『 円山公園の祇園枝垂桜 』

私が訪れた京都円山公園のしだれ桜が今日見事に咲き誇っているが、その裏には復活にかけた桜守の存在があった。
そのことを知ったのは訪問時の疑問と学生時代の回顧から始まったのである。          


円山公園のしだれ桜の記憶

二年ほど前になるが、ある旅行社の企画に京都の桜を撮ろうというのがあって参加した時、訪れた中に、円山公園の しだれ桜があった。  小生は学生時代を京都で過ごした。 学生運動が盛んな時代で、円山公園ではしばしば決起大会が行われていたが、野外 ステージでは夜間コンサートがあり、辻久子のヴァオリンリサイタルが開かれるなど、著名な演奏家もここを舞台に活躍 していた。 そうしたことから、円山公園にはしばしば訪れたのであるが、なぜか、旅行で出遭ったしだれ桜の記憶が ないのである。 樹の大きさから見ると、当時にはすでにあったと思うのだがと、写真を撮っての帰りのバスの中で必死に 記憶を呼ぶ戻そうとしたのだが、無駄だった。  ところが先日そのことを解く鍵が見つかった。

日中の円山枝垂桜


日中の円山枝垂桜(午後十五時ごろ)



さる本屋で見付けた本、それは水上勉著の「 京都花暦 」(立風書房発行)である。  彼が禅寺修行時代を過ごした京都の四季を花を通して綴った十九の小編からなるものだが、京都への一時滞在では味わえ ない京都の深層をえぐった内容であると思う。 その中の一つに目をやった。 「 桜の章 」 である。  「 京に桜の季節がきて思い出すのは、小さいころ、等持院から、嵯峨の天龍寺へゆく 途中で、いつも立ち止まって眺めた1本の枝垂桜のことである。 」 という書き出しで始まるが、それを読み 続けているうち、円山の桜との因縁があることに気がついた。  水上氏は九歳の時、禅寺に預けられ禅寺を転々として育ったと書いておられる。  桜の章には、少年時代のお使いで広沢池近くの佐野藤右衛門さんの屋敷脇を通ったことが書かれていて、そこに植えられ ていた姿のいい枝垂桜が、歩くと頭につかえるぐらいにたれてきて、彼の足もとへ桜の花が散り掛ったとある。 
「 不思議なことだが、手前の御室仁和寺にゆけば、同じように手にとどくほどの小ぶり な八重桜が、これは赤毛氈をしいた床几をならべ、花見客の唄ごえにめぐまれて、咲き盛っていたはずなのに、そこから ひっそりはなれて、一本だけ、白く浮いて咲いていた枝垂桜の思い出の方が鮮やかなのである。 」(原文のまま)    とあり、かれのこの一本の桜への思いは深い。

日没の円山枝垂桜


日没時の円山枝垂桜



この後、この桜の不思議な縁(えにし)が書かれていた。 かいつまんで書こう。
円山公園には戦前、枝垂桜があったが、戦争中枯死した。 市民は円山公園の老枝垂の枯死を惜しんだので、代替わり に桜を移植することになり、水上氏が出遭った若い桜が選ばれた。  水上氏が出遭った桜は、枯れた老桜の孫桜だったからである。  造園業を営む佐野氏はその孫桜を苗圃に植えて育てて いたのであった。 小生が見たのはまさしくこの桜である。 桜の章は続く。 
「 佐野さんは、自宅のそれを惜しげもなく、掘りおこして、円山公園の親桜のあとへ 移植された。 いつ頃だったろう。 この話は新聞にも出て、「円山の桜移植さる」と京童はよろこんだものだった。  ところが、なかなか咲かなかった。 活着がむずかしかったためで、折角手弁当で植えかえてみたものの、世間から、 咲かぬ桜を植えたと笑われて、佐野さんは、ひどく心配をし、日夜、その活着を祈られた。 施肥にも通った。 運の わるいことに移植した秋に台風があった。 佐野さんは、嵐の中を、円山まで出かけて、植えたばかりの木にしがみ ついていた。 (中 略) 
 三年目ごろからこの孫桜は花を咲かせた。 いま、私たちが、円山公園へ夜桜見物に出かけて、絢爛たる若々しい 枝垂桜の、満開を賞(め)でることが出来るのは、じつは、この苦労があったからである。 三十年 の歳月はすぎた。 若枝垂はいまや、京じゅうで、もっとも見事な枝ぶりを見せる大樹に生長しているのだ。 」
(原文のまま) 
水上氏のこれらの文章から、円山枝垂桜の復活にかける佐野氏の執念と著者の桜に対する愛情がひしひしと伝わる。  氏は更に、「 じつはこんなことを書くのは、この円山の大樹が、昔、少年の頃に、足もと に散りかかっていた一本の枝垂桜だった、と感慨無量だからである。 私にとって、桜の歴史は、私の人生の暦のどこか で、精神とかさなっているといえば大げさどころか、こういう思いは、京に住んだ人なら、誰でもがもっているものだ ろう。 」(原文のまま)  
と記しておられるが、 正に同感である。 

円山枝垂桜の夜景


照明に照らされた円山枝垂桜



桜守佐野藤右衛門さん

水上氏の 「 桜の章 」 の初稿は1997年5月号の 「 ウーマン 」 である。  題名は京の桜というものだったようで、今回、京都花暦を発行するにあたり改題したものである。  これから推察すると、三〇年前は1967年となり、昭和四十二年に該当する。 小生が京都で過ごしたのは昭和三十二年 〜三十六年なので、円山しだれ桜はまだ移植されていないことになるが、そうだとすると記憶にないというのは正しいと いうことになる。 台風から守ることが書かれているが、その台風はもしかすると、伊勢湾台風ではないだろうか?  そうだとすれば、昭和三十四年ごろということになり、花が咲かないでやきもきした時期と重なる。  どちらにしても、小生にとって、円山枝垂桜は縁やすからずという気になった。 

黄昏時の円山枝垂桜


日没直後(黄昏時)の円山枝垂桜



佐野さんの嵐の日の出来事は自著「桜花抄」でくわしく書いておられる、と水上氏の本にあったが、佐野藤右衛門という 名前は世襲であり、書かれたのは既に亡くなられた先代の十五代目と思うが、どうだろうか?  桜花抄を見れば分かることであるが、残念ながら、その本は手許にない。  なお、現在は十六代目を継がれた方が宮城の桜などを守っておられる桜守として活躍されているようである。
最後に、水上氏の 「 昔はありがたかった。 てくてく歩いていたから、道ばたの 小さな細い枝垂桜も肩や足に花びらがまぶれた。 それで心に沁みたのである。 」(原文のまま)   という文を心の中で味わいながら、この章を終わりたい。

平成17年4月5日



 桜紀行 近畿地方(5) 京都山科の桜へ                       



かうんたぁ。