『 信州・高遠の小彼岸桜に会いに 』

高遠城を舞台に武田氏の一族・仁科盛信が織田氏の大軍と戦ったが、壮烈な最期を遂げた。 小彼岸桜は彼らの血潮に 似た色といわれる。
また、大奥の絵島が歌舞伎俳優の生島との恋が発覚して、遠流されたところでもある。
そのような土地なので、多くの文人・歌人が訪れて、俳句、短歌などを残している。 


高遠の桜に会いに

「 たかとほは 山裾の町古き町 ゆきかふ子等のうつくしき町 」 −− 田山花袋
「 高遠、その地名の高雅さは、たかだかとした一幅の絵を見るようです。 」 −− 司馬遼太郎
「 この町や ひとは幾たびかわれども 花は咲くなり 春くるごとに 」 −− 太田水
「 山峡は ここに極まる兜山 三峰川を前に 城は立ちけむ 」 −− 窪田空穂
「 しなのなる 伊那にはあらじ かいがねの積もれる雪の 解けんほどまで 」 −− 源重之
「 いにしえの 流人の秘話を思ふ眼に 時雨過ぎゆく 高遠の山 」 −− 木俣修


高遠の桜は、中京や近畿圏はもとより、首都圏。 そしてかなり離れている栃木県でも、観光会社のちらしメニューに入って いるほど、
有名である。 これまでも、何回か行くチャンスはあったが、花より団子の年齢でもあったし、交通渋滞の言葉に 怖れて、行かずに
終わっていた。  okanいわく、桜狂いというのなら、批判しないで目で確認してからにしてよとの一言で、Max氏の桜はなんでも知っ
ている というプライドがおおいに傷つき、今年の桜紀行のフィナーレは高遠に決定したのであった。

タカトウコヒガンザクラ 四月十八日(金) 午前四時出発。
今年の桜の開花予想は大外れで、あてにならなかった。 昨年が大変早い開花だったので、同じ時期の予想をたてたが、 三月に入って雪が降るなどして、予想がたてられなくなってしまった。 観光協会のホームページをながめ、様子を窺って いたが、月曜日に開花し、週末には南面で七分咲きの予想がでていた。 当初は月曜日まで待とうと思ったが、花のいのち は短いので、金曜日にでかけることにしたのである。  東名、そして、中央道に入ってもこの時間がらがら、早く着きすぎても、門が開いていないので、時間調整をしながら走る。  途中、駒ヶ根パーキングで朝飯を兼ねた休息をとる。  伊奈インターでおり、高遠に向かう。 少し道を間違えたが、七時半には到着した。  城の周りは交通規制になるのだが、早朝なのでゆるやか。 南側にある駐車場に入れ、一服し時間を待つ。
タカトウコヒガンザクラ 八時近く、車をでて、入口に向かう。 すでに多くのひとがでていた。
(注)混雑が予想される日は予定より早く入れているみたいですね。
入ったのは南ゲート、法憧院郭(ほうどういんくるわ)というところらしい。 城南にあたるこの付近は、たしかに、桜が 開花している。 七分咲きくらいか?
ここの桜は、タカトウコヒガンザクラという品種であると説明がある。 紅の色のあでやかさと小ぶりな花が特徴だ。
地元の人達は、いっせいに咲き、ぱっとと散ってしまう花のいさぎよさと、血汐のように見える花色に、織田軍と戦い、 壮烈な死を遂げた武田の大将、仁科五郎盛信を重ね合わせ、大事に育ってきたという。
最初から城に植えられていたものではないらしい。
太鼓櫓 明治八年、高遠城が壊されて公園になった際、町内の小原より桜が移植され、増やしてきた結果千五百本もの数になったとある。  まさに努力の賜物である。
木と木との間隔が狭く、ぎっしりとつまった感じがした。
途中、河東碧梧桐や広瀬奇壁の歌碑があった。 南郭からは雪をかぶった南アルプスが見えたので、それを入れた桜をとろう としたのだが、花がほとんど咲いていないので、あきらめた。
本丸に入る。 太鼓櫓があって、人が登っている (右写真)
試しにのぼったが、あまり見晴らしがよいとはいえなかった。 それでも、眼下に桜が目に入った。満開になればすごい だろうな!と思った。

ぐ〜ると回って問屋門をくぐると、橋があった。 
桜雲橋と桜 桜雲橋である。 その名の通り、桜が覆い、スナップのベストショットポイントで、記念写真のオンパレートである。 
橋の下に一団がいて写真を撮っている様子である。 
降りてみると、先生らしき人がなにか説明している。 
カメラスクールの一団らしい。
池に写っている桜をとろうとしている。
お相伴して撮ってみる。 
風があって水面がなかなか鏡のようにはならない。 三十分くらいいたか?
一団が動き出したのを期に退散することにした (右写真)
このあたりはまだ三分咲きなので見た目では絵になるが、写真にはならない。  北口ゲートから外にでて、坂を下ってゆく。  まだ九時半を過ぎたばかりだが、駐車場に入れない車が列になり始めていた。  進徳館(旧藩校ー国史跡)を見学する。 教育熱心な殿様だったようだ。 
三の丸駐車場前の小高いところから南アルプスと桜を組み合わせた写真をとることにした。 
白く雪をかぶった山と桜との構図は絵になると思ったからである。 
南アルプスと桜 これがなかなか難しい。 これぞという構図で撮ろうとすると、電線や下の柵が入ってしまう。
桜のつぼみが多く、満足のいく写真はとれなかったが、それはそれで楽しかった (右写真)
駐車場に戻る頃には温度も上がり、桜が急にぱっとひらたような気がした。 
この様子だと、月曜日頃が見頃だろう。
駐車場の脇に、絵島囲み屋敷なるものがあるので、入った。 
絵島は高遠観光のもう一つの目玉である。
大奥にいた絵島が歌舞伎俳優の生島との恋が発覚して、生島は三宅島、絵島は高遠へ遠流された話は歴史で知っていたが、 くわしい話は知らなかった。  絵島は六十一歳まで生きた(当時では長生き?)というが、この囲い屋敷のなかで、どの ように生活していたかはわからないが、屋敷をみるかぎり普通の生活が保障されていたような気がした
(説明では武士や足軽に昼夜見張られていたので不自由な生活を送ったとあったが)
折角きたので、絵島のゆかりの寺・蓮花寺に行こうとしたが、車が渋滞していたのでやめた。
絵島は、遺言により、日蓮宗のこの寺に葬られたという。 絵島の墓と遺品がある。 
しゃくやく、あじさい、ぼたんが 咲く寺としても有名のようだ。
今井邦子の歌碑「 向う谷に 日かげるはやしこの山に 絵島は生きの心耐えにし 」 
が建てられているが、華やかな大奥の生活そして江戸の町、それに比べ、寂しい山里の暮らし
を彼女はどう思ったか、 味わいのある歌である。    別の機会にいってみたい。

さくらの湯

折角きたのだからこの地に湧く温泉に入っていこうと探す。  町の中心部から少し登った小高い丘の上にある ことが分かった。 高遠温泉さくらの湯である。 十一時を過ぎていたが、駐車場はがらがら。 町営の日帰り温泉施設で、 ローリングバス、ボディシャワーなどもあり、小ぶりではあるが露天岩風呂もあった。
湯はぬるめだが、無味無臭のアルカリ性単純泉で、入った瞬間ぬるっとした感じがする。 長時間入れば、湯上がりは ポカポカする温泉らしい風呂に思えた。
露天風呂脇の桜が丁度良い見頃で、風呂の中から花見ができたのは最高のご馳走であった。

高遠温泉さくらの湯の詳細は、温泉めぐり・長野県をご覧ください。

(ご参考) 高遠の歴史

高遠城桜雲橋 高遠の町は今でこそ、時代に取り残された山あいの静かな町ではあるが、明治までは、信濃統治上、 重要な場所だったようである。  高遠の属する信濃>は、かなり古い時代から諏訪氏が勢力を持ち、南北朝のころには、諏訪氏一族の高遠氏が この地を支配していた。  天文年間に入り、武田信玄が信濃に侵略し、高遠も支配下に置き、高遠氏は切腹させられ、高遠家は断絶してしまった。  信玄はこのとき、二十五才の若さだっだが、この地が、諏訪から伊奈路に入る場所に位置し、駿河や遠江に進出するための 重要な拠点であることに着眼し、城をもっと堅固に改築した。  高遠城は、月蔵山の山裾が西にのびた地点にある兜山と呼ばれる丘に建てられており、南方へ三峯川が張り出した、伊奈谷の 中でもっとも堅固な地形の上にあったが、山本勘助の縄張りによると言われる築城技術駆使した城に、拡張改築させたの である。  その上、知略優れたと誉れの高い、弟の武田信繁を城主として配置した。  信玄の死後、武田氏の当主になった武田勝頼は、叔父にあたる武田信繁を嫌い、
高遠城図 信濃安曇郡の名家、仁科家を継いた仁科 五郎盛信(信玄の五男)を高遠城主に任じたのである。  織田信長は、国家統一の為、武田討伐を決意する。 そして、織田信長の長男、信忠の軍が高遠に攻め入ってきた。  仁科盛信は、信忠の大軍を向こうに回し、勇猛果敢に戦ったが、多勢に無勢、壮烈な最期を遂げ、要塞堅固を誇ったこの城 も落城したのである。
徳川家康は、秀吉の小田原攻略の後、関東に配置換えが命じられ、関東入部し、旧武田領を領することになった。  家康は、関ヶ原合戦後の慶長六年、下総国(千葉県)多古城を統治していた保科正光に、高遠城に移るよう命じた。  保科正光は、下総多古の名刹、樹林寺観音堂の土を運んできて、お堂を建てた。 そして、夕顔観音を写し作って勧請した のが、樹林寺である(保科氏の祈願寺)
保科正光は、武田信玄の娘・見性院の仲介で、秀忠の庶子を嗣子として預かり、保科正之とした。 保科正之は、高遠藩3万石の譜代大名になる。
三代将軍家光は、保科正之が異母弟であることを知り、山形二十万石、次いて、会津若松二十三万石の城主に任じ、補佐役を 命じたので、保科正之の高遠統治も、寛永十四年の、山形への転封で終わる。 その後、保科正之の会津藩は、松平姓を 名乗り、会津若松で明治維新を迎えるのである。  なお、元々の保科家は、保科正光の従兄弟(父正直の三男)が継いで、上総國飯野藩(三千石→二万石)となって行く・・・・

高遠城には、保科正之に代わり、山形から鳥居忠春がきた。  そのいきさつは、以下の通り。
山形藩藩主鳥居忠恒が後継を決めないまま死亡したため、無嗣廃絶し、二十二万石を没収されたが、将軍家光が祖父、鳥居 忠春の功を惜しんで、忠恒の異母弟、鳥居忠春に名家の存続を認め、高遠三万二百石を下賜した。  しかし、高遠藩主となった鳥居忠春は家臣を手打ちにするなど乱行が多く、侍医に刺殺される。 また、その子、鳥居忠則 も部下の監督下行届による出仕を止められ、それを恥じて自殺してしまう。 お家断絶は免れたが、その子、鳥居忠英は、 能登国下村藩一万石へ移封され、高遠藩は幕府直轄領となった(約一年間の間で、その後、下記の内藤氏となる)
下村藩主になった鳥居忠英は有能だったので、その後、下野国壬生藩三万石に加増され、鳥居家は、そこで明治を迎えて いる。

東京・新宿との関わり

藩校進徳館 高遠藩には、元禄四年(1691)、摂津国富田城の内藤清枚が城主になり、その後、内藤家が明治維新までの百八十年に わたり、この地を治めた。 高遠藩は財政的にとても苦しく、代々の藩主はとても苦労したらしい。 最後の藩主、内藤 頼直は、藩校進徳館を開き、藩士子弟の教育に勤め、長野県が教育県になる基礎を築いたといわれる (右写真)
話が少しとぶが、 高遠藩の祖である内藤清成が家康に付いて鷹狩りに行ったとき、江戸城西部の原野二十一万坪を拝領し、江戸屋敷として 使用していた。  元禄十一年(1698)、敷地の一部に、甲州街道の第一番目の宿場として、新設されたのが内藤新宿である。 それまでは、 甲州街道の第一番目の宿は、高井戸だったが、江戸から遠いことから新設されたのである。 新設された宿場の内藤新宿 が、新宿と呼ばれるようになった訳ですね!!  新宿御苑は、高遠藩内藤氏の江戸屋敷のあったところといわれる。 

以上のように、高遠は、歴史上いろいろなエピソードを持った土地だったのである。  高遠の地は、明治になっても杖突峠を越える街道がたよりだったので、中央線や飯田線の開通により、人の流れが変わり、今では陸の孤島(?)になってしまいました。 

参考文献:アドバンスクリエイト社「信州・長野 高遠・長谷」
       池波正太郎「真田太平記」 他

(訪問)平成15年4月18日
(文作成)平成15年5月28日

 桜紀行 中部地方(2) 中山道・木曽路の桜                        



貴方は30万+かうんたぁ。目のゲストです!!