沓掛宿から軽井沢宿へは緑の中を歩いていける。 途中に長倉神社、市村記念館や歴史民俗資料館がある。
軽井沢宿は碓氷峠と横川関所を控えていたので、休息の場であるとともに歓楽の場でもあった。
明治に中山道が廃れると別荘地に生まれ変わった。 その先駆者が宣教師のクロフト・ショーである。
平成18年6月1日、軽井沢宿から坂本宿、そして横川まで歩いて、バスで軽井沢駅まで引き返し、しなの鉄道で中軽井沢駅まで来た (右写真)
既に十六時になろうとしているが、軽井沢宿まで歩こうと思う。
中軽井沢は、江戸時代の沓掛宿であり、駅の名も沓掛駅だったが、中軽井沢駅に改名されていた。
沓掛より軽井沢の方が名が通るからだろう。
中山道は、明治時代、信越線、現在のしなの鉄道の工事の際こわされ、駅の一部になったので、通ることはできない。
駅前を右折し、脇本陣だったますやの前を通り、湯川まで出ると国道に合流した。
旧中山道は右折していくのだが、国道の向こうに長倉公園の案内板があり、その先に長倉
神社の鳥居が見えたので、寄ることにした (右写真)
湯川は白糸の滝が源流といわれるが、つつじが満開で川面に映していた。 赤い橋を渡る
と、長倉神社があった。
この長倉の地は東山道の時代には長倉駅があり、また、官馬の
生産地の長倉の牧があったところである。
長倉神社は、延喜式神明帳記載のある古い神社で、長倉郷一帯の鎮守産土神として
古来より崇拝され、一千七百有余年の歴史があると神社の由来にある (右写真)
中世には長倉八幡宮とも呼ばれたようだが、祭神は譽田別尊、息長足姫尊、玉依姫尊で
ある。 境内に聖徳太子碑があったことは確認したが、一世を風靡した長谷川伸の沓掛
時次郎の碑があることは後になって知った。
先程のところまで戻る。
旧中山道が中軽井沢駅で分断されている反対側に向かう。
駅のホームの東京側に近いところの道を挟んで反対側に金網があった。
住宅地の中で金網の中だけは墓地になっていて、道に面して宮の前一里塚の石碑がある。
中山道は途中で一部ルートが変り、この一里塚は開設当時のものである (右写真)
その前の道を引き返し、、先程の湯川の手前で右側の狭い道に入る。
湯川の周りも分譲住宅が立ち並び、以前のように川沿いの道で鉄道線路をくぐり、旧道に
出るというのができない。 というか、当時と周りの景色が変ってしまった。
現在歴史の道とかいう遊歩道を建設中で、それが以前の道の代わりになるのだろう。
小生は狭い道を左にとると、橋に出た。 この橋が前沢橋だと思うが遊歩道の工事と
一緒に工事を行っていた ( 右写真 )
橋を渡り、中山道を歩く。
橋を渡ると住宅が続き、家が途切れたところから右にカーブし、登り坂となった。
藤の季節なのか、紫の淡い色をした花が沢山咲いていて、美しい (右写真)
左の台の上に馬頭観音なのか分からないが、仏像などを祀っていた。
少し歩くと林に変り、両脇には大きな別荘が並んでいた。
しかしこの林の中のいい道も長くは続かない。
鉄道と国道に遮られて分断されているのだ。
菓子処おらがの前で左折し、踏切を渡ると国道に出た。
正面が中学校で、その奥に離山(1255m)が見える。
横断歩道を歩き、国道の向こう側
に渡り、右折した。
少し歩くと、左側に池があり、森の中に立派な家が見え隠れする。
どなたの屋敷だろうか、かなりの敷地だと思いながら歩いた。
立派な屋敷門があった。 ここは雨宮敬次郎氏の屋敷があったところである (右写真)
雨宮氏は山梨県出身で行商から身を起こ
し、浅間山麓開発などの土地事業や鉄道事業、
鉄鋼や貿易など幅広い事業に投資した明治時代
の実業家で、東長倉村開墾事業で明治政府から初の藍綬褒章を受けている。
門をくぐり、左折すると右側に見えるのは雨宮氏が別荘として使っていた建物である。
これだけ広い敷地だとのびのびしている。
その先に洋館があった。 市村記念館と名付けられている建物である (右写真)
この建物は、近衛内閣を組閣した近衛文麿公が、第一別荘として建築したアメリカ式洋館で、創設に参加した軽井沢ゴルフ倶楽部でのプレーに訪れる際などで利用された。
政治学者の市村今朝蔵は、雨宮氏の孫で、学者村(南原文化会)を拓く拠点として、この
建物を近衛公より購入し、移築改修したものである。
市村家は六十余年使用していたが、軽井沢町に寄贈され、雨宮池とほとりに移された。
門の右側には歴史民俗資料館がある。 どちらも時間が遅く、終了していた。
国道に戻り、南原の信号を過ぎ、高架の下をくぐると離山の信号がある (右写真)
中山道は左の道へ入る。ここから先は碓氷峠を越えるまで、国道を歩くことはない。
両脇にある家は敷地も建物も普通で別荘としてではなく、日々の生活を営んでいるよう思えた。
歩くに連れて、森が深くなり、左手に離れ山が見える。 この道は離山ロードというようである。 右側にある離山公民館を過ぎたあたりから、広々とした敷地のある別荘が
多く見られた。
ただ、数十年前に比べると、別荘というものが大衆化したことは間違いない。
勿論建築方法が変ったというのもあろうが、重みや風格を持っておるのはそう多くはない。
野沢橋を渡って直進。ここには霊場の池から出ている雲場川が流れている。
最近会員制ホテルなどが増えてきた。
テニスコートもレストランもあり、ちょっとした別荘族の気分が味わえるのが人気の理由である (右写真)
また、軽井沢で結婚式を挙げるカップルが増え、教会は繁盛しているようすである。
唐松並木が続くと案内書にあったが、一部だけであった (右写真)
六本辻を直進すると、商店が現れ始め、有料駐車場も増えて行く。
道の両側が商店となったところが、旧軽ロータリーで、軽井沢宿へ到着である。
沓掛宿〜軽井沢宿は一里五町、四.六キロ程で、約一時間の歩きだった。
軽井沢宿は、追分宿から一里五町(4.6km)、坂本へは二里十六町(約10km)と、比較的短い距離だったが、
碓氷峠と横川関所を控えていたので、休息と歓楽の場になっていた。
宿場の京方の入口は、このロータリーで、江戸時代には枡形になっていたが、その面影は残っていなかった (右写真)
昭和五十年代まではバスターミナルだったが、今はバスが一時間に数本ここを通り過ぎるだけである。
ここは軽井沢銀座と呼ばれるが、江戸時代はここから東のはずれまで六町二十七間
(約700m)の距離に百十九軒の家があり、住民四百五十一人の宿場町だった。
本陣が一、脇本陣は四、旅籠は二十一軒あったが、宿場に二百六十二人の女性がいて、男性より多かった。
大田南畝は壬戌紀行の中で、 「 ここはあやしのうかれ女のふしどときけば、さしのぞきてみるに、いかにもひなびたれど、さすがに前の宿より賑わしくみゆ 」 と、
書いているので、飯盛り女が大勢いたことが裏付けられる。
宿場の中央付近にある土屋写真館は江戸時代の旅籠白木屋の跡である (右写真)
小林一茶も江戸と越後の行き来の際宿泊している。
明治時代の軽井沢付近の写真を
販売しており、それにより明治の軽井沢宿の様子が確認できる。
手前の教会通りの入口付近に、佐藤本陣があったようであるが、跡方もなくなっていた。
そこを入ると、中山道とその先の聖パウロカトリック教会の間に軽井沢宿明治天皇行在所跡という石碑があった。 軽井沢町教育委員会の案内板には、
「 明治天皇は北陸東海御巡幸で、明治十一年(1878)九月六日、中山道の峠町(熊野権現)に入り、御小休をとられた後、昼すぎに軽井沢宿に到着し、本陣敷地内に新設された御昼行在所で食事をとられ、小休止の後、車で発たれた 」、 とある。 石碑が軽井沢宿が歴史に残る数少ない証拠になった。 道を突き当たりところには、聖パウロカトリック教会が建っている (右写真)
この教会は、結婚式で人気が高いところである。
ほぼ中央にある観光会館は、四つあった脇本陣の一つであるが、脇本陣跡であることを示
す案内もなく、軽井沢町は、中山道には極めて冷たいのである (右写真)
観光会館で配るパンフレットにも中山道に関するものはなく、案内人も中山道に関する知識
はなかった。
それもやむをえないのかも知れない。 明治時代に鉄道が開通すると、中山
道を歩く人はなくなり、軽井沢宿は存亡の危機に遭遇した。 それを救ったのがクロフト・
ショーを始めとする外国人の別荘であり、カラマツ林の中での結核療養所の出現である。
第二次大戦以前にこの付近に多くの別荘が建てられ、室生犀星などの文人や実業家が避暑
に訪れた。 軽井沢宿は別荘族の御用達として活用され、軽井沢銀座となった。
昭和五十年までの高度成長期には銀座や新宿など、東京の有名店が夏の期間だけ出店し、
さながら東京村が出現したが、今は三笠会館がただ1つ残るだけである (右写真)
バブルが崩壊する頃からプリンスホテルのある駅南が軽井沢の中心をなすようになり、アウ
トレットモールもできたことから連休や夏休みには若い女性や団体バスが殺到するように
なり、軽井沢銀座は立寄地に変った。 特に新幹線が開通し東京から一時間で来られる
にようなってからはその傾向が加速した。 そば屋、手作りジャムやはちみつの販売所
が多いのが特色かも知れないが、雰囲気は京都清水坂と変らない。 中山道から少し入
ったところにある横町の神宮寺に寄った。 本堂の前の石碑には、表白山釈迦院神宮寺
とあるので、熊野権現の神宮寺だったのではないだろうか?? (右写真)
江戸時代の石仏が数体祀られていたが、この宿場で数少ない江戸時代を示すものであった。
街道に戻り先に進む。 このあたりは古い町並みが一部残っていたのだが、ブテックやお土産屋になり、古い建物はなくなっていた。
旅館つるやは、昔は茶屋だったが、明治以降旅館となり、芥川龍之介などの文士が好んで泊まった。 昭和四十六年に焼失した後、今の建物になった (右写真)
この辺りが宿場の東の外れで、宿場時代には枡形があったのだが、その形跡もない。
ここで、軽井沢宿は終わりになるが、江戸時代、宿場女郎が前夜の客を送り、別れを惜しんだという、二手橋(ふたてはし)まで歩く。
道の両脇の林の下にはびっしりと苔が生えて
いるので、かなりの湿気なのだろう。
少し歩くと、右側に芭蕉句碑があった (右写真)
『 馬をさへ ながむる雪の あした哉 』
松尾芭蕉が、野ざらし紀行(甲子吟行)で詠んだ句を天保十四年(1843)に、当地の俳人
小林玉蓬等によって、芭蕉百五十回忌に建てられたものである。 この説明板によると、
雪の朝、往来をながめていると、多くは旅人はさまざまな風をして通っていく。 人だけ
ではなく、駄馬までも普段と違った面白い格好でいくよ。 と、いう意味だとあった。
馬をさへとはそういう意味であったのか? 俳句は奥深いですね。
その前に、日本聖公会 軽井沢ショー記念礼拝堂という案内板があった。
手前に胸像、奥に質素な木造の教会があった (右写真)
これがアレクサンダー・クロフト・ショー記念礼拝堂である。
英国聖公会の宣教師・A・C・ショーはキリスト教布教の途にあって軽井沢に来たのは明治18年(1885)のこと。 軽井沢の美しい自然と気候がスコットランドに似ているのに感動してその夏と翌夏を家族と友人で避暑に訪れ、明治21年に旧軽井沢の大塚山に簡単な別荘を建てた。
これが軽井沢の別荘第1号である。
記念礼拝堂の中は、木のぬくもりがいっぱいという感
じがした (右写真)
教会の庭にあるショー氏の記念碑は別荘第1号を記念し、明治35年、地元人により建立
された。
その先には昭和六十一年にその別荘が復元したショーハウスがあった。
その先からは瀟洒な別荘が点在し、楢や白樺の中で別世界を演じている。
その先の二手橋は宿場女郎が旅人をここまで送り、ここで別れを告げ、二手に分かれた
ことから名が付いた。 従って、別の意味での軽井沢宿の終わりである。
軽井沢宿の現状に幻滅を感じながら、軽井沢駅まで歩いた。
途中にはイタメシやスナックなどがあり、立ち寄ろうかとも思ったが、小諸に宿をとり、しなの鉄道のダイヤが少ないので諦めた。
途中にすてきな並木通りを見つけた (右写真)
まさに針葉樹の並木であり、軽井沢らしいなあ、と思った。
再訪のときは、歩きたいなあ、と思っているうちに駅に着き、今日の予定は終えた。
平成18年6月