四年前のカメラ雑誌で掲載された竹内敏信氏の大宇陀の桜は、背景の桃の花としだれ桜が見事な調和をなしていて、 強く印象に残りました。 大宇陀の桜は、本郷の滝桜、別名、又兵衛桜といい、大阪夏の陣、冬の陣で活躍した後藤又兵衛 ゆかりの桜として有名です。
風景写真家、竹内敏信氏は、風景写真はもちろん、全国各地の桜の写真を撮られ、桜の写真集を出して おられますが、彼は、桜が咲くこの時期を桜病の季節といいます。 春になると、そわそわして落ち着かず、ついには 仕事を放り出し、桜を求めて旅に出てしまうという難病にかかるからだそうです。 そのような彼が、日本の桜三大名所として挙げるのが、 @ 福島県中通り地方、 A 長野県全域、 B 奈良県全域です。 四年前のカメラ雑誌で、 「この春撮りたいあの桜」として、 彼の写真を見ました。 関西地方では、滋賀県の海津 大崎、奈良県の大宇陀の桜と吉野山、そして、岡山県の醍醐桜が掲載されていました。 その中で、大宇陀の桜が特に強く印象に残ったのです。 「花の里」というテーマで、かなり高いアングルから写されたものでしたが、 背景の桃の花としだれ桜が見事な調和を なしていました。 その時から、一度行ってみたいと思いました。
私は、この六年間で、栃木県内のこれはと思う桜は訪問できたと思っています。
また、福島県中通り地方には、ここ三年間、連続して行きました。 また、山形の置賜地方の桜にも昨年行くことが
できましたが、関西には一度も足を運んでいません。
竹内氏の紹介にあった大宇陀の桜は、本郷の滝桜、別名、又兵衛桜といいます。
大阪夏の陣、冬の陣で活躍した後藤又兵衛は、退陣後、この地で僧侶になり、生涯を終えたとされます。 その後藤屋敷跡
に咲く、高さ十三メートル、幹回り三メートル、樹齢三百年のしだれ桜です。
いろいろな情報を集めていて分かったのですが、 大宇陀と吉野は比較的近いこと、花の咲く時期は京都や奈良市内に比べ、
一週間程度遅いということです。 名古屋から日帰りで、十分行けることも分かりました。
更に、インターネットで調べ、天候も安定した日で集まる人が少ない日として、 四月十四日(月)に行くことにしました。
出発当日は、三時前に起き、三時半に家をでました。 東名阪道路が一斉工事なのと、夜間ならすいているだろう、と
いう読みで、国道23号線を走ることにしました。 この道は、名古屋港に物資を運ぶコンテナートレラーや大型トラック
が走る大変混雑する道路なのですが、夜半なら少ないと判断したからです。
現実はその読みは当たらず、 相変わらず多かったですが、 信号はスムースに流れ、 また、 彼等は職業ドライバーなの
でスピードは安定していたので、 走りやすかったですよ。 大きな車に挟ませて走ったので、 やや圧迫感はありましたけど・・・
名古屋港を過ぎると、 車も少し減りましたが、 四日市からは、路線トラックが増え、彼等と一緒に国道1号、そして、
名阪国道を走りました。 アップダウンの多い道を針インターまで走り、 そこからは、 国道370号です。 夜も明け、
大宇陀町に入ったのは、 六時を回っていました。
近くのコンビニで朝飯の調達をして、 桜のある場所に着いたのが、 出発して三時間後の 六時半でした。
すでに駐車場はほぼ満杯。 主な場所には、カメラの三脚が林立。 私も、慌てて、カメラリックと三脚を車から降ろし、
少し肌寒い外に駆け出しました。 どこが良いのか分からないので、きょろきょろしながら進み、少し小高いところに
三脚を立ててみましたが、構図がうまくとれません(誰もいないところは駄目ですね!!)
しかたなく、多くの人が並んている一角に三脚を立てました。 皆は太陽の光が差すのを待っているようすです。
私も、東の空を見上げて待ったのですが、太陽を薄雲がしっかり覆い、光は一向に射してきません。
三十分ほど待ちましたが、変わりそうにもないので、写し始めました。 バックが沈まないので、コントラストの少ない写真
になるのではないかと思いながら、できるだけつくように工夫し
ながら写しました。 その後も、光は射さず、八時を経過したので、場所を変えていくつかのカットを撮り、終了しま
した。
もう1つの撮影地、吉野。 吉野といえば、桜。
「 これはこれはとばかり花の吉野山 」 と、江戸時代の俳人、安原貞室が詠んでいます。 上千本、中千本、下千本
といわれるほど、桜が多いのです。 時間もたっぷりあるので、吉野山へ向かいました。
県道を進むと津風呂湖の表示があり、更に進むと、吉野川にぶつかりました。 そこで、右に行くところを左折してしまっ
た。 しばらくして間違いに気付いたのですが、余分な時間をかけてしまいました。
吉野駅の脇を通り、そのまま、吉野観光車道を走り、中千本の見える駐車場で停車し、桜を見ましたが、すでに盛りを
過ぎて、萼(がく)が出始めていました。 ちょっと見にはよいのですが、 写真の対象としては形に
なりそうもなかったので、少し写して退散することにしました。 このような吉野の桜は、花見客にはよいのでしょうが、
写真家の素材としては不十分のような気がしました。
時計を見ると、十時半。 昔、浪花節などで壺坂情話として、よく耳にした沢市とお里の話の舞台である壺坂寺をお参りすることにしました。 朱色の立派な伽藍やインドの石像に驚き、自分が抱いていたイメージとのギャップを感じました。 また、目薬の販売やら 朱印の販売やら、がっちりと儲けているなあという印象を受けました。
この後、桜の撮影地として、長谷寺や談山神社を候補に挙げていたのですが、既に花が終わっているということが分かり
ました。 このまま帰宅してもよいのですが、最近脚光を浴びている明日香村がどこにあるのだろうと思い、探しましたと
ころ、近くにあることが分かったのです。 ここに桜の木があるのかどうかは分かりませんでしたが、日本史を塗り替えた
明日香村とはどういう処か、興味を持ちました。
国営飛鳥歴史公園駐車場に車を止め、鬼の雪隠と鬼の俎を見学すべく、野の道を歩きましたが、すがすかしい空気の中、
緑の多くなった風景を見ながらのウオークは気持ちのよいものでした。 「 鬼の雪隠と鬼の俎は対のもので、岩でできた
棺桶を入れた石室が風雨で流れ、別々になった。 ] と、案内板には説明されていました。
明日香村の一帯は、六世紀半ばから七世紀後半にかけて、大和朝廷の
歴代の都がおかれ、日本の中心地として栄えたところです。 東西六キロ、南北八キロで、畝傍、耳成、天香久山の三つの
山に囲まれた狭い土地に、推古天皇の豊浦宮から天武天皇の飛鳥浄御原宮などの古京があって、そこで、権力争いや仏教を
めぐる政治ドラマが展開していたのです。
そこから亀石に向かったのですが、距離がありそうに思えて途中から引っ返してしまいました。
帰る途中、天武・持統天皇陵がありました。 とはいっても、小高い丘にしか見えないものでしたが ・・・・・
駐車場に戻り、食事をと思ったのですが、食堂はあいにく休み!! そのまま高松塚古墳に向かいました。 そこには、
高松塚壁画館があり、再現された壁画を見ることができました。
高松塚古墳は厳重に管理されていて、囲いの中にあり、機械類が多く入れられているようです。 古墳の脇の白い木蓮 が満開でした。 この後、近くの天武天皇陵にも行きましたが、宮内庁の看板があり、中には入れないように 厳重に管理されていたのが印象的でした。 中高年の十名ほどの自転車の集団に出会いましたが、明日香を回るにはこの方法が一番かなあと思いました。
他にも見たいところは多々あるのですが、一度には回れないので、もう一ヶ所ということで、石舞台を選びました。
学生時代に何回か奈良に来たのですが、場所が離れているので行けなかったという記憶の残るところです。 運良く、近く
の無料駐車場に入れられ、入場しましたが、これは大変良かった。 正式には石舞台古墳というのだそうで、横穴式石室を
もつ上円下方墳。 七十五トンの巨石が三十数個使われた巨大な墓は、蘇我馬子の墓ともいわれているようです。
どーんと大きな石が重なり合う姿は圧巻でした。 それに、加えて、背後の桜並木が見頃で、奈良の春ここに来たりと いう風情でした。 本当に来て良かった!! とおもいました。 ただ、付近に、たべもの屋がありません。 近くを歩いて見付けた食堂でうどん定食を食べましたが、塩味が強く、だしが 効いてなく、まずかった。 観光地では、コンビニ弁当の方が無難だなあと思った次第で〜す。
温泉に入ってから帰ろうと思い、日帰り温泉施設のある大宇陀に戻ることにしました。 橿原市に出た方が近い!!と
駐車場のおじさんから聞いて、北上し、桜井を経て、もう一度、大宇陀町に入りました。 十五時を過ぎていました。
大宇陀町は、奈良盆地と伊勢、東吉野地方を結ぶ交通の要路にあるので、古代から知られていたようです。 日本書紀にも、
神武天皇東遷に登場しています。 また、古代の狩猟場の阿騎野も、ここにありました。 柿本人麻呂は、万葉集の中で、
下記の歌を残しています。
「 阿騎の野に 宿る旅人打ち靡き 寐も寝らめやも 古思うに 」
「 東の野に 炎の立つ見えて かえりみすれば 月傾きぬ 」
町営日帰り温泉の名前は、この万葉集の阿騎野から採って、大宇陀温泉あきのの湯と名付けていました。 PH9.5の
アルカリ単純泉なので、
つるつるした肌触りの湯でした。 露天風呂に吹く風が心地よく、のんびり入り、さっぱりと汗を流すこと
ができました。 ただ、タイルが安っぽく、作り方がスーパー温泉的な感じがしたのは残念でした。
万葉集の町を唱える
なら、もっとシックなつくりにして欲しいと思いました。 休憩室はすいていましたが、時間の関係もあるので、そのまま
帰宅することにしました。 空を見上げると、雲が切れてきていたので、夕陽が射すかもしれないなあ ・・ と一瞬思い
ましたが、「 夕食は自宅でとるよ! 」 と、言ったことを思い出し、そのまま車を走らせました。 途中で、吉野葛を買い、
針インターで名阪国道に、そして東名阪自動車道に入りました。 弥富付近が工事で一時間の渋滞とあったので、四日市から
は新しく開通した伊勢湾岸道路(将来の第2名神)に入りました。 三車線で、走っている車はほとんどなく、百十キロ
のスピードで走り、あっという間に豊明インターに到着しました。 お蔭げで、十九時前には、自宅に帰り着くことが
できました。 三百五十キロ強の日帰り一人旅でした。
中世に入り、秋山氏が宇陀に秋山城を作り、元和元年(1615)七月、織田信長の次男、信雄が家康から三万千二百石の大宇陀
と上野國小幡(群馬県甘楽町)二万石を所領し、五万石の大名になった。 彼の死後、四男高長が宇陀を継ぎ、宇陀松山藩を
開いた。 ところが、元禄七年、四代目の信武が重臣二人を成敗した責任をとって自刃したため、松山藩は廃されて
しまった。 なお、自刃した信武の子、信林は、信長の弟、信包が開いた柏原藩に継嗣がいなかったのを継ぎ、慶安三年、
宇陀から二万石で入封し、それ以降、明治の版籍奉還まで十代続いている。
(訪問日)平成15年4月14日
(文作成)平成15年4月21日