追分宿から沓掛宿間は軽井沢の中では古い街道を一番感じさせてくれる道である。
追分一里塚を過ぎると、やがて借宿(かりやど)。 江戸時代には間の宿だった。
女街道の馬頭観音碑を過ぎると、古宿(ふるしゅく)に入る。
借宿も古宿も中馬や中牛の馬子たちの中馬、中牛宿が多くあったところのようである。
沓掛宿は戦後、中軽井沢に名を変えて、大きく変貌を遂げてしまった。
平成十八年(2006)六月二日、岩村田宿から横川まで歩く二泊三日の旅の最終日である。
岩村田宿〜追分宿と沓掛宿〜横川は歩く終えたので、今日は、その間の追分宿から沓掛宿まで歩く。
前夜は小諸に泊まったので、北国街道の小諸宿を見学し、車を運転して追分駅まで来た。 駅前の駐車場に置かせてもらって、後でとりに戻る予定である。 追分宿としなの鉄道追分駅とはかなり距離があるが、前回同様歩いて、前回終わったところに戻り、そこから再開した。
中山道はすぐに国道に合流するが、そこに追分一里塚がある (右写真)
江戸から三十九里、京都からは九十一里目の一里塚で、京都から三百六十キロ以上のところ
にある訳である。 この一里塚だが、国道を改修するとき、場所を移して復元したもので、
ちゃんとした一里塚の姿をしていた。
ここからしばらくは国道を歩く。 標高1003mの表示が出ていて、道の右側には、峠の釜飯
のおぎのやの支店があった (右写真)
ここからは下り坂である。 日差しは厳しいが標高千メートルのところにいると思うと快適である。
追分の信号で、歩道橋を使って反対側に渡る。
エネオス(新日石)のスタンドを過ぎた先のベーカリーの前にホテルの車がとまり、パンを
荷台に載せていた。 ホテルで使われるのならうまいのかなあ?と店に入り、調理パンを
いくつか買いもとめた。 東京にも店があるようだった。 うなぎ鯉太郎の看板を出す家の
前を過ぎたら、浅間山を大きく描いた看板の家が現れた (右写真)
追分そば茶家であるが、ここで国道と別れて右の道に入る。
ここからは住所表示が変り、追分から大字長倉に変る。
道は少し下り坂になり、左側の石垣の家にはツツジが多く植えられ、きれいに咲いた上方に
大きな馬頭観世音碑があった。
この集落は借宿(かりやど)といい、江戸時代は間(あい)の宿であったところである。
坂を下ると左側に民宿があったが、軽井沢にくる人の利用が多そうだった。
民宿を過ぎると、左側に一段小高くなったところがある。 なんだろうと近づいた。
そこには、大きな馬頭観世音碑があり、手前両側の常夜燈には、二頭の馬がじゃれあう姿
が浮き彫りされていた。 その他、左奥に三つの馬頭観世音碑もあった (右写真)
これまでに見てきた馬頭観世音碑は、江戸後期のものが大部分だったが、ここのは明治と
大正のもので、新しかった。 馬頭観世音碑は、馬方が街道で亡くなった馬を供養するため
建てたのが多いが、鉄道は開通した後の明治や大正に建てたのは何故だろうか??
ここから少しの間は急な坂である。
集落には連子格子の民家も残り、軽井沢では数少ない古い街道を感じさせてくれる道であ
った。
交差点を越えた左側に、建替えられた公民館があり、手前に駐車場があったが、閉鎖されていた。
公民館前に、寒念仏供養塔があるはずだが、どこかに移されたのか見付からなかった。
その少し先の右側に、古い屋敷がある。 古い住居と黄色に白の倉の組み合わせで、アクセントが強く感じられた (右写真)
そのような住宅は左側にもあった。
軒に酒屋を示す杉玉を吊るす家があり、店先に酒徳利などがあり、煙草の看板も掛けられ
ていたが、どれも古く営業をしているようには思えなかった (右写真)
すでに6月に入っているのに、つつじが美しさを競うように咲き誇っている。
左側の民家の藤の花も驚くほど見事だった。
のんびり歩いていると、物事に先入観も邪心もないので、素直になれるのかと思った。
中山道を歩いていると思える中年の女性とすれ違ったが、言葉を交わすこともなくすれ違った。
左側に金網で囲われている場所があり、近づくと遠近宮(おちこちみや)があった (右写真)
低い石段を登ると、赤い鳥居と狛犬が鎮座し、その先に立派とはいえぬ小さな社があった。
公園になっているようで、子供の遊具があった。
在原業平が書いた伊勢物語にはこのような記述がある。
むかし、おとこ有けり。 京や住み憂かりけん、あづまの方に行きて住み所求むとて、
友とする人ひとりふたりして行きけり。 信濃の国、浅間の嶽にけぶりの立つを見て、
「 信濃なる 浅間の嶽に たつ煙 をちこち人の 見やはとがめぬ 」
( 伊勢物語八段より )
田辺聖子さんは、「 姥ざかり花の旅笠 」 の中で、上記の歌に関して、
「 むかし男の業平は浅間の嶽に立つ煙をみて、おお、なんと異様な光景、とショックを受
ける。 都の山々は三方みな秀麗、あるいは気高く、あるいは温和にそびえているのに、この山は荒々しく怒っているようだ。・・・・
業平の歌はそのおどろきを表現する。 このあたりの住人はこの煙をみてびっくりしないのかねえ。 」 、
と表現している。
境内の左側に朽ちそうな鳥居があり、石垣で作られた台の上に御嶽山神社、三笠山大神、八海山大神の石碑があり、右側に小さな石祠そして左側に道祖神像が祀られていた (右写真)
街道に戻り、歩いていくと、右側にこんもりとした森が見える。
それを過ぎると、左側に立場跡らしい古い家が残っているが、ここ借宿は江戸時代、中馬、中牛宿として賑わっていたところである (右写真)
中馬とは物資を運ぶとき、馬一頭を借り切る方式で、宿で馬を乗り継ぐ伝馬と異なり、運賃
が安く、スピードが早かったため、荷物の取り合いで宿場の問屋としばしば喧嘩になった。
少し行くと、右側に馬頭観音碑があり、道の手前に女街道の説明板がある。
左右の細い道は、中山道の脇往還の下仁田街道、別名女街道(姫街道)である (右写真)
「 入り鉄砲出女 」 の監視が厳しい碓井の関所を嫌った旅人(主に女性)が通ったので、
その名が付いた。 この道は途中で切れていて、現在は通る抜けることはできないが、
油井釜ヶ淵橋を渡り、風越山、広漠たる地蔵ヶ原を横切り、和美峠(984m)か入山峠を
越えて上州の下仁田、富岡へ抜ける道である。
この角の右側にある馬頭観音碑には、中央に 「 馬頭観世音 」 、右側に 「 享和二年
右下仁田道 」 と、刻まれていて、道標にもなっていた (右写真)
前述の 「 姥ざかり花の旅笠 」 の主人公小田宅子さん一行も、天保十二年旧暦四月一日、
朝まだきに追分宿を出て、この道を利用している。 越えた峠については記述がないので
はっきりしないが、小生は、和美峠だろうと思っている。
なお、古代の道の東山道は、碓氷峠ではなく、入山峠(18号バイパスが通るあたり)を
通っていたが、今や痕跡は残らない。 それに対し、和美峠は今でも富岡に抜ける道と
して存在している。 それはともかく、歩いて行くと、左側から道路が見えてきて、旧中山道
はここで途切れてしまう。
見えてきたのは軽井沢バイパスである。 国道は左側なので、ここは通り抜けが少し複雑。
バイパス入口付近に出たら、左側の一方通行路の歩道を通って道路の下をくぐる。
しばらく歩くと国道と合流するが、バイパスも国道も共に国道18号なので戸惑う。 国道の右側を少し歩き、川魚料理信州手打そばと大きな看板を掲げた店前を過ぎたら、国道と別かれて、右の道へ入る (右写真)
ここから沓掛宿までは中山道が残っている。
入ったところの右の林の道端に馬頭観音塔が多くある。 奥に大きなのが一つあるかと
思うと、大きなのと小さなのが数個が並んでいる (右写真)
その先にも数個あった。
右側にテニスコートが見え、建物の上にゆうすげ温泉の看板が見える。
ここは軽井沢では少ない温泉の一つで、露天風呂はないが、五百円で日帰り温泉が利用
できるようだ。
古宿(ふるじゅく)集落に入ると、長く伸びた樹木が鬱蒼としていたり、民家も農家風か、鄙び
れている。
それでいて、借宿(かりやど)のような古く立派な家は目につかない (右写真)
ここも借宿同様、信州と上州を結ぶ物資の中継基地だったので、中馬や中牛の馬子たちの
中馬、中牛宿が多くあったようである。 道のなだらかな信州は馬で、険しい上州は牛で
運ばれていたという。 馬頭観音が多いのもそうした歴史によるようである。
この先の中軽井沢からは別荘が多いのにこのあたりは見渡らず、藤の花が大きな棚の上
で咲いたり、つつじが寄植えされていたりと、農家の庭のような家が多かった。
外からの波を寄せ付けない一角に感じ、三日間歩いた中では一番旧街道の趣を感じさせる
道であると思った。
その先の左側に朽ちたような鳥居があり、その奥に秋葉神社(?)の
小さな石祠があった (右写真)
道が下り坂になった。 畑の下に二十三夜塔そしていくつかの石仏がある道を歩いて行く。
奈良から平安にかけて、朝廷は軍馬生産のため、信濃に多くの牧場を設けた。
軽井沢にも長倉の牧が置かれていたが、所在地は長倉神社のある長倉という説が有力だが、
ここであるという説もあるようだ。
歩いているとこの地の雰囲気からして肯定できた。
小さな橋を渡ると、道は右にカーブしながら少し下る道である。
あたりは、川の冷気による
ものか、霧状になっていた (右写真)
道は登りになった。 両脇に木が茂り、民家も畑もなくなった。
道端にポツンと置き忘れたような馬頭観音像があり、可愛く感じた。
下り坂に変った。 左に国道が見える十字路を直進し、国道と平行して歩くと、すぐに
国道に合流した。 沓掛宿に到着である。
国道に合流する十字路の先に信用金庫があるが、そこを右折する道は、初期の中山道
である。 初期の中山道(東山道)は、線路沿いに進み、しなの鉄道中軽井沢駅の構内
で、線路を越えて、反対側に渡っていくルートだった。 そこには宮の前一里塚があったが、
その碑が残りその存在が確認できる。
その後の中山道は、国道になっているので、国道を歩き、道の左側にでる。
その先の左に入る狭い道の角に、馬頭観音像があり、左側面にくさつと刻まれていた。
くさつとは草津道のことで、観音像が道標を兼ねていたのである (右写真)
沓掛宿は軽井沢へ一里五町、追分宿に一里三町と短く、全長五町二十八間(約600m弱)
のこじんまりした宿場町であった。 天保十四年の人口は五百二人、家数百六十六軒、
本陣一、脇本陣三、問屋一、旅籠十七軒と、浅間三宿(追分宿、沓掛宿、軽井沢宿)の中
では小さかった。 国道を進んだ左側にある家に、本陣土屋と表札を出している家が
あった。
江戸時代、本陣であった土屋家で、裏に古い土蔵と井戸が残っているらしい
が、表からは確認できなかった (右写真)
国道の反対側にある八十二銀行が三軒あった脇本陣のうち、蔦屋である。
駐車場の奥に、石碑があるだけだった。
もう一軒の脇本陣・土屋家は、銀行の裏側にある。
沓掛宿には、当時の面影を探るものは、ほとんどといってもよいぐらいなにもなかった。
沓掛という名でさえ、昭和三十一年に中軽井沢に名を変えてしまった。
中軽井沢駅(旧沓掛駅)へ入る交叉点にある、沓掛時次郎まんじゅうにしか沓掛の名は残っていない (右写真)
沓掛時次郎とは、長谷川伸の戯曲に登場する戦中・戦後の映画や浪曲で一世を風靡した股旅ものの主人公である。
時次郎の生地となっているが、架空の人物である。
なお、国道を少し行った左側にある長倉神社の境内に、沓掛時次郎の石碑が建つが、今の人にはぴんとこないだろう。
中山道は交叉点を右折し、駅前を左折する。 左側にある古い旅館の桝屋が、三つ目の脇本陣である。
現在でも脇本陣の看板を掲げて営業している (右写真)
中山道はその先の細い道へ曲がる。 しかし、その先は中軽井沢駅(旧沓掛駅)の一部になっているので、今は通れない。
沓掛宿から軽井沢宿にかけては開発の手が入り、大きく変貌を遂げてしまった。
新幹線が開通した現在、これからも更に変り続けるだろう。
ここに中山道の宿場町があったことすら忘れ去られていくことだろうと憂いながら、沓掛宿
の探訪を終えた。
駅前にあるかぎもとや本店で、昼飯を取る (右写真)
明治三年の創業なので百年以上の老舗の蕎麦屋で、県内の川上村、北相木村、戸隠村
から仕入れた玄そばを用いているという。
天ざるを頼んだが、てんぷらは野菜が中心
だが、量は多く、これが千三百円なら安いのではないか。
腹が満たされたので、星野の方角に歩いて行った。 駅前から国道146号に入り登って行く
と、右側に湯川に沿って緑の濃い自然公園があった (右写真)
星野温泉に出る。 数年前、全面的に作り直され、星野リゾートとして生まれ変わり、テレビ
で取り上げられ、温泉街の時の氏神のような持ち上げ方がされているところである。
またその奥には野鳥の森があり、バードウォティングとともに森林浴には絶好の場所である。
星野温泉入口の右側に北原白秋の歌碑があった。 白秋は軽井沢に滞在中、朝夕に落葉
松の林を散策して生まれた 「 落葉松 」 の詩を活字体の全文と自筆の第8節が碑に刻まれ
ている。 昭和四十四年に軽井沢町が建立した (右写真)
星野温泉は混んでいるようなので、国道と別れ、千ヶ滝温泉に向かう。
左側から横に入ると、
ハナヒョウタンボク群落地とあり、県の天然記念物に指定されていた。 その先の池には白鳥
親子が住み、黄色い菖蒲が咲いていた。 その先に日帰り温泉の
千ヶ滝温泉があった。
温泉の名前の由来になった千ヶ滝が上流にあるが、時間の関係もあるので、あきらめた。
本日は追分宿から沓掛宿までだったので、半日で終った。 今回の二泊三日の旅で岩村田宿か
ら横川まで歩くことができ、京都三條から鴻巣宿までつながり、残すのは五十キロ程になった。
風呂に入った後、バスで中軽井沢まで戻り、しなの鉄道で信濃追分駅に行き、駐車していた車
で、名古屋に帰った。
温泉の詳細は、温泉めぐり・長野県/
千ヶ滝温泉をご覧ください。
平成18年6月