2009年4月19日(土)、 早朝に家を出て、飛騨白川郷に向かう。 政府が打ち出した景気対策の一環として、3月末から土日
曜日は高速道路をどこまで走っても千円という施策が始まったので、これを利用して、これまで行ったことがなかった飛騨
白川郷へいくのである。 早朝だったので車はスムースに走り、六時半には白川ICに到着してしまった。 坂を下りていく
と、左手奥に社殿が見えた (右写真)
左側にある公民館の駐車場に車を停め、神社へ行った。 鳩谷八幡宮という名の神社で、神社の由来は分からなかっ
たが、少し離れたところにあった石碑には、御母衣(みぼろ)ダムで沈んだ幾つかの集落
の三つの神社を合祀したとあった。 社殿の前には、 「 神代の昔、天空を駆けていた神馬がたまたま
この地に飛来し、風光明媚な様子に見とれて休もうとした際、誤って尻もちをついたのがこの岩であるという。 岩の左手に
馬の頭跡、中央四ヶ所に踏んばった蹄の跡が見られる。 」 と記された神馬の尻もち岩の看板と岩があった (右写真)
白川郷は、 「 寿永二年(1183)、木曽義仲の上洛を阻もうとした平維盛(たいらのこれもり)
は倶利伽羅峠(くりからとうげ)で義仲軍に大敗し、多くの平家武士が落人となって庄川流域の隔絶した
場所に逃れた 」 という 平家の落人伝説が残る処。 神社の左手に、麝香杉の湧水があり、傍らの石碑には、
「 飛鳥時代の頃から神殿の真下から湧き
出る清水と、室町時代の頃に境内麝香杉の伐り株の間から湧き出た。
里人は飲料水や無病息災、長寿の水として親しんできた。 毎年壱月末大祭のさなかに造り込む濁酒(どぶろく)用の真水
として、当神社や近くの神社で広く用いられ、また、真冬三メートル余の豪雪でも、池面に湯気が漂う温かな水になった
り、盛夏に身をきるような冷たくまろやかみのある水は岐阜県の名水としての選定を受け、・・・・ 」 と
あったので、早速柄杓で汲んで飲んでみた (右写真)
くせのないマイルドな水なので、持参していた飲用水用のポリタンクに入れて、自宅で飲むことにした。
鳩谷八幡宮に残る麝香杉跡は以下の歴史を秘めている。
「 白川郷が、史実に登場するのは鎌倉初期の建長五年(1253)、親鸞の弟子、嘉念坊善俊(御鳥羽上皇第十二皇子)が庄川沿
いに浄土真宗を布教してからである。 この頃の飛騨は、美濃白山神社長滝寺の社領地が大部分で、白山信仰を中心とする
天台系密教の強い影響下にあった。 真宗の布教を始めた善俊は、美濃国では白山長滝寺の勢力に阻まれて失敗、庄川沿い
に飛騨に入り、白川郷のここ鳩ヶ谷に道場を構え、熱心に教えを説いた結果、農民たちの間に浄土真宗が広まっていった。
これが飛騨浄土真宗の始まりである。
白山長滝寺の勢力が衰えてくる頃、内ヶ島氏が信州から進出し、白川郷を支配した。 この頃、加賀や越中などで興った
一向一揆の勢力が白川郷にも及び、内ヶ島氏との間で武力衝突を頻繁に繰り返した。 文明八年(1476)、内ヶ島為氏が、
正蓮寺に籠った僧、明教を焼き討ちする事件を起こしたが、蓮如上人の仲裁で和解が成立し、以後、両者の険悪な関係は解
消した。 永正二年(1505)、善俊から十代目の明心は、内ヶ島為氏の支援のもと、正蓮寺を再建するにあたり、境内の稀に
みる巨木の麝香杉を伐り、牛に曳かせて進めたが、牛が倒れたので、その場所に正蓮寺を建立することにした、という。
徳川家康の時代になると、飛騨は金森長近の所領になったが、長近は照蓮寺を高山に移転させ、広大な寺域を与えた。
これが高山別院照蓮寺である。 一方、もとの中野の照蓮寺は、中野御坊と呼ばれて残り、白川郷の信仰の拠り所になっ
たが、後に御母衣ダム工事で湖底に沈む際、高山市城山へ移転した。 これが中野照蓮寺で、一本の木で建立された真宗本
堂では、日本最古の現存する建物である。 従って、高山には二つの照蓮寺がある。 」
駐車している車は、近くの川に
魚釣りにきているようだが、駐車場を探すのも面倒なので、このまま車を置き、庄川に
沿って歩った。 白川小学校前に出て、川を渡ると、国道156号が通る三叉路に出る。
白川小学校の桜は満開で、花びらが風にのってひらひらと目の前を通り過ぎていった (右写真)
白川郷はまさに春のさなかなのである。
橋を渡り、国道で右折し、その先左側に入る小道を上ると、民宿大田屋の前の桜(下写真の左側)は
満開だった。 大田屋の脇を上っていくと、国道360号に出た。 少し歩いた右手に展望台近道とあったが、
それを無視してそのまま歩いたら、かなりの遠回りになった。
途中に民宿の伊三郎とわだやがあり、道の反対側に大きな桜の木があった(下写真の右)
桜の花は白ぽいピンクで、平地に比べ上るのが遅い太陽に照らされて光っていた(下写真の中)
しばらく歩くと、右手に上る車道があるので、これを上っていくと、頂上には駐車場があり、その先に小さな公園がある
ので、入って行くと萩町城址の標柱が建っていた (右写真)
案内板には、 「 築城年代は未詳ですが、、南北朝の頃、南朝の公家達が隠れ住んだ城といわれています。 そ
の後、内ヶ島上野介為氏が信州より入り帰雲城を築城しました。 その時、白川郷に勢力を張っていた正蓮寺
(後の照蓮寺)を攻め萩の白川郷を掌中にしました。 内ヶ島の家臣山下大和守氏勝が萩町城を代々の居城としました。
城主氏勝は力が優れ強弓を引いて七・八丁距てたヤマミズの木に射ちこんだといわれています。 氏勝は内ヶ島氏の滅亡
の後、徳川家に仕え名古屋城の
築城に献策しました。 」 と書かれていた。 城といっても砦のようなものだったのだろうが、その痕跡は残っていな
かった。 公園の手前には飲食店の駐車場があるが、飲食店の方向に入っていくと、展望台になっていて、萩町
集落が見下ろせるところに出た。 ここには車で訪れた先客がいて、わいわい言いながら、桜の脇で写真を撮って
いた。 小生も仲間に加わり、しばらくの間、写真撮影に没頭した (右写真)
白く雪をかぶった山々が遠くにあり、眼下には合掌造り民家が道に沿って点在している(下写真の右)
望遠を拡大すると、民家の両脇には田畑が広がっていることに気付いた (下写真の中)
桜を入れての写真も撮ったが、田畑はまだ春のけはいには遠かった (下写真の左)
萩町城址の下に降りる道を下って行くと、右側に日本ナショナルトラスト合掌文化館がある。 旧松井家の建物を
財団が買い取り、夏には一般に開放している施設である (右写真)
白川郷にはもう一か所、財団が買い取った建物がある。 明善寺の北側にある旧寺口家である。
合掌造りの家が誕生したのは江戸時代中期以降のようで、その誕生には養蚕との関わり
がある。 白川郷は、もともと寄棟茅葺屋根が主流だったが、江戸時代に入り、養蚕業が盛んになると、白川郷では
養蚕スペースを設けるために、家の構造を三層や四層にして、切妻合掌造りが誕生した、という。
その先の三叉路を右折して両脇が畑の道を歩いていくが、いただいた地図によると、東通りとあった。 右手奥に赤い花が
びっしり咲いた木があり、その前に黄色に黄緑が混ざった花が咲く木があり、その左側には背が低
いが桜と思える花が咲いていた。 春が一気に押し寄せたという感じである (右写真)
「 化学繊維の出現により、絹産業は打撃を受け、養蚕業で生計をたてていた白川郷では廃業に追い込まれ、若い人達は仕事を
求めて、村を出て行った。 また、御母衣ダムの建設により、三百戸以上の合掌造り民家を湖底に沈め、過疎化が一気に
進んだ。 ダムの建設や村外移住のために無人になった合掌造り民家が
都会の料亭や民家園に売られたのは昭和五十年頃のこの時期である。 」
その先の左手に大きな合掌造りの建物は、国の重要文化財に指定されている和田家である。
萩町合掌集落で最大規模を誇る合掌造りで、江戸時代には名主や番所役人を
務めるとともに、白川郷の重要な現金収入源だった焔硝の取引によって栄えたという家柄で、現在も住居として活用しつ
つ、一階と二階部分を公開している。
九時から十七時まで見学できるが、300円必要 (右写真)
屋敷の
前に流れる小川に沿った小道を進むと、川端には黄色い水仙と桜が咲いていた。
小川にかかる小さな橋を二度渡ると、合掌造りの家がある道に出た。 その先、右手の奥まったところにある家は、神田家
で、ここも300円の入館料をとり、公開している (右写真)
合掌造りの家が村外に流失していく姿を見た荻町集
落の人達は、昭和四十六年(1971)、 「 売らない、貸さない、壊さない 」 の三原則を定め、茅葺屋根の葺き替えに補助金
を出したり、民家の外観を壊す改装は行わないようにした。 その後、国道156号線が改良されたことと連動し、観光を
業とするように
なったことで、今日のような多くの合掌造りが残った。
ここから先は、おだんご屋、民宿、飲食店などを営んで多くの合掌造りの家が残っていた。
桜の木が合掌造りの家を覆うように咲いている (右写真)
神田家の反対側にある奥まった建物は長瀬家で、道の脇にある看板には、
「 当家の合掌づくりは五代目当主民之助により明治二十三年(1870)に建造されました。 白川の自然に育まれた
樹齢一五〇〜二〇〇年の天然檜や樹齢三〇〇〜三五〇年という栃、
欅、桂等の巨木が使用されております。 五階建て合掌造づくり
は三年の歳月と当時の金で八百円、米百俵、酒十一石八斗と白川郷民の結の心で完成
したといわれています。 (中略)
先祖が加賀百万石前田家の御典医を勤めていたことから、
前田家から拝領した品も多く伝わっております。 (以下略) 」 と、あった。 平成十三年からの大屋根の葺き
替え工事はNHKで放映されたとある (右写真)
茅葺屋根の耐久年数は三十〜五十年で、葺き替え工事には三千万円以上かかるといわれるから大変である
が、それ以上の問題は人手確保である。 葺き替え工事には数百人もの人手が必要なので、村中が協力して役割を分担し、共同で屋根葺き
作業を行うのが結という組織である。 集落の人口が減る
と結が結成できなくなる。 そうして消えていった集落もあるので、深刻な問題のようである。
交差点の左側の狭い道に入り、右手を見ると、合掌造りの家が何軒かあるが、右から二番目の家は、窓もなくどういう建物
だろうかと、気になった (右写真)
交差点に戻り、直進すると、左側に合掌造りの家があり、その先には鐘楼門があり、その奥には茅葺き屋根の建物が建って
いた。 左側の合掌造りの家は先程右側に見えた家である。 鐘楼門は、約二百六十年前の寛延元年(1748)に創立された
浄土真宗の明善寺という寺院のもので、その奥にある建物が
本堂で、手前の合掌造りは庫裏である。 鐘楼門にある石碑には、 「 鐘楼門は享和元年の建立されたものだが、
鐘は戦後再建されたもの。 本堂は、文化六年〜文化十年にかけて、高山市の大工により建造された。 」 と
ある。 また、庫裡前の 明善寺 庫裏の案内板には、 「 当村一番大きな合掌造りです。 本堂
築270年以上 庫裏築200年 高さ15m、建物面積100坪・・・ 」 と書かれていた (右写真)
それにしても、本堂、鐘楼門、庫裡ともに茅葺きである寺は、全国的にも珍しい。 明善寺を過ぎ、交差点を直進すると、
白川八幡宮がある。 白川郷の祭で有名なのが、どぶろく祭でこの神社を始め、先程の
鳩谷八幡宮などで十月中旬に行われて、祭りの日のために仕込まれたどぶろくが祭りの時期だけ飲むことができる。 ここ
から国道に出て、少し先の交差点を左折すると、こちら側にも合掌造りの家が多くあった。 この道を直進すると、であい
橋を経て、駐車場があるせせらぎ公園に出る。 小生は西通りを歩き、車へ向うと、道端に芝桜が植えられ、畑には水仙が
咲いてる風景に出会った (右写真)
左側にある本覚寺の境内のオオタ桜の石碑には 「 この桜の木は昔から塩釜桜といって、
花が咲く始めると、塩釜桜が咲き始めたぞ ササゲを植えようか!! といって、農作物の播種の目安にしてきました。 」 とあり、
五月上旬に
咲く県内最後の遅咲きの桜である。 また、 「 昭和
四十四年にこの地を訪れた植物画の大家太田洋愛画伯がこの桜を写生し、一枝を持ち帰り、専門家に見てもらったところ、
宮城県の塩釜神社にある天然記念物の塩釜桜と同種ではなく、九十枚以上の花弁を持ち、メシベの数が十五〜二十本と多い
ことから新種であること、
が判明し、画伯の名をとり、オオタザクラと命名された 」 とある。 見上げた感じでは桜はまだ固い蕾のよう
に思えた (右写真)
この先で道は国道に合流したので、おみやげものを売る店をみながら国道を歩く。 道が左にカーブした左側を少し入った
ところに、白川郷の湯があったので、そこで温泉に入り、一服した。
白川郷の湯の詳細は、
温泉めぐり・岐阜県をご覧ください。
帰雲城趾〜旧遠山家民俗館
十一時半、入浴を済ませ、荻町集落をあとにして、国道156号を走り、荘川IC方面に向かう。 荻町交差点で右折し、庄川
を渡るとトンネルがあり、トンネルをくぐると左手にせせらぎ公園の駐車場が見え、その先に屋外博物館 合掌造り民家園
がある。 九月からは、日中荻町集落への乗り入れが禁じられるので、この駐車場に置いて歩くことになるのだろう。
トンネルをもう一つくぐると、カーブのある上り坂で、右側にピンクと白の桜が咲いていて、その奥には真っ白な雪を被った
山が見えた (右写真)
なお、右に上って行く道は白山スパー林道である。 このあたりは大牧で、国道は白川街道と呼ばれて
いる。 道の左側に展開するのは鳩谷ダムであるが、十分も走らないうちにダムは終わる。 左側に荘川生コンのサイロが
建っているところに、帰雲城(かえりくもじょう)埋没地の案内看板があるので、左折して車を止めた。
そこには、帰雲城趾の大きな石碑と常夜燈、それを説明する石碑があった (右写真)
「 帰雲城は寛正の初め(1460年頃) 内ヶ島上野介為氏によって築かれた城である 四代氏理の時代 天正十三
年(1585年)旧十一月二十九日 東海・北陸・近畿に及ぶ広範な地域を襲った巨大地震により 帰雲山に大崩壊が起こり
帰雲城とその城集落が一瞬にして埋没したと伝えられている 埋没前の帰雲城の位置は確認されていないが、地勢、堆積
土砂等からしてこの
周辺地域と推定される 平成十一年六月 白川村 」 とある。 ここは白川村保木脇(ほきわき)
というところで、御母衣ダムからの水が流れる庄川があるが、水はほとんどなかった。 帰雲城趾の石碑の左側に、
「 ここから姫の横顔が見えます 」という小さな案内板があったが、そこからは帰雲山の崩壊した
地形がはっきり見えた。 大きな窪みになった崩壊跡は四百年経った今日でもしっかりした形で残っていた。 石碑の
反対側の小高いところに、地元の有志が祀った帰雲神社があった (右写真)
帰雲神社の裏には満開の桜があったが、その脇のピンク色は朱木蓮が満開になって、
太陽の光線によりピンクに輝いて見えたものである (右写真)
内ヶ島氏は鉱山経営に成功し、足利氏の金閣寺造営に金を奉納したといわれるが、金森長近の飛騨侵入により、その地位が
危うくなった。 天正十三年(1585)の閏八月、金森軍は、飛騨の領主、三木自綱の本城の松倉城を落とし、飛騨を平定した。
このとき、白川郷の領主で帰雲城城主、内ヶ島氏理は、佐々成政側についていたが、金森長近のもとへ赴き、帰順を願い
出、飛騨の領主でだた一人許されたのは、鉱山経営にあったのではと思われる。 その内ヶ島氏が許されて帰雲城に帰還した
わずか
三ヵ月後に、大地震で滅亡してしまったのである。
国道に戻り、そのまま進むと平瀬で、国道の左側には道の駅飛騨白山がある。 時計を見ると丁度、お昼なので、この施設で昼食を
食べてと思ったが、食事のメニューはないので、その奥にある、大白川温泉 しらみずの湯という、日帰り温泉施設で、昼食
と入浴することにしたのである (右写真)
早朝に食事をしたので、早速食事処に行ったが、満員で注文をしてから食事をするまでに三十分以上待たされた。 それで
も、出てきたとろろや野菜の天麩羅や手打ち蕎麦がうまかったので、遅れた不満は消え去っていた。 食事を済ませ、少し
休憩してから、お湯に入り、この施設を後にした。
大白川温泉 しらみずの湯の詳細は、
温泉めぐり・岐阜県・しらみずの湯をご覧ください。
なお、平瀬集落は左手に入ったところにあり、温泉付きの民宿で生計を立てている家が多いようである。 食事でお腹が
一杯になり、温泉でのんびりしたため少し眠いが、それを押さえながら、国道を進むと、数軒の家があり、左側の高台にある
神社の参道には白く咲いた桜があった (右写真)
国道156号には、桜が多くある。 この先の御母衣ダムに移植された荘川桜が花を咲かせたことに感銘を受け、当時の国鉄
バス名金線の車掌が、 日本海と太平洋を桜でつなごう と、国道156号を含む名金線沿線に桜の木を植え続けたことから、
桜街道と呼ばれるようになった。 それを記念して、毎年、さくら
道270キロ ウルトラマラソンが行われるが、小生が萩町に着いた時、その走者の一部が歩くように走っていた。 右側に
ある合掌造りの家は、国指定重要文化財の旧遠山家民俗館である (右写真)
この集落のある御母衣は、養老年間(717)には、既に一つの集落を形成していたといわれる。
「 その昔、泰澄大師という高僧が、白山を切り開いてこの寺に来れましたがが、故あってまた白山を越えて
国元に帰られました。 その折、大切な衣を忘れて行かれましたため、後に大師の母親がこの地に来られ衣を持ち帰えら
れたことから、御母衣と呼ぶようになったと伝えられている。 」 とあった。 入館料300円を支払い、中に
入った ( 水曜日
が休館、但し、祝日の場合は翌日 4月〜11月は8時30分〜17時、12月〜3月は9時〜16時)
合掌造りの家の居住部分は一階だけである。 入口からどーじ(土間)に入ると、細長いしゃーし(板の間)があり、その右に
客の接待などに用いられるおえ(おもや)がある。 中央に炉が切られた二十一畳の部屋である。 その右側にでい(十八畳)
があり、客室あるいは寝室(男性)として使用された。 その奥にあるのは、ないじん(仏間)とおくでい(八畳)がある。
(右写真ー主屋からでい、ないじん)
ないじん(仏間)の奥には、飛騨に始めて真宗が入った所なので、立派な仏壇がある。 その隣のおくでいは賓客の間である。
おもやの奥には
十八畳のだいどこ(台所)があり、炉には現在も毎日火を焚いていた。 その隣のちょうだ(十六畳)は、女性の寝室で、中二
階は物置に使用された。 その奥にある
のはおくのちょうだ(五畳)で、これは家長の寝室だった。
しゃーし(板の間)の左側にはまや(八畳)があり、馬や牛が飼われていた。 その奥にうすなが
(五畳)があり、ひき臼などが置かれていて、穀物を粉にしたり、稲の籾摺りを行った作業場である。 その奥にあるのが
四〜五畳程のみんじゃ(水屋)、勝手場だが、後で増築した、という。 便所はへんちといい、南側の外の戸から出入りを
した。 かっての田舎のトイレはどっぷん便所といわれ、大きな樽の上に板が二本あり、それに跨ってするというもの
だったが、懐かしく思い出した(右写真ー一階平面図)
二階から上は屋根裏部分に相当するが、豪雪に耐えるため、柱は一間毎に太いもの
を縦、一層の
合掌梁などは九メートル以上の長尺材を使用している。 屋根は、直径三十センチ余の合掌材の
根元を杭状に尖らせ、梁上の穴に落し込んで並立させ、これらを十五メートルもの筋かいでお互いに結束して、約
五十度の急勾配の屋根の形に仕上げる。 この上に一万五千束以上の茅を村人総出で葺く。 建築には釘、カスガイの
類は一切使わず、クサビの他はネソ(まんさく科)と呼ばれる粘り気のある蔓木と藁縄で緊めて仕上げる (右写真ーやなか
がネソや藁縄で結合されている)
なお、屋根のところから外部に串のように飛び出しているのがあり、気になっていたが、これはみずはりと呼ぶものだった。
一層から三層まで(階とはいわない)はツシと称して主に養蚕の場所であるが、
物置や作業場としても使用された。
壁は板壁であるが、一層以上の床は板張とせず、篠竹を編んだスノコを敷き並べている。 このため、炉火の煙が上層
まで上り、屋根裏の藁縄や茅にススが真黒に付着し、防虫と強化に役立っている (右写真ー見学者用の
通路の左側は黒ずんだスノコ)
また、炉火の煙は蚕の病気予防にも貢献していたという。 旧遠山家民俗館では、観光客用に農具、漁具などの資料展示が
行われているので、過去の使用方法と異なる。 この建物が造られたのは文政十年(1827)頃で、一階は住居として、一層
から三層は主に養蚕用に使用され、明治中頃まで数十人の大家族が同居し、焔硝、生糸生産を中心に山国のきびしい生活
を送っていた。 遠山家は昭和四十三年まで家族の居住に使用していたが、以後村立の旧遠山家民俗館として公開されて
いる。
御母衣ダム〜荘川桜
国道は左右にカーブする道になり、坂道を上って行くと、左手に岩で造り上げられた御母衣ダムが見えてきた。 昭和三十
六年(1961)に運転を開始した御母衣ダムは、土と岩を盛り立てて造った体積795万立方mにおよぶ世界有数
のロックフィルダムである (右写真)
当初はコンクリートダムが計画されていたが、地盤が脆いことからロックフィルダムが採用された。 発電所はダム左岸直
下210mの地下にあり、ダムの真下に見える施設は送電用施設で、ここから主に関西方面へ送電される。 国道の右手には、このダムを完成させた
電源開発のPR施設、MIBOROダムサイド
パーク 御母衣電力館 があるので、立ち寄り、建設反対運動のビデオを見た。 また、ダムの真下の送電用施設近くまで
足を運び、ダムを見上げた。 その途中に、満開の白い桜があった (右写真)
明治八年(1868)に白川郷は、庄川の上流側
が荘川村、下流が白川村に分かれたが、このダム建設の際、荘川村の方が多く沈むのに対し、ダムが建設される白川村の方
に多くの利害をもたらすことになったため、荘川村の反対運動に拍車がかかった、という。 平成の合併で他の町村が合併
したのに白川村が合併しなかったのは、このダムと庄川にある関西電力の発電所に対する固定資産税などが全て白川村
のものであることによると思うが、間違いだろうか? 国道に戻り、進むと御母衣湖に出た。
道の左側には、白川村が建てた文化街道という意味不明の石碑が建っていた (右写真)
昭和二十七年に、この地にダムが建設されることになり、白川村と荘川村の五つの集落が水没予定地にな
ることが公表された。 百七十四世帯、二百四十軒の家が、ダムの底に沈むことになったため、御母衣ダム絶対反対期成同
盟死守会を結成し、郷土を失うまいと、反対運動が繰り広げられたのである。 電源開発の一万田総裁の説得などにより、
最終的には妥結し、照蓮寺があった中野集落などの村が湖底に沈んだ。
その先、ダムにかかる橋を渡ると、旧荘川村に入った。 現在は高山市である。 少し走ると、左側に駐車場があり、人が
群がっているので、入った。 そこにはピンク色の桜が咲いていた (右写真)
どうやら、この先に荘川桜があるようである。
昭和三十五年、水没する予定の照蓮寺、光輪寺の庭にあった二本の巨桜を
見た電源開発の初代総裁、高碕達之助は「 なんとかこの桜だけでも救えないものか 」 と、桜研究の権威で桜男と称された
笹部新太郎に桜の移植を依頼、御母衣湖湖畔に苦労の上、移植に成功したのが、荘川桜である。
花の時期は四月下旬から五月上旬とあり、残念ながら、一部の枝には花が咲き始めていたが、大部分は蕾と状態だった (右写真)
機会があれば、満開の桜の時に再度訪れたいと思った。 車がどんどん入ってきて、勝手に停めていくので、出すのが大変
になってきた。 写真撮影を切り上げて荘川ICに向かう。 荘川ICの近くの道の駅は手打ちそばや日帰り温泉の看板があり、
興味はあったが、まだお腹がいっぱいなのと風呂は二回入っているので、今回はやめにした。
この後、荘川ICから高速道路に入ったが、一回どこまでも千円効果で来た時の
二倍以上の時間をかけて自宅に着き、今回の白川郷の旅は終わった。
照 蓮 寺 桜 照蓮寺と光輪寺の桜
平成21年4月19日