていた。  風景に変化もなく、退屈である。 こういう道が一番こたえる。  ところどころで道が交差するので、迷わぬよう注意したがら進んだ。  右側に、軽井沢追分教会の案内板があったので、道を右折して入っていくと、左側に大気が包むカラ松の木立に囲まれ、木をふんだんに使った礼拝堂があった (右写真)
左側の少し高いところに牧師の住むロッジがあり、奥には椅子が置かれた広い庭が広がっていた。 礼拝堂の中は閉まっていたので見られなかったが、バロックのパイプオルガン
分去れ があり、礼拝には鳴り響くようだ。 パイプオルガンの優雅な響きと静寂な自然が軽井沢ら
しい雰囲気を漂わせることだろう。 街道に戻り、緩い傾斜の道をまた歩いた。 しばらくす
ると自動車の音がかすかに聞えてきた。 歩くたびに大きくなり、そして大通りにでた。 
国道18号線である。 長かった坂道もここでようやく終わった。 横断歩道がないので、
車の来ない合間をうかがい、国道を渡り反対側へでた。  ここは分去れ(わかされ)と呼ばれ、江戸時代には中山道と北国街道との分岐点即ち追分であったのである (右写真)
北国街道は正式には北国脇往還といい、こから北陸道高田までの三十五里(140km)である。
信州を横断する道であるが、善光寺までを善光寺街道と呼んでいる。   西に領地を持つ
大名の加賀百万石前田家を筆頭に、高田藩、松代藩などが参勤交代で通った道である。
道標 到着した 「 分去れ 」 は少し小高くなっているが、これは国道工事などで変ったのであろう。 
当日も道路工事とガス工事が行われていて、ここを撮るのに苦労した。
江戸側から見ると、まず道祖神碑があり、次いで道標、その先の左側に森羅亭万象の歌碑。 
その右側の石は道しるべ石。 そして、奥に常夜燈があった。
道標が建立されたのは延宝七年(1789)のこと。 石柱の中央に、 「 東二世安楽 追分町 」、
左横には、 「 従是中山道 」 、右横には 「 従是北国街道 」 、裏には「千時延宝七巳未三月」
と刻まれていた (右写真) 
道標の隣の変った形の石は、道しるべ石と呼ばれ、正面に 「 さらしなは右、みよしのハ左にて、
月と花とを追分の宿 」 と、いう有名な歌があり、西面には、「 めうぎに七里、山道九里、はるな
森羅万象の歌碑 に十六里、一ノ宮十里、三河屋、高崎に十三里、江戸に三十八里、日光に四十四里 」、南面に
は、「 小田井に一里、御嶽山に三十三里半、津島に六十七里半、伊勢に九十二里十一町、京都
に九十三里半、大坂に百七里半、金比羅に百五十里半 」、北面には、「 金沢に八十五里、新潟
に六十六里、高田に三十四里、戸隠山に二十三里、善光寺十八里、小諸三里半 」 と、刻まれ
ている。   森羅亭万象の歌碑は、寛政元年(1789)に建立されたもので、平賀源内の
   「 世の中は ありのままにぞ 霰ふる かしましとだに 心とめねば 」
という歌が刻まれている (右写真) 
その隣の常夜燈は、寛政元年(1789)の建立で、台座に 「 是より左伊勢 」 と刻まれている。
石地蔵坐像 常夜燈の右後ろに立つのは、古い石地蔵坐像で、マリア地蔵とも呼ばれる (右写真) 
台座を見ると、道しるべ石と同じ内容が彫られている。 ふたつが同じ内容なのは説明がない
ので分からないが、私の推測では石地蔵坐像では見づらいので、道しるべ石を後に作ったと思う
が如何だろうか?!
更に奥に目をやると、馬頭観音像があった。 
正面に 「 牛馬千匹飼 」 とあり、安永六年(1777)の建立である。
これ等をみても分かるように、分去れは江戸時代、交通の要所だったのである。 
善光寺道と中山道が交わる追分宿は、江戸後期に盛んになった善光寺参りや伊勢詣にとって
重要な場所で、多くの旅人がここを通過していったことを考えると、感慨深かった。
分去れから国道を歩き、追分宿の入口までは五分もかからないで到着した。


(ご 参 考) 立原道造 「 村はずれの歌 」
       咲いてゐるのは みやこぐさ と
       指に摘んで 光にすかして教えてくれた−
       右は越後へ行く北の道
       左は木曽へ行く中仙道
       私たちはきれいな雨あがりの夕方に
       ぼんやり空を眺めて佇んでゐた
       さうして 夕焼けを背にしてまっすぐと行けば
       私のみすぼらしい故里の町
       馬頭観世音の叢に
       私たちはうまれてはじめて言葉をなくして立ってゐた

(注)立原道造は、軽井沢を愛し、建築と詩にその才能が期待されながら、「五月の風を ゼリーにして持ってきてください」の言葉を残して二十四歳という若さでこの世を去った。 上記は分去れを歌ったものである。

追分(おいわけ)宿

追分宿入口 追分宿は小田井宿と沓掛宿の間にあったが、北国街道との追分でもあるので、諸大名の宿泊が多く、また、旅人の往来が多かった。 
追分宿の入口は追分宿とラーメン大学と書かれた看板があったので簡単に分かった。 
中山道はここで国道と別れて左に入って行く (右写真) 
寛永十二年に始まった参勤交代の制により諸大名が宿泊するようになったので、宿内の警備取締りのため、宿場の入口に枡形の道(直角に曲がった道)と土手(約2.5m)を築いた。 
宿場の西入口にあたるこのあたりには、枡形があったはずだがその痕跡は残っていない。 
茶屋つがるや跡 枡形の前で江戸時代に茶屋を営んでいたのがつがるやである。 
枡形茶屋とも呼ばれ、今でも建物の漆喰壁には、枡(□に斜線)形とつがるやが浮彫された
のが残っている (右写真)
その先の左側を入って行くと泉洞禅寺がある。 
本尊は聖観世音菩薩で、本山は横浜市鶴見区の曹洞宗大本山総持寺である。 
泉洞禅寺 慶長三年(1598)上州常林寺五世心庵祥禅師により開創された寺で、 境内には女流書家稲垣黄鶴の句碑、筆塚、慈母観音、牡丹地蔵などがある  (右写真)
堀辰雄が愛したというかわいい石仏があるというので寄ってみたが、石仏は多かったが、どれなのか分からなかった。
その先の左側の茂ったところに諏訪神社があった。 薄暗い境内には、小林一茶の句碑があった。  街道に戻ると、左側につた屋清三という看板を下げた家があった。
高札場 そのすぐ先に復元された高札場があった。  本来は、問屋場前の街道の真ん中に高札場が設置されていたのであるが、道路整備により撤去されてしまったのである。  当時掲げられた高札を復元して懸けてあった (右写真)
追分宿は、天保十四年(1859)で、家数が百三軒、本陣一、脇本陣二、問屋一、旅籠が三十五軒であったが、 善光寺詣りや伊勢参りが盛んになった貞亨年間には旅籠が七十一軒、茶屋が十八軒数えたとある。
旧本陣 高札場の隣の緑に囲まれた奥まった家は、本陣だった土屋家で、門の表札に「 旧本陣 」と標示されていた (右写真)
道から少し入ったところに、明治天皇御小休所の石碑が建っていた。  その前の家あたりに御膳水があるはずだが、見つからなかった。
ここで江戸時代の追分宿の様子について触れておきたい。
追分宿は善光寺への分去れ(この地方は追分をこう呼ぶ)でもあり、中山道の旅人と相俟
って宿場は活況を呈し、また、飯盛り女を多く抱えた歓楽地でもあった。 
旅籠現金屋 追分宿は中山道宿村大概帳によると、天保十四年(1859)で、宿場の人口は七百十二人だったが男子二百六十三人、女子四百四十九人の構成で、女の方が圧倒的に多かった。 
これはいわゆる飯盛り女(宿場女郎)を多く置いていたためで、幕末には更に激しくなり、幕府はしばしば禁令を出し、一軒につき飯盛り女二人という制約を課したが、守られた様子はないようである。  現在、骨董屋を営んでいる左側の店には、旅籠現金屋という行灯があったので、江戸時代には旅籠だったのであろう?! (右写真) 
田辺聖子さんは姥ざかり花の旅笠の中で、主人公(小田宅子)の書いた東路日記の一節を
紹介している。
東路日記には、 「 追分では越後屋という旅籠に泊まった。 すべて此渡り(このわたり)
旧脇本陣だった油屋 ならひにて、只一夜のほどもなれねれしからず、むくつけきさまに明(あか)かしつ 」 と書かれているが、 田辺さんは、 「 このへんの人情のならいとて、柔和敦厚(とんこう)の気分なく、ラフで粗野な対応であった。 」 と、解析されておられるが、追分宿は、大名も泊まり旅籠は飯盛り女を抱えて稼いでいたところなので、女主人の旅の一行には冷めたかったのだろう。  その隣の奥まった大きな旅館の油屋は、江戸時代には脇本陣だったところで、江戸時代には向かいの道路右側にあったようである (右写真)
建物は建替えられているので、当時のものではないようである。  大正から昭和の初期に
かけては、川端康成や堀辰雄などの文士が定宿としていたという、 老舗の旅館である。 
中山道の旅に戻る。 
堀辰男文学記念館 その先の右側に堀辰男文学記念館があるが、この建物は結核療養を続けた堀辰男が住んだ家である。  アメリカで発明されたペニシリンが進駐軍によって日本に持ち込まれるまでは、結核は不治の病であった。 結核患者は栄養をとるとともに空気のきれいな土地で療養をするのがいいといわれたので、堀辰男は辰野や軽井沢の高地で暮らしたのであろう。  当日は休館日にあっていたので、残念ながら入られなかったが、入口の門は前述の本陣の門で、移設されて残っていた (右写真)
小さな川に架かった昇進橋を渡ると少し登り坂となり、左側に石灯籠(常夜灯)が見えてき
月夜見之命碑 た。  その先の流れに面して玉石で整備されたところがあるのが、軽井沢町が一帯を整備
した追分公園である。  傍らの案内板には 「 この川は御影用水といい、下流の佐久平の
用水路として作られたもの 」 と、あった (右写真)
森の中に浅間神社があるので入って行く。
参道を入ったところに、 「 月夜見之命 」 と刻まれた石碑があったが、月夜見之命とは
なにを意味するのか?? 初体験であった。 
(注)帰宅が調べると、 「 ツクヨミは、天照大御神と建速須佐之男命と共に重大な三神
浅間神社 (三柱の貴子)を成す。 」 とあり、古事記では、伊邪那伎命が黄泉国から逃げ帰って禊ぎをした時に右目から生まれた、とされる月の神であった。
うっそうとした森の中に浅間神社本殿があった (右写真)
「 浅間神社は浅間大明神遥拝の里宮で、大山祇神と磐長姫神の二神を祀る。 明治二年、浅間山鳴動の際、明治天皇の勅祭が行われたことで有名。  流造で海老虹梁、宝珠の彫り、木鼻(象鼻)の出張りも応永様式(1394〜1427)の室町時代初期の様相を残す。 」と、町の教育委員会の説明にあった。  
芭蕉句碑 その傍らに、御嶽山座王大権現の石碑が建っていた。
境内の一角に、更科紀行で詠んだ芭蕉の句碑が残っていた (右写真)
『  ふき飛ばす 石も浅間の  野分かな  』
という句で、これは、貞享五年(1688)、芭蕉が四十五歳の時、更科の月を見んとして美濃を 出発し、姥捨で月見後、善光寺参拝をすませ、軽井沢を経由して江戸に戻った時、追分で 詠れた句である。 芭蕉の百年忌にあたる寛政五年(1793)に佐久の春秋庵の俳人たちによって、この句碑が建立された。
追分節発祥の地碑 また、油屋寄進の石灯籠や追分節発祥の地の碑があった (右写真)
少し登ったところには追分宿郷土館があるのだが、残念ながら休館日であった。
追分宿の長さは五町四十二間というから六百メートルほど、どこに東の枡形があったのかわからないが、ここで終わりにしよう。  追分宿は上記のように賑わいを見せた宿場町であったが、明治の鉄道開通で寂れ、今や当時の建物もなくなってしまった。
今日は岩村田宿を見学し、小田井宿を経由してここ追分宿まで歩いた。  これから沓掛宿までという選択肢もあったが、岩村田に置いた車をとりにいき、その後、宿泊する小諸に行かなければならないので、やや早いがここで終えた。
なお、ここからしなの鉄道信濃追分駅まで歩いたが、予想した以上に遠かったことを付記する。
後日、北国街道を 歩いたので、参考までに掲載します。 

平成18年5月


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かうんたぁ。