『 置 賜 さ く ら 回 廊  』 

さくら回廊パンフレット

東京駅で、 1枚のパンフレットが目に入った。 
取り上げてみると、 藍色の地に白色で桜が無数に描かれていた。 そして、置賜(おきたま)さくら回廊という文字が目に 飛び込んできた。  説明によると、 『 山形県置賜地方、 米沢盆地の北端の南陽市から白鷹町、 長井市まで、 約四十キロに及ぶこのルートに は、 樹齢五百年を超える桜の名木、古木、名所が多く点在し、 見事な桜の回廊を形成している。    』 と ある。 
なぜか心が惹かれた・・・・・


久 保 桜

平成十四年四月十三日、早朝の三時半に宇都宮を出発、 東北道に乗り、 北に向かってひた走る。 途中の サービスセンターは早すぎて、 売店はやっていなかった。 しかたなく、 自動販売機で、暖かな缶コーヒーを手に入れ、 眠気を覚ます。 福島飯坂IC で降り、 県道13号を行く。 道は思った以上に良く、 予定した時間より早い。 走る車も大型トラックだけである。   六時前には米沢市内に入る。 街はまだ寝っていた。 人ひとりも歩いていない。  大都会なら一晩中だれか起きているの だが、 この町はしんと静まりかえっていた。 町の活動が始まるのが遅いのだろうか? それとも、 土曜日のせいなの か?  米沢から国道287号を走り、 今泉でJR米坂線の踏切を渡り、 長井市内へ入った。 置賜さくら回廊のパンフレットの ルート図の最初にある久保の桜を訪れることにした。 地図を見ると右折なのだが、入り口が分からない。 やがて、 案内 看板を見付け、 ほっと安心。 右折してすぐの橋は、一台分くらいの車幅なので、 対向車を確認しながら渡る。 あとは、 道なりにいけば到着だ。 まだ外は薄暗い。 駐車場には、三台の車が止まっていた。 学校の校庭の隅という位置にあった。 
『 桜は、 エドヒガンで、樹齢約千二百年、高さ約十六メートル、根回りは約十二メートルで、 國の天然記念物に指定されて いる。 征夷大将軍坂上田村麻呂が、久保氏の娘の早世を悼んで手植えしたと伝えられ、米沢藩主はこの地を無税地に して保護した。 枝の広がりが40アールあるので、4反桜の異名をとっていた。・・・』 と案内にある由緒正しい桜 である。 


久保の桜


その桜がまだぼんやりとした夜明け前の佇まいの中で立っていた。 樹医に十二年面倒を見て貰っているということもあり、 以前に比べれば良くなっているのだろうが、 痛々しい感じがした。 枝の重みを六十本もの支柱で支えられている姿は、 元横綱曙を思い出させた。 花は大部分がつぼみで、少し早くきてしまったようだ。  少しの間、写真を撮り、  帰るころには、駐車場はかなりの賑いになっていた。 仙台ナンバーのOLが一人で回廊を全部見て回るのだと張り切って いたのが印象的だった。 


大 明 神 桜 

来た道を国道まで戻り、北上。 市役所を過ぎた交差点で左折し、 草岡の大明神桜に向かう。 県道11号に入り、少し行くと、左側に案内板を見付けたので、入って行く。 駐車場に車を置き、 案内に従って歩く。  すると、農家の裏みたいなところに出た。 
しんと静まりかえった中に、 幹が太い樹が立っていた。 樹齢四百五十年、高さ約十七メートル五十センチのエドヒガン ザクラで、 「 伊達政宗が鮎貝の合戦に、初陣として加わった際、戦いに破れ、この桜の洞に隠れ、 難をのがれた。 」  と、伝えられる。 種まきの時期に咲くので、 種まき桜ともいわれるそうである。 


草岡の大明神桜


樹の幹には、割れ目があるのだが、人が入れるくらいのものかは、確認できなかった。  黒い幹が印象深い。 上を見ると、白い花は二〜三輪咲いているだけ。 まだ、早いのだ。 もう一週間はかかるか?  残念!!
長くいてもしょうがないので、そこくさと次に向かう。

白兎のしだれ桜

白兎(はくと)のしだれ桜は、戴いた地図には赤色回転灯が目印とある。 それを求めて走ると、あった。  道から少し入った神社の左前。 駐車場がないので、 道に置いたまま、 車から出る。  この地方は、源義家(八幡太郎義家)が絡んでいる。 
「 安部氏と義家の戦いで、源氏は安部氏を滅ぼした後、 この地は荒れ山になってしまった。 それから、 三百三十 年経った明徳四年(1393)、 羽黒山詣での丹後國の僧が、旅の途中で池から砂金で出来た薬師如来を見付け、これを を携えてこの地にさしかかったところ、 白狐と白兎が現れ、西山に案内したので、葉山平にお堂を建てて祭った。 」 と伝えられる。 白兎は僧を案内した白兎から名付けられた地名なのである。
桜のある葉山神社のご神体はその薬師如来なのだそうだ。 神社に薬師如来というのは変だが、神仏混合の名残りかも 知れない。 
以上は少し面白い話である。 

白兎のしだれ桜


話がそれたが、 桜は五分咲きぐらいで、やや濃いパンクのつぼみが印象的だった。 日本三十三枝垂桜といわれ、 品種はシダレザクラ。 樹齢は、百二十年〜百四十年、高さは十六メートル、周囲は3メートル三十センチの大木である。  神社の宮司の祖先が植えたらしい。 少し霧が出てきたので、幻想的な写真になった。

釜の越桜

白鷹町に入る。 白鷹町には桜が多い。  その中の一押しは、釜の越桜である。 桜の下にある三つの石は、 八幡太郎義家が居陣したとき、 この石でかまどを築き、飯を炊いたと 言われるもの。  本来なら、 桜の向こうに雪を冠した山々が遠目に見えるはずなのだが、桜の枝も見えない位の霧である。  写真を撮っている人の顔も見えなくなるかと思うと、 はっきり現れるときもある。 しかし、 樹全体がきちんと見えることはない。  霧の中で、 桜を撮ったことがなかったので、 困った。 枝振りの良さそうな部分だけを撮ってみる。 数カット撮ったが、 幻想的な写真になった。 

釜の越桜


桜は樹齢八百年と言われるエドヒガンザクラで、高さは二十メートル、太さ六メートル、枝張り二十七メートルX二十二 メートルと、県内一の巨木である。  次回は青空をバックに、 この樹のスケール感を出して写したいと思った。 

薬 師 桜

延暦十六年(797)、坂上田村麻呂が奥州征伐の時、手植えしたものと伝えられている薬師桜は、すぐ近くにあった。 通り 越して引き返したくらいで、道の脇にあった。  樹齢千二百年と聞いていたので、 大きな期待をしていたのだが、 実物を見てがっかりした。 枝が少なく、なんとなく 貧弱に感じたからである。  大枝を遠く伸ばし、樹冠が周りを覆った時代もあったようだが、雷や自然災害などにより、 被害を受けてしまったのだろう。 

薬師桜


しかしよく見ると、 根回りは八メートルと巨大で、ごつごつした瘤がのたうち回るような歴史を感じさせ る胴回りである。 その上に、枝や花が・・・ と想像すると、やはり凄い桜だなあと思えてきた。  千二百年もの間、 じっと大地に根を下ろし、なにを見つめてきたのかと思った次第である。 夕鶴の國だけあってロマン 溢れる民話が多い。 この桜も例外ではない。 悲話である。 
「 坂上田村麻呂が吹く笛の音色に、引き寄せられた娘が、 やがて将軍の子を宿すが、生まてきたのは黄金の太刀だっ た。 娘は蛇の化身なのだが、将軍はそれに気づかず、 太刀で蛇を殺してしまう。 娘を哀れんで植えたのが薬師桜である。  」 というのである。

山口奨学桜

山口奨学桜へ、向かう。 奨学の名の通り、学校にある桜だった。  この桜は、 これまでの桜と違い、 何百年も時をきざんきたものではない。 

山口奨学桜


明治時代に、 「 地元の資産家が、貧しい家庭の子弟を学校にあげるため、桜を植えて、奨学資金にした。 」 という 心温まる逸話を持つ桜なのである。  桜は、百年近い歴史を重ね、大きく成長していた。

十二の桜

山口奨学桜の近くに、十二の桜があるので、行ってみた。 十二の桜の十二とは、十二薬師堂という意味で 、四百年前のエドヒガンザクラの三代目である。  今度は少し離れていたが、やがて、左奥に数本桜が立っているのが見えた。 ぬかるみになった道を入って行くと、桜は あったが、 花はもちろん、蕾もかなり固そうだった。 種まき桜というそうだが、これではまだ春は今一歩というのだろ うか?、と思いながら、桜をあとにした。 

赤坂の桜

子守堂の桜というのがあるのだが、見付からないので、パスして、赤坂の桜へ向かう。  商店の駐車場に置き、坂道を少し登る。 説明板によると、 「 樹齢は九百年であるが、昭和初期に火災に遭い、半焼して しまった。 」 という。 現在の木は、古株に新たに梢が出たもので、十メートル近い高さはあるが、どう見てもぱっと しない、ひこばえが生えた感じの桜の木である。 道から少し見上げた位置にあるのも影響しているか?
花の気配もなかったので、 咲いたときのことは想像できないが、 わざわざ見に行く程のものではないかなあと思った。
写真もとらなかった。

八乙女種まき桜

八乙女種まき桜は、 山形鉄道フラワー長井線の終点、荒砥駅の近くにあった。  周りはゆったりとしているのだが、駅周辺だけは少しごちゃごちゃしていて、車も置けないような場所だったが、無理に 置いて、石段を登っていった。  八乙女八幡神社の境内にある桜で、春の苗代の種まきの頃に咲くので、種まき桜の名が付いた。 
神社には、 「 八幡太郎義家が東征の折り、日頃崇拝する京都の石清水八幡宮に向かって遙拝し、この丘に弓を立て奉り、 八人の乙女に舞楽を納させたのが神社の始まり。 」 、という話が伝えられているという。

八乙女種まき桜


エドヒガンの樹齢五百年だが、幹は太くごついのだが、枝が欠けているので、淋しい感じである。  高さ二十メートルもある古木だが、往年の面影がないように思えた。

殿入り桜

荒砥駅でUターンし、 国道287号、畔籐バイパスを南に向かう。 畔籐バイパスの終わりのところに、 ファミリーマート があったので、 一服する。 原のしだれ桜は、場所が分からなかったので、そのまま通過し、殿入り桜へ向かう。 
殿入り桜は、 白鷹町と長井市の境の部落の中の少し小高い坂に立っていた。 上には、古峰神社があるようだ。 

殿入り桜


樹齢六百八十年、高さ十六メートルのエドヒガンである。  米沢藩主が巡視の際立ち寄ったので、 その名が付いたという説明があり、 昭和初期は茶屋もあり、近隣の村から花見客が 訪れ、賑わったらしいが、今はその面影もなく、しーんと静まりかえっていた。  斜面の添木でえんこらさと、風雪に耐えているような風情である。 奥には、その樹の子孫かもしれないが、若い木を見か けた。 

再び、久保桜へ

そこから、しばらく走り、長井市市街に入る。  外田公園の桜と最上川堤防千本桜 は樹齢八十年〜百年のソメイヨシノだが、 花は終わっていた。 
長井大橋を渡る。 最上川は雪解け水で澄んでいた。 ここに来て分かったのだが、朝の霧は、この川の水温と外気温の差に より、霧が発生したものだった。 この時期に時々起きるのだろう。  朝早くてよく見えなかった久保の桜 へ、 もう一度行ってみた。 

久保桜


六時間も経っていないのに、つぼみが花に変わっていたのに驚く。 
更に、車が次から次にと訪れるのには驚いたが、 駐車場から出るのにも苦労した。

烏帽子山公園の桜

田んぼ道を走り、県道に出て南陽市に向かう。  南陽市は、民話「 鶴の恩返し 」 の発祥の地である。 深山の黄桜は開花が一ヶ月遅いとあったので、そのまま市内に 入った。  赤湯温泉のある町というより、赤湯温泉の方が有名なのだろう。 奥羽本線の駅も、赤湯温泉なのである(フラワー長井 線には、南陽市役所駅というのがあるが)  赤湯温泉なるもの、私はこれ まで全然知らなかった(申し訳ない!!) 上山(かみのやま)温泉、蔵王温泉や湯野浜温泉などに比べ ると、マイナーかなあ と思っていたが、 開湯九百年の歴史があり、 上杉家の別荘になっていたという由緒正しい旅館 も残っているような古い温泉町なのである。 今は米沢観光とセットになっているのだろうが、市内に入ると、温泉旅館が 連なって建っていた。 温泉街に車を置き、八幡神社の階段を登ると烏帽子山公園があるが、ここの桜は見事だった。

烏帽子山公園の桜 烏帽子山公園の桜 烏帽子山公園の桜

公園には、八百本ほどの樹齢百年のソメイヨシノやシダレザクラ、カスミザクラが植えられていた。 ソメイヨシノが中心 だが、放鳥目白桜などのしだれ系の桜も結構あり、今回の置賜さくら回廊めぐりの中では唯一華やか桜との出会いだった。  また、登った向こう側からは山形新幹線の通って行くのが桜越しに見え、絵になっていた。 丁度桜祭りの開催中 で、人がごったがえしていた。 カラオケ大会や屋台の店など、花見風景を満喫しながら、遅くなった昼飯を頂いた。  これで、すべての桜は終り!!
そのまま南下し、高畠町で、今回の旅の総くくりとして、最近できた日帰り温泉の湯に浸かり、汗とほこりを落とし、疲れをとった。

旅の感想

今回旅した回廊の桜は、三春付近の桜には花といい、樹のスケールといい、及ぶものではなかったが、坂上田村麻呂や義家 の伝説に彩られたロマンの漂う花達だった。 

世紀を超える、街道の風情
薫風そよぐ、桜の道。
いきとし生きてきた類稀な古樹達が、
今年もまた静かにそして厳かに、
風雅の季節を物語る。

寒い風雪に耐え、 生き続けている桜達によくがんばっているね、と声をかけたくなる桜旅だった ・・・・・・・・・・ 


(訪問)平成14年4月13日
(文作成)平成14年4月30日

           桜紀行・東北地方(2) 『三春の滝桜』 へ                         



貴方は30万+かうんたぁ。目のゲストです!!